サッカーの話をしよう

No.208 挑戦者ホームで天皇杯盛り上げを

 「2位狙い」になったワールドカップ予選。もしかすると、最終的な出場決定はオセアニアとのプレーオフ、11月29日のオーストラリアとのアウェー戦になるかもしれない。まだまだ、ハラハラドキドキは続くというわけだ。
 だがその間に日本国内のサッカーが休眠するわけではない。11月にはJリーグナビスコ杯の準決勝と決勝が行われ、11月30日には、天皇杯が全国32会場でキックオフされる。
 「天皇杯全日本選手権」は、その正式名称でもわかるように日本の「チャンピオン」を決める重要な大会だ。日本中のチームに門戸が開かれており、純粋なアマチュアチームからJリーグクラブまでがひとつのカップを争う大会でもある。

 昨年、日本協会の75周年を記念して大きく変革され、「アマチュア」だけでなく「高校チーム」まで出場できるようになった。Jリーグなどシードで出場権を得たチームが34、都道府県の予選を勝ち抜いたチームが47の合計81チームの参加だが、ことしは高校が8チームも県予選で勝って代表権を獲得している。1回戦には「鵬翔高校(宮崎)×多々良学園高校(山口)」という組み合わせもあり、昨年は果たせなかった高校チームの2回戦進出が実現する。
 そして2回戦、3回戦になると、Jリーグのクラブが登場する。「ベスト16」で争われる4回戦に、Jリーグ以外のチームがいくつ進出しているだろうか。一発勝負の大会なので、ときどき「大物食い」のチームが現れる。これも天皇杯の楽しみのひとつだ。

 ところで、ことしの大会日程で(昨年までもそうだったが)、ひとつ残念なことがある。Jリーグの大半のチームの初登場となる3回戦の会場が、すべてそのJリーグクラブのホームスタジアムであることだ。
 上のランクのチームがアウェーになるというのならわかる。シード出場ながら1回戦から登場するJFLや大学のトップチームは、その1回戦は基本的に「アウェー」、すなわち都道府県代表チームのホームで戦う。これが正しい姿だ。
 3回戦をこういう形にできないのは、2回戦が済むまでJリーグに挑戦するチームがわからないためだろう。あらかじめ会場を決めるためには、Jリーグのホームスタジアムが無難ということだ。
 だがこれでは「挑戦者」はあまりに不利だ。相手が調整十分のJリーグチームであるだけではなく、そのサポーターとも戦わなければならない。慣れない競技場、慣れない雰囲気のなかで、力を発揮できるチームがいくつあるだろうか。

 同時に、Jリーグのホームタウンにとっても、相手が格下なのだから「勝って当然」で、盛り上がりに欠けるのは避けられない。
 逆に「挑戦者」のホームにJリーグチームが乗り込む形にできれば、まったく逆の形となる。「挑戦者」は地元の声援を受けて奮闘し、興行としても地元チームのJリーグへの挑戦で盛り上がりを見せるはずだ。
 これを実現するために、1回戦から出場する各チームに3回戦の分まで「仮押さえ」を義務づける。そして、都道府県代表、Jリーグ以外のシードチーム、Jリーグチームの順でランクをつけ、3回戦まではランクが下のチームの地元の試合を原則とする。
 「仮押さえ」ができるかどうかが、このアイデアのカギだが、都道府県の協会が積極的に関与すれば不可能ではないはずだ。
 こういう原則で大会をできれば、天皇杯は各地で大きな話題となり、日本全国のサッカーを活性化させる力になるに違いない。

(1997年10月27日)

No.207 地域密着忘れた的外れなJ批判

 中央アジアでワールドカップ予選を追っているあいだにJリーグ第2ステージの優勝が決まっていた。
 FIFA(国際サッカー連盟)による突然の予選方式変更の最大の被害者は、日本のJリーグだっただろう。第2ステージの大半を日本代表抜きで実施しなければならなかったうえに、盛り上がる終盤戦が予選と重なって影が薄くなってしまったのだ。このステージの観客数が平均で1万人を割ったといっても、大いに同情の余地がある。
 こうした時期に、一部クラブの主要出資企業の長と呼ばれる人びとが続けざまにJリーグの運営理念を根本から批判し、否定するコメントを発したのは、あきれるばかりだ。
 チーム名に企業名を入れさせないこと、当初の10から17クラブへと急速に拡大してきたことなどが批判の対象になっている。つきつめれば、Jリーグがプロ野球のようにならないことに腹を立てているのだ。

 Jリーグ以前に、プロフェッショナルのチームゲームとして日本で成り立っていたのはプロ野球だけだった。6チームずつ2リーグの閉鎖的な組織。企業名を背負ったチームが、マスメディアと手を携えて運営してきたのがプロ野球だ。
 とくに戦後の復興期に、プロ野球が果たした役割はすばらしいものだった。人びとに生きる力を与え、少年たちに夢を抱かせた。現在も男性社会では日常のあいさつ代わりになっているプロ野球は、20世紀後半の日本の文化の重要な一側面に違いない。
 しかしそれは、いわば映画産業と同じような構造だった。「フランチャイズ」が強烈に意識されるチームもあるが、一般の人びととは遠い存在であり、何よりその他の野球組織やプレーヤーたちとは完全に隔離され、無関係だった。

