サッカーの話をしよう

No.276 サッカーピープルのためのワールドカップに

 旅先でのサッカーは楽しい。
 初めての「海外旅行」は74年6月だった。もちろん、西ドイツを舞台に行われたワールドカップの取材だ。
 とはいっても、ワールドカップもその取材も、今日と比べるとのんびりとした時代だった。出場国は現在の半分の16だったし、大会期間中に試合のない日も多かった。
 デュッセルドルフでスウェーデン×ブルガリアを見た後、観戦にきていた友人ふたりとスタジアムの近くでボールをけった。学生時代からのサッカー仲間。ひとりがボールをもって観戦にきていたのだ。広大なスポーツ公園の芝生の一角。3人とも直前の試合の気分だった。それだけでも十分楽しかった。
 そこにスウェーデン代表のユニホームを着た若者が3人やってきて、「試合をやろう」ということになった。3人とも体が大きく、少し怖かったが、「ミニ・ワールドカップ」の申し出を断るわけにはいかない。

 試合は「日本」の圧勝だった。私たちはすばやく動き、リズミカルにパスを通して次々とゴールを重ねた。バイキングの末裔たちが見かけ倒しだったのは、試合中からのビールでかなり酔っぱらっていたからだった。
 この「試合」は、初めて世界の頂点を見たワールドカップの感動とはまた別の、心から幸せな思い出となった。
 93年のワールドカップ予選のころから、日本代表の海外遠征にたくさんのメディアが同行するようになり、「メディアマッチ」も組まれるようになった。カタールのドーハで、UAEのアルアインで、ウズベキスタンのタシケントで、いくつも楽しい試合を体験した。
 一般ファンの応援・観戦ツアーでも、チームを組んで試合をすることが多いらしい。準備は大変だが、外国のきれいな芝での「国際試合」も、ツアーの楽しみの大きな一部なのだ。

 97年に完成した直後のJヴィレッジを国際サッカー連盟(FIFA)の視察団が訪れたとき、見事な芝を見るや、すぐさま着替えてボールをけり始めたという話を聞いた。
 「私たちはサッカー・ピープルだからね」
 案内役をしていた高田豊治さんは、その短い一言ですべてを納得したという。サッカーにかかわる仕事をしたり、また休暇をとって外国まで試合を見に行く理由は簡単だ。サッカーが好きだからだ。FIFA役員も一般のファンも、みな同じ「サッカー・ピープル」なのだ。
 そういえば、93年に日本で17歳以下の世界選手権が開催されたとき、FIFAの役員たちは毎朝早く起きてホテルの近くの公園でミニサッカーに汗を流した。「サッカー・ピープル」としてごく自然のことだったのだろう。
 サッカーをするのは、理屈抜きに楽しい。それが旅先であれば、なお楽しさは増す。

 2002年ワールドカップには、世界中から何十万という「サッカー・ピープル」がやってくる。大会の一環として、「ホスピタリティー・ゲーム」とでも銘打って、日本チームとの交流プログラムを組織的に実施するのはどうだろうか。観戦ツアーごとのチームと、ある国のサポーターのチームと、外国メディアのチームと、個人参加で完全な寄せ集めのチームと...。
 グラウンドを確保しなければならない。相手チーム用のユニホームも用意しなければならない。審判にも来てもらわなければならない。準備・運営は簡単な仕事ではない。しかしボランティアレベルで十分こなせる。
 この交流プログラムが成功したら、2002年大会は「最高に楽しかったワールドカップ」として、世界の「サッカー・ピープル」の記憶に長く残るに違いない。

(1999年7月28日)

No.275 ベンゲル 愛情から引き出される力

 「新しいクラブで監督の仕事を始めるとき、あなたの仕事を導く哲学は何か」
 質問するのは英国の月刊誌『ワールドサッカー』のケア・ラドネッジ編集長。そして答えるのは名門アーセナルのアーセン・ベンゲル監督(元名古屋グランパス監督)である。ベンゲルの回答は明快だ。
 「選手たちの本質や才能を受け入れ、彼らのなかにあるサッカーをしたいという欲求をさらに進める努力をすることに尽きる。つまるところ、彼らがサッカーを始めたのは、サッカーが好きだったからだ。私がすべきことは、そのサッカーへの愛情を、自分のプレーを通じて表現するように仕向けていくことにほかならない」(『ワールドサッカー』99年7月号)
 ブラジルの圧倒的な強さを印象づけて、コパ・アメリカが終了した。ルシェンブルゴ監督就任後初めての大会。「新しいブラジル」は、近年にない「ブラジルらしさ」と「強さ」を兼ね備えたチームのように思えた。

