サッカーの話をしよう

No.1011 落ち着いて、なすべきことを続けよう

 「落ち着いて、ケーヒルにクロスを送りましょう」
 オーストラリアで行われているAFCアジアカップの準々決勝。ヘディングで見事な2点目を決めたオーストラリアのFWケーヒルに向けて、スタンドのサポーターから黄色の地に緑色の文字のこんなポスターが掲げられた。
 圧倒的な存在感を誇るエースのケーヒル。ヘディングの威力は驚異的だ。掲げられたポスターには、彼にクロスを送っておきさえすれば勝てるという絶大な信頼がある。
 実はこのポスターはパロディである。オリジナルは第二次大戦中に英国政府が制作した3種類のひとつ。21世紀を迎える直前の2000年にある古書店によって「再発見」されるまで完全に忘れられていた。店に飾ると数年のうちに爆発的なブームとなった。
 「KEEP CALM AND CARRY ON(落ち着いて、日常生活を続けましょう)」
 赤地に白い文字が描かれたシンプルなデザイン。だがその言葉が現代人の心をとらえた。ナチスの空爆下でも人びとは悠然と生活を送り、お茶を楽しむ時間も放棄しなかったと言われる。その不屈の精神が、経済危機など多くの問題をかかえる現代社会への強いメッセージとなったのだ。
 さて、アジアカップでの日本代表の準々決勝敗退は、良い内容のプレーを続けていただけに残念だった。この成績もあって、八百長疑惑の渦中にあるハビエル・アギーレ監督の解任を求める声も高くなるに違いない。代表監督への疑惑が浮かんだことで、日本サッカー協会にはいろいろな方面から「不快感」が伝えられているという。
 だが起訴されて正式に裁判が始まる状況にきているならともかく、告発状が受理されてこれから正式な捜査が始まるという段階で日本協会側からアギーレ監督との契約を解除するのは困難ではないか。現段階ではアギーレ監督が日本協会と約束した業務の遂行に支障はない。解任を強行すれば日本協会側が甚大なダメージを受ける恐れがある。
 いわれのない疑いをかけられる恐れは、誰にも、どんなときにもある。疑いをかけられたということだけでその人を「汚いもの」扱いをするのは間違いだと思う。
 アギーレ監督が白か黒かという話ではない。感情に流されず、契約というものを冷静にとらえなければならないということだ。日本協会は、落ち着いて(kEEP CALM)、いまなすべきことを続ける(CARRY ON)しかない。
 そう、オーストラリアでの3週間で、アギーレ監督と選手たちがしたように...。

(2015年1月28日) 

No.1010 世界のスポーツ首都

 アジアカップを追ってオーストラリアの東部を上下している。1月18日にはブリスベンからメルボルンに南下した。
 日本で言えば沖縄と福島といった距離。緯度で10度の違いは大きい。ブリスベンでは気温34度、日向に出ると肌がじりじりと焼ける音が聞こえるようだったが、メルボルンにくると21度。夜8時キックオフの試合は冷え込んだ。
 今大会のメルボルン会場は「レクトアンギュラー・スタジアム」。2010年に完成したばかりのサッカー・ラグビー場だ。収容は3万人と小ぶりだが、「観客第一」の理念を盛り込み、観戦環境は快適そのもの。通常はスポンサーの保険会社名を冠してAAMIパークと呼ばれる。
 メルボルンは世界的な「スポーツ都市」だ。AAMIパークの周囲には巨大スポーツ施設が集まっている。18日にアジアカップ「ウズベキスタン×サウジアラビア」を取材したのだが、周辺はまるで「スポーツの万国博覧会会場」といった様相だった。
 すぐ北には1956年メルボルン五輪の主会場でもあった「メルボルン・クリケットグラウンド」がある。この日はクリケットの国際試合「オーストラリア×インド」が開催され、家族連れでごった返していた。3月には、クリケット・ワールドカップ決勝戦がここで行われる。
 そしてAAMIパークのすぐ西には、錦織圭の出場で日本でも大きな話題になっているテニスの全豪オープン会場「メルボルンパーク」が「ロッドレーバー・アリーナ」を中心に広がっている。開幕は翌日というのに、練習を見るためか、この日すでにたくさんの人が訪れていた。
 驚くべきはこれらの多様なスポーツ施設が一辺800メートルほどの三角形のなかにおさまっていることだ。東京でも国立競技場の近くに神宮球場や秩父宮ラグビー場があって3会場で10万人近くのスポーツファンを集めた日もあった。しかしメルボルンはクリケットグラウンドだけで10万人の収容力があり、国際性では東京など足元にも及ばない。
 しかもこうした巨大スポーツ施設が人口400万という巨大都市の都心から徒歩20分ほどの近さにある。さらに一流スポーツを観戦する近代的なスタジアムだけでなく、一般の人びとが自らスポーツを楽しむための施設も都心に近いところに数多く存在する。世界一流のプレーを見た後、テニスファンは彼らになりきってボールを打つことができるのだ。まさに「世界のスポーツ首都」ではないか。
 比較はしたくない。だがメルボルンを通して東京を見ると、その「スポーツ貧国」ぶりばかりが目立ってしまう。

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(2015年1月21日) 

