
木々が赤や黄色に色づき、ウクライナの首都キエフは清新な秋の空気に包まれている。今晩、日本代表は8万3000人を収容する共和国立オリンピックスタジアムでウクライナ代表と対戦する。
ウクライナはヨーロッパの強豪に先駆けて9月3日にワールドカップ出場を決めた。前回大会3位のトルコ、昨年の欧州選手権で優勝したギリシャ、そしてワールドカップの常連デンマークを退けての堂々たる出場決定だった。
ウクライナは過去3回にわたってワールドカップや欧州選手権出場の直前まで行ったが、いずれもプレーオフで夢を断たれてきた。ワールドカップだけでなく、メジャーな大会の出場権獲得は今回が初めてのことだ。
だが、ウクライナはけっして「サッカー新興国」ではない。むしろ、「隠れたサッカー大国」と言うことのできる歴史をもっているのだ。
言うまでもなく、1991年にソビエト連邦が崩壊するまで、ウクライナはその一員だった。そして、世界の強豪と恐れられてきたソ連のサッカーのひとつの中心が、ウクライナの首都キエフだったのである。1927年に創立されたクラブ「ディナモ・キエフ」は、モスクワの数クラブによるタイトル独占を阻止して61年にチャンピオンの座に立つと、以後13回にわたって全ソ連リーグを制覇した。
そして「ソ連代表チーム」でも、ディナモ・キエフの選手たちは欠くことのできない存在になっていった。ディナモが全盛を誇った70年代半ばには、先発のうち10人がディナモ・キエフの選手で占められるということさえあった。名将ロバノフスキーに率いられたディナモは75年に欧州カップウィナーズカップで優勝、当時ベッケンバウアーを中心に無敵を誇っていたバイエルン・ミュンヘン(ドイツ)と対戦した「欧州スーパーカップ」では、スピードで相手を圧倒、3−0の勝利をつかんだ。「ディナモ・キエフ=ソ連代表」の状況が生まれたのはこのころのことだ。
1991年にソ連が崩壊、独立したウクライナは翌年に国際サッカー連盟(FIFA)に加盟した。しかしここでウクライナ・サッカーは大きな試練に直面する。ウクライナ出身の主要なプロサッカー選手は、この当時、裕福なモスクワのクラブでプレーしていた。ウクライナ国籍になると、モスクワのクラブでは「外国人」扱いになり、出場できなくなる恐れがある。そのため、多くの選手がロシア国籍を選択してしまったのだ。新しく生まれたウクライナ代表は、国際経験のない選手の集まりにすぎなかった。
さらに数年を経過すると、ウクライナの国内リーグ自体に変化が生まれた。欧州のカップ戦で勝ち抜くために、アフリカや南米の選手を獲得するようになったのだ。
ウクライナのサッカーの伝統はユース育成システムにあった。ディナモ・キエフなどのクラブの「アカデミー」が若手育成に力を入れたことが70年代以降の黄金時代をもたらしたのだ。しかしいくら指導しても、クラブで出場の機会が少なければ選手は育ってこない。
本来なら独立後すぐに世界の強豪の座を占めてもおかしくなかったウクライナが10年以上にわたる低迷期を過ごさなければならなかったのは、こうしたいくつもの原因が重なった結果だった。
しかしウクライナのサッカーはそうした試練を見事に乗り越えた。ACミランで活躍するFWシェフチェンコだけのチームではない。予選の12試合で7失点しか許さなかったGKショフコフスキーを中心とした守備も堅固だ。
豊かな農業国のウクライナ。代表ユニホームの黄色は、大地を覆う小麦を意味しているという。独立後14年、「実り」の時期を迎えたウクライナは、どんなサッカーで日本代表を迎えるだろうか。
(2005年10月12日)
「募集の広告を見た瞬間、『天命』だと感じ、即座に応募しました。新しいナショナルスタジアムの芝の管理に携われるのは大きな名誉です」
興奮を隠せない表情でそう語るのは、スティーブ・ウェルチ。最近、新しいウェンブリー・スタジアムのピッチ管理責任者に任命された。
ロンドンの北東部に巨大なモニュメントが出現しつつある。高さ133メートルというから、ほぼ東京タワーの大展望台と同じ高さの鋼鉄製の大アーチ。イングランド・サッカーファン待望の新しいウェンブリー・スタジアムが、いよいよ完成に近づきつつあるのだ。
そしてこの8月、新スタジアムのピッチ管理責任者が決まった。ウェルチは、ノッティンガム・フォレストで2002年に「プロサッカークラブ最優秀ピッチ管理者賞」を受賞した「芝名人」だ。
