サッカーの話をしよう

No.466 福田正博 信じて走った

 「信じて、走った」サッカー人生だった。
 6月15日、埼玉スタジアムで行われた福田正博(元浦和レッズ)の引退試合は、福田がどういうプレーヤーだったか、鮮やかに思い起こさせてくれる試合となった。
 ウーベ・バイン、ゼリコ・ペトロヴィッチ、そして岡野雅行など、かつて彼が攻撃のパートナーを組んだ選手たちが顔をそろえていた。彼らがボールをもった瞬間、福田は絶妙のタイミングで絶妙のスペースへ動き出した。
 前半14分、バインがもったとき、福田は間髪を入れずゴールに向かって走った。すると、以前と同じように、DFの隙間を縫って、福田の足元に吸い付くようなパスが送られてきた。ワンタッチで突破する福田。シュートはGKに防がれたが、息をのむようなシーンだった。

 「ただゴールに向かって走れば最高のパスがくる」と、あるとき福田はバインの天才性を語ってくれたが、福田の動き出しのタイミングやコースが抜群だったから、バインの才能が生きたということを、改めて知らされた。
 岡野が右サイドで突破にかかったときには、福田はいったん左に流れ、相手DFの意識から消えた。そして、DFを置き去りにした岡野がクロスを入れる瞬間に突然現れ、DFの前に体をこじ入れてボールに合わせようとした。
 「ストライカー」ほど、個性を主張するポジションはない。「俺によこせ。そうすれば決めてやる」というタイプもいる。ゴール前で突然生まれる得点機を辛抱強く待ち構えるタイプもいる。どんな形でもとにかく1点を入れれば役割を果たせるのが、ストライカーという「職業」なのだ。

 福田は、味方との連係で点を取るタイプのストライカーだった。やみくもに走ったわけではない。状況を瞬時に見極め、「これはチャンスになる」と判断すると、迷うことなく狙うスペースに飛び込んだ。味方を信じて走った。味方選手も、福田が「そこ」に走り込んでくれることを信じ切ってパスを送った。こうして生まれた得点は、だから、いつも美しかった。
 そんな福田を、サポーターたちは誇りに思い、愛し、信頼した。「ゲット・ゴール、福田!」の歌声は、レッズの勝利だけでなく、そこにサッカーの美しさが結びついてほしいという彼らの願いだった。
 試合後、場内を一周するなかで、福田は数人のサポーターから赤く塗られた1個のカップを受け取った。
 「福田さんがカップを高く掲げる姿を、ずっと待ち望んでいたけれど、かなわなかった。だからせめてこのカップを掲げてほしい」。カップを渡しながら、サポーターはそう福田に告げたという。

 「僕の力が及ばず、サポーターたちの夢をかなえてあげられなかった」と、自らを責め続けてきた福田にとって、思いがけない言葉だった。
 「11年間プレーしてきたけれど、ついにサポーターが期待するタイトルを取ることはできませんでした」と、試合後の会見で福田は語った。
 「でも、僕は精いっぱいやってきました。裏切ったことは、いちどもありません」
 バインや岡野だけでなく、背番号9の背後にいたあらゆる選手たちからのパスを、彼は信じて走った。100回報われなくても、平気な顔をして101回目も走った。
 そしてサポーターたちは、福田が102回目も103回目も走ることを知っていた。サポーターたちもまた、福田を信じて、「ゲット・ゴール」を歌い続けたのだ。
 「信じて、走った」ストライカー人生は終わった。福田正博の新しいステージ、「監督」の道で、こんどこそ、たくさんのタイトルに恵まれ、サポーターたちと喜びを分かち合えることを祈りたい。
 
(2003年6月18日) 

No.465 副審・廣嶋禎数

 きょうは副審・廣嶋禎数(よしかず)さんの話を書く。副審(アシスタントレフェリー)とは、手に旗を持ち、タッチライン沿いに移動しながらオフサイドの判定などで主審に協力する審判員だ。廣嶋さんは、18日からフランスで行われるFIFAコンフェデレーションズカップに出場する。私は、世界でトップクラスの副審だと思っている。
 62年5月22日大阪生まれ、41歳。大阪体育大学時代、20歳で初めて審判資格をとった廣嶋さんが国内審判員の最高クラスである1級に昇格したのは、90年、28歳のとき。93年には、国際サッカー連盟(FIFA)の「国際線審」にリストアップされた。

