サッカーの話をしよう

No.649 Jリーグは世界で第6位

 3月3日に開幕したJリーグは今月末までに13節を終え、早くも全日程の3分の1を突破した。5月にはいって上位チームのもたつきが続くなか、先週末、千葉に見事な逆転勝ちをしたG大阪が一歩抜け出した観がある。
 一方ヨーロッパでは、続々とシーズンが終了している。ヨーロッパのシーズンは夏から翌年にかけての「越年制」だ。そのなかで、ドイツのブンデスリーガが、今季も「第1位」を確定した。1試合平均観客数の話である。

 ブンデスリーガ1部は、Jリーグと同じ18クラブで構成されている。全306試合で集めた観客は1189万9765人。1試合平均にすると3万8888人となる。2位はイングランドのプレミアリーグで1試合平均3万4363人だった。ただし総観客数では、20チームで構成され、全380試合のプレミアリーグが100万人以上多い。
 それでは、日本のJリーグは、世界各国のサッカーリーグのなかで、1試合あたりの観客数ではどのくらいの順位になるのだろうか。
 正解は、第6位。3位スペインの「リーガエスパニョーラ」、4位イタリアの「セリエA」、そして5位フランスの「リーグアン」のすぐ下に位置するのだ。Jリーグ1部(J1)の昨年の総観客数は559万7408人。1試合平均では1万8292人だった。

 この数字は、ヨーロッパではオランダ、トルコ、スコットランド、ポルトガルなどをしのぎ、ヨーロッパ以外ではトップにあたる。もちろん、アルゼンチン(1万7363人)、ブラジル(1万2385人)といった南米の強豪国も含めての話である。
 さらに、今季のJリーグには観客増加の傾向が見られる。第13節を終了した時点で1試合平均1万8964人。1試合あたり672人の増加ということになる。
 大幅に増やしているクラブもある。昨年4万5573人という世界でもトップ20にはいろうかという観客数を記録した浦和は、今季のホーム7試合で平均5万0996人と5000人以上も増やし、川崎も4000人以上の増加を見ている。
 大幅に減っているのは磐田1チーム(1万8002人から1万3264人)だけで、7クラブが「微減」、浦和を筆頭に11クラブが観客数を増やしているのだ。

 観客数は、天候やチームの調子、順位などでも左右されるが、下位でも大宮のように3000人以上の増加を示しているクラブもある。観客を増やそうという各クラブの努力が次第に実を結び始めてきていることがわかる。
 Jリーグの観客数は、2004年に10年ぶりに平均1万8000人を突破し、過去3年間、この数字を維持してきた。この「安定期」から、2万人の壁を突破すべく、「飛躍期」にはいったのではないか。来年あたり、フランスのリーグアン(今季は1試合平均2万1811人)を抜き、「世界第5位」に進出することも十分可能だ。
 
(2007年5月30日)

No.648 アピールする

 最近、ひとつの言葉にひっかかって仕方がない。
 「アピールする」
 スポーツ新聞の選手のコメントに、毎日のように登場する言葉だ。たとえば日本代表の合宿に初めて呼ばれた選手の口から、判を押したようにこの言葉が出る。
 監督に自分のいちばんいいところを見てもらい、認められたい----。その気持ち自体は、よく理解できる。
 「サッカーはひとりでする競技」。Jリーグの育成年代を担当するあるコーチの口からこんな言葉を聞いたことがある。小学校から中学、高校、そして大学、あるいはJリーグへと上がるたびにチームを移る。新しいチームでは誰も自分のことなど知らない。なんとかして、認められなければならない...。
 現在の日本のトップクラスの選手たちは、多かれ少なかれこうした環境で育ってきた。厳しい競争を勝ち抜き、自分の力を認めさせ続けてきたから、現在の地位がある。「アピール」は、別に新しいことではないのだろう。

 しかし----。私はここでひっかかる。
 サッカーという競技の目的は、チームとして相手に勝つことだ。もちろんリーグ表彰にも「MVP」や「得点王」があり、「個人記録」も残される。だがそれはすべて枝葉末節にすぎない。個々の選手のすべてのプレーはチームの勝利のためにあるはずだ。これまで新しいチームでポジションを得られたのは、勝つために必要な選手であることを証明できたからに違いない。
 「チームが勝っても自分がいいプレーができなければ満足はできない」という気持ちは当然のことだ。しかし「チームは負けたけど自分は得点したから満足」などと思っている者がいたら、サッカー選手としては信頼に値しない。
 信頼できる選手とは、チームの勝利だけを目指して戦い抜く選手だ。自分自身がどんな状況にあろうと、キックオフの瞬間から終了のホイッスルまで、勝つためにどうしたらいいかに集中し、考え、体を動かす選手だ。

