サッカーの話をしよう

No.579 ファンに親切なユニホームの区別を

 土曜日夜のスポーツニュースで、ジェフ千葉とヴィッセル神戸の試合を見て驚いた。チームの区別がつかなかったのだ。
 ホームの千葉は、黄色いシャツ、紺のパンツとストッキングという正規のセットを着用していた。Jリーグではホームチームに正規のユニホームを着る権利がある。ビジターの神戸は、白いシャツ、黒のパンツ、白のストッキングという副のセットだった。
 ところが、選手のアップではなく、ピッチの広い部分が映されたプレーの場面になると、質の悪いテレビでは黄色と白があいまいになり、両チームの区別がつかなかった。
 落成したばかりの「フクダ電子アリーナ」(千葉市)での2試合目。このサッカー専用スタジアムはスタンドからピッチまでの距離が近く、しかも照明が明るいと評判だが、スタンドのファンはどう感じたのだろか。

 ワールドカップではユニホームの区別は非常に厳格だ。色だけでなく、色の濃さも分ける。たとえば本来のユニホームが、片方のチームが赤、もう一方のチームが青だったとしても、どちらかのユニホームを替えさせ、白など色の濃さも明確に違うものにする。2002年ワールドカップでベルギー(赤)と対戦した日本(本来は青)が、白(ベージュ)の第2ユニホームで試合をしたのはそのためだ。
 世界中の人びとがテレビで観戦しているワールドカップ。当然、白黒テレビで見ているファンもまだたくさんいる。その人たちのためにこうした措置が取られているのだ。
 しかし国によっては、こうしたことにひどく鷹揚なところもある。ずいぶん前に、アルゼンチン国内リーグのリバープレート対エスツディアンテスで、ともに正規のユニホームで対戦しているのに驚いたことがある。リバープレートは白シャツの前面に赤いタスキのプリント、黒パンツ、白ストッキング。一方のエスツディアンテスは、白と赤の縦じまシャツ、黒パンツ、白ストッキングだった。案の定、ミスパスの多い試合だった。

 Jリーグでは、ガンバ大阪は正規のセットが青と黒の縦じま、黒パンツ、黒ストッキングだが、数年前から全身青と全身白の2種類の副のセットを用意して使い分けている。こうした準備ができていると、どんな試合でも、色、色の濃さの区別が明確にできる。
 しかし年間数十億円の予算規模をもつJ1のクラブでさえ、こうした準備ができているのは、現在ではG大阪ひとつだけだ。費用だけでなく、長そで、半そで、着替え用など、大量のユニホームの管理が難しいのだという。
 さて、千葉×神戸戦のユニホームは誰が決めたのか。
 Jリーグではシーズン前に各クラブがGKを含めた正副のユニホームを提出し、日本サッカー協会の審判委員会がそれぞれのビジターチームが着用すべきセットを決定して一覧表をつくる。各チームはその表に従って遠征の準備をするという。

 試合運営に関する委員会ではなく、「審判委員会」が出てきて奇妙に思うかもしれないが、両チームのユニホーム決定の最終権限は主審にゆだねられているためだ。激しい動きや混戦のなかでも、GKを含めた両チームの選手が明確に区別できなければ、正確な判定ができないからだ。
 しかしユニホームの区別は審判員たちだけのためのものではない。もちろん選手たちのためだけでもない。スタンドの観客のためのものであり、また、Jリーグのレベルになれば、テレビ観戦のファンのためのものでもある。
 千葉×神戸戦のユニホーム決定には、こうした配慮が足りなかったのではないか。ピッチ上の選手や審判の目で明確に区別がつくだけでは足りない。ユニホームの決定にも広い視野が必要だ。
 
(2005年10月26日)

No.578 FIFAのゴールプログラム

 オリンピック・スタジアムの背後の丘につけられた舗道を息を切らせながら10分ほど登っていくと、目の前に美しいグラウンドが広がった。緑に輝く芝生のピッチには、小規模ながら、両タッチライン沿いに3段の観客席もある。黄色い座席の数は1000あまりだろうか。屋根もついた立派な観客席だ。
 ウクライナの首都キエフ。先週水曜日にウクライナ代表と対戦した日本代表が前々日の練習場として使ったこのグラウンドは、ウクライナ・サッカー協会所有のナショナル・トレーニングセンターだ。片方のゴール裏には、道をはさんで真新しいクラブハウスが建てられ、グラウンドとは地下トンネルで結ばれている。
 ことし完成したばかりのこの施設。国際サッカー連盟(FIFA)の「GOALプログラム」によるものだと聞いた。