 国際線審になってから、広島アジア大会、トヨタカップなどの大きな舞台で旗を振るチャンスも与えられ、廣嶋さんはぐんぐん力をつけていった。Jリーグでは、95年に審判員特別奨励賞、96、97年と連続して優秀副審賞を受賞した(2000年にも受賞)。
 96年に名称が線審(ラインズマン)から副審(アシスタントレフェリー)に変わった。責任が大きくなり、やりがいのある仕事と感じるようにもなった。廣嶋さんは先輩たちから教わったことに自らの特徴を重ね、工夫して世界でも珍しいスタイルをつくった。
 普通の副審はラインに正対し、サイドステップで移動する。しかし廣嶋さんは、ボールのある方向に体を向け、バックステップを多用する。
 オフサイドの判定は、非常に難しい作業だ。味方からパスが出された瞬間にオフサイドポジションにいたかどうかが問題になる。オフサイドラインとボールの両方を見なければならない。廣嶋さんは、先輩から「ボールとラインを1、1、2のリズムで見て、近づいてきたらそのテンポを上げる」という方法を教わった。そこからヒントを得ての「廣嶋式」の誕生だった。

 「こうすると、視野が広がり、視野の端でラインを見ながら、同時に、プレーの瞬間をしっかりと見ることができます」(廣嶋さん)
 誰にでもできる方法ではない。バックステップの速さという特技を生かしたものだ。
 日本の副審は世界的にもレベルが高い。廣嶋さんに「1、1、2」を教えた山口森久さん、Jリーグで副審136試合の最多記録をもつ柳沢和也さんなど、副審ひと筋を貫く人も少なくない。しかしアジアには「ワールドカップの審判員は1国からひとり」という不文律があり、まだ日本から「副審」としてワールドカップに出場した人はいない。
 職業は高校の体育教師。サッカー部の監督でもある。
 「試合で留守にするだけでなく、自分自身の毎日のトレーニングもあって十分見る時間がなく、生徒たちには申し訳なく思っています」

 幸いなことに、学校や仲間の理解と協力で、学期中ながら「フランス行き」が可能になった。
 「国内の試合でやっていることをやれればいい。普段の自分を素直に出したい」と廣嶋さん。「副審哲学」は、「迷わないこと、ミスを恐れないこと」だと語る。
 試合後には、必ずビデオで繰り返し見て確認する。若いころからの経験で、迷ったときには、多くはミスだった。
 オフサイドの判定は、見て判断するのでは遅い。感覚でわかるようにならなければならないと、廣嶋さんは考えている。そのために、よく外国の試合のビデオを見る。
 まずノーマルなスピードでプレーを見て、「体半分出ている」などの判断をし、次に巻き戻してコマ送りで確認する。そして自分の最初の印象と比較する。こんな「訓練」を始めてから、安定した判定ができるようになったという。
 フランスでは、日本の副審の優秀さを世界に示してくれるに違いない。
 
(2003年6月11日)

No.464 アルゼンチンとパラグアイに拍手を

 何かにたたられているのではないか...。そう思っても不思議はない。イラク戦争でアメリカ遠征が中止になり、新型肺炎(SARS)で東アジア選手権も延期となった。さらに、SARSに対する懸念で、キリンカップに出場する約束になっていたポルトガル、次いでナイジェリアが来日を取りやめてしまった。
 先週土曜日には、東アジア選手権延期で空いた日程の代替試合として組まれた韓国との親善試合が、季節外れの台風4号に脅かされるというおまけまでついた。幸いなことに試合が始まるころにはほとんど雨も上がったが、台風の進路や上陸時間が少しずれていたらどうなっただろう。とにかく試合が無事行われただけで、無上にうれしかった。

 今週末にはキリンカップが開幕する。8日に大阪で日本対アルゼンチン、11日にさいたま市で日本対パラグアイ、計2試合が行われる。SARS騒ぎでアジアへの渡航が危険視されるなか、南米の2チームが約束を守ってくれたのは、本当にありがたい。
 南米サッカー連盟(CONMEBOL)そして加盟各国協会と、日本サッカー協会は、長い間、非常に良好な関係にある。1981年に始まったトヨタカップを契機にCONMEBOLの首脳が毎年来日するようになったのが、濃厚な交流の始まりだった。やがて2002年ワールドカップの招致活動などで日本協会の役員も頻繁に南米を訪れるようになり、絆は強まった。
 もちろん、南米が日本を受け入れたきっかけは日本の経済力だった。しかしそれが本物の「友情」に変わるまでにそう時間はかからなかった。

