
ついに「ワールドカップ」が始まった。
2002年「決勝大会」の開幕は2年後の6月1日だが、「予選大会」が今月4日のトリニダードトバゴ対オランダ領アンチル戦(北中米カリブ海地区)で口火を切った。決勝大会だけがワールドカップではない。世界各地の予選大会も、重要で不可欠なその一部なのだ。
同じ4日には、この試合のほか、同じ北中米カリブ海地区の別のグループ、ホンジュラス対ニカラグア戦も行われた。トリニダードでの試合のほうがキックオフが1時間半早かった。
198チームが参加する予選大会全809試合の最初のゴールを決めたのはトリニダードのマービン・アンドリューズ。イングランド3部のチェスターのFWだ。前半9分、ヘディングで記念すべきゴールを決めた。
この日、トリニダードの首都ポートオブスペインのスタジアムを埋めたのは約1万人。イングランドの超人気クラブ、マンチェスター・ユナイテッドで世界的スターとなったFWドワイト・ヨークを呼び戻さなかったことが、ファンの熱を冷まさせてしまった原因らしい。
しかし試合は、5−0でトリニダードの圧勝だった。オランダ領アンチルは完全なアマチュア・チーム。天然芝のグラウンドでプレーした経験がほとんどなく、グラウンドに足を取られて固い守りを組織することができなかったという。
翌3月5日には、北中米カリブ海地区でさらに8試合が行われた。すでにワールドカップ予選大会は「春爛漫」の状況だ。そして今月末には、世界で最もハードな予選大会である南米地区の試合がスタートする。
昨年12月に東京で開催された予選組分け抽選会では、南米の抽選は行われなかった。南米サッカー連盟の加盟国はわずか10。全チームがホームアンドアウェーの総当たり2回戦のリーグを行って出場国を決めるシステムになっているからだ。
1チームがこなさなければならない試合数は18。3月28日と29日に「第1節」が行われ、2001年11月14日が最終の「第18節」となる。ほぼ1カ月に1試合の割合で行われる全90試合。ことしの秋から来年秋を中心に1チームあたり最大10試合で行われるヨーロッパ予選と比べると、いかにハードであるかわかるだろう。
ハードなのは試合数だけではない。ブラジル、アルゼンチンなど主要国では、代表選手の大半がヨーロッパのクラブに所属している。ワールドカップ予選は、召集されたら辞退することはできないから、選手は1年半のうちに18回も大西洋を渡らなければならないことになる。
南米大陸自体、南北8000キロと広大だ。大西洋を渡る選手でなくても、長時間の旅行でコンディション調整は難しい。
さらに大きな問題がある。高地での試合だ。ボリビアの首都ラパスは標高3500メートル。ビジターにとっての敵は、ボリビア・チームではなくその高度だ。富士山頂に近い高さに完全に慣れるには3週間必要だという。だから最近では、試合の数時間前にラパスに到着し、高度の影響が出る前に試合をして、試合後即刻ラパスを離れるという方法がとられている。
ボリビアだけでなく、エクアドル、コロンビアもブラジルやアルゼンチンを迎えるときには高地の都市で試合を開催する可能性があるという。
10チーム、全18節といえば、93年にJリーグが始まったときのチーム数であり、1ステージの節数と同じだ。山あり谷あり。粘り強く最後まで戦うことのできるチームだけが、「韓国/日本大会」への切符を手に入れることができる。
そう、「ワールドカップ」は、すでに始まっているのだ。
(2000年3月14日)
「チェンジオブ・ペース、チェンジオブ・ディレクション」
30分間ほどのフィルムのなかで、彼は繰り返し繰り返しそう語った。30年近く前、学生時代に見たジョージ・ベストの技術フィルムだ。
北アイルランド出身のジョージ・ベストは、マンチェスター・ユナイテッドのFWとしてヨーロッパ・チャンピオンズ・カップで優勝したヒーローのひとり。当時のサッカー選手のイメージからかけ離れたほっそりとした体、長く伸ばした黒い髪。そのスタイルから「サッカーのビートルズ」と呼ばれ、60年代の世界的アイドルだった。
彼のプレーの魅力は、なんといってもそのドリブルにあった。巧みにボールを操りながら相手DFをきりきり舞いさせ、最後には置き去りにしてしまう。世界中の少年たちがあこがれるのも無理はなかった。