現在、ロンドン近郊の苗床で育成されている芝は、来年のはじめに新スタジアムに移植され、最後の仕上げにはいる。スタジアムでは、すでに給排水と凍結防止の温水を通すための配管も完了、特殊な繊維を混ぜて芝生の根付きをよくした砂の床土を入れ、芝生の到着を待つばかりだ。
ウェンブリー・スタジアムは、「サッカーの母国」イングランドの誇りだ。旧スタジアムは1923年に建設され、以来、イングランド代表のホームとして、そしてFAカップ決勝などごく少数の特別な試合の舞台として使われてきた。イングランドがワールドカップを制覇した(1966年大会)のも、このウェンブリーのピッチ上だった。
新スタジアムには斬新なアイデアが盛り込まれている。1階席をつぶすことによって陸上競技のトラックを仮設できる画期的な設計が採用された。トラックの設置や撤去には、わずか数週間を要するだけだという。
しかし設計者が何よりも心を砕いたのはピッチコンディションだった。近年、各地の最新鋭のスタジアムで、日当たりと風通しの悪さが原因で芝生がダメージを受ける例が数多くある。使用頻度が少ないこともあって、旧スタジアムのピッチは「世界最高クラス」と言われてきた。その評価を落とすことはできない。
ところが新スタジアムのスタンドは旧スタジアムより20メートルも高いうえにピッチとの距離が短い。当然、日照時間は減る。他のスタジアムでは南側のスタンドの屋根に透明の素材を使う工夫の例もあるが、すぐによごれてその効果もなくなる。
そこで新ウェンブリーでは可動式の屋根を採用した。試合中も、天気が良ければスタンドの大半には屋根はかからない。太陽光が直接芝生に降り注ぎ、風通しもよくなる。雨が降ってきたら屋根を動かす。わずか15分間で全座席が屋根で覆われるという。
旧スタジアムの最終戦は2000年10月のワールドカップ予選、ドイツとの一戦だった。雨のなか、0−1で敗れたイングランドは、試合後にケビン・キーガン監督が辞任するというショッキングな「幕引き」となった。それから5年、新スタジアムがいよいよ完成間近となった。
こけら落としは来年5月13日のFAカップ決勝。旧スタジアムも1923年のFAカップ決勝戦が初戦だった。このときには、10万人収容のスタジアムにその倍のファンがかけつけ、ピッチ内にまであふれた。そこに白馬に乗った警官が現れ、混乱なく人びとをピッチの外に出させて、無事、試合を行った。「ホワイトホース・ファイナル」と呼ばれる伝説の試合である(ことし5月、地下鉄のウェンブリーパーク駅に新しく設置された歩道橋の名前には、市民の圧倒的支持で「ホワイトホース」が選ばれた)。
芝名人ウェルチが丹精したピッチの上で、新しいウェンブリーも、新しい「伝説」を生むことだろう。
(2005年10月5日)
台風17号が銚子沖を通り過ぎていた日曜日の午後、東京の駒沢オリンピック公園で試合をした。風は強かったが、雨雲はもう去っていた。今春はられたばかりの人工芝のピッチは、まったく問題はなかった。
駒沢公園にはメインスタジアムのほか一般のサッカーの試合に使うことのできる球技場が3面ある。ことしそのうち2面が人工芝になり、照明もついた。立派な更衣室もできた。東京都サッカー協会が2002年ワールドカップ記念事業の助成を受けてつくり、東京都に寄付したものだ。
小規模な改修作業はあったものの、駒沢公園のスポーツ施設は1964年の東京オリンピックのためにつくられて以来40年間、ほとんどそのままの形で使われてきた。2つの球技場への人工芝敷設と照明設備設置は画期的な出来事といってよい。昨年まで私たちは、雨が降ればどろんこになり、満足な更衣室もないところで試合をしてきたのだ。
東京都の石原慎太郎知事が「2016年オリンピック招致」を打ち上げて話題になっている。
なぜいま、「東京でオリンピック」なのだろうか。その背景には、経済波及効果、老朽化した都市インフラの再整備など、多層的な狙いがあるに違いない。しかし少なくともスポーツを「見る」面では、東京は新しい投資を必要とする場所ではないように思う。
その一方、市民がスポーツを楽しむための施設では、東京ほど貧弱なところはない。シャワーがないのは当たり前。更衣室がないところも多い。トイレさえ、満足に使えるものがないところもある。そして何よりも、絶対数がまったく足りないのだ。
なかでも、サッカーの試合ができるグラウンドの少なさは絶望的だ。90年代前半にJリーグ・ブームで草サッカーチームが急増した。しかしその多くは、あまり活動できずにつぶれてしまった。練習や試合をする場所がなかったからだ。
