
新緑のまぶしい松本(長野県)に行ってきた。5月10日に行われたJリーグ第8節、ジェフ市原対名古屋グランパスを取材するためだ。
「アルウィン」という愛称の長野県松本平広域公園総合球技場は、2001年完成、2万人収容の競技場だ。昨年のワールドカップでは、大会前のパラグアイのキャンプ地になった。豪華ではないが、コンパクトで機能的。松本空港の滑走路の端に位置し、試合の途中にいちど、中型の旅客機が着陸するのが見えた。
新宿から特急で3時間の松本は、名古屋からはわずか2時間。そのおかげで、この日は多くのグランパス・サポーターがスタンドを埋めた。
さて、この日のお目当ては韓国代表FW崔龍洙の活躍で首位に立ったジェフだ。今季就任したイビチャ・オシム監督がチームをどう変え、どんなサッカーをしているのか、そこが見たかった。
立ち上がりはグランパスが勢い良く攻め込んだが、すぐにジェフがペースをつかんだ。ちょっとしたスキをつかれて先制点を許しながら、前半42分にMF阿部勇樹が見事な同点ゴールを決めた。
中盤でボールを受けた阿部が前線のFWサンドロにパス、サンドロがボールをキープしてDFミリノビッチに戻したとき、阿部は相手ペナルティーエリアに近づいていた。鋭い縦パス。阿部は少し浮かせてコントロールし、そのままゴールに叩き込んだ。
シュートに至る阿部のコントロールもきれいだったが、それ以上に感心したのは、パスを出した阿部が足を止めずに走り続けたことだった。
そうしたプレーは、いたるところで見られた。阿部とボランチを組む佐藤勇人はそのシンボルだ。とにかく走る。激しいタックルでボールを奪った次のシーンでは、相手ゴール前に現れ、DFと競り合っている。
昨年までは、FKやCKのとき以外はほとんど守備専門だったストッパーの茶野隆行や斎藤大輔も、前にスペースがあったら、まるでマラドーナのようなドリブルを見せ、パスをさばいてさらに上がっていく。とにかく、守備でも攻撃でも、プレーをした後に足を止めてしまう選手などジェフにはひとりもいない。
その効果は、相手にプレッシャーをかけるとか、攻撃の人数を増やすなどにとどまらない。選手1人ひとりの自主的で意欲的なプレーが、そこから生み出されている。
これまで、どちらかといえばおとなしい選手が多かったジェフ。しかし今季は、ピッチに出ている選手11人が、チームのためにプレーするなかで、それぞれに「自分」というものを思いっきり表現しているのだ。
オシム監督は、シーズン前のキャンプで周囲が驚くほど選手たちを走らせ、シーズンにはいっても1日2回の練習をしているという。その猛練習が「走る」力を支え、走って試合に勝つことで選手たちは内面から大きく変わった。
松本でのグランパス戦は、後半、自慢の足が止まり、グランパスの交代選手FW原竜太に鮮やかなゴールを決められて1−2で敗れた。
「うちの選手はこれまでよく走ってきたが、そろそろ走りきれない時期にきているのかもしれない」
と、試合後、オシム監督は選手たちをかばった。「リフレッシュが必要かもしれない」とも語った。
「では、選手を休ませるのか、1日の練習量を減らすのか」と質問が出た。すると、オシム監督はこう答えた。
「いや、休みはない。もっともっと練習する」
ジェフの選手たちは、その練習を嫌がらないだろう。むしろ楽しみにしているだろう。これほど楽しくサッカーができるのは、生まれて初めてに違いないからだ。
(2003年5月14日)
「For the Good of the Game(サッカーの利益のために)」。 これがその組織のモットーのはずだった。
国際サッカー連盟(FIFA)とは、本来、アジアやヨーロッパなど6つの「地域連盟」間の利害を調整するための組織ではない。どのようにサッカーがプレーされ、大会が運営されれば、この競技が選手やファンの喜び、そして人類の幸福につながるか、個々の利害を超越して考えるのが使命のはずだ。しかし組織の最高意思決定機関である理事会は、そんなことには一向にお構いなしのようだ。
5月3日、FIFA理事会は、2006年ワールドカップ・ドイツ大会の出場国を現行の32から4チーム増やして36にすることを原則として承認した。
同理事会は、昨年12月に2006年大会の地域連盟別配分を決めた。その際に、前回の「4・5枠」から「4枠」に減らされた南米サッカー連盟が猛烈に反発し、増枠を求めたが認められなかった。
