サッカーの話をしよう

No.615 月の砂漠

 子どものころ、「月の砂漠」という童謡が好きだった。
 大正12(1923)年に誕生した歌。少女雑誌に掲載された加藤まさをの詩に、佐々木すぐるが曲をつけた。月光に照らされた砂丘を2頭のラクダに乗った王子様とお姫様がゆったりと渡って行くという光景と、哀愁に富んだ美しいメロディは、絵本のイメージと重なり、日本とはかけ離れた世界に限りないあこがれをかきたてさせた。そして私は、その砂漠はアラビア半島に違いないと思い込んでいた。
 ところが調べてみると、叙情画家でもあった加藤がアラビア半島に行ったわけもなく、彼は病気療養で滞在した千葉県の御宿海岸の砂浜から得たイメージをふくらませてこの詩を書いたのだという。実際のアラビア半島は、男女が2人きりで渡っていけるような世界ではない。その自然の過酷さは、今回の日本代表の遠征でも再認識させられた。

 日本代表は、紅海に面したサウジアラビアの港湾都市ジッダでサウジアラビアと対戦した。この地での取材中は、耐え難い湿気に悩まされた。日中には40度近くになる気温。湿度80パーセントは、まるでサウナにはいっているようだった。冷房の効いた室内から一歩外に出ると、冷えきったメガネのレンズがあっという間に真っ白になった。
 ある日、そんなジッダに、短時間砂嵐が吹き荒れた。微細な赤い砂は、アラビア半島の奥地から運ばれてきたもののようだった。そして10分間ほどして砂嵐が去ると、湿度はなんと40パーセントにまで急降下していた。紅海からの湿気を、砂漠からの風が吹き飛ばしてしまったのだ。砂嵐の後はしばらく快適だったが、逆に、砂漠地帯の想像を絶する乾燥を垣間見た思いがした。

 サウジアラビア戦の翌朝、日本代表はイエメンの首都サヌアに移動した。古くは、イエメンの「幸福のアラビア」と呼ばれたという。海上交易の中心として栄えたとともに、アラビア半島のなかでは雨量が多く、緑が豊かだったためだ。しかし飛行機がサヌアの国際空港に向けて降下を始めたとき、眼下に広がったのは、乾燥地帯のなかにところどころまばらな緑があるという光景だった。
 サヌアは標高2300メートルの高地。気温は30度を切り、湿度も低く、さわやかな心地がする。しかしサッカー選手にとっては「地獄」に等しいかもしれない。酸素濃度が平地の4分の3しかないからだ。

 アラビア半島にある7カ国のうち、サッカーの取材を通じてクウェートを除く6カ国を訪れることができた。サッカーを追いかける旅だから、都市が中心で、本物の砂漠地帯を旅したわけではない。しかしいくつかの試合を思い起こすだけで、ここがいかに過酷な自然環境のなかにあるか、簡単に理解することができる。日本の5月や10月のような、プレーする側も見る側も快適そのものの気候でサッカーを楽しむことなど、この地域では夢のようなことに違いない。
 アジアのサッカーのなかで、過去20年間ほどのアラビア半島諸国の躍進ぶりはすさまじい。4大会連続ワールドカップ出場のサウジアラビアだけでなく、ことしのワールドカップ出場まであと一歩のところまでこぎつけたバーレーン、代表チームとともにクラブチームもアジアの強豪の地位を築いているUAE、そしてカタール、オマーン、イエメンなど、次つぎと台頭してきている。
 アラビア半島は、「月の砂漠」のようなロマンチックな世界などではない。人びとは自然環境の過酷さと正面から向き合い、そのなかでたくましく生き抜いている。そしてサッカー選手やコーチたちも、自らが置かれた環境を言い訳にすることなどなく、切磋琢磨を続けている。
 
(2006年9月6日)
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1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。

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