サッカーの話をしよう

No.572 興味深いU-17世界選手権

 きょう9月7日は、ブラジルが生んだ20世紀最高のサッカー選手ペレの「プロリーグ・デビュー記念日」である。1956年のこの日、サントス所属のペレはサンパウロで行われたコリンチャンス戦に出場し、1ゴールを記録した。15歳10カ月と15日目のことだった。
 翌57年、彼は16歳でサントスのレギュラーとなり、65得点を挙げて得点王となる。7月にはアルゼンチン戦でブラジル代表にデビュー、ここでも1ゴールを記録している。そして58年6月、彼は17歳で出場したワールドカップで母国を初優勝に導く活躍を見せ、「サッカーの王様」と呼ばれるようになるのである。
 ペレの時代には、「世界大会」といえばワールドカップと、アマチュアのために用意されたオリンピックだけで、年齢別の大会はなかった。もしペレが現代の選手だったら、来週末に開幕する「U−17世界選手権」に出場していることだろう...。

 17歳以下(正確には1988年1月1日以降生まれ)の世界選手権は、85年以来、2年にいちど開催されてきた。ことし9月16日から10月2日まで南米のペルーで開催される大会でちょうど20周年、11回目となる。残念ながらアジア予選で敗退した日本は出場しないが、世界の注目はこれまでになく高い。
 注目の第1はもちろん将来のスターたちだ。4回目の優勝を狙うブラジルの攻撃的MFケルロンは、小柄ながら抜群のテクニックをもち、南米予選では頭でリフティングしながら何人もの相手を抜くプレーで観客の度肝を抜いた。
 メキシコのジオバニ・ドスサントスは、70年代から80年代にかけてメキシコでプレーしたブラジル人選手を父にもつ。メキシコで生まれ育ったが、現在は才能を買われてバルセロナ(スペイン)のユースに所属している。バルセロナでは、「ロナウジーニョ(ブラジル代表、昨年の世界年間最優秀選手)二世」と期待されているという。

 しかし今回、この大会が世界の注目を集めている最大の理由は、史上初の「ゴール判定システム」の採用に違いない。超小型発信機を内蔵したボール、スタンドの4カ所に取り付けられた受信機、そしてそこからの情報を解析してボールがゴールにはいったかどうかを狂いなく判定するコンピュータシステムが、「公式実験」されるのだ。
 ボールがゴールにはいったかどうか、これまでも「疑惑の判定」は数限りなくあった。1秒間に2000回も信号を発信するという今回のシステムは、ゴールの判定だけでなく、タッチラインやゴールラインを割ったかどうかも簡単に判定できる。これまで3人の審判員の目を絶対のものとしてきたサッカーの判定。新システムがもたらす正確無比な情報をレフェリングにどう反映させていくのか、運用面も興味深いものがある。

 もしこの大会で新システムがうまく機能すれば、来年のワールドカップで使用の予定だと、国際サッカー連盟(FIFA)のブラッター会長は明言する。ことし12月に日本で開催される「クラブ世界選手権」で使用するという話もあるだけに、注目したいところだ。
 会場は、首都リマのほか、北部のピウラ、チクラヨ、トルヒヨ、アマゾン流域のイキトス。すべてのスタジアムに最新の人工芝が敷設された。2年前のフィンランド大会では一部の試合で人工芝が使われたが、全試合が人工芝で開催されるのは、FIFA主催の大会では初めてのことだ。
 主審15人、副審24人の計39人からなる「審判チーム」には、日本の上川徹主審と廣嶋禎数副審が含まれている。来年のワールドカップ出場に向けた重要なアピールの機会。ただひとつの「日本代表」として、ぜひとも奮闘を期待したい。
 
(2005年9月7日)

