サッカーの話をしよう

No.340 ワールドカップ会場名を都市名に

 先日、新潟でワールドカップ用のスタジアム、通称「ビッグスワン」を見る機会があった。スタンドにはゆったりとした椅子も設置され、ほとんど完成に近い印象だった。
 すでに完成している3つのスタジアムに続き、来年の春から夏に大半のスタジアムが完成する。10年前、招致の準備が始まったころには最大の難問と思われていた「ワールドカップ規格のスタジアム」が勢ぞろいすると、いよいよ2002年大会も秒読みにはいる。
 ところで、この大会では、日本、韓国とも10会場が使用されるが、日本のスタジアムにすこし気になることがある。「会場名」にばらつきがあることだ。
 通常ワールドカップでは「都市名」が「会場名」として使用され、スタジアムの正式名称も併用される。たとえば2002年大会の決勝戦会場は「横浜」であり、6月30日に「国際競技場」で新しい世界チャンピオンが決まるということになる。

 ところが、日本の10会場を見ると、「都市名」が使われていないところが6つもあるのに気づく。前述の横浜市と、札幌市、大阪市、神戸市は都市名だが、その他の宮城県、茨城県、埼玉県、新潟県、静岡県、そして大分県は、すべて「県名」すなわち「地域名」である。JAWOC(2002年ワールドカップ日本組織委員会)は、「スタジアムの建設主体の自治体名」を会場名としているからだ。
92年に国内の開催候補地を募集したとき、最大のポイントはスタジアムだった。しかし数百億円規模の施設である。政令指定都市以外は県や府が建設するしかない。その結果、「立候補」名に府と県の自治体名がはいることになった。
 15の自治体を「会場候補地」として「ワールドカップ招致委員会」が認めたのが93年のはじめ。これらの自治体は、招致資金の大きな部分も負担した。

 96年5月に「日韓共同開催」が決まり、日本サッカー協会は会場を10に削減した。そのときにも当初からの「自治体名」がそのまま使われた。JAWOC発足後もそれは変わらず、ことし九月に国際サッカー連盟(FIFA)から発表された正式な試合スケジュールでも、「4都市6県」のままだった。
 こんなことを言い出すのは遅きに失した感があるかもしれない。日本とヨーロッパでは、自治体というものの性格も違うだろう。しかしこのままでは、いくつもの会場が「迷子」になってしまうような気がする。外国の子どもが日本の会場を地図で調べようとしても、「ミヤギ」や「イバラギ」などの県名を探すのは簡単ではないからだ。
 ワールドカップの会場は、スタジアムが誰のものかではなく、試合の行われる「町の名前」を冠するのが原則だ。過去の大会では、クラブ所有のスタジアムで試合を行ったこともあったが、その場合にも、クラブ名は出なかった。使われたのは、スタジアムのある都市名と、スタジアムの正式名称だけだった。

 98年フランス大会の決勝戦会場となった「フランス・スタジアム」は、建設費の47パーセントを国が負担し、残りの資金は一般から出資を募ってまかなった。しかし会場名は、スタジアムが置かれた都市名「サンドニ」だった。
 新潟と大分は、県名とスタジアムのある都市名が同じだからすんなりと変えることができるだろう。しかしその他の会場も、「宮城県」は「利府」に、「茨城県」は「鹿嶋」に、「埼玉県」は「浦和」に、そして「静岡県」は「袋井」に変更すべきだ。
 県民の税金を使ってつくられたスタジアムかもしれない。しかし繰り返すが、ワールドカップの会場名は、「どこで」行うかを的確に示すべきもので、「誰が」パトロンであるかを示すものではないと思うのだ。

(2000年11月29日)

No.339 昇格と降格

 問題。
1965年に日本サッカーリーグが誕生し、日本に「全国リーグ」ができて以来、その「トップリーグ」から落ちたことのないチームがただひとつだけある。それはどこか。もちろん、日本リーグ時代の企業チームと現在のJリーグ時代のプロクラブを、連続した歴史をもつひとつのチームととらえての話だ。
 先週土曜日、柏でレイソルと川崎フロンターレの試合を取材した。
 すでに試合前、夕方に行われていた試合でジェフ市原が延長戦で勝利をつかんだことが伝えられていた。それは、事実上フロンターレのJ2降格が決定したことを意味していた。この日勝てば、残り試合の結果次第では勝ち点で追いつくことも可能だったが、得失点差の差は絶望的に大きかった。

