
「ファームリー・パス!(しっかりとパスしろ」
ポルトガルから中国へのマカオ返還を記念して昨年完成したばかりのスタジアムに、太く鋭い声が響く。日本、シンガポール、ブルネイを迎えるアジアカップ予選を目前にしたマカオ代表の上田栄治監督(46)が、20人あまりの選手を熱心に指導しているのだ。
「選手は、学生、警官、消防士など全員アマチュアで、通常は練習は毎週3回、午後8時からやっています。マカオの選手たちは子どものころからずっと試合中心で、練習というものをあまりしなかったらしく、基礎的な練習にも意欲的です。日本のサッカーに対する敬意があるのも、私の仕事の助けになっています」(上田監督)
マカオ・サッカー協会から日本サッカー協会にプロコーチ派遣の要請があったのが昨年7月。アジア・サッカーへの貢献を図る日本協会には、断る理由などなかった。しかしベルマーレ平塚の監督を第1ステージだけで退任、フリーの立場にいた上田さんは、意向を打診されてから1カ月も考えたという。
治安が悪いという話を聞いた。そして人口40万人という小さな「国」であるとしても、国際サッカー連盟(FIFA)に加盟する1国の「代表監督」になることの責任も感じた。もちろん、育ち盛りの3人の子どもをもつ父親として、家族と離れて暮らすことも気になった。
マカオに視察に来て、人びとの温厚な性格、そして聞いていた治安の悪さも心配ないことがわかって、心を決めた。こうして、日本人として初めての「外国代表チーム監督」が誕生した。
しかし着任してみると、この国のサッカーの発展を阻害する要素がいくつも見えてきた。
まずグラウンドがない。現在マカオにあるサッカーグラウンドは、芝が2面、人工芝が3面、そして土が1面。合計してもわずか6面しかない。
第2にボールがない。基本的に試合ばかりだから、練習のためのボールも不足していた。
そして第3には、コーチがいない。「するスポーツ」としてのサッカーは非常に人気が高く、みんな高齢になってもプレーを続けているので、コーチになる人がいないのだ。
長期計画でこの「3ない」を解消し、その一方で代表チームを強化しなければならない。
上田監督からすこし遅れて、GKコーチを兼任する今井雅隆コーチ(40)も着任した。本田の監督やグランパスのコーチを務めた経験をもつ今井さんが、いろいろな面で相談役になってくれているので、仕事は非常にやりやすくなったという。
練習現場では、前マカオ代表監督のジョアン・ロペス氏が選手たちとの間に立って、ミーティングなどでは英語から広東語への通訳も務めてくれている。ただし練習中はすべて英語だ。
マカオ協会との契約はことし11月までの1年間。
「一人前の選手をつくるには、少年時代から年代に応じたトレーニングが不可欠。長期的な計画が必要です。私の仕事は、マカオ協会にその認識をもってもらい、今後の継続的な仕事の基礎をつくることです」と話す。
「アジアカップ予選ではぜひともブルネイに勝ち、シンガポールともいい試合をするのが目標。そしてマカオ協会の希望は、2年後には香港に勝ちたいということです」
ことし1月の「FIFAランキング」では、マカオは203チーム中176位。「世界で最も弱い代表チーム」のひとつにすぎない。しかしアジアの「サッカー発展途上国」に対する日本サッカー協会の「友情」と、上田監督や今井コーチら現場で誠意を込めた仕事をする人びとの努力により、いつかきっと大きな花を咲かせるに違いない。
(2000年2月9日)
英国「タイムズ」紙によると、イングランド協会は今週の月曜日に重要な会合を開催したという。最近イングランドではイエローカードが急増し、レフェリーと監督、選手間の関係が悪化する一方。それを止める方向を探る会議だ。
召集されたのは、プレミアリーグ、1部リーグ、リーグ監督協会、プロ選手協会、そしてレフェリー協会の代表者たち。リーグ、監督、選手たちからは、そろって「イングランドのレフェリーはあまりに簡単にイエローカードを出しすぎる」という不満が出ている。
失点のピンチに、相手をつかんだり意識的にファウルするなど不正な手段で妨害する行為、後ろからの危険なタックルなど、厳しい罰則を課するに値する悪質な反則もある。しかしその一方で、ちょっとしたばかげた行為にも同じ「イエローカード」1枚が出される。結果としてイエローカードは増える一方で、それが試合結果やリーグ戦の行方にもかかわってくる。