 とはいっても、今回のチームの最大の特徴は、ヨーロッパのチームのような、大きな展開と、スピードを生かすシンプルなサッカー。それが、守りを固める相手をやすやすと攻め崩した最大の要因だった。その「ヨーロッパ・スタイルの枠組み」のなかに、最高の「ブラジルらしさ」が輝いていたのだ。
 攻撃の中心になったMFリバウドとFWロナウドのコンビプレーは、即興性にあふれ、「古き良きブラジル」を思い起こさせた。そこに至るまでの途中経過に手間をかけず、大きく、シンプルに展開するからこそ、可能になったものだった。
 前任者のマリオ・ザガロは、厳しい規律でチームを縛るタイプだった。しかし新監督は「ブラジル選手のサッカーへの愛情を最大限に表現させるためのゲーム」を考える人のようだ。コパ・アメリカでのブラジルには、それがよく表れていた。

 そして、日本代表のフィリップ・トルシエも、ベンゲルやルシェンブルゴと同じような「哲学」をもった監督だと、私は考えている。
 トルシエというと、風変わりな練習や感情むき出しの言葉、そして日本サッカー協会やJリーグ、選手に対する歯に衣着せぬ批判ばかりが話題になる。コパ・アメリカ敗退後の記者会見では、日本人の感覚から見れば、自己弁護のために選手を非難していると思われかねないコメントに終始して反発を買った。
 しかし彼の言葉をよく聞けば、サッカーやサッカー選手に対する深い愛情があるように、私には思える。
 コパ・アメリカを通じてトルシエが最も失望したのは、今回の日本代表には「コミュニケーション」を取ろうとする選手がほとんど見られなかったことだったという。食事に集まっても、わずか10分間ですませ、さっさと自室に戻ってカギをかけてしまう選手が多かった。

 日本代表選手たちは、サッカーに対する自分自身の愛情や情熱をどのようにとらえているのか。新しい監督や仲間の選手たちに、それをどう伝え、実現していこうと考えているのだろうか。伝えようとするどころか、かかわりをもとうとさえしないのは、なぜなのだろうか。
 トルシエの戦術やトレーニング方法、そして試合の仕方を批判するのは簡単だ。しかしトルシエが発しているサッカー選手としての資質の根源にかかわる疑問を、私たちはまじめに受け止めなければならないと思う。
 「人間的に強くなれなければ、グラウンドでも強くはなれない」とトルシエは語る。
 ベンゲルやルシェンブルゴやトルシエが、選手たちのサッカーへの愛情を第一義に据えるのは、愛情から引き出される力ほど強いものはないからだ。

(1999年7月21日)

No.274 AFC抗議の退席に和解の道を

 決勝戦の会場は横浜。浦和では準決勝を...。2002年ワールドカップ日本組織委員会(JAWOC)の決定は、大きなニュースになるはずだった。しかし先週アメリカの西海岸で起こった事件が、3年後のワールドカップ日韓共同開催そのものに大きな影を投げかけている。
 7月9日にロサンゼルスで開催された国際サッカー連盟(FIFA)臨時総会で、アジアサッカー連盟(AFC)のメンバーが全員退席した。2002年ワールドカップの出場枠割り当てへの不満から「ワールドカップをボイコットする」ことをアピールするための行動だった。
 32カ国が出場して行われる2002年大会。FIFAは昨年12月4日にアジアに「4」の枠を与える決定をした。
 同じ32カ国で行われた98年大会では、「3.5」だった。アジアの第4代表イランは、オセアニア代表とプレーオフを戦わなければならなかった。したがって今回はアジアに「0.5」枠を増したことになる。

 しかしそれはFIFAからの見方だ。この「4」は開催国の日本と韓国を含んでのもの。アジアの側から見れば、予選を通じて出場できるのはわずか「2」ということになる。
 AFCには45カ国の協会が加盟している。日本と韓国を除く43カ国がわずか「2」の座を争うというのは、両国が98年大会出場の実績をもつ実力国であることを考えても過酷だ。そこでAFCは枠をひとつ増やし、「3」にすることを要求した。それが通らなければ大会ボイコットも辞さないという強硬な姿勢を、昨年12月15日の理事会で決議したのだ。
 AFCの要求に対しFIFAは具体的な対応策をもっていなかったが、今月にはいってヨーロッパサッカー連盟(UEFA)が15の枠から「0.5」をAFCに譲ることを決め、騒ぎは収まると予想された。前回優勝のフランスを除くヨーロッパ予選で14位になったチームに、アジア予選3位チームとプレーオフを行わせるという提案だ。

 しかしAFCは「UEFAの姿勢には感謝するが、要求が満たされたわけではない」と、この提案を拒否し、臨時総会での「総退席」となった。退席には日本と韓国も加わった。両国ともAFCのメンバーだからだ。
 世界では、この総退席とともに、「FIFAはアジアから開催権を取り上げ、他国に代替開催させる」との報道も流れた。すぐに準備が整うところとしてイングランドとアメリカの名まで上がった。しかし現在のところ、FIFAには開催国変更の考えはないようだ。
 AFCは、10月に臨時総会を召集し、ワールドカップをボイコットするかどうかを最終的に決めるという。しかし2002年大会へのエントリー書類提出期限は9月末の予定だ。最悪の場合でも、12月7日に東京で開催される「予選組分け抽選会」がデッドラインとなる。

