
Jリーグの観客数が持ち直しつつある。
第1ステージ終了時の1試合平均観客数は1万2419人。1万0131人だった昨年を2000人以上も上回っている。94年の1万9598人には遠く及ばないが、3年連続で減り続けていた傾向に、ことしは歯止めがかけられそうだ。
とはいっても、手放しで喜べる状況ではない。横浜国際競技場(収容7万人)の登場により、横浜の2チームの観客数が大きく伸びていることが、「平均」に少なからぬプラスを与えているからだ。とくにマリノスは、昨年(9212人)の倍以上の2万0586人を集めている。
ことしの特徴は、当日券が多く出ていることだそうだ。昨年まではほとんど売れなかった当日券が、1試合平均で2000枚も出ているという。鹿島と浦和以外は前売りで売り切れにはならないことがファンの間にも浸透し、天候やチームの話題性などで、「行ってみようか」と考える人々が増えたのだろう。
天候に恵まれた9月5日土曜日に東京の国立競技場で行われたヴェルディ川崎×浦和レッズ戦には、第2ステージにはいって最多の3万3780人が集まった。最寄りのJR千駄ヶ谷駅からスタジアムに向かう道には屋台や弁当売りが立ち並び、威勢のいい売り声が続いていた。
しかし多くのファンをもつレッズが開幕から2連勝で首位に立ち、「宿敵」といっていいヴェルディとの対戦だったというのに、スタンドには大きな空席が目立った。原因はキックオフ時間にあったようだ。
この試合は午後3時キックオフ。しかしこの土曜日は学校のある日だったのだ。昼まで授業を受けると、埼玉や川崎方面から3時に間に合うように国立競技場に行くのはかなり難しい。午後7時キックオフだったら、4万人台も不可能ではなかっただろう。
こうしたことがわかっていながら3時キックオフにしたのは、テレビ中継の都合だった。現状ではJリーグの中継で高い視聴率は望めない。当然、東京の「キー局」では、夜のゴールデンタイムでの放映は無理だ。生中継をしようとしたら、どうしても昼間の試合になってしまう。民放での中継がはいっていたこの日は、午後3時キックオフを動かせなかったのだろう。
しかし待ってほしい。Jリーグは、93年のスタートを前に大がかりなアンケート調査を行い、基本的な試合時間を決めた。それは土曜日の午後6時半だったはずだ。
Jリーグの観客は、サッカー部在籍の中高生が少なくないだろうと予想された。土曜日の午後や日曜日だと、練習や試合があるので、なかなか観戦に行くことができない。それはせっかくのいい「お手本」を見ることができない中高生にとっても、潜在的なファン、観客を動員できないクラブ側にも不都合だ。
このキックオフ時間を決めたとき、川淵チェアマンは「テレビ中継の都合を考えるよりも、できるだけ多くの人にスタジアムにきてほしい」と説明したはずだ。しかしいま、そうした「初心」はすっかり忘れ去られてしまっている。
Jリーグのファンは、サッカー部の中高生に限らない。しかし現在のJリーグは、「見たいけれどこの時間では行くことはできない」というファンをほおっておく余裕などないはずだ。授業のある土曜日かどうか、サッカー部の中高生たちが見に来ることができるかどうか。初心に戻り、細かな気配りをすることが、ファンを定着させ、スタジアムを再び満員にさせる力になるはずだ。
(1998年9月9日)
日本代表の次期監督に、どうやらフランス人のフィリップ・トルシエ氏が決まりそうだ。
15年間のコーチ生活のうち10年間をアフリカで過ごし、昨年はナイジェリア代表監督としてワールドカップ予選を通過させた。そしてその後解任されながら、ことし2月にはブルキナファソを「アフリカ・ネーションズ・カップ」ベスト4に導き、6月にはワールドカップで南アフリカの指揮を執った。43歳の若さながら経験は豊富。その手腕に期待したい。
しかしながら、今回の監督決定(正式決定は9月10日に開催される日本サッカー協会の理事会だが)までの経緯は、またも「日本サッカー協会前途多難」を思わせるものだった。
第一に、極秘裏の交渉だったにもかかわらず、8月上旬という早い時期に外部に情報が漏れてしまった。その結果、日本協会は8月20日の時点で「技術委員会はトルシエ氏を最適と判断。条件面で合意すれば理事会に推薦」という不可思議なプレスリリースを出さなければならなくなった。
第二に、代表監督決定の責任者が誰であるのか、またも不明確になってしまった。長沼健前会長の後を受けて七月に就任した岡野俊一郎新会長は、技術担当として釜本邦茂氏を副会長に任命したという。しかし技術委員会が結論を出した時点でトルシエ氏と話をしたことがあるのは、大仁邦彌技術委員長だけだった。
長沼会長下の日本サッカー協会がファンとの断絶を生じたのは、日本代表の監督の選任に関する権限と責任の所在が明らかでなかったことが、そもそもの原因だった。今回、釜本副会長を技術担当と位置づけるのなら、監督選任の権限と責任をもたせるべきだ。会長のみか、その副会長がいちども候補者に会わないうちに内定するとは、どういうことなのだろうか。
技術委員会と代表監督の関係についても、相変わらずあいまいな点が多い。こんなことで、トルシエ氏は十分なサポートを受けることができるのだろうか。彼が苦境に陥ったとき、自分自身の問題として味方になってくれるのは、いったい誰なのだろうか。
代表監督の選任というのは、本来、人間と人間の信頼関係に基づいてなされるものだと思う。権限のある者が人間として監督を信頼し、監督も権限をもった人の言葉を100パーセント信じることで、困難な仕事をやり遂げることができる。