プレミアリーグでは、昨年10月に行われたアストンビラ対リバプール戦で11人もの選手にイエローカードが出され、退場者もひとり出た。
試合中にレフェリーが選手を罰する方法には「イエローカード」と「レッドカード」しかない。そして国際サッカー連盟(FIFA)がルール改正でイエローカードの適用範囲を毎年のように広げてきた結果、現在ではイエローカードで罰せられる反則や悪質な行為の範囲はあまりに広い。レフェリーたちがルールに忠実であろうとすれば、荒れた試合でなくても1試合に5枚や6枚は当たり前になる。
イングランド協会のトンプソン会長は、さらに、近年のテレビ中継技術の改善がレフェリーたちに大きなプレッシャーになり、判定が厳しくなる原因になっているのではないかと語る。
「デジタル技術の向上で、テレビ側はピッチ上の全選手をカメラで追うことさえできるようになった。そして、何かが起こると、瞬時にスロービデオで問題の選手の行為を再現する。ほんのすこしの間違いも許されないというレフェリーのプレッシャーは大変なものだ」
昨年のワールドユース選手権準決勝では、日本のキャプテン小野伸二が、ケガの治療をしていた味方選手の復帰をレフェリーにうながすためにスローインをちょっとためらったことでイエローカードを受けた。小野にとってはこれが決勝トーナメントでの2枚目のカードで、決勝戦には出場できなくなった。ワールドカップでもJリーグでも、こうした例はいくらも見ることができる。
それを避けるには、選手がルールをよく理解し、節度をもった行動をとることが何よりも求められる。しかしそれと同時に、レフェリーの取り組み方も重要な要素だ。
「ルールを振りかざすのではなく、選手にもっと話しかけ、コミュニケーションをとって試合を導いていくことが必要ではないか」と語るのは、プレミアリーグのレフェリー委員長であるフィリップ・ドンだ。
Jリーグでは、ここ数年、スコットランド人のレスリー・モットラム氏の影響か、選手に穏やかに話しかけるレフェリーが増えてきたように思える。しかしその一方で、「問答無用」とばかりにイエローカードを振りかざすレフェリーがまだいるのもたしかだ。
日本の第一人者である岡田正義レフェリーは、「良いレフェリングとは、試合を通じて選手、チームとの信頼関係を築くこと」と話している。
信頼関係への第一歩は言葉をかけ合い、コミュニケーションをとることだ。ことしは、笑顔で選手たちと話すレフェリーたちの姿をもっと見たいと思う。
(2000年2月2日)
先週の土曜に中田英寿の所属するASローマがセリエAで対戦したピアチェンツァのDFラインに、ピエトロ・ビエルコウッドという選手がいた。
1959年4月6日生まれというから、ことしの4月で41歳を迎える。しかしいまもバリバリの現役で、ハードタックルを得意とするストッパーとして活躍している。16歳でプロにデビューし、現在のピアチェンツァが9クラブ目。サンプドリア在籍が12シーズンといちばん長いが、ローマ、ペルージャでもプレーし、そしてユベントス、ACミランといったビッグクラブでも活躍した。
179センチ、75キロ。とりたてて大柄というわけではない。しかし生まれついての強靱な肉体で、これまで無数のストライカーたちと渡り合ってきた。先週土曜日のローマ戦でも、ハードタックルでイエローカードを受けるほどだった。
40歳を過ぎてトッププロで活躍できる選手は例外としても、30代のなかばを過ぎて活躍している選手は世界中にいくらでもいる。日本でも、カズ、福田、井原、中山など「ドーハ組」などと呼ばれる世代が、30代のなかばにさしかかりながら衰えない気力でチームの牽引車的な役割を果たしている。
しかしその一方で、「スピード」と「プレッシャー」というフィジカルな要素を年ごとに強めていく現代サッカーのなかでは、体力的に少しでも衰えが見えると活躍しにくい状況になってきていることも確かだ。
トップクラスのサッカーに限ったことではない。あらゆるレベルでサッカーのスピード化が進んでいる。それは、30代なかばを過ぎてなお選手としての情熱を失わない人びとにとってやっかいな問題だ。
