サッカーの話をしよう

No.135 ルールはサッカー人をつなぐ絆

 先日、Jリーグが報道関係者を対象にセミナーを開催した。「スポーツ医学委員会」と「審判委員会」がJリーグの医事システムと最近のルールなどについての説明を行ったのだ。

 「医学委員会」の深谷茂委員長によると、通常のサッカーで5パーセント前後の首と頭の負傷が、93年、1年目のJリーグでは30パーセントにものぼった。だが95年にはノーマルな数字に近づいているという。はたしてそれが「プレーに迫力がなくなった」ことと関係があるのか、なかなか興味深いデータだ。
 「審判委員会」の浅見俊雄委員長は、冒頭から「抜き打ちテスト」で参加者を驚かせた。今季から選手を対象に実施する「ルールテスト」の例題を、報道関係者にも体験してもらおうという目的だった。
 これに先立って、Jリーグでは実行委員会や事務局内でもテストを実施したという。当然、川淵三郎チェアマンも自ら問題に取り組んだ。ちょっとした「ルールテスト・ブーム」だ。

 サッカーのルールはたった17条しかない。日本サッカー協会発行の日本語版ルールブックでは、条文を補足する「公式決定事項」を含めても、30ページ弱だ。全部読むのに1時間も必要としない。
 だが、国際サッカー連盟は毎年のように大小の改正をしており、ルール自体も10年前と比べるとかなり変わってきている。私がサッカーを始めたころにルールの重要な部分を占めていたシューズのポイント(スタッド)についての規定は、現在は一切ない。長年サッカーに取り組み、ルールを知っていると思う人にかぎって、こうした変化を知らないケースが多い。

 これまでJリーグで起きたトラブルの多くが、基本的なルールの無知、あるいは理解不足に原因を発している。オフサイドをめぐるクレームの数々、反則の解釈、どんな場合に警告されるかなど、選手やファン、そしてまた報道関係者の知識がしっかりしていれば避けられたトラブルも少なくなかったはずだ。
 ルールの理解不足から判定にクレームをつける選手や監督たち。それを見て興奮するファン。しっかりと解説できないテレビ。そしてまた、(審判からは取材できないので)選手のコメントだけを載せてよしとしてしまう新聞。これが「トラブル」の正体にほかならない。

 「私個人としては、テストをするからルールを勉強しなさいという考えではありません。ただ、選手と審判をつなぐのがルールなのです。そのルールの理解を深めて、協力してより良いサッカーを実現していこうということなのです」
 浅見委員長は、選手へのルールテストについてこう説明している。

 ひとつのボールをめぐってプレーをする選手たちがいる。その試合を安全で平等で公正なものにするために走り回るレフェリーがいる。選手たちを支援する監督やコーチがいる。試合の成り行きをかたずを飲んで見守るファンがいる。そして全国のファンにその興奮と喜びを伝える報道関係者がいる。
 浅見委員長が言うようにそのすべてをつなぐのが17条のルールにほかならない。それなのに、レフェリー以外のだれもが、あまりにその唯一の「きずな」を軽視してきたのではないだろうか。
 Jリーグの選手へのルールテストをきっかけに、ことしは「サッカールール・ブーム」になるかもしれない。そんなやりとりのなかから、サッカーにかかわるいろいろな人びとの「きずな」が強められていくにちがいない。

(1996年1月30日)

No.134 天皇杯 カップはひとつに

 「私の選手生活で最高の瞬間だった」
 1966年イングランド・ワールドカップの優勝キャプテン、故ボビー・ムーアにインタビューしたとき、ワールドカップをエリザベス女王から手渡された瞬間の気持ちを聞いた。ムーアは「あの日」を思い出すように目を細め、冒頭のような返事をしてくれた。
 世界に何億サッカー選手がいても、優勝キャプテンとしてワールドカップを受け取ることができるのは4人にひとり。長いサッカーの歴史でも15人にすぎない。それがどれほどの「価値」があるものか、本人にしか理解できないだろう。

 ワールドカップの「表彰セレモニー」は実にシンプルだ。まず準優勝チームがロイヤルボックスに上がってそれぞれメダルを受け取り、降りてくると優勝チームが上がり、キャプテンにカップが、そして全員に優勝メダルが手渡される。
 キャプテンはカップを頭上に高く掲げ、場内のファンに誇らかに示す。これこそ、「人生最高の瞬間」にほかならない。

