サッカーの話をしよう

No.369 サッカー・ファミリーで世界からの仲間を迎えよう

 先週、6月19、20の両日、韓国のソウルで「日韓サッカージャーナリストセミナー」が開催され、4人の仲間とともに参加してきた。昨年11月に新潟で初めての「日韓サッカージャーナリスト会議」を開催したのだが、韓国側の参加者の「ソウルでもぜひ開催したい」という熱意で実現したものだ。
 ワールドカップを成功に導くために何が必要か、活発な意見交換が行われ、非常に有意義なセミナーとなった。しかしそれ以上に、日本から参加した私たちは、韓国国内のワールドカップに対する熱気に圧倒された。
 今回のセミナーの主催者となったのは、「2002年ワールドカップサッカー大会文化市民運動中央協議会」という組織だった。「この大会を契機に、21世紀のより良い韓国社会をつくる」ことを目ざした、政府肝いりの組織である。

 この組織は、「親切、秩序、清潔」をテーマに、さまざまな活動をしている。エスカレーターで、歩く人のために片側を空けるなどの細かなことも含め、世界に対して恥ずかしくない国にしてワールドカップを迎えようという運動だ。 こうした意識は一般の人びとにも浸透し、積極的にワールドカップを盛り上げようという機運が強く感じられた。
 日本では、韓国側の準備が、とにかく「日本に負けない」ことばかり意識しているかのように伝える報道が多い。たしかにそうした面もあるかもしれない。しかしそれ以上に、「より良きホスト」としてワールドカップを迎えたいという、純粋な情熱を感じた。
 日本ではどうだろうか。ワールドカップの準備は、組織委員会(JAWOC)と開催自治体まかせになり、国としてどのような「ホスト」になるのかという意識はほとんど感じられない。それは当然のことのようにも思える。東京オリンピックを迎えようとしていた時代とは違う。国を挙げて何かに取り組むという時代ではないのだろう。

 それでは、私たちは、JAWOCや開催自治体が準備するワールドカップをただ楽しめればいいのか。私はそうは思わない。それでは、私たちはワールドカップの「ホスト国」としての楽しみの半分しか味わうことができず、世界中からやってくるサッカーファンも、スタジアムでしかワールドカップを楽しむことができないことになるからだ。
 日本には、巨大な「サッカー・ファミリー」があるではないか。日本サッカー協会には、2万を超すチームと、80万人もの登録選手がいる。登録審判員も10万人を超す。OB、市町村のサッカー協会、ファンを加えれば、数百万人のサッカーを愛する人びとがいるはずだ。
 ワールドカップ開幕まで、残り340日を切ったいま、世界の「サッカー・ファミリー」を迎えるために何かできる人がいるとすれば、それは日本の「サッカー・ファミリー」をおいて他にはない。

 まずは、日本サッカー協会が動かなければならない。「ワールドカップ・ホスピタリティー・プロジェクト」をつくり、世界中からやってくる「サッカー・ファミリー」をどんなふうに迎えるのか検討する。そしてそれを都道府県サッカー協会の単位で実行に移していく。
 お金をかける必要はない。いるのは情熱と工夫だ。韓国の「文化市民運動協議会」は、8月に開幕300日前を記念して、ソウルから済州島の西帰浦まで、韓国内の全10会場を回る2002キロのサイクルツアーを決行する。世界中から参加者を募集するが、費用は参加者負担だという。
 必要なのは、「ホスト」として、世界中からやってくる仲間を歓迎し、心から楽しんでもらおうという姿勢だけだ。

(2001年6月27日)