公営の施設の大半は区や市が所有し管理している。その施設を借りようとすると、抽選手続きの煩雑さと倍率の高さに呆然とする。東京でサッカーの試合ができる場所を探すのは、広大な砂漠でオアシスを探すようなものなのだ。
さらにここ10年間のうちに、都内で企業が所有していたグラウンドが次つぎと消えている。東京における社会人のサッカーを支えてきたグラウンドを企業が手放すとき、区や市が買い取って市民のためのグラウンドにすることは非常に稀で、多くは大規模なマンションになってしまっている。
日本代表、なでしこジャパン、Jリーグ、L・リーグ...。超一流のプレーを見てサッカーを始める少年や少女が増えても、その大好きな競技を一生続けることが難しいのが、東京という都市の現実なのだ。そしてサッカー以外のどの競技においても、その状況は大差ないだろう。
東京は、その市民スポーツのシンボルである駒沢オリンピック公園のたった2つの球技場を今日的な施設に生まれ変わらせるのに40年間という年月を要し、しかも、都自体の力では実現ができず、外部の援助を必要とした街であることを思い起こさなければならない。
神宮外苑の再開発、多摩地区の交通整備など、石原知事はいくつもの私案を語っている。しかしこのオリンピック招致活動、そしてそれが成功したときのオリンピック開催によって、何よりも、市民がいつでも手軽にスポーツを楽しむことのできる街に東京をつくり変えてほしいと思う。東京全体を市民にとっての「スポーツ・オアシス」にするためなら、多くの人がオリンピックの招致活動に賛同するに違いない。
(2005年9月28日)
吉田寿光主審の「ルール適用間違い」があった9月3日のウズベキスタン対バーレーンの試合結果を、なぜ国際サッカー連盟(FIFA)は無効とし、再試合を命じたのか。その話にはいる前に、先週の記事の後に読者から届いた一通の投書について触れたい。
今回の事件の原因は、主審にミスがあっても副審が指摘できない日本の審判団の『甘え』にあるのではないか----。世田谷区の49歳の女性は、そう推察したという。今回の審判団は第4審判も含めてすべて日本人だった。
この意見には一理ある。日本では、2002年に「スペシャルレフェリー(SR)」制度を導入した。実質的な審判のプロ化である。しかしその対象は主審だけで、副審は含まれていない。審判手当ても主審と副審には差があり、J1では、主審が1試合12万円なのに対し、副審はその半額にすぎない(SRなら主審手当ては1試合20万円)。
これでは主審と副審は対等の関係にはなれない。ひいては、主審のミスを副審が指摘する土壌も生まれない。手当てを同額にし、同時に、優秀な副審にはSRへの道を用意するべきだと、私は思う。
さて、FIFAの決定である。これまでFIFAは、明白な誤審があっても試合の結果をそのまま認めてきた。ルール第5条に「プレーに関する事実についての主審の決定は最終である」と明記されており、さらに国際評議会の決定事項3として「プレーに関する事実には、得点がなされた否か、および試合結果が含まれる」とある。
マラドーナの有名な「神の手」事件(86年ワールドカップ、手でゴールを決めた)のときにも、そのゴールと、それによってもたらされた結果(アルゼンチン2−1イングランド)をそのまま有効とした。重大な誤審による再試合を認めたドイツのリーグに対し、FIFAが「ルール違反だ」と厳しい警告を出したこともあった。
では、「ルール適用の間違い」は「誤審」ではないのか。両者に本質的な差があるのか。私には決定的な違いだとは思えない。もし買収されるなどで審判が意図的に判定を曲げたというのなら、試合結果を無効とするのは当然の処置だ。しかしそうした判断を踏まえての再試合決定ではない。
この決定を下したFIFAワールドカップ委員会の緊急委員会は、ヨハンソン委員長(スウェーデン)を中心に13人で構成されているが、9月5日月曜日、ウズベキスタンの抗議を検討するために集まったのは、ヨハンソン委員長のほか、グロンドナ副委員長(アルゼンチン)、鄭夢準委員(韓国)とリンジーFIFA事務総長(スイス)の計4人だった。すでに、第2戦は2日後に迫っており、早急に結論を出す必要があった。
1−0というスコアが微妙だった。第1戦の結果が1−0と2−0では、第2戦の戦い方が変わってくる。第2戦の結果を見てから第1戦の扱いを決めるようなことになったら、事態はさらに紛糾する。