 温かな晴天に恵まれたことしの元日、天皇杯で初めてのビッグタイトルを獲得した名古屋グランパスの表彰を見ていて、「なんてもったいないんだろう」と思わずにいられなかった。
 これはいったい何の大会だったのか。グランパスには、額にはいった表彰状に続いて、なんと4つものカップ、トロフィーが手渡されたのだ。ストイコビッチは、いったいどれが「いちばん大事」なカップなのか、不思議な顔をして見ていたが、やがて適当なカップに目をつけると、キスをしてファンに掲げて見せた。

 世界の最高峰のワールドカップではカップはひとつだけ。だが日本では、大会が大きくなればなるほど、たくさんのカップが出てきて優勝チームに渡されるのが伝統だ。それが「立派な表彰式」と思われているフシさえある。

 1986年メキシコ・ワールドカップの決勝戦終了後を頭に描いてみてほしい。すり鉢の底のようなアステカ・スタジアムのフィールドは、天頂からの太陽に明るく照らされていた。その中央に、肩車されたアルゼンチンのキャプテン、ディエゴ・マラドーナがいた。
 私の記者席は、スタンドのかなり高い位置にあったが、それでも、マラドーナが右手で高く掲げたワールドカップが太陽を反射してキラキラと輝くのをはっきりと見ることができた。それがどれほど感動的だったか、つたない文章ではとても表現できない。

 大会を開催するには、放送局、スポンサー、協賛企業など、各方面のお世話にならなければならない。しかしそうした組織や企業からカップやトロフィーが出され、本来の優勝カップの影が薄くなってしまうのはまったくの本末転倒だ。

 天皇杯は96年度に大きく改革され、変貌する予定だ。これまではJリーグに各地域代表を加えた32チームで「決勝大会」を争っていたが、次回からは各都道府県に1チームずつ出場権が与えられ、JリーグやJFLを含んだ80チームの大会となる。
 その「大改革」を機会にぜひ実現してほしいのが「カップの一本化」だ。表彰状はあとで渡せばいい。セレモニーでは天皇杯と優勝メダルだけを渡す。

 本来日本で最高のもののはずである「天皇杯」のカップを、頭で描くことができるファンがいまどれくらいいるだろうか。天皇杯が全体として盛り上がりに欠ける理由のひとつがそこにあることに、日本サッカー協会は気づかなければならない。
 カップの「提供者」に対する敬意のためにも。

(1996年1月23日)

No.133 FIFA行動規範

 「新時代」を予感させる名古屋グランパスの天皇杯優勝。個性的で才能豊かな選手が目白押しで、しかもハイレベルなチーム同士の対戦で毎日ワクワクさせられた高校選手権。96年正月、日本のサッカーは最高のスタートを切ることができた。
 ことし、日本のサッカーは非常に重要な「歴史の節目」を迎える。日本サッカー協会の創立75周年、そして1936年の「ベルリンの奇跡」(オリンピックで優勝候補のスウェーデンを3−2で破る)から60年。この記念すべき年に28年ぶりのオリンピック出場はなるだろうか。そして6月1日、国際サッカー連盟(FIFA)特別理事会の票決は「2002年ワールドカップ日本開催」をもたらすだろうか。

 Jリーグ、天皇杯という日本のメイン二大会も、ことし大きくフォーマットを変える。「1シリーズ制」になったJリーグは、内容を向上させてまたファンを引きつけることができるだろうか。「決勝大会」出場がこれまでの2.5倍にあたる80チームとなる天皇杯は、各地のサッカーを活性化するだろうか。
 中央や各地のサッカー協会だけでなく、日本全国でサッカーに関係するすべての人が結束し、力を合わせて96年を「新しいサッカー元年」にするよう努力しなければならない。

 FIFAの機関誌である「FIFAニューズ」の最新号で、ジョアン・アベランジェ会長は「サッカーの行動規範」を提示した。
 買収などの不正行為、人種差別、暴力、有害薬物など、現代社会がかかえる諸問題がサッカーにも大きな影を落とし、私たちの愛するサッカーに危機を与えつつある。こうした時代に、サッカーに関わるすべての人が共通の「行動規範」をもち、力を合わせて新しい世紀を迎えようというのがその狙いだという。

 日本でも、Jリーグの発足によってたくさんの人がサッカーに関わるようになったことで、いろいろな面で「混乱」が見られる。同じ「日本のサッカーのために」というテーマで話しても、考えることが180度違うことも少なくない。
 そこに明確な行動規範があれば、混乱は最小限にくい止められるだろう。そして、より実のある議論を通じて、サッカーをよりよくしていくことができるに違いない。それはすなわち、サッカーを愛し、サッカーに取り組む私たち自身の人生を、より豊かなものにするはずだ。
 世界に広がる「サッカー・ファミリー」の一員として、私たちもこの「行動規範」を心に刻んでサッカーに取り組んでいかねばならないと思う。