 そうした選手が初めて日本代表候補合宿に呼ばれたとしよう。彼は、チームがどんなサッカーを目指しているのか、監督の言葉や練習から考え、実行しようと努力するだろう。そして練習試合でやたらに1対1の勝負を仕掛けたり、無意味にボールをまたいだりなどしない。試合が始まったら、チームの勝利だけを考え、攻撃と守備を懸命に繰り返す。
 そんな選手があちこちに出始めている。それは、日本において、「サッカーという文化」が広まっただけでなく、深まってもきたことのあかしのように思う。しかしその一方で、残念ながら、「チームゲーム」というサッカーの本質を理解しない選手がまだ数多くいることも事実だ。
 心ある監督であれば、選手に「アピール」など求めない。チームの勝利に貢献できる「本物のサッカー選手」であるかどうかだけを見極めようとするに違いない。
 
(2007年5月23日)

No.647 海藤さんと奈良原さん

 天候はなかなか安定しないものの、木々の緑が日々に濃くなっていくのがわかる。しかし日本の四季で最も心地良い5月に、相次いで悲しい知らせが届いた。私にとって仕事上の「恩人」が続けて亡くなられたのだ。
 5月3日に海藤栄治さん(享年71歳)が帰らぬ人となり、12日には奈良原武士さんが69歳の若さで後を追うように旅立たれた。

 海藤さんは、日本サッカーリーグ時代に本紙で健筆を振るわれ、卓球の報道でも高名なスポーツ記者だった。Jリーグのスタートを目前にした93年4月、当時運動部長だった海藤さんの「鶴のひと声」で本紙夕刊スポーツ面にサッカーのコラムを定期掲載することが決まった。海藤さんは本コラムの「生みの親」である。
 運動部の記者だった財徳健治さんからの推薦を無条件に信頼し、海藤さんは、フリーのライターとしてはほとんど実績もなかった私に連載を任せることを決断された。以後、このコラムは私の仕事の根幹となった。

 奈良原さんは共同通信のスポーツ記者として活躍された方である。60年代、創刊されたばかりの『サッカー・マガジン』(ベースボール・マガジン社)から海外情報の記事の依頼を受け、毎月寄稿するうちにサッカーにのめりこんだ。日本人記者としてワールドカップを初めて取材された数人のうちのおひとりである。1970年のメキシコ大会のことだった。サッカー界では「鈴木武士」の名前で執筆されていた。
 79年から91年にかけては、ボランティアで日本サッカー協会機関誌『サッカー』の編集長を務められた。依頼した原稿がなかなか届かず、発行が遅れることもたびたびだったが、奈良原さんが丹精を込めて編集された全98巻は、当時の日本サッカーの貴重な記録だ。87年には『天皇杯六十五年史』、96年には『日本サッカー協会75年史』(ともに日本サッカー協会発行)という膨大な資料の取りまとめにもご尽力された。

 私がフリーになったばかりの88年、「暇だろうから機関誌に何か書け」と奈良原さんから命じられ、9月開幕の日本リーグの新シーズンのプレビューを書いた。
 しかし取材費など出ない。仕方なくすべて電話取材で済ませた。全12チームの監督の自宅に、夜、電話して話を聞いたのだ。まだそんなことができる時代だった。もちろん私は奈良原さんから言い渡された締め切りを守ったが、機関誌の発行はこの号も大幅に遅れ、「プレビュー」の記事が出たのは開幕して1カ月も経たころだった。なにはともあれ、これが私にとっての「デビュー作」だった。
 「サッカージャーナリスト」と名乗ることにさえ、ためらいやとまどいがあった当時、海藤さんや奈良原さんをはじめとした先輩がたがチャンスを与えてくださったことを忘れることはできない。
 合掌。
 
(2007年5月16日)

No.646 内容と結果

 J2の東京Ⅴが7連敗という地獄のようなトンネルをようやく抜け出した5月6日、私はJ1の「千葉ダービー」、千葉×柏を取材した。
 雨のなか「フクダ電子アリーナ」を埋めた1万1969人のファンは、迫力あふれるサッカーを堪能したに違いない。前節終了時点で3位の柏が持ち前の激しい動きを見せ、下位に低迷している千葉も昨年までの「走るジェフ」が復活して次つぎとチャンスをつくり、その攻防がスタンドを沸かせ続けたからだ。
 結果は1-1。引き分けだった。これで千葉は、ゴールデンウイークの3試合をすべて1-1で引き分けた。1つずつ勝ち点を積み上げてもなかなか順位は上がらない。第10節終了時で2勝4分け4敗、勝ち点10の第14位。選手たちも晴れ晴れとした気持ちにはなれないだろう。

