
アウェーのカシマスタジアムで見事なプレーを展開しながら、ひとつのオウンゴールが重くのしかかり、0−1の敗戦。3連敗、しかも3試合連続無得点。京都パープルサンガの選手たちは、汗にぬれた白いユニホームの重さに打ちひしがれるように、がっくりと肩を落としてゴール裏のスタンドに陣取ったサポーターのところに向かった。
テレビの画面にひとりの選手がアップで映し出される。オウンゴールを献上してしまったDFの児島新だ。そこに長身のブラジル人選手が寄ってきた。負傷から回復し、3週間ぶりに出場したFWのアンドレだった。児玉の肩に左手をかけると、右手を自分自身のあごにもってきて、つんつんと2回、突き上げた。
ポルトガルのナシオナルというクラブから移籍してきて3カ月、まだ細かな日本語などできない。しかし彼が言いたいことはしっかりと児玉に伝わった。
「顔を上げろ」
決定的なピンチを必死に守ろうとした結果が、不運なオウンゴールになっただけだ。お前の責任で負けたわけではない。顔を上げろ、胸を張れ。戦いはまだ続くぞ----。
以前から非常に気になっていた。日本のサッカー選手は、顔を下げすぎる。
絶好のチャンスにシュートを大きく外してしまう。相手チームにゴールを許す。試合に敗れる...。選手たちは、そのたびに頭(こうべ)を垂れ、「うつむき」のポーズを取る。
このポーズは、してしまったことを悔やむだけでなく、自分が悔やんでいることを周囲に伝える役割を果たす。「反省しています」というわけだ。これを見たら、周囲の人びとはそれ以上の非難はしないというのが、日本社会の共通理解である。
しかし実際には、ミスの原因を真剣に考えたり、「次こそは」と決意を固めているわけではない。ただ自分の殻に閉じこもり、それ以上の打撃から自分自身を守ろうとしているにすぎない。すなわち、うつむくことで、安全な場所に逃げ込んでいるのだ。
こうした心理的なプロセスをすべて否定するわけではない。人間には、多かれ少なかれこの種の能力が備わっていて、無意識のうちにそれを発動させることによって精神の平衡を保っているからだ。
私が気になっていた理由は、それがまったく「サッカー的」でないと感じるからだ。
キックオフされたら、45分間休みなくプレーが続くのがサッカーという競技だ。その最中に下を向いても、何も得るものはない。
サッカーで見るべきものは、自分の下にはない。それは周囲にある。ボールはどこにあって、どんな状態なのか。どちらのチームが保持し、どう攻撃を進めようとしているのか。味方選手はどこにいて、何をしようとしているのか。そして相手選手は...。
シュートを外してプレーが一時止まっているときにも、試合の状況は刻々と変化している。相手はどう動き、ゴールキックからどのように攻撃しようとしているのか。それに対し、味方はどんな守備組織を準備しているのか。そのなかで自分の役割は...。
リーグ戦という長期間の戦いでは、1試合が終わってもすべてが終わるわけではない。試合終了のホイッスルは次の試合への準備のスタートの合図にすぎない。負けたとしても、落胆したり、失望しているひまなどない。すなわち、極端に言えば、サッカー選手というのは、下を向いている時間などない生き物なのだ。
「休息から学ぶものなどない。引退すれば、いくらでも休むことができる」
日本代表のオシム監督が、3年半前、ジェフ千葉(当時は市原)の監督として来日したころの言葉だ。
それとまったく同じだ。どんなことがあっても、引退するまで下を向くな。きみは、サッカー選手なのだ。
(2006年9月13日)
子どものころ、「月の砂漠」という童謡が好きだった。
大正12(1923)年に誕生した歌。少女雑誌に掲載された加藤まさをの詩に、佐々木すぐるが曲をつけた。月光に照らされた砂丘を2頭のラクダに乗った王子様とお姫様がゆったりと渡って行くという光景と、哀愁に富んだ美しいメロディは、絵本のイメージと重なり、日本とはかけ離れた世界に限りないあこがれをかきたてさせた。そして私は、その砂漠はアラビア半島に違いないと思い込んでいた。
ところが調べてみると、叙情画家でもあった加藤がアラビア半島に行ったわけもなく、彼は病気療養で滞在した千葉県の御宿海岸の砂浜から得たイメージをふくらませてこの詩を書いたのだという。実際のアラビア半島は、男女が2人きりで渡っていけるような世界ではない。その自然の過酷さは、今回の日本代表の遠征でも再認識させられた。