 小林寛監督は今季3人目の監督。GK浦上(1)とDF奥野(4)を除くと、「ひとけた」の背番号はなく、先発の11人中8人までが20番を超す大きな番号をつけていたことにも、フロンターレが歩んできた今季の苦しみが表れていた。
 しかしこの日のフロンターレは、そんなことは微塵も感じさせないプレーを見せた。しっかりとした守備をベースに、優勝争いをするレイソルの弱点をつく攻撃を繰り出した。プレー内容も選手たちからあふれ出る闘志も、とても降格が決定的になったチームとは見えなかった。
 サポーターも元気だった。この絶望的な状況のなかで川崎からやってきた数百人のサポーターは、まるで首位攻防戦のような声援を送りつづけた。
 試合は、前半ロスタイムのゴールでレイソルが1−0で勝った。この瞬間、フロンターレのJ2降格が正式に決まった。
 しかし選手もサポーターも立派だった。選手たちは胸を張ってサポーターにあいさつし、サポーターたちは試合中にも劣らない声援で、これからもチームとともに歩むことを示した。

 翌日にはJ2の最終節が行われ、浦和では超満員のサポーターの前でレッズが10人になりながらもVゴールで勝利をつかんだ。そして激しく競り合ってきた大分トリニータを振り切ってJ1昇格を決めた。
 レッズも今季、のたうち回った。J2全40試合、延々と続くリーグ戦のなかでリズムを崩し、優勝争いは絶望的になり、逆に大分に追い上げられて余裕を失った。10月には、危機感をもった横山謙三ゼネラルマネジャーが総監督に就任、自ら直接指揮をふるうという緊急態勢をとらなければならなかった。
 トリニータにとっては、2年連続の無念だった。昨年は最終日のロスタイムで追いつかれて引き分け、追っていたFC東京に逆転でJ1昇格をさらわれた。そしてことしは、最終戦を1−0の勝利で終えて浦和の試合の結果を待ったが、やはりあと一歩及ばなかった。

 世界には数多くのクラブがある。しかしそのなかで、降格や2部暮らしを経験したことのないクラブは、ほんのひとにぎりしかない。名門、強豪といわれるクラブでさえ、長い年月のなかでは例外なく苦しい時期を経験している。
 昇格も降格もサッカーの一部である。選手もクラブもファンも、それを受け入れ、それぞれの立場で懸命にやっていくしかない。フロンターレの選手やサポーター、そして浦和の駒場スタジアムを埋めた2万の観衆を見ながら、Jリーグにもそうした「常識」のようなものが育ちつつあるのを感じた。
 最初の「問題」の正解は「ジェフ市原」(日本リーグ時代は古河電工)。ここ3年、すっかり「残留争い」の常連となったジェフだが、ついに20世紀の間は日本のトップリーグだけで過ごしたことになる。

(2000年11月22日)

No.338 審判問題をオープンな議論に

 「ビデオを詳細に検討したが、あのPK判定は正しかった。しかしその一方で、レッドカードは不要だったというのが審判委員会の見解である。イエローカードで十分だった」
 アジア・サッカー連盟(AFC)のファルク・ブゾー審判委員長(シリア)の口から爆弾発言が飛び出したのは、アジアカップ(レバノン)の決勝戦前日に行われた記者会見だった。
 問題のケースは大会序盤、韓国対中国戦のことだった。中国のFW宿茂臻のドリブルに韓国DF洪明甫が激しくチェック、宿茂臻が倒れた。主審のアルメハンナ氏(サウジアラビア)は迷わず笛を吹き、ペナルティースポットを指すと同時に、洪明甫にレッドカードを出した。
 AFCの記者会見には、ジャーナリストだけでなく、大会の最終段階まで残った審判員たちも出席していた。アルメハンナ氏もその席にいた。ブゾー委員長の言葉に、私は思わず彼を見たが、表情は変わらなかった。

