サッカーの話をしよう

No.933 カードはコミュニケーションの道具

 そのアイデアがひらめいたのは、いまから47年前の1966年7月24日、イングランドを舞台に開催されていたワールドカップの期間中のことだった。
 3年前に審判員を引退し、国際サッカー連盟の審判委員会委員となったケン・アストンは、ロンドン市内で車を走らせながら、考えごとをしていた。
 前日の準々決勝イングランド対アルゼンチンでアルゼンチンのラティン主将が主審に暴言を吐いたとして退場を命じられた。ドイツ人主審はスペイン語がわからず、ラティンもまったくドイツ語を解さなかった。おまけに翌朝の新聞でイングランドのJ・チャールトンも警告を受けたとの報道があり、この朝彼自身からアストンに確認の電話がはいっていた。誤報だった。
 言葉が通じない国際試合での審判員と選手のコミュニケーションを改善しなければならない。だがどうすればいいのか...。
 目の前の信号が黄色から赤に変わり、アストンは無意識のうちにブレーキを踏んだ。
 そのときだった。
 「そうか、黄色は注意、赤は止まれ。これなら誰にもわかるぞ」
 警告にイエローカード、退場にはレッドカードというシステムが生まれた瞬間だった。2年後のメキシコ五輪で初めて使われ、以後世界中に普及した。いまではサッカーにとどまらず10を超す競技で使用されている。
 警告と退場を黄色と赤のカードで示すのは、審判と選手間のコミュニケーション向上が最大の目的だった。ところが近年の日本のサッカーでは逆に審判と選手が互いのコミュニケーションを拒絶する道具のように見えてならないときがある。
 有無を言わさずカードを突きつける主審。警告になりそうな反則をするとさっさと背を向けてその場から逃走をはかる選手。その結果、主審は遠くからカードを示し、誰が受けたのかさえわからないケースも頻発する。
 1960年代、「カードシステム」が導入される前には、警告を与える手順が審判員に指導されていた。
①選手に名前を聞く。
②警告であることを明確に告げる。
③さらに反則を犯した場合には退場になることを、明確に告げる。
 そのうえで主審は自分のノートに警告者の名前を書いた。言葉さえ通じれば、コミュニケーションはかえって優れていた。
 何より重要なのは互いのコミュニケーション。審判と選手の両者がもっとそれを意識すれば、試合は気持ちのいいものになる。

(2013年5月29日)

No.932 主審と副審、もっと話を

 Jリーグ第11節、5月11日の浦和×鹿島での誤審事件。原因は主審と副審が話し合わなかったことに尽きる。
 浦和のMF梅崎がシュート性のボールを送り、FW興梠が頭で触れて右隅に決めた。佐藤隆治主審は興梠がオフサイドの位置ではなかったと思った。竹田明弘副審は興梠がオフサイドポジションにいたことはわかっていたが、梅崎のシュートが誰にも触れずにはいったと判断した。
 角度や距離で正しい判定が難しい場合がある。だから主審と副審はひとつのプレーを違う角度から見るべく、位置をとる努力をする。ゴールの判定を下す前に主審と副審が互いの判断を確認し合っていれば、簡単に誤審は避けられた。だが話し合いは行われず、浦和の得点が認められた。
 オフサイドであることを示す映像が大型スクリーンに流れてしまったのは浦和の失態だった。それを見た鹿島の選手たちが佐藤主審に詰め寄るという事態になり、話し合うタイミングを逸したのかもしれない。しかしそれは二次的なことに過ぎない。すべての過ちは、判定を下す前に主審と副審が話し合わなかったことにある。
 難しい判断の場面でも、主審と副審がめったに話さないことに驚く。ほんの数十㍍走って確認し合えば済むのに、主審は自らの判断を信じて疑わず、副審もアピールしない。
 最終的な決断は主審に委ねられるが、「主審(レフェリー)」と「副審(アシスタントレフェリー)」はけっして主従の関係ではない。だが実際には、たとえば経験豊富な主審と若い副審との組み合わせやクラス(国際主審と1級審判)の違いなどで、無意識のうちに互いに上下の感覚があるのではないか。
 翌週の浦和×鳥栖で、浦和FW興梠と鳥栖DF呂成海がからみ、浦和にPKが与えられた。中村太主審は自信をもって呂の反則と判断した。だが呂の足が先にボールを突き、その足に興梠がつまずいたようにも見えた。自信があっても、違う角度から見ていた山際将史副審と話してから判定を下したほうがよかったのではないか。
 判定の正しさは何より大事だ。だが「審判チーム」が全力で正しい判定を下そうと努力していることを示すことにも、小さからぬ意味がある。多少時間はかかるかもしれないが、主審と副審がしっかり話しての結論であれば、選手も納得しやすいのではないか。
 浦和×鹿島の「大事件」の教訓を生かすべきときだったと、私は感じた。