No.571 目を覚ませ、初心にもどれJリーグ

 わが目を疑ったのは、試合が始まって10分しか経過していないときだった。
 鹿島アントラーズ陣内で反則があり、東京ヴェルディにフリーキック(FK)が与えられた。先週土曜日、東京の味の素スタジアムでのJリーグ第21節。8月に新監督を迎え、前節、3カ月ぶりの勝利を得た東京Vにとっては、上位浮上への重要な1戦だった。ところがその大事な試合で見たのは、まるでOBサッカーのような緩慢な動きだった。
 反則の笛が鳴った後、鹿島側のゴールラインに向かって転がったボールを、東京VのFW平本がゆっくりと歩いて拾いに行ったのだ。そしてようやくボールを拾った平本がFKの位置にボールを戻すと、こんどはMF小林大がゆっくりと(というよりだらだらと)ボールを置き、周囲に指示を出し始めたのである。
 もちろん、あわてる必要はない。しかしなぜ平本は小走りにでも走ってボールを拾いに行かないのだろうか。なぜ小林大は、もっときびきびと準備を整えないのだろうか。
 前半10分である。疲れているはずはない。走って拾いにいかないのは、それがJリーグの「常識」だからだ。個人名を挙げたが、平本や小林大が特別に怠慢なのではない。主審が笛を吹いてプレーが止まった後の緩慢な動きは、いまやJリーグの「体質」のようになってしまっている。
 最も顕著なのは、コーナーキック(CK)のときだ。ボールが出てからCKがけられるまで、Jリーグでは優に30秒を必要とする。ところがヨーロッパのリーグの試合をテレビで見ていると、大半が20秒程度なのだ。
 違いはキッカーにある。ヨーロッパではボールが出た瞬間にキッカーが走っていく。そしてボールをセットすると、即座にキックする。ところがJリーグでは、動きだすまでに一瞬の間があり、コーナーへは歩いて向かい、そしてセットしてからあれこれと中央にサインを出す。
 十数秒の差は、試合のリズム、スピード感に大きな違いを生じる。早いタイミングのキックに対応するため、中央の選手の動きも自然ときびきびとする。安くない入場料を払い、狭い座席や混雑もものともせずファンがスタジアムに足を運ぶのは、鍛え抜かれたプロフェッショナルの超人的なプレーを見たいからだ。けっして、だらだらと歩くのを見るためではない。
 選手交代のときの怠惰といってよい動きも、観客からサッカーを楽しむ時間を奪う。一瞬前までボールを追って疾走していた選手が、リードしている状況では、まるで「最後の仕事」とばかりにゆっくりと歩いてベンチに向かう。安っぽいヒロイズムを見るようで、気持ちが悪い。
 Jリーグがスタートしたころには、全選手が「ファンを失望させてはならない」と懸命のプレーを見せた。未熟な部分はあったが、労をいとわないプレーがサッカーに関心の低かった人びとの心をつかみ、Jリーグがプロとして成り立つ礎がつくられた。
 いまのJリーグの試合からは、そうした熱意、あるいは責任感を感じ取ることはできない。かといって、ヨーロッパのリーグのようなプロフェッショナルとしての姿勢があるわけでもない。「地元クラブ」を応援する愛情豊かなサポーターはいても、熱心なサッカーファンがどんどんJリーグ離れを起こしてヨーロッパのサッカーにひきつけられているのは、スターたちの存在やプレーのレベルだけでなく、いやそれ以上に、選手たちのきびきびとした動きが心地良いからではないか。
 「走って拾いに行く」「走ってコーナーに向かう」、あるいは、「交代のときに走ってベンチに退く」ことは、誰にでもできる。それをしないのはプロとして大きなものが欠けているように思う。
 
(2005年8月31日)

No.570 ウォータイム・フットボール

 第二次世界大戦が終結して60年を迎えたことし、世界の各地であの戦争が振り返られている。イギリスでは1冊の本が復刻された。『戦時下のサッカー(SOCCER at WAR)』。記録集計の第一人者ジャック・ロリンが20年前に書いた名著である。猛暑と言っていい気温ながら時折流れる風が心地よくなってきた8月の午後、この本を読んで過ごした。
 1939年8月26日、青空が美しい土曜の午後、イングランドではプロリーグのシーズンが開幕。ドイツとの開戦の不安が広がるなか、1部から3部までの全44試合で60万人ものファンがスタジアムにかけつけた。
 しかし9月1日、ドイツが突然ポーランドに侵攻、2日後、イギリスはドイツに宣戦布告する。そして政府の命令により、プロリーグはわずか3節で中止される。戦争が始まればイギリス本土が爆撃にさらされる危険性が高い。多くの人が集まるプロの試合は非常に危険だった。

 だが少し落ち着くと、各地のプロクラブは地元警察の許可を得て親善試合を開催するようになる。試合の人気は高く、政府も観客数を8000人以下と制限する条件で容認せざるをえなくなった。クラブはやがて地域ごとにリーグを組織する。選手の報酬は週1・5ポンドに固定され、勝利給は全廃されたが、不満など出なかった。
 選手の多くは兵役に志願していた。国内の駐屯部隊に配属された選手は許可を得て週末の試合に戻ってきたが、選手不足は否めなかった。
 あるクラブは3台の車に分乗してアウェーゲームに出かけた。だが途中で1台が故障、もう1台に乗っていた選手たちもその修理に追われて、試合地に到着したのは1台、2選手だけだった。仕方なくホームクラブが控え選手5人とコーチを貸し、不足の3人は観客から志願者を募ってようやく11人にした。

