サッカーの話をしよう

No.517 古河電工サッカー部史

 先週の金曜日、都内で小さな会合が開かれた。日本サッカーリーグ(1965〜92年)時代に活躍した企業チーム、古河電工サッカーのOBの会合だった。「ゼブラ軍団」のニックネームで親しまれ、2回にわたって日本リーグのチャンピオンとなったこのチームは、92年にJリーグに加盟するジェフ市原に移行、半世紀にわたる歴史を閉じた。
 まだ40代の若手OBもいれば、70代の超OBもいる。誰もが、座席に深く腰を沈め、言葉少なく、それぞれが手にした本に見入っている。前日に完成したばかりの『古河電工サッカー部史』だった。

 この本の企画がスタートしてから、もう4年も経過していた。当時のOB会会長であり、日本リーグが始まったころにはリーグの総務主事(Jリーグでいえばチェアマンに当たる)だった西村章一さんが発案し、その実行力で「世の中に出して恥ずかしくないものをつくろう」という企画がまとまった。
 若いフリーランスのジャーナリストである飯塚健司さんが数十人の関係者に丹念にインタビューして労作を書き上げた。しかしいろいろと難しい問題に直面し、発行は延びに延びた。ようやく発行にこぎつけることができたのは、いまでは滅多に見ることのできない本物の「出版人」である日高徳迪さん(西田書店)の獅子奮迅のおかげだった。
 サッカー界の大先輩である西村さんからこの企画の相談を受けたとき、私が感銘を受けたのは、「単に古き良き時代を回顧するものでは出版の価値がない」という、西村さんの確固たる信念だった。

 私自身、日本のサッカー史における日本サッカーリーグの意味、そして、その担い手となった「企業チーム」の存在意義について考えていたときだった。長引く不況で、日本の企業スポーツは壊滅状態にあった。いち早く「地域」を巻き込んだJリーグはなんとか生き延びたが、企業内でしか成立しなかった競技は悲惨だった。
 スポーツ活動が企業の本質ではないのだから、業績が悪化した企業がスポーツを切り捨てるのは仕方がない。だが「企業スポーツ」は間違いだったのだろうか。私にはそうは思えなかった。
 戦後の日本の社会の発展と、そのなかでのスポーツの存在を考えるとき、歴史上の通過点として、「企業スポーツが必然の時代」があったはずだ。そして会社員とスポーツ選手という2役のはざまで、さまざまな苦労や喜びがあったに違いない。そんなことを考えつつ、微力ながら最後のまとめのお手伝いをした。

 1960年に古河が初めて天皇杯で優勝して日本チャンピオンになるまで、日本のサッカーの王座は、常に学生主体のチームのものだった。しかしサッカーは人間としての成熟を必要とする競技である。20歳そこそこの若者が中心では、日本のサッカーは強くなることはできない。
 1955年に学生サッカーのスター選手だった長沼健さん(元日本サッカー協会会長)が古河に入社したことを契機に、補強と強化が始まる。
 「次の年も(サッカー選手を)採用しようといわれるために、仕事もがんばらなければならなかった」
 脅迫観念にも似た思いから、必死にがんばって仕事に励んだと、長沼さんは語る。そして補強を進めた末の天皇杯優勝だった。学生の手から社会人の手に主役の座を奪い取ったところから、日本サッカーの発展が始まった。
 いま、日本のサッカーは完全なプロの時代を迎え、オリンピックやワールドカップでも、出場するだけでなく上位を狙う力をつけてきた。その礎に、何十年も前、「サラリーマン選手」たちの奮闘があったことを、私たちは忘れてはならないと思う。
 
(2004年6月30日)

No.516 ポルトの人びと

 ポルトからリスボンに向かうポルトガルご自慢の特急「アルファ」号は定刻に出発した。到着まで3時間、非常に快適な旅だ。
 イベリア半島の西の3分の1ほどを占めるポルトガルは南北に長い国。その南寄りに首都リスボンが、そしてその北約300キロにこの国第2の都市ポルトがある。私は今回のヨーロッパ選手権取材のベースにポルトを選んだ。十数年前に取材に訪れて1週間あまり滞在し、すっかり気に入ってしまったからだ。
 ポルトはローマ時代から栄えた港町。ポルトガル王国発祥の地であり、国名もこの町に由来すると言われている。しかし1255年に首都がリスボンに移ると、政治も経済も新首都を中心に動くようになり、ポルトは有名なワインの産地として、そして北部の中心都市としての役割に甘んじることになる。