日本代表は、紅海に面したサウジアラビアの港湾都市ジッダでサウジアラビアと対戦した。この地での取材中は、耐え難い湿気に悩まされた。日中には40度近くになる気温。湿度80パーセントは、まるでサウナにはいっているようだった。冷房の効いた室内から一歩外に出ると、冷えきったメガネのレンズがあっという間に真っ白になった。
ある日、そんなジッダに、短時間砂嵐が吹き荒れた。微細な赤い砂は、アラビア半島の奥地から運ばれてきたもののようだった。そして10分間ほどして砂嵐が去ると、湿度はなんと40パーセントにまで急降下していた。紅海からの湿気を、砂漠からの風が吹き飛ばしてしまったのだ。砂嵐の後はしばらく快適だったが、逆に、砂漠地帯の想像を絶する乾燥を垣間見た思いがした。
サウジアラビア戦の翌朝、日本代表はイエメンの首都サヌアに移動した。古くは、イエメンの「幸福のアラビア」と呼ばれたという。海上交易の中心として栄えたとともに、アラビア半島のなかでは雨量が多く、緑が豊かだったためだ。しかし飛行機がサヌアの国際空港に向けて降下を始めたとき、眼下に広がったのは、乾燥地帯のなかにところどころまばらな緑があるという光景だった。
サヌアは標高2300メートルの高地。気温は30度を切り、湿度も低く、さわやかな心地がする。しかしサッカー選手にとっては「地獄」に等しいかもしれない。酸素濃度が平地の4分の3しかないからだ。
アラビア半島にある7カ国のうち、サッカーの取材を通じてクウェートを除く6カ国を訪れることができた。サッカーを追いかける旅だから、都市が中心で、本物の砂漠地帯を旅したわけではない。しかしいくつかの試合を思い起こすだけで、ここがいかに過酷な自然環境のなかにあるか、簡単に理解することができる。日本の5月や10月のような、プレーする側も見る側も快適そのものの気候でサッカーを楽しむことなど、この地域では夢のようなことに違いない。
アジアのサッカーのなかで、過去20年間ほどのアラビア半島諸国の躍進ぶりはすさまじい。4大会連続ワールドカップ出場のサウジアラビアだけでなく、ことしのワールドカップ出場まであと一歩のところまでこぎつけたバーレーン、代表チームとともにクラブチームもアジアの強豪の地位を築いているUAE、そしてカタール、オマーン、イエメンなど、次つぎと台頭してきている。
アラビア半島は、「月の砂漠」のようなロマンチックな世界などではない。人びとは自然環境の過酷さと正面から向き合い、そのなかでたくましく生き抜いている。そしてサッカー選手やコーチたちも、自らが置かれた環境を言い訳にすることなどなく、切磋琢磨を続けている。
(2006年9月6日)
監督たちのことを考えている。
先週、横浜F・マリノスの岡田武史監督が辞任、後任の水沼貴史新監督の下、横浜FMは京都サンガを4−0で下して4試合ぶりに勝利を飾った。敗れた京都は4試合連続の4失点。柱谷幸一監督は苦境に立たされている。その1週間前には、FC東京がアレシャンドレ・ガーロ監督を解任し、後任の倉又寿雄監督の初戦でジェフ千葉を4−3と大逆転で下した。
今季が始まって6カ月近く。すでにJ1の18クラブ中7クラブで監督の交代があった。そのうちひとつは、イビチャ・オシムが日本代表の監督に就任し、息子のアマル・オシムが後を継いだジェフ千葉だから、監督を「解任」、あるいは監督自身が「辞任」したクラブが、全体の3分の1ということになる。
優勝争いの期待を裏切ったクラブ、思いがけなく下位に低迷しているクラブ、残留争いに巻き込まれそうであわてているクラブ...。事情はさまざまだが、いずれにしても「勝てない」ことが理由であることは同じだ。
昨年、最終節まで優勝を争い、旋風を巻き起こしたセレッソ大阪は、今季開幕から4連敗と不調に陥り、小林伸二監督はわずか8試合で解任された。勝負の世界の常とはいえ、プロチームの監督は厳しい仕事だ。
しかし世界は広い。自他ともに認める「サッカー王国」ブラジルでは、監督たちの運命はさらに、はかない。
先週、リオデジャネイロの名門クラブ、フルミネンセはことし5人目の監督を迎えた。水曜日の全国選手権でパルメイラスに0−3で敗れた後、ジョスエ・テイシェイラ監督を解任し、アントニオ・ロペス監督の就任を発表したのだ。テイシェイラ監督の在任はわずか2週間、4試合だった。
