サッカーの話をしよう

No.51 ゲームの終わりは握手で

 Jリーグの川淵三郎チェアマンは握手が好きだ。
 普通の人ならおじぎや会釈で済ませるところを、にこやかに近づいて握手をする。以前からの習慣なのかどうか知らないが、川淵氏が握手している姿は、なぜかJリーグの若さ、国際性を感じてしまう。
 サッカーはインターナショナルなスポーツ。サッカーに興味をもつと、外国のスターからチーム、さらには地理、歴史、社会などにも関心が広がっていく。
 国際的なあいさつはなんといっても握手。積極的に握手をすることによって、川淵氏はサッカーの国際性をアピールしているのではないだろうか。

 今週のテーマはその「握手」。「試合の終わりは握手で」という提案だ。
 勝ったチームは抱き合って喜び、敗者はうなだれて退場するというのは、日本のスポーツではごく普通に見る光景。相撲や柔道などでは、互いに感情を抑えて「礼」をして終わる。
 だが、いずれも現代の国際的なスポーツ・サッカーには似つかわしくない。

 「ノーサイド」。試合が終わったらもうチームの区別はない。勝者も敗者もなく、ともにスポーツを楽しんだ友達がいるだけという思想は、19世紀英国のパブリックスクールやカレッジで発展したフットボールという競技の伝統だ。日本ではラグビー用語のように思われているが、英国では当然のようにサッカーにも貫かれている。
 イングランド・リーグは肉体の激突という面では世界で最も激しいが、どんなぶつかり合いをしても、試合が終わると選手たちは握手をかわして淡々と引き上げていく。
 英国だけではない。74年ワールドカップの決勝では、負けたオランダの主将クライフがスタンド前の階段下に立ち、表彰を受けに登っていく優勝チーム西ドイツの選手ひとりひとりを拍手で送った。
 試合中は全身全霊をかけた戦いをしても、スポーツはスポーツにすぎない。どんなに重要な試合でも、勝敗はグラウンドの中だけのものであることを、彼らはよく理解している。

 日本のサッカーも、そろそろこのような成熟したスポーツ観に立った行動が必要ではないか。その手本をぜひJリーグに見せてもらいたいと思う。
 Vゴールに歓喜する気持ちはわかる。しかし試合が終わったら、味方と抱き合うのではなく、まず相手チームの選手と握手し、健闘をたたえあってほしい。
 ジュニアの試合でも「整列、礼!」という形式的なあいさつでなく、試合後は相手選手と素直な気持ちで握手するような習慣をつけてほしい。これによって、スポーツはずっと豊かになるはずだ。

 横浜フリューゲルスのDFモネールはハッスルプレーから警告を受けることも多い。だが、現在のJリーグで、彼ほど「ノーサイドの精神」を見せてくれる選手はいない。
 四年前の天皇杯で、彼の所属する全日空(現在のフリューゲルス)は準決勝に進出、惜しくもPK戦で敗れた。大半の選手が「あと一歩」で決勝に届かなかった不運に肩を落とした。そのなかで、モネールはただひとりスタンドのファンに拍手を送り、相手選手一人一人と握手して決勝進出を祝福した。
 今日も、彼は試合後相手チームの選手、三人の審判と握手する。その姿は、彼がスポーツというものを真に理解していることの見事な証拠だ。
 少年からJリーグまで、サッカーの試合は握手で終わろう。「敵」も「味方」も、いっしょに試合をした「仲間」なのだから。

(1994年4月26日=火)

No.50 ファルカン監督 まずはお手並み拝見

 先週木曜に発表された新しい日本代表候補は、あっと驚かせるものだった。昨年のワールドカップ予選を戦ったチームの3分の2が落ち、予想外の選手が何人もはいっていたからだ。
 パウロ・ロベルト・ファルカン監督は、「時間がなかったが、過去の実績にとらわれず、現在いいプレーをしている選手、スタンドからでなくグラウンドで実際の力を見てみたいと思った選手を選んだ」と説明した。だが「どんなサッカーをやろうとしているのか理解できない」「国際経験の乏しい選手が多い」など、不安視する声も多い。

 92年春にハンス・オフトが監督に就任したときには、チームづくり、選手えらびの方針が非常にはっきりとしていた。そして結果として前年までの横山謙三監督のチームに近い選手が選ばれ、そこに何人か「オフト色」の選手がはいるという構成になった。だが、その時点での調子のいい選手を選ぶという点では、両監督は同じだった。
 頭を柔らかくしようと思っても、人間が固定観念から抜け出すのは簡単ではない。過去の実績を知っている人なら、「いまは調子が悪いけどコンディションさえ整えば誰にも負けないプレーを見せてくれるはず」と、「評価」と「期待」をどうしてもごちゃまぜにしてしまう。今回意外な人選が多かったのは、ファルカンが完全な「知識ゼロ」の状態からJリーグの選手を見て、選んだからだ。