この現象は日本国内にとどまらず、世界的な傾向でもある。最近、国際サッカー連盟(FIFA)のアントニオ・マタレーゼ副会長は、「35歳以上のワールドカップ」を検討していることを明らかにした。過去に名をなしたスターだけを集める興業目当ての大会ではない。真剣な「世界選手権」だ。
「17歳以下、20歳以下の世界ユース選手権がある。23歳以下のオリンピックがある。しかし『以下』という区切りでなければいけない理由がどこにあるのか。35歳『以上』というカテゴリーがあっても当然ではないか」と、マタレーゼ副会長は説明している。
日本サッカー協会も、ことし4月の新年度登録から「シニア」(40歳以上)のカテゴリーをつくり、チーム登録、選手登録を受け付けるという。昨年の調べでは、一種登録(男子一般)には40歳以上の選手が約1万人いた。そうした状況を背景にした登録制度の改訂だ。
そして60歳以上、40歳以上と分けた全国大会の開催もことしから予定されている。同種の大会が都道府県レベルでも組織される方向だという。
ワールドカップから草サッカーレベルまで、シニアサッカーの振興は21世紀の大きなテーマである。マタレーゼ副会長は、「それは、サッカーの社会的機能を全うすることでもある」と強調する。
日本においては、サッカーに親しむ年齢層が年ごとに上がってきている事実が挙げられる。そして一方では、少子化の影響で登録人口が頭打ちの日本サッカー協会がサッカー仲間をさらに増やす方策として、シニアのサッカーの振興が必要だ。
ビエルコウッドや、41歳までJリーグでプレーしたラモスのような「鉄人」の存在はすばらしい。しかしその一方で、普通のシニアたちが、それぞれのレベルと情熱に応じてサッカーに取り組むことができる環境をつくることは、私たちの緊急課題のひとつと思う。
(2000年1月26日)
わずか9分間のプレーだったが、城彰二がスペイン・リーグへのデビュー戦で可能性あふれるプレーを見せた。イタリアのセリエAでは、中田英寿がビッグクラブのひとつであるローマへ移籍して3日後にいきなり先発出場して活躍した。
2000年1月16日日曜日の深夜、日本中のサッカーファンがテレビの前で心ときめく時間を過ごしたに違いない。
その前夜には、セリエAのベネチアに所属する名波浩が、交代出場ながらチームの貴重な勝利に貢献するプレーを見せた。中田ほど派手な活躍ぶりではないが、名波が着実に力をつけ、持ち前の頭の良さを生かしてハードなリーグでも生き残っていけることを示した試合だった。
77年から86年まで西ドイツのブンデスリーガで活躍した奥寺康彦、94/95年シーズンにセリエAのジェノアでプレーしたカズ(三浦知良)らの先達はいた。しかし現在のヨーロッパへの進出を導いたのは、まちがいなく98年夏にペルージャに移籍した中田英寿だった。高い技術を示した中田の活躍が、日本人選手を世界の「移籍市場」に乗せたのだ。
日本でサッカーが「ビッグゲーム」になったのは、93年のJリーグ誕生だった。熱狂的なブームのなかで、少年たちはJリーグ選手、日本代表選手へのあこがれを募らせた。しかしそれ以前には、日本のサッカー少年たちのアイドルはマラドーナ(アルゼンチン)をはじめとした世界のスターだった。4年にいちどのワールドカップ中継や雑誌からの情報を通じて、少年たちは「世界」を夢見た。
現在のJリーグの選手たちの大半は、そうした少年時代を過ごしてきた。だからJリーグで活躍し、日本代表で確固たる地位を築いても、彼らは「その先」にある「世界」を見失うことがなかったのだ。
そして98年、中田が出て行く。実は私は、98年ワールドカップ終了後には数人の選手がヨーロッパに移籍すると予想していた。だが初出場の大会を3敗で終えた日本は評価が低く、話がまとまったのは中田ひとりだった。しかしそのひとりが、メンタル面でもフィジカル面でもヨーロッパの水準に達した中田であったことが幸運だった。
中田がイタリアで高い評価を受けたことによって、初めてヨーロッパで日本人選手が評価の対象になり、「移籍市場」に乗るようになった。いくつものクラブが日本人選手に目を向け始め、昨年夏に名波が移籍し、ことし城が動いた。
いま、Jリーグの若手選手に「将来の希望は?」と聞くと、10人中9人までが「世界のトップリーグでプレーしたい」と語る。残りのひとりは、「まずはクラブでレギュラーを取ること、そしてできれば代表に」と話す。しかし「その先は?」と聞くと、「そこまで行かなければ、世界でプレーすることはできないから」と答える。すなわち、10人中10人が、中田の道を追う夢をもっているのだ。
