
アジアのサッカーが、かつてない危機に襲われている。今月に予定されていたアテネ・オリンピックの1次予選12カードのうち3つが延期となり、さらには、4月17日から30日までタイのバンコクで開催されることになっていた女子アジア選手権も延期された。
オリンピック予選のうちイラク対ベトナムは、もちろん、戦争勃発による延期だ。アジア・サッカー連盟(AFC)は、バグダッドのイラク・サッカー協会との連絡がつかず、見通しはまったく立たないと発表している。
残りのオリンピック予選2カードと女子アジア選手権の延期は、新型肺炎(SARS)の流行が原因だ。香港対スリランカとチャイニーズタイペイ(台湾)対シンガポール。このうちスリランカを除く3カ国が、SARSの深刻な流行地とされている。
サッカーが脅かされているのは、アジアの大会だけではない。国際サッカー連盟(FIFA)は、アラビア半島のUAE(アラブ首長国連邦)で3月25日に開幕する予定だったワールドユース選手権の延期を、イラク戦争勃発の2週間も前に決めた。
ヨーロッパでは、イングランドを迎えるリヒテンシュタインのスタジアムの対テロ警備設備に問題があるとして延期が検討された。この試合には最終的にゴーサインが出て無事開催されたが、セルビア・モンテネグロ(旧ユーゴスラビア)対ウェールズのヨーロッパ選手権予選試合は、会場に予定されていたベオグラード市内の政情不安が原因で8月20日に延期された。
戦争、政情不安、正体不明の新感染症...。こうなると、普通にサッカーができる状態がいかにありがたいか、つくづく考えさせられる。
「ある人びとは、サッカーは生か死かの問題だと言う。彼らは間違っている----。サッカーは、それよりずっと重要だ」
そう語ったのはビル・シャンクリー。イングランドの弱小クラブ・リバプールを、ヨーロッパ・チャンピオンにまで育て上げた伝説の名監督である。サッカーに生き、人生をサッカーに捧げつくした人物の魂がこもった言葉だ。
しかしもちろん、サッカーは生命を賭して行うようなものではない。実際に生命の危険があるような状況で、サッカーの試合など行うべきではない。オリンピック予選やワールドユース選手権がいくら重要でも、生命の重さの前では羽毛のようなものだ。
先月、日本サッカー協会はアメリカ遠征を直前で中止し、代わりに国内でウルグアイとの親善試合を開催した。
当初ウルグアイ戦が予定されていた3月26日のサンディエゴでは、日本戦とのダブルヘッダーの予定だったメキシコ−パラグアイ戦が単独で予定どおり行われ、アメリカは急きょベネズエラを招待して29日にシアトルで親善試合を行った。
日本が遠征中止を決めたのは、イラク攻撃が始まって3日目の3月22日のことだった。その後、武力行使に対抗するテロなどどこでも起こっておらず、大リーグ野球をはじめとしたアメリカ国内のスポーツも予定どおり開催されている。しかしあの時点で、アメリカ遠征が安全だと言い切れる人などいただろうか。
1913年生まれのシャンクリーは、第二次世界大戦で選手生活の最も充実すべき時期を失った。戦後すぐ引退して監督業に転身したが、「生き死によりずっと重要だ」というほどサッカーに打ち込んだのは、戦争による自己の選手人生の喪失感とともに、サッカーだけに集中できる平和な時代のありがたさを身にしみて感じていたからだろう。
一日も早く戦火が止み、一刻も早く不気味な感染症が撲滅されることを祈りたい。
(2003年4月9日)
ヨーロッパ・サッカー連盟(UEFA)が発行しているコーチたちのための月報に、興味深い話が載っていた。
2月に17歳でイングランド代表にデビュー、最年少記録を更新したウェイン・ルーニーが、大スターになったいまも、幼なじみの少年たちと「ストリート・サッカー」を楽しんでいるというのだ。
「ストリート・サッカー」。「裏通りのサッカー」とでも訳したらいいだろうか。数十年前には、世界のいたるところで見られた遊びだ。正規の「サッカー場」でのプレーではない。小さな空き地や車通りの少ない道に空き缶やシャツなどで一対のゴールをつくり、そこにいる人数を2組に分けてゲームをするのだ。
イングランドでは、広々とした芝生だけの広場が町のあちこちにある。ルーニーと友人たちの「ストリート」とは、こうした場所の一部を使ってのゲームという意味だろう。
がみがみと怒鳴るコーチもいない。時間制限もない。ひたすらゴールを攻め、ゴールを守る。疲れたら休む。そして日が暮れるまで続ける----。そんななかから、歴史的な名手たちが生み出された。
「あなたのテクニックはどこで生まれたのか」と訪ねられたペレは、ぼろ布を丸めてボール代わりにし、はだしでストリート・サッカーに興じた少年時代の話を出した。