 ことし、ワールドカップ・アジア最終予選でイラン、バーレーン、タイに行ったが、そのすべてに「GOAL」の成果があった。
 イランのテヘランで訪れたサッカー協会のビル、バーレーンのマナマ郊外にあるサッカー協会のビルと、そこに隣接する何面ものグラウンド、そしてタイのバンコクではナショナル・トレーニングセンターの人工芝のピッチ。すべて「GOAL」で実現したものだった。
 キエフの前に日本代表が試合をしたラトビアのリガでは、ダウガバというクラブに人工芝の練習場がつくられていた。クラブの所有になっているが、代表チームの冬季練習場としても使われるという。
 ワールドカップで得られた巨額の利益を世界のサッカーに還元しようと1999年に始められた「GOALプログラム」。4年間ごとに1億スイスフラン(約88億円)を拠出している。目的は、世界各国のサッカー協会の活動を堅固にするための協会本部やナショナル・トレーニングセンターの建設である。

 1件のプロジェクトにつき拠出されるのは40万ドル(約4500万円)だが、物価の安い国で政府や自治体が土地を提供してくれれば、これで十分立派な施設ができる。これまでに207のプロジェクトが認可され、ことし9月のFIFAの発表によるとすでに107の施設が完成して稼動を始め、総計172協会がこのプログラムの恩恵を受けているという。
 1999年の時点では、自前の協会本部やナショナル・トレーニングセンターをもつ国は世界のほんの一部しかなかった。しかしわずか6年後の現在、世界のほとんどの国でその両方が実現している。
 こうした事業を展開しているのはFIFAだけではない。UEFAチャンピオンズリーグから巨大な収益を得ているヨーロッパサッカー連盟(UEFA)では、「ハットトリック」と名づけたプログラムを実施し、域内の発展途上国に援助を行っている。

 キエフでは真新しいトレーニングセンターの横に5階建ての協会本部ビルが建設されているところだった。これは、UEFAのプログラムから250万スイスフラン(約2億2000万円)の援助が出て実現にこぎつけたものだ。
 立派な本部ビルやトレーニング施設は、各国のサッカー活性化の大きな起爆剤になっている。年代別のユース代表の活動が活発になり、そこで育った選手が国内リーグで活躍し、次つぎと代表チームにはいっていって活性化しているのだ。ワールドカップ初出場を決めたばかりのウクライナ代表が日本を迎えて戦った日の午後、真新しいナショナル・トレーニングセンターでは、U−18代表が熱心に練習していた。
 施設の充実により、これまで世界のヒノキ舞台を遠くから眺めていた国ぐにのサッカーが急速に伸びている。日本も足踏みしていることはできないと、キエフの美しいトレーニングセンターを見ながら考えた。
 
(2005年10月19日)

No.577 試練に打ち勝ったサッカー王国ウクライナ

 木々が赤や黄色に色づき、ウクライナの首都キエフは清新な秋の空気に包まれている。今晩、日本代表は8万3000人を収容する共和国立オリンピックスタジアムでウクライナ代表と対戦する。
 ウクライナはヨーロッパの強豪に先駆けて9月3日にワールドカップ出場を決めた。前回大会3位のトルコ、昨年の欧州選手権で優勝したギリシャ、そしてワールドカップの常連デンマークを退けての堂々たる出場決定だった。
 ウクライナは過去3回にわたってワールドカップや欧州選手権出場の直前まで行ったが、いずれもプレーオフで夢を断たれてきた。ワールドカップだけでなく、メジャーな大会の出場権獲得は今回が初めてのことだ。
 だが、ウクライナはけっして「サッカー新興国」ではない。むしろ、「隠れたサッカー大国」と言うことのできる歴史をもっているのだ。

 言うまでもなく、1991年にソビエト連邦が崩壊するまで、ウクライナはその一員だった。そして、世界の強豪と恐れられてきたソ連のサッカーのひとつの中心が、ウクライナの首都キエフだったのである。1927年に創立されたクラブ「ディナモ・キエフ」は、モスクワの数クラブによるタイトル独占を阻止して61年にチャンピオンの座に立つと、以後13回にわたって全ソ連リーグを制覇した。
 そして「ソ連代表チーム」でも、ディナモ・キエフの選手たちは欠くことのできない存在になっていった。ディナモが全盛を誇った70年代半ばには、先発のうち10人がディナモ・キエフの選手で占められるということさえあった。名将ロバノフスキーに率いられたディナモは75年に欧州カップウィナーズカップで優勝、当時ベッケンバウアーを中心に無敵を誇っていたバイエルン・ミュンヘン(ドイツ)と対戦した「欧州スーパーカップ」では、スピードで相手を圧倒、3−0の勝利をつかんだ。「ディナモ・キエフ=ソ連代表」の状況が生まれたのはこのころのことだ。

 1991年にソ連が崩壊、独立したウクライナは翌年に国際サッカー連盟(FIFA)に加盟した。しかしここでウクライナ・サッカーは大きな試練に直面する。ウクライナ出身の主要なプロサッカー選手は、この当時、裕福なモスクワのクラブでプレーしていた。ウクライナ国籍になると、モスクワのクラブでは「外国人」扱いになり、出場できなくなる恐れがある。そのため、多くの選手がロシア国籍を選択してしまったのだ。新しく生まれたウクライナ代表は、国際経験のない選手の集まりにすぎなかった。
 さらに数年を経過すると、ウクライナの国内リーグ自体に変化が生まれた。欧州のカップ戦で勝ち抜くために、アフリカや南米の選手を獲得するようになったのだ。