中田も名波も城も、日本では確固たるスターの地位を築いていた。それぞれに自信はあっただろうが、ヨーロッパに出るのは、その地位を台無しにする恐れを秘めた冒険だった。しかし彼らは果敢に挑戦した。
3人とも、日本国内で自分が到達した場所に心満たされることがなかったのだろう。そして新しい挑戦をすることによってのみ、サッカー選手としての闘志をかきたて続けることができると感じたに違いない。
その挑戦が、彼らに続く世代に刺激を与え、日本国内のサッカーも活気づかせる。
いい時代になってきたと思う。その時代をリードする中田、名波、城の3人に、そしてその後に続く若い選手たちに、心から声援を送りたいと思う。
(2000年1月19日)
20世紀最後の年を迎えた。
もし1000年後に人類の歴史が書かれたら、この世紀はどういう時代として描かれるのだろうか。ふたつの「世界大戦」だろうか。テクノロジー(科学技術)が進歩し、人びとの生活が大きく変化したことだろうか。そのひとつに、「スポーツの大衆化」が挙げられるのではないかと、私は思っている。そしてなかでも、サッカーという競技の世界的広まりが指摘されるだろう。
19世紀の半ばにイングランドで生まれ、世紀末までに世界中にばらまかれたサッカー。しかしそれが本当に「世界のスポーツ」となったのは、1930年に始まるワールドカップがきっかけであり、さらに、20世紀のテクノロジーの「代表選手」のひとつである航空機の発達が、重要な要素となっている。
世界のサッカーで日常的に国際交流が行われるようになったのは、1955年にスタートしたヨーロッパ・チャンピオンズ・カップ(現在のUEFAチャンピオンズ・リーグ)が最初だった。毎週週末に行われている国内リーグの合間、水曜日を使って行うというのが、この大会の重要なコンセプトのひとつだった。ヨーロッパは狭いとはいっても、その実現には航空機が不可欠な要素だった。
チームが短時間で移動できるようになって、初めてサッカーは本格的な国際化時代にはいる。それがやがて「テレビの時代」に迎えられ、地球規模の関心事となっていくのだ。
しかしその「航空機時代」への扉を叩いたのは、意外なことにヨーロッパではなく、南米の人びとだった。1927年6月5日、史上初めてサッカーチームを乗せた航空機がブラジル南部のポルトアレグレから飛び立った。乗客は、ECサンジョゼというサッカーチームだった。
その年に誕生したばかりのヴァリグ航空が所有する唯一の飛行機「アトランチコ号」は、ドイツ製の水上機だった。乗客の定員はわずかに9人。仕方なく、2人の役員と9人の選手だけがこの飛行機で旅行することになった。乗客のうち2人は、貨物室に乗せられた。残りの選手3人と役員1人は、2日前に船で出発していった。
ブラジル南部の6月は寒い。分厚いコートを着てきた選手たちを見て、ドイツ人パイロットのフォンクラウシュバッハは「10人しか乗せられない」と宣告した。しかしそれではその日の試合に支障をきたす。チームは全員で行くと主張して譲らず、飛行機は3度目の試みでようやく離水に成功した。その日の午後、ペロタスでの試合は、0−0の引き分けだった。
ポルトアレグレ−ペロタス間は直線距離で250キロ。東京−名古屋間ほどだ。アトランチコ号はぴったり2時間半で飛び、チームを試合に間に合わせた。飛行機がなければ往復で数日間も要したのだ。航空機での移動がいかにサッカーの発展に寄与したかわかるだろう。
第二次世界大戦で航空技術が大発展し、戦後は飛行機での遠征は日常茶飯事となった。そして本格的な国際化時代がきた。
便利になった反面、悲劇も起きた。1948年のトリノ、58年のマンチェスター・ユナイテッド、八七年のアリアンサ・リマ、そして九三年のザンビア。一瞬にして、ひとつの才能あふれるチームが消えていった。
今日、トップクラスのチームにとって、アウェーで試合をすることは、飛行機に乗ると同義語にさえなっている。それはもはや命がけの冒険ではない。
ことしも世界中で何千という国際試合が行われる。そして延べにすれば何万というサッカーチームが空を飛ぶことになる。
サッカーがいかに典型的な「20世紀の産物」であったか、この一事だけでも明白なように思える。
(2000年1月12日)