No.1009 監督と審判は仲間

 「ロスタイムは、なぜ前半より後半が長いんですか?」
 G大阪の長谷川健太監督から、まるで少年のような質問が出た。よほど腹にすえかねた経験があるのだろう。聞かれた西村雄一審判員は、思わず苦笑いをした。
 1月10日から東京で行われた「フットボール・カンファレンス」。2年にいちど開催され、今回で9回目を迎えた日本サッカー協会公認コーチの研修会だ。今回の参加者は1070人。海外からもたくさんの講師やゲストを迎え、密度の高い3日間だった。
 そのセッションの一つが、ワールドカップ主審の西村さんを迎えての「技術と審判の協調」というテーマだった。今季J1に昇格する松本山雅の反町康治監督が長谷川監督とともに登壇して話した。
 ここ数年Jリーグが取り組んでいるのがよりタフなゲームの実現だ。ファウルぎみの当たりを受けるといとも簡単に倒れ、FKを要求する選手があまりに多い。試合がぶつ切れになり、サッカーの魅力・スピード感を奪っている。
 さらに、こんなことを続けていれば日本の選手はひ弱になり、いつまでたっても世界で勝てない。ファウルされてもプレーを続けようというたくましい選手をつくるためには、審判にもそれを理解してもらい、その方向性で笛を吹いてもらう必要がある。
 「世界の選手は笛を期待していない」と、西村主審はワールドカップとJリーグの違いを語る。「倒れても起きてシュートを決めれば家族を養えるという迫力があります」
 J2をわずか3年で突破した松本を率いる反町監督は、日常の練習からファウルがあっても止めないようにしてきたという。その結果、倒れてもすぐに立ってプレーを続けるようになった。昨季のJ2全42試合で、松本の選手が担架で運び出されたのは、アキレスけんを切断した選手ひとりだけだったという。
 監督と審判員はときに敵対する関係のように見える。だがざっくばらんな話から、監督も審判員も「より良いJリーグ、より強い日本のサッカーをつくる」という面で「仲間」であることがよく理解できた。1月末には、初めての審判員の「カンファレンス」が大阪で開催される。こんどはここにJリーグの監督が行って、また忌憚(きたん)のない話し合いができればと思った。
 「選手交代のほとんどが後半にあるからです」
 長谷川監督の質問に、西村主審はやさしく答えた。
 「ひとりで約30秒、両チームで計6人の交代があると、それだけでロスタイムは3分間になるでしょう?」
 長谷川監督は、少年のような表情でうなずいた。

(2015年1月14日) 

No.1008 パレスチナ代表 祖国に誇りと喜びを

 2年前にヨルダンに行ったとき、南部の遺跡を訪ねた。道中、かなたに死海が広がるのを見て感動を覚えた。その死海の西側では、パレスチナの人びとが厳しい状況のなかで生きている...。
 第一次世界大戦後にイギリスの委任統治領となってからユダヤ人の入植が進み、第二次大戦後にイスラエルと分離されたパレスチナ。その後四次にわたる中東戦争を経て、国際的に認められた自治政府ができたのが1994年。国際サッカー連盟(FIFA)加盟は4年後の1998年。だが安全面の問題で国内での国際試合はできず、ようやく実現したのは2008年のことだった。
 日本は、過去2回、23歳以下で戦うアジア大会でパレスチナと対戦したことがあり、昨年の仁川大会では4-0で勝利を収めている。だがA代表では、来週月曜日(1月12日)、オーストラリアでのアジアカップが最初の対戦だ。
 パレスチナにとっては主要な国際大会決勝大会のデビュー戦。FIFAランキングは113位(日本は54位)。だが侮ることは許されない。
 国内リーグはセミプロだが、外国のクラブでプレーするプロが6人含まれている。スウェーデン生まれのFWダダ(21)はスウェーデン代表の誘いをけってパレスチナ代表でプレーすることを選んだ。
 エースであるFWのヌマン(28)は、サウジアラビアでプレーしている。イスラエルに国境を管理されて自国からの自由な出国さえ許されない祖国の人びとに、ヌマンは思いを馳せる。彼には以前、帰国のおみやげにと子どもにおもちゃを持って帰ろうとしたとき、国境で没収されたという屈辱的な思い出があるのだ。
 大会を前に、パレスチナは2つの打撃を受けた。
 ひとつはこの国にアジアカップの出場権をもたらしたマハムード監督が9月に辞任を余儀なくされたことだ。ガザ地区にある自宅がイスラエルの進攻で破壊され、家族を守るためにサッカーから離れなければならなくなったのだ。
 そしてもうひとつは、チリでプレーするFWジャドゥエ(21)の国籍変更が間に合わなかったことだ。父の祖国パレスチナでプレーすることを熱望していたが、年が明け、大会の登録期限になってもFIFAの許可はこなかった。
 しかし日常生活は依然として厳しく、打撃があっても、選手たちは前向きだ。
 「僕たちはパレスチナの人びとに誇りと喜びをもたらしたい。そしてこの大会を通じて、パレスチナの名を世界に知ってもらいたい」というスロベニア生まれのMFフバイシャ(28)の言葉は、チーム全員の思いだ。「スポーツマンは政治家たちより良き外交官であることを、僕たちは示せると思うんだ」

(2015年1月7日) 

サッカーの話をしようについて

1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。

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