 Jリーグは、そうしたプロ野球のあり方とは正反対の考え方でスタートした。閉鎖的でなくすべての国内のクラブに加盟の道が開かれている。一般のプレーヤー、とくに若い世代の育成に積極的に関わっている。
 何より違う考え方は、現在の日本のスポーツ環境の貧困さを大きな社会問題ととらえ、単にプロ興行を成功させるだけでなく、手軽に、身近に、いろいろなスポーツを、地域の人びとが楽しめる環境をつくることを目指している点だ。
 「プロ興行」という面でプロ野球とJリーグの最大の違いは、前者が全国的なマスメディアとの提携に大きく依存している(だからチームを増やすことはできない)のに対し、Jリーグが「地方文化」的な要素が強いことだ。クラブは全国的な人気などなくていい。「ホームタウン」で成功しさえすればいいのだ。

 こうした考えをよく理解して運営に取り組んできた鹿島アントラーズや浦和レッズは、大きな赤字をかかえることもなく、チーム数が増えても地元では満員の観客を集めている。そして「地域アイデンティティ」の象徴的な存在になりつつある。理想の姿にほまだ遠いが、着実に歩みを進めていると言っていい。
 スタート直後の熱狂のなかでこの「原則」を忘れ、最近になって観客数の激減に苦しんでいるクラブの多くも、最近ようやく目覚めて、それぞれにホームタウンとの関係を深める取り組みを始めている。
 これまでプロ野球はすばらしい成功を収めてきた。しかしその「ものさし」ですべてのプロスポーツが計れると考えるのは大きな間違いだ。この20世紀末の日本社会がかかえる問題点に目を開き、ほんの少しの想像力を働かせれば、Jリーグが目指すものの意味が少しは見えてくるはずだ。

(1997年10月20日)

No.206 報道担当が日本代表を支える

 日本代表にくっついて、カザフスタン、ウズベキタンと、中央アジアの国を動いている。
 旧ソ連のこれらの国がアジアのサッカー仲間になったのは1994年。それ以前には夢にも思わなかったワールドカップ予選での対戦、その場に来ている自分自身を考えると、サッカーの世界の広さと不思議さを思わずにはいられない。
 今回のアウェーゲームで感じるのは、随行する報道陣の多さだ。新聞、雑誌、テレビ、ラジオなどを合わせると、なんと百数十人もの報道関係者が日本代表を追って動いている。多分、世界でも最大規模の「アーミー」だろう。
 当然、受け入れ側の各国協会は悲鳴を上げる。記者席の用意、通信手段の確保などの仕事が、他の国との対戦とは比較にならない量となるからだ。しかしそれ以上に大変なのが、日本代表のプレスオフィサー(報道担当)だ。

 日本代表のプレスオフィサーは加藤秀樹氏(30)。ファルカン前監督時代以来のベテランだ。
 「プレスオフィサー」というと、思い出すことがある。10年ほど前のブラジル代表チームだ。
 日本のような全国紙がないブラジルでは、代表チームの試合になると全国から数百人の報道関係者が集まる。当時のプレスオフィサーはビエイラという太った男だ。練習会場で、彼は記者の間をとび回って冗談を交わしながら要望を聞き、記者会見をアレンジし司会を務める。ほれぼれするような仕事ぶりだった。
 だが彼の仕事はそれで終わりではなかった。夜、地方から来た報道関係者が集まるホテルを回り、バーに現れては記者の家族の健康を尋ね、取材のうえで何か困ったことはないか聞き、そして声をひそめてちょっとした「極秘情報」をもらしていく。

 「みんなと話すのが、この仕事の楽しみなんだ」
 そう言いながら、彼は報道関係との「信頼関係」を築き、ブラジル代表の活動を陰から支えていたのだ。
 日本代表での加藤氏の苦労は、その「信頼関係」の必要性を周囲に認めさせることから始めなければならなかったことだ。彼は「初代」のプレスオフィサー専門職だったからだ。
 最初はトレーニングウェアを着て練習のボール拾いをし、荷物運びをすることによってチームの一員と認めさせなければならなかった。そして次第にチームの中での信頼が生まれ、それが力となって報道関係からの信頼を得るようになったのだ。
 気難しい監督が、練習後に必ず記者たちと話すようになった。テレビと活字媒体の取材時間を分け、無用な混乱がなくなった。選手がテレビのレポーターに歩きながらぞんざいな口調で話すというみっともないことも、ほとんど消えた。

 それだけではない。最近では、報道関係に都合のいい宿泊先を探し、旅行会社の協力を得てビザや航空便の手配までしている。記者たちは何の苦労もなく未知の国での取材ができる。それは、快適な取材でいい仕事をしてもらおうという考えにほかならない。
 良質の報道は、代表チームの成功のための無視できない要素である。加藤氏らはそれを時間をかけて日本サッカー協会と代表チームに理解させ、チームと報道陣との良好な関係を保ってきた。
 信頼関係を築くには時間がかかる。しかしそれを壊すのは簡単だ。たったひとつの言動ですむ。
 加藤氏と日本協会には、現状に満足せずより良質の報道サービスを望みたい。同時に、私たち報道関係者も、責任ある言動で応えなければならないと思う。

(1997年10月6日)

サッカーの話をしようについて

1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。

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