サッカーの行動規範(FIFA)
 サッカーのためにいつもしなければならないこと。
1 勝利のためにプレーする。
2 フェアにプレーする。
3 ルールを遵守する。
4 相手選手、チームメート、レフェリー、役員、そして観客を大事にする。
5 尊厳をもって敗戦を受け入れる。
6 サッカーへの関心を促進する。
7 不正行為、有害薬物、人種差別、暴力、その他サッカーに危害を及ぼすものをすべて拒絶する。
8 不正行為の誘惑に抵抗しようとしている人びとの助けになる。
9 サッカーの信用を傷つけようとする人びとを弾劾する。
10 サッカーの名声を守る人びとの功績を認める。


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(1996年1月16日)

No.132 チェローナ エルサルバドルを率いる

 ハイメ・ロドリゲスといっても、知っている人はまずいないだろう。チェローナといえば、かすかな記憶をたどることのできる人がいるかもしれない。
 この正月にもらった年賀状のなかに、Sさんからのものがあった。サッカーの修行をするためにかつてスペイン、メキシコと渡り歩いた人だ。そのメキシコのクラブで知り合ったのがハイメ・ロドリゲス、愛称チェローナだった。

 Sさんの元に、祖国エルサルバドルに戻っていたチェローナから連絡がきたのは91年の秋だった。「日本でサッカーをしたい。選手が無理ならコーチでもいい」。31歳となり選手生活の最後を文化の違う国で送りたいと考えたのだ。
 彼はエルサルバドルの国民的英雄だった。82年スペイン・ワールドカップに出場し、対アルゼンチン戦ではマラドーナをマークした。その後代表チームの主将として活躍、南米でも広く知られた存在だった。そのトップスターの座を投げうって、新しいチャンレンジを望んだのだった。

 来日したのは91年秋。当時、日本リーグは最終シーズンにはいっており、Jリーグに移行するクラブは実力ある外国人選手を探していた。ことしからアビスパ福岡の監督になる清水秀彦氏が監督をしていた日産が、「練習で見てみよう」と受け入れた。
 彼のプレーをひと目見た清水監督はリベロとしての能力に気づいた。「オスカー(元ブラジル代表主将、現在京都サンガ監督)以上かもしれない」。
 だが日産には、井原、柱谷哲二をはじめ、若く将来有望なセンターバックがそろっていた。翌年には小村も加入することになっていた。結局チェローナをとったのは、当時日本リーグ2部でJリーグ入りの予定のなかったNKKだった。

 本格的に日本でプレーすることが決まると、エルサルバドルの国営放送がクルーを送り込んできた。駐日エルサルバドル大使は、自らチェローナの子供たちが通う学校の面倒を見た。
 明けて92年の1月に再開した2部リーグの後期、NKKは破竹の快進撃を見せた。チェローナはデビュー戦で自ら決勝ゴールを決めた。そしてNKKは5連勝、6試合連続無失点を記録した。観客が500人を超えたことも稀だったが(最も少ない試合は80人)、彼は後期の15試合にフル出場して4ゴールを記録。この間のチーム失点はわずか6、NKKは6位から4位に浮上した。
 92年春、「ゾーンプレス」の完成を目指してリベロを探していた横浜フリューゲルスの加茂周監督がチェローナにほれこみ、彼はようやく実力にふさわしいトップリーグでプレーするチャンスをつかんだ。

 だが9月のナビスコ杯では4試合目にヒザを傷めて交代、フリューゲルス最下位の原因となった。そして迎えた93年も、シーズン前のオーストラリア合宿で大ケガを負い、結局第2ステージに2試合出場しただけに止まった。
 母国に帰った後、引退試合がサンサルバドルとロサンゼルスで行われたが、ロサンゼルスでの試合には、なんと4万人ものファンが集まったという。アメリカに出稼ぎにきている人びとが結集したからだった。

 「1月13日からのゴールドカップで、チェローナがゼネラルマネジャーとしてエルサルバドル代表を率います」。Sさんの年賀状はこう結ばれていた。
 かつて日本でのプレーに情熱を傾けた男が、カリフォルニアにアメリカ大陸の強豪が集まるこの大会で新しい挑戦を始める。なぜかとてもうれしい気分にさせる年賀状だった。
 
(1996年1月9日)

サッカーの話をしようについて

1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。

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