そのベストが自分自身のプレーの秘密を簡単な言葉で語ったのが、「チェンジオブ・ペース、チェンジオブ・ディレクション」だった。「スピードの変化、方向の変化」という意味だ。
現代のサッカーにはいろいろな攻撃戦術があるが、攻撃側が目指すゴールの前に立ちはだかる相手守備を破るための原則は、つきつめればこの2点に要約される。それは、1対1でも、チーム対チームでも変わることのない原則だ。
フィルムでベストが説明していたのは1対1で相手を抜き去るためのポイントだった。「ほらね、ここでスピードに変化をつけ、ここで方向を変えているだろう。そうすれば、こんなに簡単に抜けるんだ」
だがチームの攻撃でも、この2ポイントは同じだ。横パスで相手DFラインの足を止めさせ、その次の縦パスで突破を図る。ボールをサイドに展開し、そのサイドに相手の守備を集めておいて大きなパスを逆サイドに振り、そこで縦へのスピードを上げ、突破を図る。
「チェンジオブ・ペース、チェンジオブ・ディレクション」、「スピードの変化、方向の変化」。先月、マカオで行われたアジアカップ予選をテレビで見ながら、ジョージ・ベストの説明が何度も頭をよぎった。
日本代表選手たちには、こうした攻撃の原則など、トルシエに指摘されるまでもなく子どものころからしみついている。しかしそれでも、いつスピードを変え、どのタイミングで方向を変えるのか、なかなか感覚や判断が合わない。そのもどかしさは最後まで抜けなかった。
昨年オリンピック予選を戦ったチームは、スピードと方向の変化が選手の個性とマッチし、最終的にはすばらしく高いレベルに達した。しかし6月、7月の1次予選の段階では、ことしの日本代表と同じようにもどかしい時間も長かった。新しいチームがこうした感覚や判断を合わせるには、すこし時間がかかるということなのだろう。
2000年Jリーグの開幕も秒読みにはいった。
先週土曜日のゼロックス・スーパーカップでは、名古屋グランパスとジュビロ磐田がそれぞれに見事なスピードと方向の変化でスタンドを沸かせた。グランパスは主としてストイコビッチの天才がその「変化」の部分を受け持った。一方、ジュビロは複数の選手が変化のポイントに立ち、全員の判断を合わせることで対抗した。
クラブチームは毎日、そして1年間、場合によっては数年間にわたっていっしょに練習し、試合を続ける。互いのタイミングを覚え、変化をつくる感覚や判断を合わせる時間は十分ある。それこそ、クラブサッカーの最大の魅力でもある。
スピードと方向の変化がチーム一体の感覚と判断で行われるハイレベルな攻撃を、今季、多くの試合で見たいものだ。
(2000年3月8日)
サー・スタンレー・マシューズの話をしたい。
2月23日に亡くなったイングランドの伝説的スターだ。1915年2月1日生まれ、ちょうど85歳だった。
「マシューズ伝説」は、彼が50歳の誕生日を5日過ぎた日にイングランドのプロ1部リーグのグラウンドに立ったという1点だけでも十分衝撃的だ。この最年長出場記録は、もちろん、今日も破られてはいない。同じ年、彼はエリザベス女王から「ナイト」の称号を授けられ、「サー・スタンレー」となった。
理髪師であり、ボクサーでもあった父から譲り受けた頑健でそして俊敏な体を利して、マシューズは17歳でデビュー、19歳のときには早くもイングランド代表に選ばれている。
ポジションは「右ウイング」。いちばん右外に位置するFWだ。タッチライン際でボールを受け、ゆっくりと相手の左バックに向かってドリブルを始める。そして左に大きく踏み出し、相手選手の重心を右足のかかとにかけさせた瞬間、右足のアウトサイドで右外に抜いて出る。
33年間、彼はこのフェイントひとつでやり通した。観客も相手DFも、マシューズが何をするか知り尽くしていた。しかしそれでも止められなかった。それが第2の「伝説」だ。
彼はストーク・シティでプロになり、32歳のときにブラックプールに移籍した。すでに15年を超す輝かしい経歴がありながら、マシューズが獲得したタイトルといえば、1933年、ストーク時代の2部リーグ優勝だけだった。しかしブラックプールでも不運続きだった。2回にわたってFAカップ決勝で涙をのんだのだ。
53年、マシューズはブラックプールで3度目のFAカップ決勝に出場した。相手はボルトン。全イングランドの人びとが、38歳のマシューズに初のメジャータイトルを取らせたいと祈った。しかし強豪ボルトンの攻撃は容赦なかった。後半10分までに1−3とリードされ、チームには絶望感が漂った。