 ただひとつ気になるのはこの人選がファルカンとフィジカルコーチのジルベルト・チンの2人だけで行われたことだ。最終的に決断を下すのは代表監督のファルカン自身であることは当然だが、日本のサッカーに詳しい人からの情報は重要だったはずだ。たとえばジーコはJリーグの選手の大半をよく知っている。Jリーグ12チームの監督、とくに前日本代表監督のハンス・オフトは、選手の能力について貴重な情報をもっているにちがいない。
 本人が言うように1カ月間という短期間で選手を選ばなければならないという状況下では、よりいっそうそうした「サポート態勢」が必要だったはずだ。
 日本協会の強化委員会がそれを怠ったのか、それとも本人が必要と思わなかったのかは不明だが、残念な気がする。

 ひとつ肯定的な見方ができるとすれば、今回の選手はまたJリーグの選手たちに大きな刺激を与え、活性化につながることだ。
 かつて、日本代表には、中学、高校時代からの「エリート」選手しか選ばれなかった。ユース代表がやがて日本B代表になり、そのなかからA代表が選ばれていくというコースができ上がっていた。
 それを打ち砕いたのがハンス・オフトだった。彼は前任者からの選手も多く使ったが、森保一(サンフレッチェ)という無名の選手をピックアップし、都並敏史(ヴェルディ)、吉田光範(ジュビロ)といった三十過ぎのベテランを呼び戻した。その効果は予想外だった。たとえ無名でも、30歳を過ぎていても、Jリーグで活躍すれば代表への道が開かれる--。これはまさに「コペルニクス的展開」だった。

 今回のファルカンの発表を前に、Jリーグのレギュラークラスの半分以上が、「もしかしたら」と思っていたに違いない。プロだったらそれくらい思わなければだめだ。ファルカンは今後も選手を入れ換えていくと明言しているから、Jリーグの選手たちの意欲はさらに刺激されたはずだ。
 話題たっぷりのスタートとなった新生日本代表。まずはファルカン監督のお手並み拝見といこう。

(1994年4月19日=火)

No.49 城の欧州遠征は正しかった

 正月の高校選手権の優秀選手で構成された高校選抜チームが3月末から欧州遠征し、先週戻ってきた。この遠征は毎年行われているものだが、今回ほど注目されたことはなかった。ことしのチームには、ジェフ市原のエースとしてJリーグの開幕から4試合連続5得点を記録した城彰二が含まれていたからだ。

 Jリーグのサッカーは非常にタフになっている。そのため、高校を出たばかりの選手がプレーするのは簡単ではない。リーグのチームにはいっても、2、3年は体をつくり、トレーニングを積んで20歳を過ぎるころに試合に出られるようになれば立派なもの。多くの選手は、大学に進学したつもりで4年間は下積みでもがんばろうと思っているという。
 これは日本だけでなく、世界的な傾向だ。ヨーロッパの一部リーグを見ても、23歳以下の選手がレギュラーとして活躍している例は多いとはいえない。国際サッカー連盟がオリンピックを23歳以下の大会にしたのは、選手としての完成に時間がかかる最近の傾向を見てのものだ。

 そんななかで、高校を出ていきなりレギュラーになったばかりでなく、4試合連続得点という離れ業をなし遂げた城に注目が集まるのは当然のことだ。
 しかし城の欧州遠征参加には、いろいろな意見が出された。その多くは「Jリーグの大事なときになぜ高校生の遠征に行く必要があるのか」という論調だった。もうプロになったはずの選手が、しかも一軍で出場しているばかりか、得点争いで首位にまで立っている男が、アマチュアといっしょに子供の大会に出る必要はないのではないかということだ。

 こうした意見には賛同できない。城は当然この遠征に行くべきだったし、帰ってきたいま、「行ってよかった」と感じているに違いないと思う。サッカー選手にとって、「よそのメシを食う」のは、ときとして非常に有意義だからだ。
 Jリーグのチームではベテランに囲まれ、全部お膳だてしてもらったチャンスを決めることだけに集中すればいい。しかし高校選抜にはいったら、プレーの面ばかりだけでなく、精神面でも中心にならなければならない。チャンスをもらうだけでなく、他の選手につくってやらなければならない。この状況下でいつものプレーができるのか。
 4カ月前には同じグラウンドでライバルとして対等に戦っていた選手たちが、いまは彼を「スター」として見ている。そうした選手たちに、「やっぱりプロは違うな」というプレーを見せることができるのか。