 日本サッカー協会で専務理事を務め、後に副会長となって対外的な折衝を一手に引き受けていた村田忠男さん(現在特別顧問)の裏表のない人柄が、南米の役員たちの信頼を勝ち得た。アルゼンチンのブエノスアイレスで事業を営むかたわら、日本協会の国際委員として広範な人脈を築いた北山朝徳さんのような存在も見逃すことはできない。
 2002年大会の招致活動では、CONMEBOLが最初から最後まで日本を応援し、盛り立ててくれた。南米は、何よりも人と人の友情を大切にする地域だ。その友情のあかしとして、99年には、南米大陸の王者を決める「コパ・アメリカ」に、アメリカ大陸以外から初めて日本を招待してくれた。
 SARS騒ぎが起こってポルトガルやナイジェリアが出場を取りやめたときにも、アルゼンチンは微動もしなかった。そして現状で考えうる最高のチームを日本に派遣することを決めた。

 パラグアイとは8月に東京で試合をする約束があった。しかし日本がキリンカップ第2戦の対戦相手探しに苦労しているのを知ると、快く予定を変更し、出場してくれることになった。こちらも、9月にスタートする2006年ワールドカップの南米予選に向けてベストチームだ。
 8日の長居スタジアムも11日の埼玉スタジアムも、日本代表を応援するサポーターで埋まるだろう。試合が始まったら、この南米の強豪と対戦する日本代表を力づける声援を送ってほしい。
 しかし今回は、試合前、そして試合が終わった後には、これまでにないことをしよう。アルゼンチンとパラグアイに、盛大な拍手を送るのだ。
 ただの「大きな拍手」では足りない。日本のサッカーが苦境に陥っているときに「友人」としてこれ以上ない態度を示してくれたことに対する感謝の気持ちを目いっぱい込め、心のなかで「ありがとう!」と叫びながら、拍手をしよう。
 そして、南米が、日本サッカーのかけがえのない「友人」であることを忘れないようにしよう。
 
(2003年6月4日)

No.463 あるプロ意識の欠如

 先週水曜日に神戸で行われたU−22(22歳以下)の国際親善試合、ニュージーランド戦の後半13分のことだ。
 プレーがストップしたとき、韓国の兪炳攝主審がひとりの日本選手に走り寄り、何かを話した。背番号22。後半から交代で出場し、この8分前に見事なミドルシュートで日本の3点目を叩き出したMF森崎浩司だ。
 彼は走ってタッチラインの外に出る。そこにトレーニングウエア姿の日本代表スタッフが走ってくる。森崎が外に出された後、プレーは再開されているから、この間、日本は相手よりひとり少ない10人でプレーすることになる。何か不都合があるなら、早急に解決する必要がある。

 寄ってきたスタッフに、森崎が何か話す。何があったかは明らかだった。森崎はネックレスをつけたままプレーしていたのだ。しかしそれを外そうとする用具係に、森崎は何かを頼む。スタッフは急いでベンチに戻り、何かを持ってくる。森崎はネックレスを外さず、粘着テープで胸元に貼り付けてもらったのだ。
 そこまでは30秒間ほどだった。しかし森崎はなかなかプレーに戻ることができなかった。負傷の手当てのために外に出た場合には、プレーが続いている間でも主審の合図があれば中にはいることができる。しかし用具に不備があって外に出たときには、プレーが止まらなければピッチに復帰することは認められないからだ(ルール第4条)。結局、森崎は1分半もプレーから離れたままだった。
 何のタイトルもかかっていない親善試合だった。すでに3点も差がついていた。森崎が不在の間に、日本が大きなピンチになったこともなかった。しかし森崎はこの出来事の重みをどうとらえているのだろうか。

 「競技者は、自分自身あるいは他の競技者に危険となるような用具やその他のもの(宝石類を含む)を身につけてはならない」
 ルール第4条の冒頭には、こう書かれている。
 しかしJリーグでは、これまで、そのチェックが非常に甘かった。ネックレスやピアスなどが黙認されていた。
 その一方、アマチュアの競技では、金属製のヘッドがついたネックレスやピアス、出っ張りのある指輪はもちろん、最近流行の肩こりを治すというソフトな素材のネックレスも、結婚指輪さえも外さされてきた。ソフトな素材のネックレスは他の選手にぶつかって危害を及ぼす恐れはないが、競り合いのときに相手選手の指がひっかかって思わぬ事態になる危険性があるからだ。
 当然のことだ。サッカーの試合をしていれば、不可避の負傷もある。しかしプレーとは関係ないもので負傷者を出す危険を冒す必要はない。