そもそもフルミネンセの監督交代劇の始まりは、8月中旬にこのクラブが「ことし3代目」の監督であるオスバルド・オリベイラを解任したことだった。オリベイラは、同じ日にクビになったパウロ・セサル・グスマンの後を継いでクルゼイロの監督に就任した。
グスマンも休んではいない。名門コリンチャンスからのオファーを受けて辞任したエメルソン・レオンの後釜としてサンカエタノの監督に就任、コリンチャンスを辞任したジェニーニョは、アントニオ・ロペスが辞任したばかりのゴイアスの監督となった。間に2週間ばかりテイシェイラがはさまったとはいえ、ロペスがフルミネンセの監督に就任したことで、5クラブ間の「監督たらい回し」が完成したことになる。
ことしになってから、ブラジル全国選手権の20クラブでは、延べ31回の監督交代劇があった。どうやら、ブラジルのサッカー界というのは、監督たちにとって、同じクラブで1年間活動するのも難しい場所であるらしい。
Jリーグはそれほどでもない。18クラブでわずか7回である。F東京の倉又監督と横浜FMの水沼監督は最初の試合でさっそく好結果を出したが、名古屋のヨセフス・フェルフォーセン監督のように、負けが込んで下位に低迷し降格の危機に立ちながらも信頼を受けて仕事を続け、就任半年後の7月下旬から一気に花開いたように連勝し、成績を向上させた例もある。
「監督には2種類ある。すでにクビになった監督と、これからクビになる監督だ」という有名なジョークがある。何年間も同じクラブで指揮をとることができる幸運な監督はほんのひと握りにすぎない。負けが込めば、苦境を脱するのに手っ取り早い方法は、監督の交代だからだ。
プロチームの監督とは、ひとときは栄華に包まれ、持ち上げられていても、いつ解任や辞任に追い込まれるかもしれない不安定な仕事なのだ。
(2006年8月30日)
自ら変わることで苦境から脱出しようと、なりふりかまわず努力する姿は美しい。8月19日、FC東京が見せた戦いは、まさにそうした姿だった。
JFL時代からの熱烈なサポーターをもち、優勝争いに加わることを期待されながら不安定な戦いを繰り返してきたF東京。今季は、クラブ史上初めての外国人監督、アレシャンドレ・ガーロ(ブラジル)を迎え、そうした状況からの脱却を図った。
しかしうまくは進まなかった。ガーロ監督は、しっかりとした守備からスタートしようと徹底したマンマークを命じた。「チーム立て直し」の常道ともいえる手法だ。一時は成果も出た。だが4月中旬から迷路にはいってしまった。8月12日に浦和に0−4で完敗したところでクラブは決断を下し、15日、ガーロ監督を解任し、U−18(ユース)チームの監督をしていた倉又寿雄を新監督に据えることにした。
倉又新監督は47歳。80年代後半にスピードあふれる攻撃的なサイドバックとして日本鋼管の3季連続リーグ準優勝に貢献した人だ。95年にF東京の前身である東京ガスのコーチとなり、99年から昨年まではトップチームのヘッドコーチを務めていた。いわばチームのすべてを知っている人で、適任だった。
次の試合まで準備期間は4日間しかなかった。しかも相手は「走る」ジェフ千葉である。倉又新監督は、「攻守の切り替えの速いサッカー」を目指し、それを実現できるコンディションにある選手でチームを組んだ。
スタートは悲惨だった。意気込んで試合にはいったF東京の選手たちだったが、気がついたときにはスコアは0−2になっていた。キックオフしてからまだ7分間しかたっていなかった。
しかし倉又監督が信じて送り出した11人は下を向かなかった。何も失うものはないと、4日間練習してきたことをピッチ上で表現することだけに集中して動き始めたのだ。
それからの80数分間で起きたことは、現代のサッカーでは稀な「ロマン」だった。前半16分にFWルーカスのゴールで1点を返すと、後半17分にはMF梶山のがんばりから新人FWの赤嶺がゴール前で驚異的な粘りを見せて同点ゴールをけり込んだ。さらにその7分後には、1年間の負傷離脱からちょうど1カ月前に復帰したばかりのMF石川が逆転のゴールを決めた。
F東京の選手たちのがんばりは尋常ではなかった。千葉が得意のフリーランニングでスペースをつくり、次の選手が走り込んでパスを受けようとしても、そこにはF東京の白いユニホームが群がるように集まり、次の展開を妨害した。千葉のリズムは崩れ、奪ったボールから再びF東京の情熱的な攻撃が始まった。