(2013年5月22日) 

No.931 ライバル関係がつづったJリーグ20年

 5月11日の「Jリーグ20周年記念試合」浦和×鹿島は、両チームのライバル意識が火花を散らし、激しく、緊迫した試合だった。
 思えば、Jリーグの歴史も、それぞれの時代でライバル間のしのぎを削る戦いがつくってきたものだった。
 スタート当初の最大のライバル関係は、ヴェルディ川崎(現東京V)と横浜マリノス(現横浜FM)だった。日本サッカーリーグ時代の末期のライバルがそのままJリーグ時代に持ち込まれ、93年5月15日の開幕カードにも選ばれた。
 V川崎は攻撃陣にカズ(三浦知良)、ラモスといったスーパースターを並べ、横浜Mも木村和司、井原正巳などそうそうたるメンバー。95年、V川崎の3連覇を阻止したのが、横浜Mだった。
 それに続いたのが鹿島アントラーズとジュビロ磐田の時代。96年から02年まで7年間、この2クラブがほぼ交互に優勝を分け合ってタイトルを独占した。
 ジーコ引退後もジョルジーニョなどワールドクラスの選手を軸にハイレベルのチームを保ち、やがて柳沢敦、小笠原満男など日本人選手の成長でタイトルに挑戦し続けた鹿島。一方の磐田も、ブラジルの猛将ドゥンガが去ると、中山雅史を中心に名波浩、藤田俊哉、福西崇史など日本人の才能を開花させて圧倒的な攻撃力をもった。
 21世紀にはいると新しいライバルが生まれる。ガンバ大阪と浦和レッズだ。西野朗監督が遠藤保仁の技巧を中心に組み立てたG大阪。対する浦和は、Jリーグ最大の集客力をバックに闘莉王など日本代表クラスの補強で力をつけた。
 ともにJリーグ優勝はいちどだけ。しかし活躍の舞台をアジアと世界に広げた。07年に浦和が、08年にはG大阪がAFCチャンピオンズリーグを制覇し、FIFAクラブワールドカップではともに3位を占めた。
 ただ、その後はあまり明確なライバル関係は見られない。最近は3年にわたって初優勝が続いている。10年名古屋グランパス、11年柏レイソル、そして12年サンフレッチェ広島だ。
 いまやJリーグは世界にも類を見ない競争の激しいリーグ。それぞれの監督の志向するチーム戦術を忠実に履行するチームが増え、スターの数ではなくサッカーの質の勝負になっているためだろう。
 だが優勝を争う明確なライバルの存在があれば、リーグも盛り上がる。「乱世」のJリーグだが、今後、時代を画するような強烈なライバル関係がまた生まれるに違いない。

(2013年5月15日) 