それをはね返したのがマシューズのプレーだった。ボールをもらうたびに相手をうち破り、次つぎとチャンスをつくったのだ。ブラックプールはモーテンセンの2点で終了1分前に追いつき、ロスタイムにはマシューズのセンタリングからペリーが決めて4−3で逆転に成功する。FAカップ決勝史上、2点差をひっくり返したのは、初めてのことだった。この試合は「マシューズの決勝」と呼ばれ、長く人びとの記憶に残ることとなった。第3の「伝説」である。
1961年、46歳のマシューズはストークに戻った。当時のストークは、再び2部でもがいているところだった。英雄の帰還に、ストークのファンは燃え立ち、1万を割っていた観客数はすぐに3万5000を超えた。マシューズは超人的なプレーを見せ、翌62/63年シーズンにストークを2部優勝、1部復帰へと導いた。
この年、彼は2度目の「年間最優秀選手」に選ばれている。48年に始まったこの賞の最初の受賞者こそマシューズだった。何のタイトルもない33歳のマシューズに何らかの栄誉を与えようと新聞記者たちが考案したのが、この賞だったといわれる。それを15年後に再びマシューズが取るとは、想像を絶することだった。
「私は、たばこはもちろん、酒も一切飲まなかった。野菜と果物中心の食事を摂り、毎日朝6時に起きてしっかりとトレーニングをした」
33年間という驚異的なプロ生活には、何の秘密もないと、彼は語った。そしてまた、その現役生活を通じていちども、退場はおろか警告さえ受けなかったことも、「マシューズ伝説」の重要な一部だった。
(2000年3月2日)
毎年1回の定期会合でサッカーのルール改正を決めている国際サッカー評議会(IFAB)の第104回会議が、先週土曜日にロンドン郊外で開かれた。
ことしの7月1日から施行される改正の大きなものはGKルール。これまでの「4ステップルール」が廃止され、保持してから「6秒以内」に手放すことだけが義務づけられた。
しかしことしの最大の話題は、近い将来の導入を見越してのふたつの新ルールの実験の承認だった。ゴール判定機の導入、そして非常に大きな影響をもちそうな、「新フリーキック(FK)ルール」の実験だ。
「疑惑のゴール判定」が問題になるたびに「機械判定」の導入が叫ばれる。いま検討されているのは、カメラではなく、テニスのサーブの判定で実用化されている「ビーム」(信号電波)を使う方式だという。
さて、「新FKルール」とは、FK前に守備側に何らかの違反行為があったときに、ボールをセットする位置を9.15メートル守備側のゴールに近づけるというものだ。ラグビー・ルールからの借用だという。ただし、前進させても、ペナルティーエリアのなかに入れることはない。
その違反には、「ボールから規定の距離(9.15メートル)離れようとしないこと」、「ボールを離さず、FKを遅らせること」、「ボールを遠くへ投げたり、けったりすること」、「言葉や行動で異議を唱えること」、そして「その他の反スポーツ的行為」と、五項目にわたる広範な行為が挙げられている。
ゴール前で攻撃側の選手が倒されてレフェリーの笛が吹かれる。ボールをセットしてゴールを狙おうとする攻撃側。しかし守備側は、あるときには判定への異議を執拗に唱え、またあるときにはボールから極端に近くに「壁」をつくり、すぐにはFKをけらせないようにする。試合は1分近く止まる。こうしたみにくい時間かせぎを撲滅し、試合をスピードアップさせることが新ルール案の目的だ。
「新FKルール」はすでにイングランドの地方のリーグ戦や、2部と3部リーグのクラブが参加するカップ戦で実験され、好評だ。昨シーズンのこのカップ戦では、実験が実施された40試合で850回のFKが行われ、レフェリーが守備側に罰則を課したのはわずか16回だった。新ルールが守備側の時間かせぎの「抑止力」になったと、この新ルールの提唱者で強力な推進者でもあるイングランド協会は分析している。
イングランド協会は、2000〜2001年のシーズン、できればプレミアリーグ、FAカップをはじめとした主要大会のすべてで「最終テスト」を実施する意向だという。
FKのたびに見せられる守備側の悪質な行為には本当にうんざりする。新ルールの妥当性に疑いはない。しかし心配な面もある。レフェリーにかかる負担が、また重くなることだ。