No.368 東京ヴェルディ 試合前の仲間たち

 長い廊下の向こうから長身の選手が歩いてくる。逆光でシルエットになった映像からは、誰であるか見えない。近くにきて、胸についた番号から、ようやくDF中沢選手であることがわかる。
 やがて彼は、ロビーのようなところに出る。そこにはすでに対戦相手の選手たちが出てきている。中沢選手は、ごく自然に彼らに近づき、握手し、会話をかわしている。
 ことしからホームタウンを東京に移し、「東京ヴェルディ1969」という名称になったヴェルディ。その試合で私がとても気に入っているのが、試合前にスタンドの大型映像装置に映し出される選手たちの入場直前の様子だ。ヴェルディのホームゲームでは、もう何年も前からこの映像がファンに提供されている。
 この日の対戦相手はセレッソ大阪。中沢選手がセレッソの森島選手のところにいくと、20センチも背の低い森島選手は背伸びするように彼の頭を見て、中沢選手をからかうようなジェスチャーを見せる。負傷明けの中沢選手は、トレードマークの長髪を切り、見違えるようにスマートになっていたからだ。
 やがてヴェルディの選手たちが次つぎとロビーに姿を見せ、それぞれにセレッソの選手たちと握手をかわす。そこにレフェリーが出てきて、選手たちのシューズとすね当てをチェックして回る。機械的に見るのではない。言葉をかわし、握手をしながらチェックをしているのだ。
 カメラは後ずさりして出口の方向に出ていく。ヴェルディを先導するキャプテンの北沢選手が映し出される。
 北沢選手が左向きに腰をかがめると、そこには入場のときに選手と手をつないで歩く少年がいる。少年に一言二言声をかける。「よし、いこうぜ」とでも言ったのだろうか、少年が小さくうなずく。そして正面に向き直った北沢選手の顔は、一瞬にして「戦士」の表情に変わっている。気合と闘志が、大型映像からあふれるように伝わってくる。
 時間にすればわずか2、3分間だろう。この映像が流れている間、アナウンスはヴェルディのクラブスポンサーを紹介している。いわば、その「背景」としてこの映像が使われているのだ。
 しかし私はいつも、この映像が楽しみで仕方がない。そこに選手たちの本当の姿が映し出されているからだ。
 いったんピッチに出て試合が始まれば、互いに勝利のために全力を尽くす。相手のゴールを攻め合うサッカーという競技では、それは技の見せ合いではなく、激しい「バトル」となる。選手たちは、まるで「かたき同士」のように相手のプレーを妨害し、また相手の弱点をつく。
 しかし、実際には、彼らは「仲間」でもある。プロとして互いに尊敬し、試合の外では所属チームを離れて友人としてつき合う関係なのだ。
 レフェリーも同じだ。試合中には、選手たちはときに激しく抗議もする。しかし試合前には、こうして握手をかわし、仲間として「いい試合をしましょう」と声を掛け合うことができる存在なのだ。しかしそうした「真の姿」は、めったにファンの前に示されることがない。
 ヴェルディの試合前の映像は、短時間ながら、そうした実像を百万言に勝る力強さで印象づける。このシーンを見るたびに、私は、サッカーという競技、サッカー選手たち、そしてレフェリーたちに、強い愛情を感じさせられる。そして心のなかで、「みんながんばれ!」と叫んでいるのだ。
 ヴェルディの試合前の映像は、フェアプレーの精神のすばらしいメッセージだ。ヴェルディというクラブが、それをどこまで意識しているか、私は知らないが...。

(2001年6月20日)

No.367 日本代表を変えた「中山イズム」

 決勝戦ではフランスとの大きな力の差を感じずにいられなかったが、コンフェデレーションズカップ準優勝は予想外の収穫だった。
 GK川口能活のセーブは神がかりだった。MF中田英寿はすばらしいリーダーシップを見せた。DFをまとめた森岡隆三、松田直樹、左サイドで新境地を見せた小野伸二、新しい驚きのMF戸田和幸とFW鈴木隆行、そして改めて「日本の宝」であることを確認させたMF森島寛晃、みんなすばらしかった。
 しかし日本代表チームがこれまでより一段上のレベルに達したとしたら、それはひとりの選手がもたらしたものではないか。私はそう強く感じた。33歳、最年長のストライカー中山雅史である。

 今大会、日本が最も大きく変わったのは、90分間にわたって全員が体を張った戦いを見せる姿勢だった。相手へのすばやいアプローチ、体を寄せ、相手に自由なプレーをさせまいとする激しさ。そして、味方のがんばりでコースを限定されたパスを読んでの積極果敢なインターセプト。それが強豪を相手に五試合でわずか1失点という守備の「ベース」だった。
 そして、そうした取り組みを自らの「姿勢」で示し、日本チーム全体に広めたのが、中山だった。
 初登場は初戦、カナダ戦の前半38分。その後半、中山は中田英寿の強いパスを追い、左タッチライン際でかろうじて追いついた。中田のパスが強すぎたため、カナダのDFは「タッチに出る」と判断、一瞬気を抜いた。中山はライン上でボールを止め、すかさず方向を変えて相手を置き去りにした。そしてそのセンタリングから、FW西沢明訓の2点目が決まった。

 この瞬間、日本代表はひとつの重要な「脱皮」を遂げた。中山の姿勢が周囲の選手にも伝わり、昨年までの「華麗なパスワーク」に「体を張って激しく戦う姿勢」が加わって、より実戦的な戦闘力をもったチームとなったのだ。
 続くカメルーン戦では、「中山さんのようにプレーする」と語ってピッチに出ていったFW鈴木が見事な2ゴールを決めた。この試合でも、続くブラジル戦でも、中山は後半のなかばに出場すると、チームと、そしてスタジアムのムードをがらりと変えた。
 「中山を入れても、戦術が変わるわけではない。だが、メンタル面でチームに与える影響はすごく大きい。彼がはいると、チーム全体にエネルギーが注ぎ込まれたように思えるほどだ」。日本代表を率いるフィリップ・トルシエ監督も、「中山はこのチームのシンボル」と絶賛する。