 試合は5−2でホームが勝った。ビジターの2ゴールのうち1点は貸し出されたホームのコーチが決めたものだった。これが「戦時下のプロサッカー」の現実だった。
 戦争が始まった年の11月には国際試合も再開された。といっても、イングランド、スコットランド、ウェールズ間、「英国国内の国際試合」に限られ、選手不足はこちらも同じだった。ロンドンで行われたイングランド対ウェールズでは、試合途中にウェールズの選手が負傷、イングランドのベンチでただひとり控えていた交代選手が急きょユニホームを着替えてウェールズ代表として出場したこともあった。
 恐れていたドイツ軍による英国本土爆撃が始まったのは41年秋。軍隊に徴用されていたスタジアムは爆撃の目標となり、使い物にならなくなった。こうしたクラブは、近隣のライバルチームのスタジアムを借りて試合をした。

 他に喜びがない時期だったからだろうか、どんなにスター選手が欠けていても、サッカーの人気は衰えなかった。それどころか、全席が前売りの入場券は売り切れの試合も多かった。そして45年、ようやく戦争が終わると、空前のサッカーブームが訪れる。
 「サッカーは第二次世界大戦を生き抜いた。それだけでなく、この国でサッカーが真に『キング・オブ・スポーツ』となるのは、第二次世界大戦を経た後だった」と、著者ジャック・ロリンは書く。
 スター選手たちが戦地から戻り、空襲の心配もなく何万もの人びとがスタジアムに集うことができるのは、まさに平和の恩恵だった。しかしそれ以上に、食料調達もままならない戦時下に選手たちが懸命のプレーを見せ、爆撃の恐怖をものともせずスタジアムで国民がその喜びを共有し続けてきたという誇りが、イギリスの社会におけるサッカーの地位を決定的なものにしたに違いない。
 
(2005年8月24日)

No.569 キャップス

 今晩のイラン戦で、ことしになってからの「国際Aマッチ」は15試合となった。
 世界大会の予選、地域の選手権など「公式戦」だけでなく、親善試合も含めた代表チーム同士の対戦を総称して「国際Aマッチ」と呼ぶ。
 国際サッカー連盟(FIFA)によれば、昨年1年間に世界中で行われた国際Aマッチは、史上最多の1066試合に達した。FIFAには205協会が加盟しているから205の代表チームがあることになるが、平均すると1代表あたり10試合強となる。
 そのなかで、日本は昨年、22試合をこなした。アジアカップ(中国)という短期間でまとまった試合数をこなす大会があったことが大きい。ことしも、FIFAコンフェデレーションズカップ(ドイツ)、東アジア選手権(韓国)に出場したことで試合数が増えている。ことしも年末までに19試合になる予定だ。

 日本代表の強化相手は、91年までヨーロッパや南米のクラブチームが中心だった。こうした試合はFIFAの分類では「国際Cマッチ」と呼ばれ、正式な代表試合には数えられない。日本で最も多くの「国際試合」に出場したのは釜本邦茂(代表出場1964〜77)で、なんと232試合にも出場しているが、「国際Aマッチ」はそのうち75試合にすぎなかった。
 92年に日本サッカー協会は方針を変更し、日本代表の対戦相手は原則として代表チームに限ることにした。以後Aマッチが急増した。
 現時点でのAマッチ最多出場数は井原正巳(代表出場1988〜99)の123。三浦知良(代表出場1990〜)の91が続く。これが現役最多だ。

 代表Aマッチ出場は、サッカー選手にとって最高の栄誉と言われる。ヨーロッパに行くと、どの国にも、1回でもAマッチに出場した全選手の出場記録やプロフィールを詳細に記した記録集が発行されている。
 イングランドでは、A代表出場を「キャップ」という言葉で表現する。そして実際に試合に出場するたびに小さなひさしと頭頂部に飾りひものついた帽子を贈られる。
 これは19世紀からの習慣らしい。サッカー揺籃の舞台であるパブリック・スクール(私立の中高校)では、安全のためこうしたキャップをかぶったままプレーしていた。19世紀後半のイングランドのサッカーでは、各選手がそれぞれに自分の出身パブリック・スクールのカラーのキャップをかぶり、それで観客が選手を識別する目印にしていた。背番号がまだなかったからだ。

