サッカーの話をしよう

No.671 ゴールか、ゴールでないか

 「ところでどうかね、あれはやっぱりゴールじゃなかったのかね?」
 ロンドンを訪れると、ヒースロー空港から市内に向かうタクシーの運転手に、フランツ・ベッケンバウアーはいまもこう聞かれる。「あれ」とはもちろん、1966年ワールドカップ決勝戦のイングランドの3点目である。
 イングランド対西ドイツ。2−2から延長戦にはいり、その前半12分のことだった。右から入れられたボールをイングランドのFWハーストがペナルティーエリアの右でコントロール。やや右外に流れたボールを強引にシュートした。ボールは西ドイツゴールのバーの下側を叩き、真下に落ちた。そしてワンバウンドするところを西ドイツのDFウェーバーが懸命に頭でピッチ外に出した。

 両手を挙げて喜ぶイングランド選手たち。ノーゴールと主張する西ドイツ選手たち。スイスのディーンスト主審が線審のところに走り寄る。ソ連のバクラモフ線審は「はいった」と力強く告げる。終了間際に1点を追加したイングランドは4−2で勝ち、ワールドカップ初優勝を飾る。
 当然、大議論になった。ドイツのある新聞社は、高額の賞金をつけてゴールにはいっていないことを証明する写真や動画を探した。しかしテレビ技術が発展途上だった当時、確実な証拠はついに見つからなかった。
 「私はペナルティーエリアの中央あたりにいたけれど、バウンドが速すぎて、正直なところよくわからなかった」
 当時20歳、西ドイツのMFだったベッケンバウアー(現在FIFA理事)は聞かれるたびにそう話す。

 そして、「いずれにしても...」と続ける。「イングランドはチャンピオンの名にふさわしかったと思うよ」
 「世紀の誤審」と大きな話題になったこのゴール。しかし西ドイツ選手たちのフェアな態度も、世界に大きな感銘を与えるものだった。
 何人かの選手が線審に詰め寄ったが、すぐにキャプテンのゼーラーが駆けつけてプレーに戻らせた。そして試合後、選手たちは口ぐちに「線審が決まったというのなら、そうだったのだろう。いずれにしても、イングランドは勝利に値した。私たちは敗戦を受け入れる」と話した。
 「こうしたことが40年間も続く議論になる。それもサッカーの文化のひとつであり、人びとを熱狂させる重要な要素なんだ」。最近のインタビューで、ベッケンバウアーはそう語っている。

 12月に日本で開催される「FIFAクラブワールドカップ」で、最新のテクノロジーを使った「ゴール判定装置」がテストされる。ドイツ企業が開発したシステムは「40年間の執念」と考えると少しほほえましい。
 しかし完全無欠の機械判定の試合には、もう「本当にゴールだったのか」の議論はない。感傷かもしれないが、何か大事なものを失うように感じるのは、ベッケンバウアーだけではないだろう。
 
(2007年10月31日)

No.670 ボールのデザインをシンプルに

 1923年6月のある土曜日、ブラジルのサンパウロでひとつの試合が行われた。
 電力会社のグラウンドでのアマチュアの試合。照明設備があったが、その日は電圧が低かったのか、非常に暗く、ボールが見づらかった。そこで選手たちは試合を中断し、中止すべきかと相談した。
 「いや、なんとかなるよ」
 そう言ったのは電力会社チームのセベリーノという名の青年だった。彼はどこからかペンキを持ち出してくると、ボールを白く塗り始めた。グラウンドに出すと、白いボールはよく見え、選手たちは無事試合をすることができた。これが「カラーボール」の最初だと言われている。

 1960年代まで、サッカーボールの色は、基本的に素材である馬などの皮革の色をそのまま生かした茶系統だった。例外的に夜間の試合用としてセベリーノ青年発案の白くコーティングしたボールも使われたが、いずれにしても単色だった。
 そこにドイツで考案された「白黒ボール」が登場する。それまでの12枚あるいは18枚のパネルを縫い合わせたものから、12枚の黒い正五角形と20枚の白い正六角形の組み合わせにしたボールは、そのデザインの美しさだけでなく、より安定した球形が保てるため、その後、サッカーボールの標準となった。
 白黒ボールのデザインにはパテントもなく、世界中で何百万個も作られ、愛された。いまでも、サッカーのシンボルとして白黒ボールが使われることは少なくない。

 しかし1978年のワールドカップ・アルゼンチン大会で新デザインのボールが使用されてから思いがけない方向に進みはじめた。ボールを提供したアディダス社が「タンゴ」と名付けたボールのデザインを意匠登録し、他社が使えないようにしたのだ。ボールメーカーが競って独自のデザインのボールをつくり、販売するようになったのは、それ以降のことである。
 そして今日、ボールの人工皮革化とともに、デザインも色も千差万別。ルールでは、ボールの規格は外周(68〜70センチ)、重さ(410〜450グラム、そして空気圧(0・6〜1・1気圧)しか定められていない。国際サッカー連盟(FIFA)は公式戦で使用できるボールを検定しているが、デザインや色に関してはまったく自由だ。