日本代表に4人も送り込んでいる千葉も意地を見せた。後半39分、日本代表のMF羽生が右から鮮やかなシュートを見せ、試合を3−3の振り出しに戻す。だが手中にしかけていた勝利が消えたはずなのに、倉又監督の表情には落胆の色は浮かばなかった。
選手たちも同じだった。3−3のまま迎えたロスタイム、右からDF徳永が攻め込み、シュートのような低いクロス。千葉のDF2人がニアポスト前にいたが、速いボールに対応できない。そこにはいってきたのが、交代出場のMF阿部だった。右足できれいにミートすると、ボールはゴールに突き刺さった。
4−3の大逆転勝利は、チームに何をもたらすだろうか。「やればできる」という自信だろうか。倉又新監督への信頼だろうか。
間違いなく言えるのは、この1試合でF東京は生まれ変わったということだ。チームがこんなに短期間で大きな変身ができることに、強く勇気づけられる思いがした。
(2006年8月23日)
ワールドカップ後、初めて埼玉スタジアムに取材に行ったら、ゴールネットの色が変わっているのに驚いた。以前は真っ白だったネットが、赤と白のツートンカラーになっていたのだ。
サッカーのルール(競技規則)には、ゴールネットに関する規定はない。ルールブックに付録としてついている「質問と回答」にも、「(ゴールネットは)義務付けられていない。しかし、可能な限り取り付けることが奨められる。また競技会規則によって必要とされる場合もある」とあるだけだ。Jリーグの「試合実施要項」にもゴールネットに関する記載は一切ない。
しかしそれでも、ゴールネットは絶対に必要なものだ。審判団は試合前にピッチを一周していろいろなチェックをするが、最も念入りに調べるのがゴールネットの張り方だ。ネットを張っていないゴールを使っての試合など、審判は絶対に認めないだろう。
しかし規定がないから、素材も大きさもデザインもまったく自由。赤と白のツートンカラーにしようと、誰にも文句を言われる筋合いはない。実際、ヨーロッパのスタジアムでは、ホームクラブのクラブカラーのネットを使うのは、ごく当たり前のことだ。
Jリーグが始まる前には、日本のスタジアムのゴールネットはほとんど黒だった。汚れが目立たないという理由だったのだろう。それがいっせいに白になったきっかけは、ジーコの「鶴の一声」だった。
「サッカーというのは、あのゴールにボールを入れることを目指す競技だ。だからゴールポストだけでなく、ネットも真っ白にして、目立つように、いつも意識が行くようにしなければならない」
Jリーグ開幕に向けて準備していた各競技場は、こぞって白いネットに買い換えた。
さて、ジーコの提言でネットが白くなってから、日本選手たちのゴールへの意識は高くなっただろうか。先日のワールドカップを見ていると、まだまだ足りないように思える。オーストラリア戦でシュートがわずか6本だった反省を踏まえ、クロアチア戦では中田英、小笠原らのMF陣が積極的にミドルシュートを打ったが、ゴールを脅かすようなものはほとんどなかった。ほとんどがゴールの中央に飛び、相手GKにやすやすとキャッチされていた。
それを見ていたある友人がこう言った。
「白ではなく、白と黒のネットが必要だった」
ジーコの指摘はサッカーの本質をついていが、サイドネットだけを白くして、正面のネットは黒いままにしておいたら、完璧だったと言うのだ。そうすれば、サイドネットに意識が行き、自然にそこを狙うようになる。さらにサイドネットも、白くするのは内面だけで、外から見える面は黒にすれば、シュートするプレーヤーからは常に逆サイドのネットだけが目に飛び込むことになる。
もちろん、サイドネットに送られたシュートだけがゴールにつながるわけではない。GKの動きを見て逆をつくことも必要だし、特別な変化をつけるキックの技術も身につけなければならない。ゴールが決まる割合は、そうしたシュートのほうが多いかもしれない。しかしサイドネットに送り込むという意識が高まれば、それも得点力向上の大きな力になる。
シュートを決める重要な要素は「イメージ」だ。どこからどうけったらどういうボールが飛び、GKの取れないところに決まるか----。そのイメージに自分の技術を合わせていくのが、「シュート練習」というものだろう。
どの年代も、シュート力、得点力に大きな課題がある日本のサッカー。「白黒のゴールネット」だけでなく、イメージをかきたてるためのいろいろな工夫が必要だ。
(2006年8月16日)