 やがて1870年代にプロ化の波が押し寄せ、試合が激しくなって、試合中にキャップをかぶる選手はいなくなった。代表試合に出場するたびに、キャップをひとつ渡す習慣が生まれたのはこのころだった。代表に出場しても報酬は出ない。せめてその栄誉をたたえようと、代表カラーのキャップをつくり、出場選手に贈ったのだ。
 「キャップ」の言葉は、そのまま、「国を代表し、国の名誉のために戦う」という意味となる。それは、日本代表監督ジーコが代表選手たちを語るときに常に使用するフレーズと重なる。
 「代表選手たちは、いろいろなものを犠牲にして国のために戦っているんだ。心から応援してほしい」
 今晩のイラン戦に備えて23人の選手が招集され、うち2人が負傷で辞退したものの、21人が準備の練習をしてきた。このなかで今夜「キャップ」を増やせるのは、多くて14人にすぎない。その14人は、間違いなく全身全霊をかけたプレーを見せてくれるだろう。
 今夜の試合には、もはやワールドカップ出場権はかけられていない。勝者の手に残るのは、アジア最終予選B組1位という、まったく実利のない記録だけ。文字どおり名誉をかけた試合である。
 
(2005年8月17日)

No.568 第3GK土肥洋一

 「駒野、今野、田中など、初選出の選手の良い面が見られ、われわれにとっては良い大会となった」
 韓国で行われていた東アジア選手権の最終日に韓国を下した日本代表のジーコ監督はご機嫌だった。しかし彼が最も喜んだのは、GK土肥の活躍ではなかったか。
 相手に押し込まれ、18本ものシュートを浴びせられた韓国戦、土肥はまさに完璧な守備を見せた。ゴールに飛んだ韓国のシュート6本を、ことごとく防いでしまったのだ。とくに前半35分、ロングパスからFW李東国に突破されたときの守備は圧巻だった。土肥は最初のシュートを大きくはじき返し、さらにそれを拾われて再度放たれた低いシュートにも正確に反応してストップした。土肥の神がかりの活躍がなかったら、前半のうちに日本は大きく崩れていたかもしれない。

 土肥洋一(FC東京)は1973年7月25日生まれ、現在の日本代表で最年長の32歳である。熊本県の大津高校から92年に日立(現在の柏レイソル)に加入。最近安定感を増して「日本代表入りも間近」と言われるジェフ千葉のGK櫛野亮一は高校の後輩である。
 柏は94年にJリーグに昇格、土肥は96年に完全レギュラーとなった。しかし98年にポジションを失い、2000年にFC東京に移籍。以後6シーズン、彼はJリーグの全試合に出場している。7月までに記録された168試合連続出場はJリーグ記録。まさに鉄人だ。
 しかし土肥という選手が日本代表にはいっていることを知らないファンも多いのではないか。日本代表入りして2年以上になったが、大きな話題になることもなく、地味な存在であるのはたしかだ。「第3GK」であるからだ。

 ひとつの試合にエントリーするGKは先発とサブの2人。しかしフィールドプレーヤーのように戦術的な要請で試合中にGKを交代することは、通常ない。サブGKには、先発GKに負傷や退場があったときの要員である。「第3」は、さらにその次のGKだ。
 今回のような「大会」では、GKを3人連れていく。第1GKが負傷したり退場になったときにGKが2人だけだと、次の試合ではGKのサブがいなくなってしまうからだ。しかし「第3」に出番が回ってくることはほとんどない。
 ジーコの「第1GK」はずっと楢崎正剛(名古屋)だったが、昨年8月のアジアカップでの活躍を期に川口能活(磐田)がポジションを奪った。代表入り以来、土肥は常に彼らの後にランクされていた。常に代表に名を連ねているが、ワールドカップ予選では試合の前日に18人の最終メンバーが決められ、そこからもれるとベンチにはいることすらできない。土肥は川口や楢崎にも負けないトレーニングをこなしながら、試合になるとスタンドで観戦しなければならなかった。

 そうしたなかで、土肥がどう練習に取り組み、どんな態度を取っているか、ジーコはじっと観察していたに違いない。第3GKはチームのなかで最も出場機会から遠い存在。だからと言ってふてくされていたら、チーム全体のモラルに悪影響を与える。
 昨年11月、ワールドカップ第1次予選の勝ち抜きが決まったシンガポール戦(埼玉スタジアム)で、ジーコは土肥を先発させた。2月のマレーシア戦に次ぎ、2試合目の出場だった。マレーシア戦もシンガポール戦も日本の一方的な攻勢で、土肥の活躍のチャンスはそうなかった。しかしこの韓国戦では、十二分に実力を見せることができた。
 「川口、楢崎、土肥...。目をつぶって誰にユニホームを渡してもだいじょうぶ」というジーコの言葉は、けっして大げさではない。
 
(2005年8月10日)

サッカーの話をしようについて

1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。

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