しかし何よりも4人の頭脳をよぎったのは、「10月がある」という点ではなかったか。アジアのプレーオフ勝利チーム(アジア5位)は、11月に北中米カリブ海地域の4位チームと対戦する。決定が10月になっても問題はないはずだ。しかも10月には、8日、12日と、公式国際試合デーがある...。そうした場当たり的で安易な決定だったのではないか。
ワールドカップの1次リーグ最終日に同じことが起こっても、再試合を行うのだろうか。ありえないと私は思う。日程的に無理だからだ。すなわち、今回の再試合は、今後の「前例」とすることのできない、極めて特殊なケースといえる。それは、間違いなく将来のトラブルの元になる。
今回の事件は、審判に対する処置を別にすれば、1−0のまま試合を成立させ、予定どおり9月7日に第2戦を実施させるべきだった。私はそう考える。
(2005年9月21日)
誰にとっても不幸な結論だった。ワールドカップ予選アジアプレーオフの第1戦、9月3日にタシケントで行われたウズベキスタン対バーレーン戦が、審判のルール適用の間違いを理由に無効とされ、10月に再試合を行うことを命じられたことだ。
ペナルティーキック(PK)による2点目を認められなかったうえに、ともかくつかんだ1−0の勝利をフイにされたウズベキスタン側が激怒するのは当然のことだ。しかし一時は「大喜び」と伝えられたバーレーン側も、必ずしもそうとは限らない。
「1カ月後に再試合といっても、それまでずっと練習できるわけではない。チームの半数は公務員で仕事があり、残りの半数は国外のクラブのプロで、クラブに戻ってしまった。監督にとっては最悪の事態だ」(バーレーンのペルゾビッチ監督)
そしてもちろん、自らのミスがとてつもない結果につながった日本の吉田寿光主審にとっては、とりわけ不幸な結論となった。
この試合の前半39分、吉田主審はホームのウズベキスタンにPKを与えた。すでに1点を先制していたウズベキスタン。しかしアウェーでの第2戦を考えるとどうしてももう1点ほしかった。待望の2点目のビッグチャンスだ。
しかしMFジェパロフがキックを行う直前、吉田主審はウズベキスタンの選手がすでにペナルティーエリアにはいっているのを見た。キックは決まったが、吉田主審はゴールを認めなかった。狂ったように抗議するウズベキスタンの選手たち。その混乱のなかで、吉田主審はバーレーンに間接FKを与え、それで試合を再開してしまったのだ。
正しい処置は、PKのやり直しだった。なぜこのようなミスが起きてしまったのか。
PKをける前のペナルティーエリア侵入は、ルールで明確に禁じられているにもかかわらず、これまで大目に見られることが多かった。しかし昨年来国際サッカー連盟(FIFA)は厳しく対処するように求め、ことし、ルールの一部を変更した。
従来のルールでは、守備側の選手が侵入した場合、キックが決まれば得点、決まらなければやり直し。攻撃側の選手の侵入では、キックが決まればやり直し、決まらなければそのままプレーを流す。そして両方のチームの選手が侵入したら、キックがどんな結果でもやり直しだった。
ことしのルール改正でその規則が一部変わり、攻撃側が侵入してキックが決まらなかったときには、プレーを止めて守備側に間接FKを与えることになったのだ。
キック自体は決まっていた。バーレーンに間接FKを与えてしまったのは、たしかに大きなミスだった。しかしその原因は理解できる。
ことしのルール改正では、オフサイドの解釈の変更ばかりが騒がれ、意識が集中した。私自身、オフサイドの変更については再三書いたが、PKルールについてはまったく触れなかった。この事件が起きたとき、改めてルール改正の文書を取り出さなければ確認できないほどだった。正直なところ、文書をめくりながら、私は恥ずかしい気持ちで顔が赤らむのを感じていた。
もちろん、吉田主審はしっかり知っていたはずだ。しかしそれでも試合前には、オフサイドの正確な適用に意識が行っていたのではないか。そしてウズベキスタンの猛抗議のなかで何かの勘違いがあったのではないか。あってはならないミスであることは確かだが、誰にでもそうした「魔の瞬間」はある。
それにしても、FIFAはなぜこの「ルール適用ミス」を理由に、すでに終了した試合を無効にし、前代未聞の再試合を命じたのだろうか。それについては、来週、再度考えてみたい。
(2005年9月14日)