 ブラジル戦では、MF伊東輝悦の変貌ぶりに驚かされた。高い才能をもちながら、伊東はプレーがおとなしく、強豪を相手にしたときには物足りないプレーを繰り返してきた。しかしこのブラジル戦では、体を張って戦い、闘志むき出しの攻撃を見せた。
 チーム全体が「中山イズム」で染められたことが、準優勝の最大の要因だった。
 「チームの勝利のために、できることをするだけ」と謙虚に語る中山。彼はFWである。「守備で貢献」などと言われても、本当はうれしくないかもしれない。
 しかし彼のプレーは、FWかDFか、守備か攻撃かなどという区別を超え、サッカーというゲームそのものへの取り組み方の原点を指し示しているように思えた。
 それは、彼がジュビロ磐田で、そして日本代表でも10年も前から発し続けてきたメッセージである。そして代表では、いまようやく周囲に伝わり、チームを変質させる力となった。その意義の重要さは、来年のワールドカップでより鮮明になるはずだ。

(2001年6月13日)

No.366 大邱への旅

 韓国の大邱(テグ)に行ってきた。先週水曜日(5月30日)、コンフェデレーションズカップ開幕戦のフランス対韓国戦の取材だ。
 この大会は来年のワールドカップの「シミュレーション」大会。ならば取材側としても、日本と韓国を往復しながら試合を見るシミュレーションをしておかなければならないと思ったのだ。
 通常なら、遅くとも試合の前日には現地にはいり、余裕をもって取材できるようにする。しかし連日試合のあるワールドカップでは、「移動日」を設けている余裕はない。当日移動し、試合を見て、翌日、またその日の試合のために移動するという形になる。
 大邱は韓国の南部にある。日本からの直行便はない。ソウル、あるいは釜山(プサン)にはいり、そこからの移動となる。国内移動は特急列車の多い鉄道が便利そうなので、移動距離の短い釜山にはいることにする。

 ところが水曜日には成田−釜山の便がない。最終的に、羽田から関西国際空港に行き、関空から出ている釜山便を使うことにした。羽田発午前6時30分、関空発9時45分、11時すぎに釜山の金海国際空港に到着した。
 すぐにインフォメーションで大邱への移動の方法を聞き、タクシーで空港から15分の亀浦(クポ)駅へ。30分ほど待ち時間があったが、12時27分発の特急「ムグンファ」号で大邱へ向かった。到着は午後1時38分。午後2時にはホテルにチェックインすることができた。試合は午後5時キックオフなので、時間は十分あった。
 亀浦駅の出札係が英語のできる人だったので、チケットを買うのは難しくなかった。チケットを見ると、ハングルのほかにローマ字でも出発駅と到着駅名が印刷されている。買ってから「本当にこれでいいのかな」と心配になったときだっただけに、安心した。JRのみどりの窓口で買うチケットには日本語表記しかないことを思い出した。日本語の読めない人は、私のような心配を消すことはできない。

 列車の旅は快適だった。韓国南部の田園地帯と山の合間を走る路線からは、田植えを終えたばかりの水田がキラキラと光るのが見えた。大邱までの途中停車駅はわずかふたつ。韓国語のほかに、英語、日本語、そして中国語のアナウンスがあったのに驚いた。
 何よりうれしかったのは、運賃が非常に安いことだった。亀浦から大邱まで4200ウォン。日本円でわずか420円だ。東京で地下鉄を乗り継いだら、すぐこれくらいの運賃になってしまう。
 翌朝、また釜山国際空港に戻り、こんどは11時の便で成田に向かう。到着が15分ほど早くなったため、午後1時13分発の成田エキスプレスに乗ることができた。東京駅で上越新幹線に乗り換え、4時46分に新潟到着。駅前のホテルに荷物を放り込み、5時半には「ビッグスワン」にはいることができた。

 大邱では、タクシーの運転手が、韓国語、英語、日本語の簡単な会話が書かれたパンフレットを片手に、一生懸命にコミュニケーションを取ろうとしていた。町にはハングルの看板しかなく、どこへ行っても「英語はだめ」と言われて困ったこともあったが、大邱の人びとは例外なく礼儀正しく、そして親切だった。大邱駅のタクシー乗り場で割り込みをされたほかは、不快な思いはいちどもなかった。
 路線も座席数も十分とはいえないが、日本と韓国の間にはいろいろなルートがある。ワールドカップを機会に多くの日本人が韓国各地を訪れ、日本と日本人にとって「兄弟」のような国と、その心優しい人びとを、もっと身近に感じてほしいと思うのだ。

(2001年6月6日)

サッカーの話をしようについて

1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。

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