 サッカーの「実力」というのはおもしろいものだ。精いっぱい背伸びした上のレベルでできたことが、ずっと低いレベルの試合でできないときがある。それは上のレベルでできたことが「実力」ではないということだ。
 逆に、上でできたことが下でも余裕をもってできれば、自信になるだけでなくそのプレーに対する理解も深まる。いつでも一生懸命にやるという姿勢さえ崩さなければ、血となり肉となる材料はどんな試合にもころがっている。

 テレビのニュースでかいま見る限りでは、城は相手に反則され、転がされるたびに悔しさを満面に表していた。きっとJリーグの3試合ぐらいの犠牲など問題にならない大きなものをつかんできたに違いない。それは、ジェフにも日本のサッカーにも、歓迎すべきことのはずだ。
 それでは、人気者がJリーグを休むことで都合が悪かったのは、いったい誰なのだろうか。

(1994年4月12日=火)

No.48 GKはサッカー選手ではない?

 この夏アメリカで行われるワールドカップで、国際サッカー連盟(FIFA)はまたひとつルール改正を実施することを決めた。選手交代をこれまでの2人でなく、3人使えるようにしたのだ。ただし3人目の交代は、ゴールキーパー(GK)を控えのGKと代えることだけが許される。この改正はどんな意味をもっているのだろうか。

 FIFAが初めてワールドカップで選手交代を認めたのは70年のメキシコ大会。最初は負傷者で勝負が不公平にならないための配慮だった。だがいったん認められると、すぐ戦術的に使われることになる。
 1試合にウイングを3人用意し、1人は交代選手として相手DFが疲れたころに送りだすという戦術を実施し、成功を納めたたのは西ドイツのシェーン監督。現在では、チームの戦術を変えるために使われる交代のほうが、負傷者や疲労の色の濃い選手を変える場合よりも多くなっている。

 だが、ここでひとつ問題がある。規定枠の2人の交代を使ってしまってから負傷者が出たら、チームは10人で戦わなければならなくなるのだ。とくにGKがケガをすると、人数が減るうえに、フィールドプレーヤーのひとりにGKをさせなければならない。
 オフト前日本代表監督は2人目の交代として中山をなぜ早く使わないかの理由を、「2人変えてしまったら、相手はGKを狙ってくる。それが怖いんだ」と説明していた。
 今回のFIFAのルール改正は、チームや監督がそうした心配をすることなく2人の交代を使い、試合をおもしろくできるようにという配慮によるものだ。
 もし通常の2人の交代を使った後にGKが退場処分(レッドカード)を受けた場合にはどうなるのだろうか。これまでのルールでは、こうした場合、フィールドプレーヤーのひとりを急造GKにするしかなかった。FIFAはこの場合にもサブのGKを第3の交代として使うことができると説明している。
 とにかく本職のGKを入れて試合をやらせようというのがFIFAの考えのようだ。それによって、試合の興味を最後までもたせようというのだ。

 しかしこのルールにはひとつの欠陥がある。第3の交代として入ることができる選手を、「控えのGK」に制限している点だ。
 本来、サッカーのルールでは、GKは試合に出場する11人の選手のひとりにすぎない。ただし自陣ペナルティーエリア内では原則として手を使うことができるので、誰がGKであるかを主審に通告し、しかもその選手は他の選手と違う色のシャツを着なければならない。だから、主審に通告し、シャツを着替えるだけで、GKは試合中に何度でも出場中のフィールドプレーヤーと役割を交代することができる。

 今回のルール改正では、GKはもはやサッカー選手とは認められていないかのように見える。メキシコのGKホルヘ・カンポスは、試合によってはFWとしてもプレーするという。ワールドカップレベルでもそうした選手がいるのに、まったく無視されている。
 ワールドカップやプロの試合なら、このルール改正は前述したような効果を発揮するだろう。だがこれは一般のルールとして導入されるべきではないと思う。「サブGK」ということに関して無用な混乱を生む危険性が高いからだ。
 2億の競技人口をもつサッカーのルールはシンプルでなくてはならない。無制限に3人目の交代を認めるか、これまでどおり2人の交代にとどめるか、決定すべきはこの一点だ。

(1994年4月5日=火)

サッカーの話をしようについて

1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。

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