 それだけに、ポルトの人々には、リスボンに対して強い対抗意識がある。
 「ポルトが働き、そのカネでリスボンが遊んでいるんだ」。人々はそう言う。
 十数年前に滞在したときに強く感じたのは、ポルトの人々の実直さと親切さ、そしてやさしさだった。大都市にありがちなとげとげしさがなく、店やレストランやタクシーでいろいろな人と話すたびに穏やかな笑顔と出合い、心が安らぐ思いがした。
 今回のヨーロッパ選手権も、そこでまた過ごしたいと思った。ただリスボンと比べるとポルトは極端なホテル不足で、出発前に予約できたのは最初の2泊分だけだった。
 「ペンソン・アビス」は、狭い道がカーブしながら入り組んで中世の雰囲気を残すポルトの旧市街にあった。フロントに受付係がひとりいるだけ。簡素なペンションだった。しかし一泊すると、同行したカメラマンの今井恭司さんと私は、すっかりこのホテルが気に入ってしまった。

 スタッフがとても感じがいい。穏やかで静かで、そして親切だ。1日リスボンに出かけることになっていたが、翌日からもここに泊まりたいと受付係のローザに頼むと、「確約はできないけれど、とにかく戻ってきて。努力するわ」と言ってくれた。翌日戻ると、最高の部屋が私たちを待っていた。しかも大会前にインターネットで申し込んだ際の「EURO特別価格」ではなく、この日からは通常料金だった。結局、私たちはずっとここに居つくことになる。
 英語のできるスタッフは少なく、一夜漬けのポルトガル語で足りないところをスペイン語で補い、さらに簡単な英語も動員してのコミュニケーションは、空き部屋がなく深刻な状況のときにも、なぜかとても楽しい。
 ペンションの近くには、私たちが毎日のように昼食に通う「新世界」という名の食堂がある。近所の労働者向けの食堂に通い詰めたのは、そこのボーイの実直な感じがとても気に入ったからだ。

 20代前半だろうか。彼はいつも少しはにかんだ様子で私たちを迎える。そして注文をとると、まるで「かしこまりました」とでも言っているような様子で、聞こえるか聞こえないかの言葉を発し、頭を下げるのだ。
 親子4人で経営する店。口ひげを生やしたお父さんは頑固親父ふうだが、お母さんはいつも親切で、閉店作業中に駆け込んだときにも肉を焼いて出してくれた。そして長女はいつもカウンターのなかでこまめに働いている。4人の実直さが、近所の人々をいつもたくさん集めている。
 十数年を経て再訪したポルト。地下鉄ができ、近代的なビルも立ったが、人々はまったく変わっていなかった。きょうリスボンで試合を見て、また明日ポルトに戻るが、その滞在ももう長くない。
 心の片隅に、少し旅愁がわいてくる。
 
(2004年6月23日)

No.515 ポルトガル

 ポルトガルで、ヨーロッパ選手権EURO2004が始まった。
 開幕戦でギリシャにまさかの敗戦を喫した地元ポルトガルだが、「黄金の世代」といわれたMFルイス・フィーゴ(レアル・マドリード)やルイ・コスタ(ACミラン)にとって悲願の国際タイトル奪取のチャンスだけに、これからの巻き返しが期待される。
 ヨーロッパ大陸の西の端に位置するポルトガル。この国のサッカー発祥の地と言われるのが、カスカイスと呼ばれる大西洋に面した小さな港町だ。19世紀後半に国王が避暑に訪れるようになってから、海浜のリゾート地の顔ももつようになった。首都リスボンから西に25キロも離れた小さな町でこの国最初のサッカーの試合が行われたのには、それなりの理由があった。

 1870年、イギリスの電信会社がポルトガル政府と契約し、イギリスからポルトガルを経てジブラルタル、そして地中海のマルタ島に至る海底電信ケーブル敷設の権利を得た。ポルトガルにおけるその作業基地が、このカスカイスの近くに置かれたのだ。
 小さなコロニーを形成したイギリス人たちは、やがてテニス、クリケット、サッカーなどのスポーツクラブをつくり、熱心に活動を始めた。ポルトガル人だけで作ったチームと、そのイギリス人たちのチームが対戦したのが1888年。これがポルトガルで初めての公式戦ということになっている。
 ポルトガルのサッカーは、1960年代に大きな隆盛を迎える。ベンフィカ・リスボンが61年、62年と2回にわたってヨーロッパのクラブ・チャンピオンとなり、代表チームも1966年ワールドカップで3位という好成績を残したのだ。