No.930 大型映像装置映像の偏りに疑問

 以前からとても気になっていることがある。Jリーグのスタジアムの大型スクリーンに出される映像の極端な偏りだ。
 Jリーグが今年度実施しているスタジアム検査要項では、「大型映像装置」は必須項目にははいっていない。J1では設置することが望ましいということになっているが、J2では「メンバー掲示可能な電光掲示板」が、それも「設置が望ましい」ことになっているだけなのだ。
 だが実際には、J1とJ2合わせて40クラブのホームスタジアムのうち、現時点で大型映像装置がないのは4施設に過ぎない。そしてそれも、数年のうちにはスタジアムの新設や改修で設置されることになるという。
 ところがその大型映像装置がおかしな使われ方をしているように思えてならないのだ。ホームチームのチャンスや得点シーンは繰り返し出されるのだが、アウェーチームのチャンスは出さず、なかには得点シーンさえ映さないという徹底したクラブもある。
 決定的なチャンスや得点シーンのリプレーはスタンドにいる誰もが見たいと思うもの。違った角度からの映像で、思いがけないものを見いだすことも少なくない。大型映像でのリプレーは、いまやサッカー観戦の楽しみの一部と言っていい。
 スタンドの大半を埋めているのはホームチームのファンやサポーター。その「大半」を喜ばせ、試合を盛り上げようというのが、それぞれのクラブの運営の考えなのだろう。いわば「ファンサービス」というわけだ。
 しかしスタンドにいるのはホームチームのファンだけではない。アウェーチームのファン、そしてハイレベルのサッカーを楽しみたいという「純粋サッカーファン」も、数は多くないかもしれないが確実に存在する。そしてその「少数派」も、間違いなく安くない入場料を払っている。ホームチームの映像しか出さないのは、不当な差別ではないか。
 試合前の大型映像装置には、フェアプレーをアピールする映像が流れ、両チームは出場する全選手が自らサインしたフェアプレー旗を先頭に入場する。その一方で、大型映像装置に流れる映像だけがフェアでないのはどういうわけだろう。
 大型映像装置のなかではアウェーチームのチャンスなどなかったかのように装う試合運営では、ホームとアウェーのサポーター同士が声援を競いながらともに心からサッカーを楽しむ文化など、生まれようもない。

(2013年5月8日) 

No.929 Jリーグ 2ステージ制はありえない

 5月15日にJリーグがスタート20年目を迎え、さまざまなイベントが計画されている。20年間でクラブ数が4倍になり、年間800万人を超す観客を集めるJリーグ。課題も多いが、日本の風土になじみ、新しい文化になったのは間違いない。
 だがその「お祝いムード」のなかで気になるニュースがあった。「2ステージ制」復活の動きだ。
 18クラブがそれぞれの相手とホームとアウェーでいちどずつ戦い、全34節の勝ち点数で優勝を決めている現在のJ1。それを2つのステージに分け、シーズンの最後に2つの優勝クラブの対戦で年間チャンピオンを決しようという制度だ。
 過去、93年から04年まで、96年を除く11シーズンで実施された。クラブ数が少なかった95年まではそれぞれのステージで「ホームアンドアウェー」を行ったが、97年以降は「ホームオアアウェー」でステージ優勝を決めた。今後復活するならその形になるだろう。
 Jリーグの現在の最大の問題が、リーグ自体への関心の低さであるのは間違いない。それぞれのクラブには独自のファンがいる。各クラブが地域に根差す活動を展開してきた結果だ。だがJリーグ全般に関心をもつ人の数はそう多くはない。その関心を高めるための切り札として、年間3回の優勝が決まる形が考えられたのだろう。
 しかし2ステージ制は、まったく「サッカー的」ではない。
 それぞれの相手とホームとアウェーで1試合ずつ戦い、その成績(勝ち点)の総和で優勝を争う形は、最も公平で、最も強いチームが優勝できるシステムということができる。2ステージ制は、不公平で、しかも短期決戦にシーズン優勝がかけられる結果、最強チームが運悪く敗れることも頻繁に起こる。
 事実、Jリーグで過去11回実施した2ステージ制では、7回にわたって年間通算で最高の成績を残したチームが優勝を逃している。
 何よりも悪いのは、「優勝」にばかり関心が集まるあまり、個々のリーグ戦の価値が相対的に低くなってしまうことだ。
 発足して20年、各クラブはホームゲームを魅力あるものにするために大きな努力を払ってきた。極端に言えばシーズン17試合のホームゲームのそれぞれが特別な行事、いわば決勝戦のようなもので、そこに価値を見いだすことが「Jリーグ」という文化に違いない。
 Jリーグ全体の関心を高める努力は必要だが、2ステージ制以外の道を考えるべきだ。

(2013年5月1日) 

サッカーの話をしようについて

1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。

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