そこで考案されたのが、「36チーム案」だった。南米を「5枠」にするだけでなく、ヨーロッパ、アジア、北中米カリブ海の各地区の枠も増やすという提案に、5月3日の理事会では反対意見がほとんど出なかったという。
しかしその前日に行われたFIFAの「フットボール委員会」では、大多数の委員が反対だったという。FIFA理事でもあるミシェル・プラティニ(フランス)、ワールドカップ・ドイツ大会の地元組織委員会委員長であるフランツ・ベッケンバウアーなど、26人の元選手を中心とする委員会である。
36チームだと、1次リーグは4チームずつ9グループになる。決勝トーナメントはベスト16からなので、各グループ2チームずつ、計18チームなら、2試合の「予備戦」が必要になる。あるいは、2つのグループからは1位のチームしか上がれない形だろうか。
現在のワールドカップは、大会期間1カ月、1チームあたり最多で7試合で行われている。世界のサッカーのスケジュールや選手の負担を考えれば、これが限界だ。その「枠組み」を考えれば、36チーム制は無理がある。フットボール委員会の結論は、そうした「サッカーの利益」が優先されたものだった。
ワールドカップには、82年に16から24へ、そして98年に24から32へと出場チームを増やしてきた歴史がある。前者はFIFA加盟国の激増に対処したもので、後者は「1次リーグ突破」をすっきりと各グループ2チームにするプラス面をもち、しかも大会日程の長期化や1チームあたりの試合数を増やすなどの弊害もなかった。しかし「36チーム制」には、地域連盟のエゴ以外、何の意味もない。
「9つのグループ2位のうち2チームが決勝トーナメントに進めない形であれば、最終日が後になるグループで談合試合が行われる恐れがある」と、ベッケンバウアーは警告する。24チーム制の時代には、たしかにそうした疑惑の試合があった。
5月3日の理事会は、「サッカーの利益」を念頭に置いた判断ではなく、どの地域連盟も枠を減らされないことや南米への同情論ばかりが支配してしまったようだ。
「36チーム案」の受け容れは、理事会自らが、出場枠配分が間違っていたと認めたのと同じだ。それなら、昨年12月の時点に戻って、配分を再検討するのが筋ではないか。どこかの枠を減らす痛みを避けるための36チーム制は絶対に間違っている。
理事会は、これから検討される具体的な大会開催案をもとに、6月開催予定の理事会で最終結論を出すという。そこで正気を取り戻せなければ、大きな愚を犯すことになる。
(2003年5月7日)
選手登録しているクラブで、32年間も付けてきた背番号を譲り渡すことになった。このクラブの活動は日曜日だけなのに、この10数年間というもの、日曜日の大半は女子チームの監督業にあてていたのだから仕方がない。
しかも、背番号を譲り渡した相手がチームメートの長男である。赤ん坊のときから知っているうえに、小学生のころには何度もいっしょにプレーした。はにかみ屋の小さな少年が、いつの間にか大人になり、父親と同じクラブに加わるに当たって「大住さんの背番号がほしい」と言う。こんな話は断れない。
もっとも、プレーにあこがれてのことかと思ったのは私だけで、彼の好きな番号が、たまたま私が付けていたものだったようだ。
私が所属している男子チームの練習(といっても、つい最近まで、ひたすらミニゲームをするだけだったが...)には、よく「ジュニア」が混ざっている。本人さえいやがらなければ、小学校に上がったころからゲームに入れてしまう。最初は何もできないが、2、3年してある日気づくと、正確にパスを出したり、相手の逆をとってすいすいと抜いていったりする。
30年ほど前、大学生時代にコーチをしていたサッカースクールは、「生徒」の総勢が30数人の小所帯で、コーチは私を含めてふたりきりだった。小学校1年生から中学生までを2チームに分けて指導を担当した。そして週いちどの練習の後半は、コーチも含め全員を2組に分けてゲームをするのが常だった。
中学生たち(なかには後に日本リーグで活躍した選手もいた)は不満だったかもしれない。しかし小さな子にやさしいパスを出しながら、時おり強烈なシュートを見せて、小学生たちが上げる驚きの声と尊敬のまなざしに、けっこう満足そうな顔をしていた。