 その両者の牽引車となったのが、エウゼビオ・フェレイラだった。かつてポルトガルの植民地だったモザンビークの首都ロレンソマルケス(現在のマプト)から、1960年12月、18歳で引き抜かれたエウゼビオは、驚くべき才能を示し、ゴールを量産してたちまちのうちにベンフィカをヨーロッパのトップチームに引き上げた。
 エウゼビオのほかにも、ポルトガルのクラブや代表には、モザンビークやアンゴラなど、ほんの少し前までポルトガルの植民地だったアフリカ出身の選手が数多くいた。彼らの力こそ、60年代のポルトガルの強さの秘密だった。
 しかし現在のポルトガル・サッカーの強さの背景にあるのは、まったく別のものだ。
 国を挙げてサッカーに熱狂するポルトガルだが、ベンフィカ、ポルトなどの有名クラブでもイタリアやスペインの金満クラブと比べると質素なものでしかない。彼らに対抗して世界のスターを買い集めることはできない。

 そこで、サッカー協会が始めたのが、若い才能の組織的な発掘と育成だった。80年代後半に協会の手でスタートした若手育成策は91年にワールドユース選手権(20歳以下)優勝という成果を生む。その中心選手が、フィーゴであり、ルイ・コスタだった。
 人買いのように旧植民地からタレントを連れてくるのではなく、少年たちを地道に育てるプログラムだから、波はあっても、着実にタレントが輩出される。EUROの開幕戦でポルトガルの1点を決めたクリスチアーノ・ロナウドは、その最も新しい成果だ。リスボンのスポルティング・クラブで育ち、昨年、18歳の若さで、レアル・マドリードに移籍したベッカムの後釜としてマンチェスター・ユナイテッドに引き抜かれた。
 少年たちを励まし、才能を伸び伸びと発揮させて育ててきたポルトガル。60年代の栄光の後、70年代には弱小国のひとつにまで落ちていたが、ビッグタイトルはもう手の届くところまできている。
 
(2004年6月16日)

No.514 L・リーグが始まる

 アテネ・オリンピックに向けて強化を進める日本女子代表チームが、FIFAランキング2位、有力な金メダル候補のアメリカと引き分けた。
 6月6日日曜日、ケンタッキー州ルイビルでの試合。日本は立ち上がりこそアメリカのパワーに押し込まれたが、徐々にボールをキープし始め、前半20分にはMF宮本の見事なパスでFW荒川が抜け出し、落ち着いてゴールに流し込んで先制点を挙げた。
 ハーフタイムに一挙に4人もの選手を交代させたアメリカに対し、日本は次第に劣勢に回らされる。気温28度、蒸し暑い気候のうえに、人工芝での試合でかなり体力を消耗させたに違いない。しかし後半14分に同点ゴールを許したものの、その後はまた盛り返して互角のうちに試合を終了させた。

 4月に行われたアテネへのアジア予選で北朝鮮を破り、中国とも互角に近い試合をしたことで、女子代表は大きな自信をつかんだ。このアメリカ戦でもすばやくパスを回して展開していく日本のサッカーがきちんとできていた。
 昨年秋の女子ワールドカップ(アメリカ)のころまでは、平均身長で10センチもの体格差があるヨーロッパや北米のチームと対戦すると、なかなか自分たちのサッカーができなかった。しかし上田栄治監督の下、短期間でチームとして大きく成長し、どんな相手に対しても堂々と渡り合えるようになった。アテネで上位に進出する可能性は十分ある。
 さて、代表チームがアメリカ遠征から戻ると、休む間もなく今週の日曜(13日)にはL・リーグ(日本女子サッカーリーグ)が開幕する。代表選手たちの大半が所属する日本の女子トップリーグだ。昨年は全13クラブで優勝を争ったが、ことしは新しくアルビレックス新潟レディースを加え、「L1」8クラブ、「L2」6クラブという初めての1、2部制で行われる。

 L1の優勝争いは、昨年日テレ・ベレーザ(東京都)の4連覇を阻止して初優勝を飾ったTASAKIペルーレ(兵庫県)と、女王の座奪回を目指すベレーザの争いか。ベレーザは7人、ペルーレは5人ものオリンピック代表候補をかかえる「スター軍団」だ。ベレーザはMF澤穂希、酒井與惠、小林弥生が組む中盤の構成力にFW荒川恵理子の突破力が魅力。一方のペルーレはMF山本絵美を軸に、川上直子と柳田美幸が左右から崩し、過去3年連続得点王のエース大谷未央の爆発的な得点力を生かす。代表で得た自信を所属クラブに還元し、いちだんとレベルの高い試合を見せてくれるに違いない。
 これに続くのが、日本代表のMF宮本ともみを中心とする伊賀FCくノ一と、代表GK山郷のぞみとMF安藤梢をもつさいたまレイナス。元浦和レッズのDFで、埼玉県議の田口禎則さんを監督とするレイナスは、このところめきめきと力をつけており、優勝争いを狙っている。宮城県の企業チームYKKフラッパーズ、長野県の菅平高原にある専門学校を中心とする異色のクラブ大原学園JaSRA、大阪府のスペランツァ高槻、兵庫県の宝塚バニーズも、上位進出をうかがっている。