何の制約もないから、自由な発想が生まれる。自分独自の間合いやタイミングを覚え、個性的なテクニックが身につく。そして、最も重要なのは、こうした自由で自主的な経験のなかから、自分自身の価値を見出し、サッカーというスポーツに対する愛情が生まれ、育まれることだ。
ところが、そうした「ストリート・サッカー」は、社会が豊かになるにつれ、世界の各地から消えていった。サッカーのできる裏通りも、十分な広さをもった空き地もなくなった。いまでは、ブラジルでさえ、そうした光景を見る機会は大幅に減った。
代わりにできたのが、サッカー・スクールやクラブの少年育成プログラムだ。整った施設、資格をもったコーチの下で幼少期からきちんとした指導が受けられるから、しっかりとした選手が育つ。
しかしそのなかで、ストリート・サッカーの必要性が叫ばれている。少年時代に自由な発想でプレーしたことのない選手は、個性に乏しく、結果として、躍動するような生命力をサッカーが失いつつあるからだ。
「どうしたら、ストリート・サッカーに近い形で子供たちを遊ばせることができるか」----それは、今日のヨーロッパや南米のコーチたちがかかえる重大なテーマでもある。
その状況は、日本でも変わりはない。いやむしろ、ヨーロッパや南米のような「ストリート・サッカーの時代」を経ていないだけ、問題は深刻といえる。
サッカー・スクールや少年団へ、少年たちは何か「習い事」でもするかのようにやってくる。コーチから教えられ、与えられることを、ただ待っている。そのスタイルは、中学、高校はもちろん、プロになっても続く。
猛烈な勢いで世界に追いつくためのプログラムを進めてきた日本のサッカー。しかしここから先は、個々の選手の自発的なアイデアや、意欲的な自己表現にかかっている。
少年期に、もっともっと「ストリート・サッカー」が必要だ。週に数回練習できる環境であれば、その1回か2回を、コーチは黙って見ているだけで、すべてを少年たちの自主性に任せてゲームをさせてもいいのではないか。
少年たちは、自分たちのペースで学び、育っていく。「正解」を急いではいけない。忍耐強く、忍耐強く。それがコーチたちへの唯一のアドバイスだ。
(2003年4月2日)
仙台に行ってきた。
Jリーグ第1節のベガルタ仙台対大分トリニータ。試合のほうは一級品とはいえなかったが、春の日差しにあふれ、楽しい日曜日だった。
仙台駅から15分、市営地下鉄南北線が地上に出てしばらく走ると、右手の車窓いっぱいに立派なスタジアムが広がる。間もなく到着する終点の泉中央駅の駅前広場に出て右を向くと、正面にスタジアムの入り口が見える。歩いてわずか5分。これが、いまJリーグで最も「美しい」仙台スタジアムだ。
キックオフまでまだ2時間もあるのに、入場門には長蛇の列ができていた。圧倒的に家族連れが多い。そして一歩スタンドにはいると、そこは黄金(こがね)色に染まっていた。北側のゴール裏からバックスタンドにかけての自由席が、すでにベガルタのユニホームを着たサポーターで埋め尽くされているのだ。
ベガルタ仙台は、東北電力サッカー部を前身とし、94年に運営法人を設立してプロになった新しいクラブだ。当初は「ブランメル仙台」と名乗っていたが、99年、新しく設立されたJリーグ2部(J2)参加に当たって「ベガルタ」と改称、その年の7月に就任した清水秀彦監督の指導で着実に力をつけ、昨年からJ1で戦っている。
人気沸騰は2001年、J1への昇格レースで激しく競り合ったころだった。チームのがんばりが市民の共感を呼び、応援熱に火がついた。その一方で、仙台スタジアムの快適さ、「また行きたい」とファンをひき付ける力も、忘れることはできない。
1997年完成、全観客席が屋根で覆われたサッカー専用スタジアム。収容人員は2万とやや「小ぶり」だが、サッカーの見やすさという点では図抜けている。観客席からピッチまでの距離が近く、プレーヤーとの一体感が感じられるスタジアムだ。
しかし仙台スタジアムが「美しい」のは、第一級の施設のおかげだけではない。そこを埋める人びとの熱さと心の温かさが、ベガルタの試合をこのうえなく「美しい時間」にしているのだ。
Jリーグ開幕日とあって、試合前には楽しいアトラクションがあった。しかしスタンドを最も沸かせたのは、ピッチ上での藤井黎・仙台市長のあいさつだった。
J1で2シーズン目の開幕を迎えるベガルタに「日本一のサポーターとともに声援を送りたい」と語った後、藤井市長は北側ゴール裏に陣取った100人余りの大分サポーターに向かって話し始めた。
「大分からいらしたトリニータの選手、そしてサポーターの皆さん、J1昇格おめでとうございます」
スタンド全体から、盛大な拍手が沸き起こる。
「しかし、きょうは」と、市長は続ける。
「ベガルタが相手です。勝つのは、難しいでしょう」
スタンドは笑顔と大歓声に包まれる。それが収まったころ、大分のサポーターたちも立ち上がって「市長! 市長!」というコールを送る。
なんと温かく、美しい光景だろう!