 その結果、非常に見づらいボール、回転によって奇妙な見え方をするボールがまかり通っている。慣れないデザインのボールを使って感覚が狂い、その影響でミスが生まれることも珍しくない。
 ボールのデザインはよりシンプルでなければならない。FIFAはデザインと色の規格を設け、どのメーカーもそれを使えるようにするべきだ。ボールは、メーカーの販売戦略のためではなく、プレーヤーがより良いプレーをするために作られなければならない。なんとか試合をしたい一心で白く塗ったセベリーノ青年が現在の状況を見たらどう思うだろうか。
 
(2007年10月24日)

No.669 クイックリスタートを守れ

 10月10日、ナビスコ杯準決勝第1戦の前半10分過ぎ、横浜F・マリノスにフリーキック(FK)が与えられた。ペナルティーエリアの左角の数メートル外。ファウルを受けたMF山瀬功治がすばやく近くの味方につなぎ、戻されたボールをドリブルしてゴールに向かって進んだ。シュートチャンスだ。
 だがその瞬間、主審が鋭く笛を吹いてプレーを止めた。FKの場所が違うというのだ。主審は数メートル離れたところを指さした。そこに横浜FMがボールをセットし直したときには、相手の川崎フロンターレはゴール前に分厚い守備網を組織していた。

 「クイックリスタート」を使うチームがJリーグに増えている。笛が吹かれたらできるだけ早くFKを行い、相手が守備組織を固める前に攻め崩そうというプレーだ。FKといえばお決まりの、主審が守備側の選手を下がらせる場面なども減るから、試合は一挙にスピードアップし、スリリングになる。ところがそれを主審自身が妨害してしまうことが少なくない。
 ルールでは、FKは、「反則のあった場所」から、「ボールを静止」させて行わなければならないことになっている。だがこれをあまりに厳格に適用するとクイックリスタートの多くが不正なFKになってしまう。結果として、反則した側に守備を固める時間を与えることになる。すなわち、反則した側を利し、反則された側に不利益をもたらすというおかしなことになる。

 「反則のあった場所」といっても、ピッチに印が残っているわけではない。そして主審がいつも正確な場所を指すわけでもない。数メートル間違うことも珍しくない。状況次第では、少し離れた場所でもFKを許すべきだと思う。
 山瀬功のFKのときには、場所の違いは数メートルでしかなかった。山瀬功が直接ゴールを狙ったのなら小さくない距離かもしれないが、短くつないでプレーを動かしたのだから、続けさせるべき場面だと私は感じた。
 また、転がってきたボールをそのままけるなどではなく、足や手でいったん止める動作をしてから行ったFKであれば、多少ボールが動いていても黙認してそのまま続行させるべきだ。

 どちらも「ルールどおり」ではないかもしれない。しかし反則をした側のチームを罰するという「ルールの精神」には反していない。
 主審にとって大事なのは、状況をすばやく把握し、FKによって与えるアドバンテージを攻撃側が適度に生かしたかどうかを判断することだ。過度あるいは不当に生かしていると判断したら止めなければならないが、そうでなければ続けさせるべきだ。
 クイックリスタートには、試合をスピーディーでスリリングにするだけでなく、守備側の選手たちから審判に文句を言う余裕を奪い、プレーに集中させる効果もある。せっかく増え始めたものを守り、奨励するのも主審の仕事だ。
 
(2007年10月17日)

No.668 過密日程の解消を

 Jリーグで首位独走のホームチームはあえいでいた。次々と襲ってくる相手のシュートにDF陣がなんとか足を伸ばして止め、ゴールを守った。ボールを支配して攻め込んでいたのは、下位に低迷するビジターチームだった...。
 ビジターの大分トリニータが見事な攻守を見せていたのは間違いない。しかしホームの浦和レッズがこれほどの劣勢を余儀なくされた原因が疲労にあったのも確かだ。
 浦和は9月15日のJリーグ第25節から23日間で7試合という過密日程をこなしてきた。そのなかにはAFCチャンピオンズリーグの3試合が含まれ、うち2試合は韓国への遠征だった。7試合目、10月7日の対戦相手・大分は、この間に1週間に1試合のペースで4試合。コンディションの差は明白だった。