 サッカーのプロとは、アマチュアのお手本であるはずだ。磨き抜かれた技術や判断力、飛びぬけた体力、そしてピッチ上で最高のプレーを見せるための日常生活のコントロールなど、あらゆる面で最高の水準にある人が、プロであるはずだ。当然、試合で身につける物についてもお手本にならなければならない。
 Jリーグは、今季前、試合では装飾品をすべて外すように通達した。しかしどうしたことか、シーズンが始まると、試合中に、装飾品を外すよう命じられ、外に出されるケースが何度もある。当然、試合前に審判はチェックするのだが、そのときには巧みに隠して出ていってしまう選手が少なくないというのだ。
 なんというプロ意識のなさだろう。監督の信頼を受けて出場しても、審判にピッチから出るよう命じられたら、その間はサッカー選手ではない。観客と同じだ。こんなばかげた理由によりJリーグで外に出された選手や森崎浩司は、大いに恥じるべきだ。
 
(2003年5月28日)

No.462 レフェリーをもっと大事にしよう

 あるJリーグの試合前、ピッチ上に見慣れぬ光景があった。両チームが左右に分かれてアップしている中央を、黒いトレーニングウェア姿が3人、黙々と走っている。ハーフライン上を、ピッチを横切るように往復していたのは、この試合の担当レフェリーたちだった。
 Jリーグ・クラスの試合をするスタジアムには、たいてい、対戦する2チーム用に屋内のウォームアップスペースが設けられている。試合をするピッチ上に出てのアップが許されるのは20分間程度だから、その前に体を動かす場が必要なのだ。
 しかしほとんどの場合、レフェリーのためのウォームアップスペースは考慮されていない。以前は、Jリーグの試合前、競技場の廊下やアスファルト舗装された正面玄関前の広場でアップするレフェリーの姿をよく見かけた。

 現代のサッカーでは、レフェリーは1試合に1万メートルも走ると言われている。そのなかには全力のダッシュや急激な方向転換も含まれるから、相当な運動量になる。プレーヤーだけでなく、レフェリーも「アスリート」としての資質を強く求められている時代なのだ。良いパフォーマンスを見せるためには、しっかりとしたウォームアップが必要だ。
 3年前、オランダとベルギーで行われたヨーロッパ選手権で、レフェリーたちがピッチ上でウォームアップするのを初めて見た。そのときには、バックスタンド側のタッチライン沿いを、レフェリーたちはなんども往復していた。
 プレーヤーたちのピッチ上でのアップには、自分の肉体のコンディションを試合ができるように整えるだけでなく、ピッチの状態に慣れ、スタジアムがどんな雰囲気であるかを感じ取るという意味もある。レフェリーたちにとっても、そうした情報をインプットすることの重要性は変わらない。ヨーロッパ選手権でレフェリーたちのアップを見て、目から鱗が落ちる思いだった。

 この大会で、ヨーロッパ・サッカー連盟(UEFA)は、主審、副審合わせて総勢34人のレフェリーを、「17番目のチーム」と称した。ヨーロッパ選手権の出場は16チーム。そしてもうひとつ、「レフェリーズ」という名のチームが参加しているというのだ。
 ブリュッセル(ベルギー)郊外のホテルに設けられた本部には、専属ドクター、理学療法士、フィットネスコーチ、用具係、そして広報担当者までつき、万全の態勢でレフェリーたちを各試合に送り出した。このサポート体制がハイレベルなレフェリングをもたらしたのは言うまでもない。
 昨年のワールドカップのために新しくつくられたいくつかのスタジアムでは、両チーム用のほかに、レフェリー用の室内ウォームアップスペースを設けている。Jリーグが始まった当初には専用の更衣室もなく、小会議室のような部屋で着替えなければならない(当然、シャワーはない)スタジアムが多かったことを考えれば、大きな進歩だ。

 しかしUEFAの例と比べれば明らかなように、日本のサッカーのレフェリー・サポート体制は「万全」と呼ぶにはほど遠い。良いパフォーマンスの最も重要な要素は個々のレフェリーの日常的なコンディション管理だが、サポート体制の整備によってレフェリーたちの意欲も増し、相乗効果を生むに違いない。
 ひとつの国の代表チームやプレーヤーのレベルアップとレフェリーのレベルアップはけっして無関係ではない。むしろ、密接な関係があると言ってよい。レフェリーが意欲的に自分の役割に取り組めていない国のサッカーが強くなれるはずなどない。
 サッカー界のあらゆる側面で、レフェリーたちの置かれた状況を改善していく必要がある。
 
(2003年5月21日)

サッカーの話をしようについて

1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。

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