 いろいろなレベルの大会を見てきたが、「審判委員会」のような当事者組織がひとつの判定をこれほど明確に「誤審」と明言したのは初めて聞いた。
 ルールでは、試合が終わったら主審が試合中に下した判定を覆すことはできない。そして国際サッカー連盟(FIFA)は、試合中の判定に関して担当審判がメディアにコメントしてはならないと通達している。余計な混乱を避けるためだ。そして各組織の審判を統括する審判委員会も、誤審があっても明確には認めないのが通例である。
 それは、よく言われるように「仲間をかばう」ためではない。審判委員会が「誤審」と認めれば、その審判はある種の「レッテル」を貼られてしまうからだ。
 日本サッカー協会とJリーグで審判委員長を務める元国際審判員の高田静夫氏はこう語る。
「選手も審判も人間であり、ヒューマンエラーがあるのは当然です。しかし選手はたとえミスをしても、次の試合、あるいは同じ試合のなかでリカバーすることができる。それに対して審判は、なかなかそれを取り戻す機会がなく、ひいては、『あのときの審判か』などと、選手との信頼関係に影響を与えるのではと心配されます」

 ブゾー委員長は、長くアジアの審判技術の向上に貢献してきた人である。いわばアジアの審判たちの父のような存在であり、FIFAでも審判委員会メンバーとして信頼が厚い。その人がメディアに、しかも本人がいる前で「誤審」と明言したのは、明確な哲学のうえに立ってのものだったのだろう。
 審判も人間である以上、見落としや判断ミスは不可避であり、サッカーという競技が、選手や審判のミスも包含するものであるという認識を広めなければならない。そして、たとえ誤審が結果に影響を及ぼしても、審判の人格を傷つけたり、ましてや危害を加えるようなことはけっしてあってはならない。
 サッカーをもつ社会にそのような「常識」が確立していけば、自然とブゾー委員長のような態度が出てくるはずだ。それによって、より成熟した「サッカー社会」になるのではないか。

 私は、選手のプレーや監督の采配と同じように、審判の判定についても、大いに議論があるべきだと思う。審判は別に「神聖不可侵」の存在ではない。
 しかしそうしたオープンな議論は、審判委員会がどう認定するか以前に、メディアが自主的にしなければならない。テレビ、新聞などで報道に当たる者がルールと審判技術についてのしっかりとした知識をもち、ピッチの上で起こったこと、そしてその判定の意味を的確に報道し、そのうえで判定を「まな板」の上に乗せなければならない。
 ブゾー委員長の言葉を考えながら、私もメディアの一員として身の引き締まる思いがした。

(2000年11月15日)

No.337 マンチェスター・ユナイテッドとナイキの契約

 イングランドの超人気クラブ、マンチェスター・ユナイテッドが、2002年から始まる新しいユニホーム契約をナイキと結んだことが話題となっている。
 ナイキは、ブラジルをはじめとした数多くのナショナル・チーム、そしてスペインのFCバルセロナなどの人気クラブと契約してユニホームなどを提供している。しかしユナイテッドとの契約はまったく破格のものだった。13年間で約3億ポンド。日本円にして500億円にのぼろうという数字なのだ。
 ナイキは97年にブラジルと10年間の契約を結んだが、そのときの契約金は年間約10億円といわれた。ユナイテッドは年間約38億円。ちょうど2倍の値段がついたことになる。
 マンチェスター・ユナイテッドは、わずか10年ほどの間にとてつもない「巨大産業」になってしまった。地元マンチェスター、そして英国各地だけでなく、世界の各地に専門のクラブショップを展開し、いまや「世界ブランド」とさえいえる。

海外の空港の免税品店を覗くと、スポーツ用品売り場には必ずといっていいほどこのクラブのレプリカキット(ユニホームセット)が置いてある。それが安いとはいえない値段なのだ。ナイキの巨額の契約は、ブラジル代表との契約に見られる世界最強チームという「イメージ戦略」より、むしろキットの製造販売利益という「実利」を狙ったものに違いない。
 先月、イングランドではもうひとつ別のうわさがもちあがっていた。マンチェスター・ユナイテッドが、どこのスポーツ用品メーカーとも契約を結ばず、独自のブランドをつくって、それを自ら商品展開するのではないかという推測だった。
イングランドのプレミアリーグには、独自のブランドのユニホームを着ているクラブがいくつかある。用品メーカーと契約するより、クラブのマージンは格段に大きくなるからだ。そして同時に、できるだけ安くして、毎年ユニホームを買い換えてくれるファンの負担を減らそうという考えだという。

