サッカーの話をしよう

No.742 アジア・サッカーの選択

 アジアサッカー連盟(AFC)会長モハメド・ビン・ハマム(カタール)は、5月8日に60歳の誕生日を迎える。しかしその朝の彼の目覚めは、平和や喜びなど、ほど遠いものになるだろう。
 この日クアラルンプール(マレーシア)のマンダリン・オリエンタル・ホテルで開催されるAFC総会で、ひとつの座をめぐる選挙が行われる。その結果が、AFC内における彼の地位に決定的な影響を及ぼすからだ。
 会長選挙ではない。国際サッカー連盟(FIFA)理事の選挙である。AFC選出のFIFA理事は4人いるが、今回はハマムがもつ1座だけが改選対象となる。96年にこの地位についたハマムだが、挑戦者が出たのは今回が初めて。挑戦者はシェイク・サルマン・ビン・エブラヒム・アル・カリファ(43)。バーレーン・サッカー協会会長である。
 ハマムがAFC会長に就任したのは02年のこと。AFCチャンピオンズリーグ(ACL)の創設など意欲的な改革を行い、最初の数年間は評価が高かったが、30年間にわたってアジアのサッカーを支えてきた事務総長ピーター・ベラパン(マレーシア)を解任した06年ごろから組織の私物化や独断が目立つようになった。
 いま、周囲が何よりも懸念しているのは、AFCが独占契約を結ぶマーケティング会社との巨額の契約金をACLなどごく一部の大会につぎ込み、ユースや女子などの大会に割く予算がどんどん少なくなっていることだ。このままだと、アジア内の「格差」は広がる一方になると心配されるのだ。
 FIFA理事の座をめぐる今回の選挙は、ハマムの暴走にストップをかける最大の機会ととらえられている。若いシェイク・サルマンの立候補を、日本や韓国など東アジアの国ぐにだけでなく、サウジアラビア、クウェートといった西アジアの強豪国も歓迎している理由はそこにある。
 安泰と思っていたFIFA理事の座を突然脅かされたハマムは、メディアを通じて投票の買収説や韓国の陰謀説などを流し、なりふり構わぬ防御の姿勢。AFC会長の任期は11年まであるのに、「もし今回の選挙で敗れたら会長の座も降りる」などと、無責任な放言も止まらない。
 アジアサッカーのこれからに大きな影響を与える今回の選挙。AFC加盟46協会は、どんな審判を下すのか。
 
(2009年4月22日)

No.741 17歳のセンセーション

 17歳が話題だ。
 浦和のFW原口元気は、先週の名古屋戦で決勝ゴールをけり込んだ。まだ高校3年生。今季就任したフィンケ監督が、「ユースでプレーさせる必要はない」と、プロ契約を結んでしまった選手だ。
 一方イングランドでは、マンチェスター・ユナイテッドのFWフェデリコ・マケダが話題を独占している。
 1991年8月22日生まれの17歳。同じ年の5月9日生まれの原口より少し若い。
 プレミアリーグ3連覇を目指すユナイテッド。4月5日、ホームにアストンビラを迎えた1戦は終盤まで2-2と苦しんだ。後半なかばに公式戦出場経験のないマケダを投入するという事態にも、チームの苦しみが象徴されていた。ところが引き分けかと思われたロスタイム、17歳の若者は突然輝きを放つ。
 ベテランMFギグスのパスに合わせてペナルティーエリア左に走り込んだマケダ。最初のタッチ、左足で体の後ろを通して右に出しながら急ストップすると、右足でカーブをかけたシュート。ゴール右すみに決勝ゴールを送り込んだのだ。
 17歳の勢いは止まらない。翌週、サンダーランドとのアウェーゲームでは、交代出場した数秒後にMFキャリックのシュートのコースを変えて決勝点としてしまったのだ。
 マケダはローマで生まれたイタリア人。地元のビッグクラブ、ラツィオのユースでプレーしていたところをユナイテッドのスカウトに目をつけられた。
 イタリアの規則では18歳になるまでプロ契約ができない。ところがイングランドでは16歳になれば契約ができる。そこでユナイテッドはマケダが16歳になった2007年の8月に契約を結んでしまう。「18歳以下の国際移籍は認めない」という国際サッカー連盟(FIFA)の規約も両親とともに英国に移住させることでクリアし、その年の9月からマケダはユナイテッドのユースの一員となる。そしてわずか1年半後、彼は世界の注目を集めることになるのだ。
 ユナイテッドが昨年の「世界最優秀選手」クリスティアノ・ロナルド(ポルトガル)と契約したのは、彼が17歳のときだった。マケダの台頭で、24歳になったばかりのロナルドも放出の対象になるとさえ言われている。
 17歳でJリーグに出場するのもゴールを挙げるのもすごいことだ。しかし原口が満足している暇などない。目指すのはマケダと対等の舞台だからだ。
 
(2009年4月15日)