 しかし試合後、千葉のアマル・オシム監督はそう不満そうではなかった。「内容の良い引き分けだった」と、彼は穏やかな表情で語った。
 そこで私は聞いた。
 「内容の良い試合ができているのに勝利につながらず、なかなか順位が上がらない。こういうときに必要なのは何でしょうか」
 「ポジティブに見ることが大事だと思う」

 若き指揮官はそう語った。
 その日の深夜、興味深いテレビ番組を見た。剣道というものを英語で紹介する番組だった。「四戒(しかい=4つのいましめ)」という言葉があることを知った。
 「驚」「懼(かい)」「疑」「惑」のことだ。突然の出来事に動揺する、相手を恐れる、相手が何をするか疑心暗鬼になる、そして迷う。この4つを克服することが、無心に戦うための基本であるという。
 サッカーでもまったく同じだと思った。相手のスピードや変化に驚いたり、相手の名声や試合結果を恐れたり、相手がどんなプレーをしてくるか、ああでもない、こうでもないと考えていたら、満足な試合などできない。
 そして何より、自分たちの能力や、やっているサッカーに迷いが生じたら、どんどん悪くなってしまう。自分たち自身を信じなければ、戦いを続けることさえできない。

 記者会見場に現れる前に、アマル・オシム監督は、千葉の選手たちに向かって、この日のプレーをほめていたに違いない。そして「このプレーを続けていけば、必ず結果がついてくる」と強調したことだろう。
 7連敗のさなかにも、多くの人が東京Ⅴの方向性は間違っていないと語っていた。問題はどこまで自分たちを信じ続けられるかということにあったはずだ。もがくような日々のなかで、ラモス監督も選手たちも、必死に「惑」と戦い、自分たちのサッカーを信じ抜いたに違いない。
 試合内容と結果は必ずしも一致しない。だが悪い結果のなかで自らへの信を失ったら、もはや良い結果は望めない。
 
(2007年5月9日)

No.645 誤審問題、もっと議論と検証を

 「ゴールデンウイーク」。Jリーグにとってはたしかに「黄金の1週間」だ。観戦に最高の季節。1年を通じて、家族連れの観客が最も多い時期だからだ。ことしも、Jリーグは、4月28、29日の週末と、5月3日、6日を使い、この期間に3節、J1とJ2を合わせて計44もの試合を全国で展開する。
 しかしことしのゴールデンウイークの初日、4月28日は、「事件」続きとなってしまった。柏×名古屋が試合前の雷雨のために49分間もキックオフが遅れるという珍事があった。しかしそれは「始まり」にすぎなかったようだ。この日のJ1では、試合結果を左右する大きな「誤審」が3つも起こってしまったのだ。

 横浜FC×清水では、自陣ゴール近くでボールをコントロールしてクリアしようとした清水DF市川が横浜FCのDF和田に両手で押され、そのままボールがゴールの中にこぼれたのが得点と認められてしまった。
 神戸×F東京では、右CKを神戸DF河本がヘディングシュート、ボールはGKの体の下にはいり、完全にゴールラインを割っていたが、主審も副審もこれを確認できず、ゴールが認められなかった。
 さらに新潟×横浜FM戦では、新潟DF坂本がペナルティーエリアの外でハンドの反則をしたのを、「エリア内」としてPKの判定が下された。この試合はホームの新潟が0−6という大敗を喫したが、横浜FMのMF山瀬功が決めたPKは前半終了近くの2点目。大きな意味をもっていた。

 こうしたなかで、「誤審だ」という報道はあっても、きちんとした議論や検証が行われていないのが残念だ。
 3人(第4審判を入れても4人)の目ですべての判断を下さなければならないサッカー。当然、すべてを見ることができるわけではない。死角もあるし、見るのが難しいタイミングもある。審判たちは、そうした「穴」をなくすために、トレーニングし、技術の向上に努めている。
 審判間のコミュニケーション向上で防げるミスもある。ワールドカップで使われた審判間のワイヤレス通話装置はJリーグではまだ使われていないが、それでもジェスチャーや旗の振り方など、意思を伝え合うための工夫がなされているという。
 こうした努力があってなお起こる「誤審」。それを「審判のレベルが低い」などというひと言で済ませていいのか。

 ひとつひとつの事例で、審判のポジショニング、その瞬間、何を予測し、何に注意を払っていたのかなど、詳細に検討し、なぜミスが起こったのかを明らかにする必要がある。そしてメディアには、それをきちんと伝え、理解を広める使命がある。感情的になっても、ただ審判たちを非難するだけでも、何も生まれない。ミスを減らすために、あらゆる方面の努力が必要だ。
 「誤審」は、チームやファンだけでなく、審判員にとっても、不幸なものだからだ。
 
(2007年5月2日)

サッカーの話をしようについて

1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。

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