 昨シーズンは足の便の悪い練習グラウンドでの開催も多かったが、今季のL1はすべてきちんと座って観戦できるスタジアムでの開催となった。 開幕日の6月13日には、全国でいっせいにL1、L2の計7試合が行われる。
 代表チームの活躍により、女子のサッカーも技術レベルが高くスピード感もあることが知られるようになった。そのうえに、フェアで、男子のサッカーでは見ることのできない、理屈を超えたがんばりもある。アテネへの期待のなか、L・リーグにも大きな注目が集まっている。
 
(2004年6月9日)

No.513 サッカーの本質

 先週UEFAチャンピオンズリーグ決勝戦の取材でドイツに行ったとき、思いがけなく古い友人に会うことができた。大学は違ったが、学生時代にいっしょに少年たちにサッカーを教えた仲間だ。
 74年のワールドカップを見に行ってすっかりドイツが気にいってしまった彼は、翌年、何のあてもないまま、単身デュッセルドルフに渡ってしまった。以来、ドイツ生活は足かけ30年にもなった。
 私が知る学生時代、彼は実にユニークなサッカーコーチだった。少年たちを集めて行われた夏のキャンプで、初心者ばかりのグループを受け持たされた彼は、1週間というもの、ラグビーばかりやらせていた。はたで見ながら、ほかのコーチたちは首をかしげていた。練習内容はそれぞれのコーチに任されていたから批判はしなかったが、「まじめに」キックやトラップやシュートの練習をさせている私たちに比べると、元気よく遊ばせているだけに見えた。

 キャンプの最終日に試合が組まれた。ラグビーばかりやっていた初心者のチームに何ができるのかと興味深く見つめていると、彼のチームは驚くべきサッカーを見せて快勝してしまった。練習していないのだから、キックもトラップもまともにできないのだが、ボールを奪ってからのチーム全体の動きは抜群だった。私たちは、魔法のような彼の指導に舌を巻いた。
 ほぼ20年ぶりに再会した彼は、また別の面白いアイデアを話してくれた。20年ほど前、当時生徒が数百人もいたデュッセルドルフの日本人学校に頼まれて少年たちにサッカーを教えていたときの話だという。
 ある日、彼は少年たちに壁パスを教えた。短いパスを味方選手に渡し、味方選手が壁のようにそのパスをはね返して相手DFを置き去りにするプレーである。

 しかしそのプレーを教えた後に2対1での攻守をやらせてみると、少年たちは壁パスにこだわり、守備側も相手が壁パスをすると思い込んで守ってしまう。すなわち、壁になる選手にマークについてしまうのだ。これでは、実戦に役立つ練習にはならない。
 そこで私の友人は、ポケットからコインを取り出し、それを攻撃側のひとりの選手に渡すと、「サッカーのことはすべて忘れろ」と言った。そして、2人で協力して、なんとかあのラインまでこのコインを運んだら君たちの勝ちだとルールを説明した。
 コインを握らせたとたん、少年たちの瞳が輝いた。少年たちは驚くべきアイデアを次つぎと出した。味方に渡すふりをして自分でもってそのまま走ったり、いきなりコインをもっていない少年が前に走って守備を引き付け、フリーになった味方を走らせた。

 この話を聞いて、私はまたも目を開かされる思いがした。彼の指導は、サッカーというゲームの本質を見事についていたからだ。向こうに白い枠(ゴール)がある。相手の妨害をかいくぐって、なんとかそこにボールをもっていこうと知恵を絞り、みんなで協力し合うのが、サッカーというゲームではないか。技術も戦術もそのためにある。
 しかしともすると、コーチたちは技術や戦術にこだわり、プレーヤーたちに本質を忘れさせるほどそれを強調してしまう傾向がある。そうした指導の弊害は、Jリーグや、ときに日本代表にまで及んでいるように感じる。
 日本のサッカーは、子供たちが自主的にゲームをする「ストリート・サッカー」がベースになっているわけではない。だからなおさら、少年少女には、サッカーの本質を意識させる指導が必要だ。
 20年ぶりの突然の再会でも、お互いの近況を話すでもなく、そんな話に何時間も熱中した私たちだった。
 
(2004年6月2日)

サッカーの話をしようについて

1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。

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