 サッカーは「週1試合」が基本だ。週末ごとに試合をこなす形だ。試合の直後はまず体力の回復を図り、その後は体力、技術、戦術のトレーニングを入れながら翌週の試合に向けて準備する。このリズムができれば、それぞれの試合内容が充実し、選手たちはシーズンを通じて力を伸ばしていくことができる。
 もちろん、たまには週の中間、たとえば水曜日に試合があってもよい。この間は、次のゲームに向けて体調を整えるだけになるが、すぐに回復できる。しかしこれが続くと、選手たちはただ消耗していくだけとなる。パフォーマンスは著しく落ちてしまう。

 2005年には横浜F・マリノスが4月から5月にかけて44日間で13試合という超長期の過密日程を余儀なくされた。「13連戦」の成績は5勝4分け4敗。4月下旬以降の8試合に限れば、2勝2分け4敗という悲惨さだった。03年、04年とJリーグを連覇した強豪チームを急速に衰退させたのがこの過密日程だったことは間違いない。
 過密日程を強いる原因はリーグとカップ戦だけではない。一部の、そして非常に優秀な選手たちは、代表チームの日程もこなさなければならない。ことしの浦和の例でいえば、5人もの選手が9月上旬の日本代表のオーストリア遠征にも参加した。彼らは「9連戦」ということになる。そのすべてにほとんどフル出場だったMF鈴木啓太が、最後の大分戦でも動きの質だけでなく量も失わなかったのは、本当に驚きだった。

 過密日程は選手たちの精神力や自己管理能力を鍛えるかもしれない。しかしそれ以上にマイナスになるものが多い。疲労が重なれば重大な負傷や故障につながる。それを強いているのは、リーグやクラブ、そして協会(代表チーム)のエゴだ。彼らが自分たちの利益を主張し合った結果が、現在の過密日程だ。
 私は、この日程が「仕方がない」ものであるとは思わない。リーグ、クラブ、そして協会が「選手第一」の考えを取り戻し、真剣に「選手のためにあるべき日程」の模索を始めなければならない。
 
(2007年10月10日)

No.667 ベンチの話

 「ベンチ・スタート」という妙な言葉が使われるようになったのは、いつごろからだっただろうか----。
 監督、コーチ、ドクターなどとともにサブの選手が座るピッチ横の席を「ベンチ」と呼ぶ。競技規則(ルール)には何の規定もないためか、そのデザインや座り心地はスタジアムによってさまざまだ。
 1880年代にはプロ選手が認められた英国だったが、初めて「屋根付きのベンチ」が誕生したのは意外に遅く、1920年代になってからのこと。スコットランドのアバディーン・クラブのD・コールマン監督が、ノルウェーに指導に行った際に見かけ、「これはいい!」と、帰国後さっそく自クラブのスタジアムにも設けさせたという。

 コールマン監督はベンチにノートを持ち込んでいろいろとメモする人だったが、天候の悪いときにはノートがぬれて困り果てていたのだ。試行錯誤の末、クラブは、屋根をつけると同時に、ベンチをピッチレベルより少し掘り下げた位置に置いた。
 なぜこのようなことになったかには諸説ある。
 第1の説は、サッカーだけでなくダンスとボクシングを熱愛していたコールマン監督が、選手たちのフットワークを見やすくするためだったというもの。おもしろいが疑わしい。より説得力があるのは屋根をつけると背後のスタンドで観戦のじゃまになるため掘り下げたという説だ。「ダグアウト(防空壕)」と呼ばれたアメリカの野球場のベンチをまねたという説もある。

 しかし当然のことながら、ふつう、監督たちはより高い位置から試合を見ることを好む。現在ではベンチはピッチと同じ高さに置かれるのが普通だ。国際サッカー連盟(FIFA)の「スタジアム標準」でもそう規定されている。
 しかし不思議なことに、日本サッカー協会やJリーグにはベンチの「レベル」に関する規定はない。西が丘サッカー場(東京)や埼玉スタジアムなど「掘り下げ式」がいくつも存在するからだろうか。
 ルールにないベンチの要件を、FIFAは「スタジアム標準」と名付けたガイドラインを発行して規定している。そして日本協会も、国内試合のための独自の「標準」を発表している。

 ベンチは、ハーフラインをはさんで両エンドにひと組ずつ、ハーフラインとタッチラインの接点から測ってそれぞれの方向に5メートル以上、そしてタッチラインから5メートル以上離して設置される。収容数は、国内試合では「10人以上」、ことし改訂されたFIFAの標準では「22人」だ。FIFAは、「席は背もたれのあるもの」と、快適さも求めている。
 観客の視線を妨げない透明の樹脂で作られた「シェル(屋根と背板)」の設置は必須だ。雨よけのためだけではない。観客席から投げつけられる物から選手や監督を守るためのものでもあると、「標準」は説明する。ノートをぬれないようにしてほしいと願ったコールマン監督が聞いたら、目を丸くするかもしれない。
 
(2007年10月3日)

サッカーの話をしようについて

1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。

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