小学校低学年の子供たちは、適当に試合にはいり、飽きると砂場で遊び、また戻ってきてはボールを追いかけた。しかし中学年になると、もう負けてはいない。相手が中学生でも、ボールを取ろうと、必死に食らいついていった。
「スクール」とはいっても、ほとんど遊びだった。小所帯だったから、年齢差が大きくても全員で試合をするしかなかった。ふたりの大学生コーチに、確固たる理論や信念があってのことではなかった。ただ、日曜朝の時間を、みんなで楽しく元気に過ごしたかっただけだ。
しかしその遊びを数年続けていると、子供たちはいつの間にか自分自身のテクニックを身につけ、他人から強制されるわけではなく自主的にゲームに加わって、個性を生かしたプレーをするようになっていった。
小さな子たちは、自然に、ゆっくりと、「サッカー」というものを頭と体にしみ込ませた。大きな子たちにとっても、小さなチームメートに合わせるパスで微妙なタッチを身に付けるなど、プラスの面がたくさんあったのだろう。ずいぶん後になってから、そんなことを考えた。
幼児期からの英才教育もいい。小学生を対象にした質の高い練習メニューも大切だ。しかしサッカーに取り組む圧倒的多数の少年たちに必要なのは、何よりも、年齢も体の大きさも、人数も場所の広さも関係なく、ひたすらゴールを目指してプレーする「遊び」の場と時間ではないか。
スクールのゲームはいつも1チームが15人以上だった。私のクラブのミニゲームは、狭い場所で、ときには30人あまりが入り乱れて1個のボールに戯れ、そこに大人の腰ぐらいの背丈の小学生が混じっていたりする。
そうした「遊び」のなかで育まれるものの価値を、もっと見直す必要があるのではないだろうか。
(2003年4月30日)
サッカーはチームゲームである。個々の選手の最高のプレーをつなげるだけでは良い試合はできない。11人の選手が一体となり、チームとして機能しない限り、良い結果にはつながらない。
しかしごくまれに、1人のプレーが試合の流れを一変させてチームを勝利に導くのを見ることがある。先週の水曜日にソウルで行われた韓国戦、日本代表のMF小笠原満男のプレーがそうだった。
立ち上がり、韓国のプレッシャーを恐れた日本は、DFラインから大きくけるだけだった。しかし9分、右サイドでボールを受けた小笠原は、いったんはスピードを上げて前に行こうとしたが、急激にターンし、DF秋田にゆったりとしたパスを返した。これを受けた秋田は前へはけらず、DF間で正確につないで組み立てを始めた。
小笠原のプレーは、前へ前へと急いでいた日本に、「このへんからしっかりつないで攻めよう」というメッセージとなった。試合はここから流れが変わり、日本の中盤が韓国と互角以上に渡り合うようになった。
このほかの場面でも、小笠原は攻撃だけでなく、随所でチーム全体をリードし、試合の流れを日本に引き寄せるプレーを見せた。見事な「ゲームメーカー」ぶりだった。
ソウル・ワールドカップ・スタジアムで小笠原を見ながら思い起こしたのは、ラモス瑠偉が引退する前年のある試合で見せたプレーだった。
97年9月24日。それは、98年ワールドカップを目指すアジア最終予選の真っ最中のJリーグ、東京・国立競技場で行われた横浜フリューゲルス対ヴェルディ川崎(現在の東京ヴェルディ)だった。
日本代表に出ているカズ(三浦知良)を欠くヴェルディ。フリューゲルスのブラジル人監督オタシリオは、「ラモスさえマークすれば勝てる」と判断し、右サイドバックの森山佳郎を本来の位置から外してヴェルディのMFラモスを徹底マークさせた。フリューゲルスが攻撃しているときにも森山はラモスの側を離れなかった。
ラモスのパスワークを消されて、ヴェルディは攻撃の形ができない。フリューゲルスが圧倒的に攻め、次々とビッグチャンスをつくる。
あまりに執拗なマークに嫌気がさしたのか、やがてラモスはDFラインまで下がってボールを受け、そのままラインにとどまった。そして自陣から出ることもまれになった。これを見たオタシリオ監督は、前半30分過ぎにベンチを出てラモスのマーク役を森山からFW服部浩紀に変えるように指示する。
しかしラモスはそのときを待っていた。こんどは、前へ前へと動き、ヴェルディのFWのすぐ近くでプレーし始めたのだ。マークを命じられた服部は自チームのDFライン近くまで下がらざるをえず、フリューゲルスの攻撃はバランスを崩してヴェルディが一気に攻勢となった。その攻勢のなかから、前半40分、この夜唯一の得点が生まれた。