No.740 ライバルたちのお見舞い

 1965年5月のある日、チリの首都サンチャゴ市内の病院にスーツ姿の10数人の男たちが現れ、ロビーがざわついた。
 受付に座っていた中年の男は、突然の団体来訪者が人気プロサッカーチーム「ウニベルシダ・カトリカ」の選手たちであることに気づいた。やがて、男たちのなかから大きな体をしたひとりが帽子を脱ぎながら近寄ってきて、ていねいな口調でこうたずねた。
 「ルイス・アルバレスさんのお見舞いにきたのですが、病室はどこでしょうか」
 受付の男は驚いた。ルイス・アルバレスは、「カトリカ」とは永遠のライバルであり、この瞬間にもチリ1部リーグの優勝争いを展開している「コロコロ」のエースストライカーだったからだ。2年前のシーズン、アルバレスは30試合で37得点という破天荒な活躍を見せ、現在も残るシーズン最多ゴールを記録するとともにコロコロを9回目の優勝に導いていた。
 だがこのとき、アルバレスは原因不明の病魔に襲われ、この病院に入院していた。「カトリカ」の選手たちがチームそろって現れたのは、ようやく落ち着き、面会が許されて間もなくのことだった。
 病室に案内された選手たちは、手に手にもった花束をアルバレスに渡すと、「早く良くなってピッチに戻ってきてくれよ」と声をかけ、患者の負担にならないようにと、短時間で病院を後にした。
 それから30年以上経た1999年、「カトリカ」にひとりの若者がデビュー、19歳でポジションを得ただけでなく、翌年にはチリ代表にも選ばれた。ポジションは右のサイドバック。小柄ながら圧倒的な攻撃力を発揮し、2002年にはライバルのコロコロを押しのけてカトリカに優勝をもたらした。
 この選手こそルイス・アルバレスの次男、クリスチャンだった。父ルイスは91年に亡くなっていたが、家族は父から聞いた30年前の心のこもったお見舞いを忘れず、クリスチャンはカトリカのユースにはいっていたのだ。
 5月のキリンカップに、チリ代表が参加する。過去2回、ワールドカップ出場を逃したチリだが、今回の南米予選では3位につけ、出場圏内にしっかりはいっている。クリスチャン・アルバレスも12試合のうちの3試合に出場している。
 ただ、現在はイスラエルのクラブに在籍するクリスチャンが、来日メンバーにはいるかどうかはわからない。
 
(2009年4月8日)

No.739 志はあるか

 「志(こころざし)」について考えている。
 サッカーの場でこの言葉を聞いたのは、98年から02年まで日本代表監督を務めたフィリップ・トルシエの口からだった。
 ホスト国として予選なしで出場できる02年ワールドカップ。前大会で初出場を果たしたばかり、それも3戦全敗だった日本を、少なくとも1次リーグ突破に導かなければならない。その心構えとして選手たちに求めたのが「志」だった。
 「目の前の相手に勝つために全力を注ぎつつ、高い目標を忘れずに自らを奮い立たせ、駆り立てていく―」
 「志があるなら、こんな勝利で満足するな」と、彼はたびたび選手たちに語った。
 さて、先週土曜にバーレーンを下し、岡田武史監督率いる日本代表のワールドカップ予選突破も見えてきたが、日本代表のプレーから「志」は感じられただろうか。岡田監督は「目標はワールドカップでベスト4」と語っているが、それは本気なのだろうか。
 06年ドイツ大会、日本は世界で最も早く予選突破を果たしたが、ドイツの舞台では1分け2敗と、これも早ばやと敗退が決まってファンを落胆させた。明白になったのは、ワールドカップ出場自体はもう「志」足りえないということだった。その先に行かなければ、少なくとも、そこで誇るに足る内容の試合ができなければ、また落胆だけになる。
 ことしの3月に日本中を夢中にさせたのはサッカーの日本代表ではなく、野球のWBCに出場した「侍ジャパン」だった。前回のチャンピオンなのに、彼らはけっして「タイトルを守る」とは言わなかった。「もういちど優勝して、今度こそ日本の野球の力を世界に認めさせたい」と、異口同音に語った。このチームには「志」があった。それに一丸で取り組んだから、大きな感銘を生んだ。
 イビチャ・オシム前日本代表監督は、よく「野心をもたなければならない」と話した。野心は「志」と同じ。トルシエもオシムも「アンビション」という言葉を使うのだが、トルシエの通訳に当たった臼井久代さんが、トルシエの話しぶりから、あえて「志」という古めかしい日本語を選んであてたのだ。
 ワールドカップ予選は何よりも結果を求められる試合かもしれない。しかしだからこそそこにぶれない「志」があれば、大きな成長の糧になる。予選も残り3試合。そこで日本代表の「志」の高さを感じ取りたいと思う。
 
(2009年4月1日)

サッカーの話をしようについて

1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。

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