 最終的にアジアがボイコットした場合、日本と韓国だけが参加して大会を開催することは可能だろうか。私は否定的だ。なぜならば、両国とも「アジアで初めてのワールドカップ」をスローガンに招致運動を展開してきたからだ。この大会は、日本と韓国だけでなく、全アジアの大会でもある。強行すれば、アジア・サッカーのなかで両国の将来はない。
 アジアなくして、「2002年ワールドカップ日本・韓国大会」はありえないのだ。
 10月のAFC臨時総会を手をこまねいて待っているようではいけない。いまこそ、日本と韓国が最大の協力関係を発揮し、対アジアに、そして対世界に強力な「外交」を展開して解決の道を開かなければならない。この問題を解決しない限り、2002年大会の成功はない。

(1999年7月14日)

No.273 パラグアイ 情熱秘めた労働者の国

 コパ・アメリカの取材でパラグアイにきている。南米での取材は10回以上になるはずだが、ここは初めてだ。
 学生時代、中南米の音楽が好きで、いろいろな国の音楽を聞いた。そしてたまたま買ったレコードに、「パラグアイ音楽の玉手箱」というLPがあった。この国の音楽の代表的な楽器であるハープの軽快な響き、そして何よりも、農業国であり、「労働者の国」を誇りにする国民性に好感をもった。
 その後、サッカー報道の世界にはいると、パラグアイとの出合いはほとんどなくなった。ワールドカップに出場できないパラグアイは、南米の「弱小国」のひとつにすぎなかった。
 サッカーでのパラグアイとの初めての出合いは、79年ワールドユース選手権日本大会だった。パラグアイは神戸を舞台とするグループにはいり、市民有志の熱烈なサポートを受けた。MFフリオ・セサル・ロメロ、FWロベルト・カバーニャスらは、その後、パラグアイを86年ワールドカップ出場に導き、十数年にわたってパラグアイ・サッカーのリーダーとなった。

 南米各地にサッカーがはいったのは19世紀の最後の10年間のことだった。パラグアイでは1896年に最初のサッカーの試合が行われた。そして「新世紀」にはいると、サッカーはこのパラグアイでも猛烈な勢いで繁殖を始める。
 1901年には、体育学校の1年生と2年生の間でパラグアイ人同士の初めての試合が行われ、早くも翌年には最初のクラブであるオリンピアが誕生した。トヨタカップで来日したこともある強豪だ。
 1909年パラグアイ協会設立。しかし地理的にブラジル、アルゼンチン、ウルグアイという南米サッカーの「3強」に囲まれ、国際試合では苦戦を強いられた。1930年の第1回ワールドカップに出場したものの、初戦で無名のアメリカに0−3というショッキングなスコアで敗れる。とはいっても、当時のアメリカ代表はイングランドやスコットランドの元プロで占められ、この大会で結局3位になっている。

 1930年代後半には、パラグアイ・サッカーの不世出のスター、エウセニオ・エリコが登場する。ただし活躍の舞台はアルゼンチン。インデペンディエンテ・クラブのエースとして、37年には34試合で47得点というとてつもない記録を残す。ワールドカップ出場はなく、南米以外ではあまり知られていないが、ブラジルのレオニダスと並び、第二次世界大戦前の世界的な名手だった。
 パラグアイが初めてタイトルを手にするのが1953年のコパ・アメリカ。その日、アスンシオンは赤・白・青の三色旗で塗りつぶされた。79年には若きロメロの活躍でコパ・アメリカで2回目の優勝を飾った。
 約40万平方キロ、日本とほぼ同じ広さの国土に人口はわずか510万。パラグアイは今日も農業国であり、偉大な「労働者」の国だ。首都アスンシオンで、私たち日本の取材陣が知ったのは、パラグアイの人びとの穏やかな優しさだった。

 先週金曜日の日本との試合前、町にはパラグアイ国旗や代表のユニホームがあふれた。パラグアイにとっても、重要な試合だった。しかし人びとは口々に「きょうは日本が勝つよ」と言ってほほえんだ。
 熱烈にサッカーを愛することでは、南米のどの国民にもひけをとらない。しかし「農業民族」はやはり「アグレッシブさ」に欠けるのか、なんとなくおっとりしている。だがそれがパラグアイという国やその国民ののパーソナリティーなのだ。
 コパ・アメリカで、「サッカー」の世界の広さと奥深さを、またひとつ知った気がした。

(1999年7月6日)

サッカーの話をしようについて

1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。

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