後半、フリューゲルスはラモスのマーク役を森山に戻し、再び攻勢に出た。しかし前半の1失点を取り戻すことはできなかった。40歳のラモスが、「冷徹な戦術家」といわれたオタシリオ監督に「頭脳合戦」で勝ち、チームを勝利に導いた試合だった。
個人の力で試合の流れを変えるのは、誰にもできる業ではない。サッカーという競技を知り尽くし、現在進行中のゲームについての深い洞察力をもち、そして苦境を打開するアイデアと実行する技術・体力を持ち合わせていなければならない。
ソウルで久しぶりにいいものを見た。日本代表のジーコ監督にとっても、収穫のある試合だったに違いない。
(2003年4月23日)
国内ではひとりも感染者が報告されていない病気を理由に、外国チームが来日中止を一方的に決めた。海外の中国人街では、商店の売り上げが7割減だという。
新型肺炎(SARS)をめぐる世界の反応から、ヨーロッパでの14世紀のペスト大流行を思い出したのは私だけだろうか。正体不明の流行病に、「ユダヤ人が井戸に毒を流したからだ」といううわさが広まり、ひどい迫害が行われたのだ。現時点のSARSも、「正体不明」という点で当時のペストとまったく同じだ。その不気味さにおびえ、差別や迫害が生まれる。
無知で非科学的で自己中心的な人間の不安に根ざしている点では、人種差別も同じだ。手塚治虫の『鉄腕アトム』では21世紀の差別の対象はロボットのはずだったが、実際には人種差別がまだまだ根絶されない。それどころか、ヨーロッパのサッカー界では、ここ数年、選手同士やファンからの差別発言が急増し、大きな問題になっている。
「人種のるつぼ」といわれるブラジル。現在は、肌の色を超えてスター選手たちが敬愛され、それがこの国のサッカーの強さにもつながっているが、過去には、やはり人種差別の歴史があった。
20世紀はじめ、サンパウロやリオなどに次々と設立されたスポーツクラブは、富裕な白人たちの独占物だった。リオデジャネイロの有名クラブが1人の黒人選手を入会させようとしたところ、中心選手や会員の大半がクラブをやめてしまったという。
そうした「常識」を変えたのは、褐色の肌をもったひとりの混血選手の活躍だった。アルツール・フリーデンライヒ、1892年7月18日生まれ。ドイツ人の父と混血のブラジル女性の母をもつ彼は、17歳のときにサンパウロ市のドイツ系クラブでサッカー選手としてスタート、やがてその技術と得点能力は全国に知られるようになり、ビッグクラブに移っていくつものタイトル獲得に貢献した。
クラブによっては厳しい人種差別を行っていた時代、彼が差別主義者たちを沈黙させたのは、父から受け継いだドイツ人の血ではなく、その驚くべき技術によってだった。
彼のドリブルは、ブラジル・サッカーの「教師」だったイギリス人たちが見せたものとはまったく違っていた。柔らかなボールタッチ、フェイント、引き技などのトリックを織り交ぜて相手を抜いていくプレーは、芸術的でさえあった。さらに、カーブをかけてのパスやシュートは、見る者を驚かせた。後に「ブラジル・サッカー」、さらには広く「南米サッカー」の特徴となる独特の技術の生みの親が、彼だったのだ。
1914年にイングランドから来訪したエクセター・シティとの間で開催されたブラジル代表の最初の試合にも出場、卓越したプレーで2−0の勝利に導いたフリーデンライヒだったが、当時は代表の試合も少なく、通算22試合、10ゴールにとどまった。
しかしクラブでの活躍は途方もないものだった。1935年に43歳で引退するまでに、1329という得点数を記録しているのだ。世界で公式に認められた生涯最多得点記録だ。
フリーデンライヒの活躍に刺激されて、1920年代からブラジル中のクラブで黒人選手の活躍が見られるようになり、やがて38年ワールドカップで得点王になったレオニダスなどのスターも生まれた。それは、この国での黒人の地位向上と、人種差別の消滅に大きな役割を果たした。
フリーデンライヒは、1969年に77年の生涯を閉じた。もし彼が、いろいろな差別が横行する21世紀初頭の世界を見たら、「なんだ、何も変わっていないんだな」と思うに違いない。
(2003年4月16日)