試合が始まると、ベガルタのサポーターたちは、絶え間なく歌い、ときにはレフェリーの判定に口笛を吹いた。しかし90分間にわたって、そこには、荒廃した攻撃性などかけらもなかった。懸命に戦うチームと一体化したいという「愛情」だけがあった。
試合後、地元記者からスタジアムの雰囲気について質問が出ると、大分の小林監督は考える間もなくこう話した。
「さすがに強烈だった。しかしアウェーにとっても、やっていて幸せだと思った」
日陰の記者席は寒さがこたえたが、試合結果に関係なく、仙台スタジアムの一日は最後まで美しかった。
(2003年3月26日)
いよいよ11シーズン目のJリーグ1部(J1)が開幕する。ことしは2月にA3マツダチャンピオンズカップ、3月にはナビスコ杯の予選リーグが行われ、チームはとっくに実戦に突入しているのだが、やはり「リーグ開幕」は格別だ。
川淵三郎前チェアマンの強力なリーダーシップでプロとして自立への道を歩んできた最初の10年。新しい10年は、鈴木昌チェアマンの下でのスタートだ。Jリーグ自体にも、「延長戦の廃止」という変化がある。
Jリーグは、スタートの93年から延長戦を行ってきた。勝負がつくまで戦ってファンに納得してもらおうというサービス精神だった。しかし昨年のワールドカップで引き分けの意味も認識されるようになったことで、ことしから90分間が終了して同点の場合には延長戦を行わず、「引き分け」となった。
どんなスコアでも90間で終了してしまうのだから、終盤10分間のプレーが激しさを増すのは必至だ。上位チームを相手に、引き分けを狙うチームもあるかもしれない。両チームがどんな意図をもって終盤のプレーをしているのかを考えながら観戦すれば、サッカーの奥深さも見えてくる。
しかし新シーズンを迎えるにあたって最もわくわくさせるのは、やはり各クラブの「変化」だ。
大分トリニータは初めてJ1昇格だ。4年間在籍したJ2で2回も3位となり、わずかなところで涙をのんできた。ようやく昨年、優勝を飾って昇格を果たした。
ビッグスターはいない。しかしキャプテンでボランチを務める浮氣哲郎を中心にチームワークは抜群。浮氣と同じように数チームを転々としながらJ2で確固たる地位を築いた攻撃的MF寺川能人を新潟から補強し、チームプレーをレベルアップさせた。
日本代表を98年ワールドカップ出場に導いた岡田武史監督を迎えた横浜F・マリノスの変化も楽しみだ。
昨年は年間成績で2位だったが、優勝したジュビロ磐田には遠く及ばなかった。昨年の悩みだった得点力不足の解消を狙って、広島からFW久保竜彦、そして東京ヴェルディでプレーしていたFWマルキーニョスの2人を獲得、持ち前の堅固な守備と合わせて優勝を狙う戦力は整った。
Jリーグ時代になってから地盤沈下ぎみだった関西地区では、セレッソ大阪がJ2から復帰し、4クラブがそろった。京都サンガが昨年度の天皇杯で初優勝、ことしはJリーグのタイトル獲得への一番乗り争いが展開される。
そのなかで私が最も期待しているのがガンバ大阪だ。昨年、ジュビロ磐田に次ぐ年間総得点59を記録した高い攻撃力が、さらに強化されたからだ。右アウトサイドMFチキアルセの獲得だ。
パラグアイ代表として昨年のワールドカップでも1得点を記録し、ブラジルのクラブで「南米最高の右サイドバック」と絶賛されたベテラン。左アウトサイドの新井場徹の突破とクロスが主体だったG大阪の攻撃が、左右バランスの取れたものとなり、長身FWマグロンと、日本でもトップクラスのシュート力を誇るFW吉原宏太がフルに生かされるだろう。
「変化」は、どのクラブにもある。指揮官が代わり、選手が代わるから、新しい可能性が生まれ、活気あふれるサッカーが展開される。それこそがサッカーの生命力であり、「シーズン開幕」の魅力だ。