97年から施行されているはずのGKの「5〜6秒ルール」を思い起こしてほしい。「4ステップルール」と合わせてのGKのボール保持制限だったが、反則をとると攻撃側にペナルティーエリア内で間接FKを与えるという重大な状況になる。そのせいか最近ははほとんど適用例が見られない。GKのプレーが早くなったというより、レフェリーが判定を避けているように思えてならないのだ。
罰則に相当する行為の種類は明確に示されているが、どの程度から罰則を適用するかはレフェリーの裁量となる。レフェリーは非常に重大な判断を下さなければならず、それが新たな問題につながる恐れもある。
明確な判定基準をつくることができるかどうかが、この「新FKルール案」の成否を握っているように思う。
(2000年2月23日)
悲報を受け取ったのは2月5日午後、香港のホテルでカールスバーグカップの1回戦に出かけようとしていたときだった。
「ロクさんが亡くなりました」
東京の友人がメールで伝えてきた。パソコンの画面を眺めながら、私は言葉を失った。そして、痛恨の思いを抑えることができなかった。
高橋英辰さん、1916年辰年の生まれ、享年83歳。サッカー界のだれもが、「ロクさん」と呼んでいた。本当のお名前は「ひでとき」と読む。
ロクさんのお父さんは旧制刈谷中学(愛知県)の英語教師で、校長先生だった。そしてロクさんが子どものころから「頭に毛があった記憶がない」というほどの見事な禿頭だった。生徒たちは「SUN(太陽)」と呼んだ。そこにロクさんが入学した。
「SUNのSON(息子)だからロクだ」
以来、ロクさんとなった。
刈谷中学から早稲田に進み、卒業して日立製作所に入社する。母校早稲田の監督を経て、やがて日本代表の監督となる。57年と60年から62年の2期。東京オリンピックを前に暗中模索していた日本代表の基礎をつくったが、62年に若い長沼健に監督の座を譲り、一時は社業に専念した。しかし70年、名門日立が日本リーグで下位に低迷するなか監督として復帰、2年後にはリーグ優勝に導く。
「ブラジル流個人技」がもてはやされた当時、ロクさんは「走る日立」を掲げ、動いて動いて動き回るというサッカーの原点を示して、日本のサッカー界に大きな警鐘を与えた。
79年から6年間は日本リーグの総務主事を務める。人気の底辺だったころ、ロクさんはリーグ事務局を協会から独立させるなど、画期的な施策を次つぎと断行した。「ロクの改革」がなければ、Jリーグへの移行は数年は遅れただろう。
70歳を過ぎてもサッカーへの情熱は衰えず、80年代後半からはNTT関東(現在の大宮アルディージャ)の特別コーチを務めた。確固たる「サッカー哲学」をもちながら、常に世界の状況に目を配り、研究を怠らなかった。世界中に足を運び、トップクラスのサッカーから、常に「新しいもの、変わらぬもの」を考え続けた。
数年前、私はロクさんとひとつの約束をした。ロクさんの経験を1冊の本にまとめようという話だった。ロクさんは喜ばれ、「ロクの細道」という書名まで考えられた。ロクさんは本来、私など足元にも及ばない文章の達人で、味のある書き手だった。しかしいろいろな都合で、私が話を聞き、まとめて、チェックしてもらうという形にした。
数十時間にわたってお話を聞き、原稿起こしが始まったが、途中で中断し、未完のまま私の手元に十数本のテープが残った。温厚なロクさんは、なかなか原稿が進まなくても、私の怠慢を責めたりしなかった。しかし天国に召される瞬間には、「あれは、どうなったのかな」という思いが胸をよぎったに違いない。それを考えると、痛恨の思いを拭い去ることができない。
小さな体、穏やかな笑顔の奥に猛烈な闘志を秘め、日本サッカーの発展を支えて、なお「自己」を主張されることなく後進に道を譲られたロクさん。
葬儀は9日水曜日、香港からの帰国の朝だった。せめてもの罪滅ぼしに、私は弔電を送った。
「サッカーひとすじに歩かれたロクさんの偉大な足跡と、温かなお人柄を思い、心の底から悲しい気持ちがわいてくるのを抑えることができません。願わくは、天国にもきれいな芝生のグラウンドと1個のボールと、そして十数人のやる気のある選手がいますように」
そう、そして私は、ロクさんとの「約束」を果たさなければならない。
(2000年2月16日)