 すでに「世界ブランド」となったマンチェスター・ユナイテッドなら、生半可なメーカーとの契約より、はるかに大きな利益に結びつくと指摘する声も多い。しかしクラブのグッズ売り上げが現在のまま続くとは、だれも保証できない。どんなクラブも、ずっと勝ちつづけることなどできないからだ。
だからユナイテッドは、よりリスクの少ない、「年間わずか38億円」のナイキとの契約に踏み切ったのである。
 すこし前までは2年にいちどほどだったクラブ・ユニホームのモデルチェンジも、最近では毎年行われるようになった。近年の流行は、「第2ユニホーム」を毎年大幅に変えることだ。
ホーム用のユニホームは、伝統のクラブカラーやデザインがあるので、マイナーチェンジしかできない。しかしアウェー用の第二ユニホームなら、赤から青にしても、あるいはピンクなどの奇抜な色にしても問題はない。「通」のファンは喜んで第2ユニホームも買う。ホーム用よりはるかに数は少なくても、ばかにできない売り上げになる。

 今季のヨーロッパ・サッカーを見ていると、第2ユニホームに、これまであまり使われていなかった色がはやっているのに気づく。うすいグレーだ。スペインのバルセロナ、イタリアのユベントス、フランスのパリ・サンジェルマンなどが、申し合わせたようにグレーの第二ユニホームを着ているのだ。
 レプリカ・ユニホームはクラブやあこがれの選手たちとファンを結ぶ重要な道具ではあるけれど、マンチェスター・ユナイテッドとナイキが結んだ契約の額を見て、なにか複雑な思いがするのは私だけだろうか。

(2000年11月8日)

No.336 グロリアとの再会

 「ウレシイ!」
 数時間の滞在中、彼女はその言葉をなんど叫んだだろうか。
 アジアカップの取材で訪れたレバノンで、思いがけない、本当に思いがけない人に再会した。グロリア・ベレンデス=ラミレスさん。86年のメキシコ・ワールドカップのときにメインプレスセンターで日本人取材陣が非常にお世話になった人だ。流ちょうな日本語で私たちの無理難題を聞き、ときに強引な交渉でそれを押し通してくれた。
 メキシコ生まれで、サウジアラビア人の夫をもつ彼女は、イタリアのミラノに住み、天才的な語学能力を生かして世界を舞台に通訳として活躍していた。母国語のスペイン語はもちろん、1歳半から始めたという英語、中学生のときに始めたフランス語、そしてドイツ語、イタリア語、日本語と、プロとしてできるものだけで6カ国語。そのほかに、アラビア語はもちろん、韓国語と中国語も操る。

 そのグロリアが突然レバノンのベイルートに現れるまでには、少し説明が必要となる。
数年前から、グロリアは故郷に近いメキシコのサンミゲルという小さな町で暮らしていた。ふたりの子供を育てるためだった。しかし長男のヨシフくん(7歳)が学校に上がる年齢となり、夫の母国語であるアラビア語を学ばせなければならない時期となった。アラビア語圏で生活に適した町を探してたどり着いたのが、ベイルート郊外の丘の上にあるブルマナという町だった。そして、9月なかば、学校の新学期に合わせて引っ越してきたばかりだったのだ。
 その日、10月13日の夜にグロリアはベイルートに用があり、車で街中を通りかかった。そのとき、目の前で大型バスが止まり、ドアが開いた。
 彼女は意味のない大声を出した。バスから、見覚えのある顔が降りてきたからだ。トリポリでの試合の取材からベイルートに戻ってきた私たちが乗った、プレスバスだったのだ。

 「水があふれ出るように、次から次へと、知った顔が流れ出てきた」
 彼女の言葉を借りると、そんなふうだったという。最初に降りたのが、86年ワールドカップを取材したベテランのカメラマンだったのが幸いだった。こうして私たちは、深夜のベイルートの街角で、まったく偶然に久々の再開をした。その晩、彼女は興奮して寝付けなかった。
 大会終盤の一夜、私たちは彼女の自宅に招待された。「何人でもいいよ」という言葉に甘えて、メキシコ大会に行かなかった者(父親がメキシコに行ったカメラマンもいた)も含め、総勢17人が、改装したてのグロリアの家に押しかけた。サウジアラビアのジェッダで会社を営む夫のイブラヒムさんは不在だったが、ヨシフくんと長女のサラちゃん(5歳)が迎えてくれた。