「新しいシーズンは、新しい恋の始まりだ」と語った人がいる。いまは魅力しか見えない相手も、やがて欠点だらけになるかもしれない。しかし、知れば知るほど魅力あふれた相手になる可能性も十分ある。心をときめかせて、スタジアムに向かおう。
(2003年3月19日)
きのうの本紙「イブニングスポーツ」で藤島大さんも取り上げたが、Jリーグ・ナビスコ杯、京都対大分での出来事が話題になっている。
負傷者の手当てのために相手に出してもらったボールのスローインから、大分のロドリゴが得点してしまった。 当然、京都の選手たちは激怒する。しかし手当てのために出したボールを相手に返すのは慣習にすぎない。ルール違反ではないから、レフェリーは得点を認めるしかない。
これに対して、大分の小林伸二監督は「プレーをやめろ」と指示、棒立ちの大分選手たちの間をぬって、京都がゆっくりとシュートを決めた。
勝利を目指して全力でプレーするのがフェプレーの基本であるはずなのに、相手にゴールをプレゼントするなど言語道断という非難がある。そしてこの日が「デビュー戦」だった新サッカーくじ「トトゴール」への影響を問題視する見方もある。
最初に断っておきたいのは、「トトゴール」と関連づけるのは当たらないということだ。まずJリーグの試合があり、トトはその結果を使っているにすぎないからだ。
もし問題があるとすれば、それはトトの側にある。あるいは、日本のサッカー環境が、「トトゴール」のようなくじに適するほど成熟していないということだろう。
今回の出来事で重要なのは、「これが原則ではない」という点だ。
4年前に、イングランドで大分とまったく同じような得点があった。それが決勝点となって2−1の勝利をつかんだアーセナルのベンゲル監督は、試合終了後、「再試合」を提案した。「あのゴールはスポーツ的な観点で正しくなかった」と、彼は理由を語った。
小林監督は、試合終了を待たず、ただちに過ちを取り戻す方向に動いた。相手に1点を与えて、再び同点にすることだった。
ともに1−1の場面の出来事だった。仮に4−0の一方的な状況だったら、再試合の提案も「プレゼント・ゴール」もなく、得点にからんだ選手を交代させ、試合後に相手チームに謝罪する程度で終わっていただろう。
アーセナルの場合、残り時間は15分足らずだった。しかし京都−大分戦はまだ30分近くあった。不名誉な得点を即座に修正することで、残りの時間を互いに力いっぱい戦うことができるという判断が、小林監督にはあっただろう。
会場は京都の西京極競技場。もし大分があのまま試合を続行させていたらどうなっただろう。無事試合を終えることができても、非難が集中し、J1に昇格したばかりの大分は大きな痛手を被っただろう。いや何よりも、地元大分で応援してくれているたくさんの人びとを傷つける結果にもつながったに違いない。
「プレゼント・ゴール」などあっていいはずがない。しかしその「原則」を破ってでも守りたいものが、小林監督にはあったはずだ。それは、自分自身がサッカーに取り組む姿勢であり、同時に、この状況下では自分以外に守る者のいない、クラブとホームタウンと、そしてサッカー自体の名誉だった。
今回の出来事は、今後同じようなことが起こったときに「プレゼント・ゴール」をするのが適切という話ではない。大事なのは、明確な「サッカー哲学」をもつこと、そしてそれに従った判断と行動をできるようにすることだ。
この事件が起こった時点で、大分は退場で1人少ない状況だった。「勝ち越しゴール」は、その苦しい状況で「虎の子」だったはずだ。しかし小林監督は即座に自らの哲学に基づいた行動を起こした。
このような指導者が日本にいることを、私は誇りに思う。私は、小林監督の判断と行動を支持する。
(2003年3月12日)