 ウクライナのサッカーの伝統はユース育成システムにあった。ディナモ・キエフなどのクラブの「アカデミー」が若手育成に力を入れたことが70年代以降の黄金時代をもたらしたのだ。しかしいくら指導しても、クラブで出場の機会が少なければ選手は育ってこない。
 本来なら独立後すぐに世界の強豪の座を占めてもおかしくなかったウクライナが10年以上にわたる低迷期を過ごさなければならなかったのは、こうしたいくつもの原因が重なった結果だった。
 しかしウクライナのサッカーはそうした試練を見事に乗り越えた。ACミランで活躍するFWシェフチェンコだけのチームではない。予選の12試合で7失点しか許さなかったGKショフコフスキーを中心とした守備も堅固だ。
 豊かな農業国のウクライナ。代表ユニホームの黄色は、大地を覆う小麦を意味しているという。独立後14年、「実り」の時期を迎えたウクライナは、どんなサッカーで日本代表を迎えるだろうか。
 
(2005年10月12日)

No.576 新ウェンブリースタジアム完成近づく

 「募集の広告を見た瞬間、『天命』だと感じ、即座に応募しました。新しいナショナルスタジアムの芝の管理に携われるのは大きな名誉です」
 興奮を隠せない表情でそう語るのは、スティーブ・ウェルチ。最近、新しいウェンブリー・スタジアムのピッチ管理責任者に任命された。
 ロンドンの北東部に巨大なモニュメントが出現しつつある。高さ133メートルというから、ほぼ東京タワーの大展望台と同じ高さの鋼鉄製の大アーチ。イングランド・サッカーファン待望の新しいウェンブリー・スタジアムが、いよいよ完成に近づきつつあるのだ。
 そしてこの8月、新スタジアムのピッチ管理責任者が決まった。ウェルチは、ノッティンガム・フォレストで2002年に「プロサッカークラブ最優秀ピッチ管理者賞」を受賞した「芝名人」だ。

 現在、ロンドン近郊の苗床で育成されている芝は、来年のはじめに新スタジアムに移植され、最後の仕上げにはいる。スタジアムでは、すでに給排水と凍結防止の温水を通すための配管も完了、特殊な繊維を混ぜて芝生の根付きをよくした砂の床土を入れ、芝生の到着を待つばかりだ。
 ウェンブリー・スタジアムは、「サッカーの母国」イングランドの誇りだ。旧スタジアムは1923年に建設され、以来、イングランド代表のホームとして、そしてFAカップ決勝などごく少数の特別な試合の舞台として使われてきた。イングランドがワールドカップを制覇した(1966年大会)のも、このウェンブリーのピッチ上だった。
 新スタジアムには斬新なアイデアが盛り込まれている。1階席をつぶすことによって陸上競技のトラックを仮設できる画期的な設計が採用された。トラックの設置や撤去には、わずか数週間を要するだけだという。

 しかし設計者が何よりも心を砕いたのはピッチコンディションだった。近年、各地の最新鋭のスタジアムで、日当たりと風通しの悪さが原因で芝生がダメージを受ける例が数多くある。使用頻度が少ないこともあって、旧スタジアムのピッチは「世界最高クラス」と言われてきた。その評価を落とすことはできない。
 ところが新スタジアムのスタンドは旧スタジアムより20メートルも高いうえにピッチとの距離が短い。当然、日照時間は減る。他のスタジアムでは南側のスタンドの屋根に透明の素材を使う工夫の例もあるが、すぐによごれてその効果もなくなる。
 そこで新ウェンブリーでは可動式の屋根を採用した。試合中も、天気が良ければスタンドの大半には屋根はかからない。太陽光が直接芝生に降り注ぎ、風通しもよくなる。雨が降ってきたら屋根を動かす。わずか15分間で全座席が屋根で覆われるという。

 旧スタジアムの最終戦は2000年10月のワールドカップ予選、ドイツとの一戦だった。雨のなか、0−1で敗れたイングランドは、試合後にケビン・キーガン監督が辞任するというショッキングな「幕引き」となった。それから5年、新スタジアムがいよいよ完成間近となった。
 こけら落としは来年5月13日のFAカップ決勝。旧スタジアムも1923年のFAカップ決勝戦が初戦だった。このときには、10万人収容のスタジアムにその倍のファンがかけつけ、ピッチ内にまであふれた。そこに白馬に乗った警官が現れ、混乱なく人びとをピッチの外に出させて、無事、試合を行った。「ホワイトホース・ファイナル」と呼ばれる伝説の試合である(ことし5月、地下鉄のウェンブリーパーク駅に新しく設置された歩道橋の名前には、市民の圧倒的支持で「ホワイトホース」が選ばれた)。
 芝名人ウェルチが丹精したピッチの上で、新しいウェンブリーも、新しい「伝説」を生むことだろう。
 
(2005年10月5日)

サッカーの話をしようについて

1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。

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