 標高600メートルというブルマナは、まるでスイスの田舎町のように清潔だった。地中海に沈む夕日は、これまでの人生で見たことのない美しさだった。日が落ちると、眼下にはベイルートの夜景が宝石箱のように散らばった。私たちは、近くのレストランで最高のレバノン料理をごちそうになった。
 70年代のはじめに日本に留学して日本語を勉強し、それ以来、日本が大好きになったというグロリア。長男が生まれてから休んでいた仕事を、来年には再開する予定だという。
 ビッグニュースではないか!再来年、2002年には、「グロリアにきてもらったら百人力」という仕事が、日本には山ほどある(彼女の奪い合いになる心配のほうが強い)からだ。
 十数年来の旧友、しかも彼女が「ダイスキ!」という日本人に囲まれて、休みなく話し、食べ、「ウレシイ!」を連発するグロリアは、まるで10代の少女のようだった。

(2000年11月1日)

サッカーの話をしようについて

1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。

アーカイブ

1993年の記事

→4月 →5月 →6月 →7月 →8月 →9月 →10月 →11月 →12月

1994年の記事

→1月 →2月 →3月 →4月 →5月 →6月 →7月 →8月 →9月 →10月 →11月 →12月

1995年の記事

→1月 →2月 →3月 →4月 →5月 →6月 →7月 →8月 →9月 →10月 →11月 →12月

1996年の記事

→1月 →2月 →3月 →4月 →5月 →6月 →7月 →8月 →9月 →10月 →11月 →12月

1997年の記事

→1月 →2月 →3月 →4月 →5月 →6月 →7月 →8月 →9月 →10月 →11月 →12月

1998年の記事

→1月 →2月 →3月 →4月 →5月 →6月 →7月 →8月 →9月 →10月 →11月 →12月

1999年の記事

→1月 →2月 →3月 →4月 →5月 →6月 →7月 →8月 →9月 →10月 →11月 →12月

2000年の記事

→1月 →2月 →3月 →4月 →5月 →6月 →7月 →8月 →9月 →10月 →11月 →12月

2001年の記事

→1月 →2月 →3月 →4月 →5月 →6月 →7月 →8月 →9月 →10月 →11月 →12月

2002年の記事

→1月 →2月 →3月 →4月 →5月 →6月 →7月 →8月 →9月 →10月 →11月 →12月

2003年の記事

→1月 →2月 →3月 →4月 →5月 →6月 →7月 →8月 →9月 →10月 →11月 →12月

2004年の記事

→1月 →2月 →3月 →4月 →5月 →6月 →7月 →9月 →10月 →11月 →12月

2005年の記事

→1月 →2月 →3月 →4月 →5月 →6月 →7月 →8月 →9月 →10月 →11月 →12月

2006年の記事

→1月 →2月 →3月 →4月 →5月 →6月 →7月 →8月 →9月 →10月 →11月 →12月

2007年の記事

→1月 →2月 →3月 →4月 →5月 →6月 →7月 →8月 →9月 →10月 →11月 →12月

2008年の記事

→1月 →2月 →3月 →4月 →5月 →6月 →7月 →8月 →9月 →10月 →11月 →12月

2009年の記事

→1月 →2月 →3月 →4月 →5月 →6月 →7月 →8月 →9月 →10月 →11月 →12月

2010年の記事

→1月 →2月 →3月 →4月 →5月 →6月 →7月 →8月 →9月 →10月 →11月 →12月

2011年の記事

→1月 →2月 →3月 →4月 →5月 →6月 →7月 →8月 →9月 →10月 →11月 →12月

2012年の記事

→1月 →2月 →3月 →4月 →5月 →6月 →7月 →8月 →9月 →10月 →11月 →12月

2013年の記事

→1月 →2月 →3月 →4月 →5月 →6月 →7月 →8月 →9月 →10月 →11月 →12月

2014年の記事

→1月 →2月 →3月 →4月 →5月 →6月 →7月 →8月 →9月 →10月 →11月 →12月

2015年の記事

→1月 →2月 →3月 →4月 →5月 →6月 →7月 →8月 →9月 →10月 →11月 →12月

2016年の記事

→1月 →2月 →3月 →4月 →5月 →6月 →7月 →8月 →9月 →10月 →11月 →12月

2017年の記事

→1月 →2月 →3月 →4月 →5月 →6月 →7月 →8月 →9月 →10月 →11月 →12月

2018年の記事

→1月 →2月 →3月