1960年、日本協会は西ドイツ協会の推薦を受けたデットマール・クラマー氏を日本代表の特別コーチとして招いた。そのときには、当時の野津謙会長が自らクラマー氏を訪ね、その人柄にほれこんですべてをまかせる決意をしたと聞いている。だからこそ、国内で執拗に言われた「外国人コーチ不要論」を断固退けることができたのだ。今回のトルシエ氏内定までに、そうした信頼関係は生まれているのだろうか。
トルシエ氏は日本協会と話し合いをもつために8月27日から9月1日まで日本に滞在した。その間の日本協会の対応にも問題があった。フランス語の通訳をつけなかったこと、唯一のJリーグ観戦に大幅に遅刻させたことだ。
提示された契約期間が2年間であることを質問されたトルシエ氏は、「2年後に見直せるほうがいい」という内容の答えをしたが、「自分にとっても」という言葉を忘れなかった。2年後、トルシエ氏が「こんなところでは仕事はできない」などと言って自ら出ていってしまうような事態にならないよう、日本サッカー協会にもプロフェッショナルな対応が求められる。
(1998年9月2日)
「真ん中の丸がクラブ。それを地域、学校、行政の三者が育てることを示しています。中学校の美術の先生のデザインなんです」
クラブマーク旗の前で、半田市教育委員会の榊原孝彦さん(38)はていねいに説明してくれた。
8月の日曜日、Jリーグの「ホームタウン委員会」の視察にぶら下がって、愛知県半田市の成岩(ならわ)スポーツクラブを訪ねた。
成岩スポーツクラブは、新しい形の「日本型地域総合スポーツクラブ」だ。地域にある学校の施設を舞台に、地域の人々が小学生から中学生までの13種目のスポーツスクールと、高校生以上の13種目のサークルを運営している。
「学校開放」を利用したスポーツ活動ではない。学校の施設を「家」とし、小学生の各スポーツクラブを統合し、中学校の部活動の一部を移行し、成人のサークルまで団体ごと取り組み、地区総人口1万8000人の約13パーセントもが係わる「総合スポーツクラブ」なのだ。成岩中学校には「クラブハウス」があり、指導を含めクラブ運営はすべて地域の人々にまかされている。
その設立推進役が、この成岩に生まれ、国語教師として成岩中学サッカー部の指導をしていた榊原さんだった。1年365日休みなしの部活動が、果たして子供のためなのか、疑問を持ち始めていたのだ。
周囲を見回すと、指導者の個人的な情熱に支えられてきた小学生のスポーツクラブも、指導者の高齢化などの悩みがある。それならば、地域の人が子供たちのスポーツ活動を助けたらどうか。一貫指導も可能になるし、子供たちには、複数の競技に触れ合うチャンスや、家族と過ごすゆとりも生まれる。
94年6月、榊原さんは成岩地区の「少年を守る会」とともに「スポーツタウン構想」を打ち上げる。当時の加藤良一・成岩中学校校長が深い理解を示して部活動を「自由加入制」に変え、活動も週3回に制限してスポーツの「社会化」への後押しをした。少年少女のスポーツ指導を40年以上にわたって続けてきた佐々木悟さんは、各クラブの指導者を説き伏せてくれた。そして96年3月に成岩スポーツクラブが発足する。
中学生までは「スクール」形式だ。クラブには世帯ごとの加入が原則で、家族ぐるみでスポーツに参加することができる。活動が始まると、地域の人々はすぐにその良さを理解し、認めた。
子供たちに、地域の人々が関心を払うようになった。小中学生で縦のつながりができた。中学生が主体的に自分の生活スタイルを選択できるようになった。そしてボランティアで指導にあたる人たちも、同じクラブ内で他の種目の指導者と交流するなかで、スポーツ観が広がった。
事業の大半を会費でまかなわなければならない、施設の貧弱さなど、課題はある。だがクラブはしっかりと根付き、周囲からも高く評価されるようになった。
老朽化した成岩中学校体育館の新築を予定していた半田市は、地域の要望を受けてそれを「成岩スポーツセンター」建設計画に変えた。1階にクラブ施設を置き、2階が学校の体育館という画期的な施設が数年後に誕生する。
半田市は、市内の他の四地区にも同じような「地域総合スポーツクラブ」をつくろうと、この春、榊原さんを教育委員会に呼んだ。
竹内弘・半田市長はこう力説する。
「学校施設は、学校というより地域の人々のもの」
その施設を地域の人々が自主的に使い、子供からお年寄りまで楽しく手軽にスポーツに取り組める半田市をつくることが、榊原さんの新しい仕事だ。
(1998年8月26日)
連日スポーツ紙やニュースをにぎわしているペルージャの中田。日本のサッカー選手がヨーロッパのトップリーグでプレーするのは、94/95年シーズンのカズ以来のことだから、メディアが騒ぐのも無理はない。
私の予定では、ワールドカップ後には中田のほかにも数人の選手がヨーロッパのクラブに移籍するはずだった。そうなればメディアも全員を追いきれず、選手たちは伸び伸びと自分のプレーに集中できるだろう。しかし現在のところ日本代表選手の移籍は中田ひとり。中田が成功し、それに刺激されて他のクラブが日本選手に目を向けるようになることを期待したい。
ところで、気になるのは中田を放出したベルマーレ平塚だ。今シーズンの前半は中田の活躍に引っぱられて上位をキープし、なかなか好調だったベルマーレだが、中田の移籍と負傷者続出が重なり、7月25日再開のJリーグでは5連敗。12位まで落ちて第1ステージを終了した。
そこで、第2ステージの巻き返しのため、植木監督は外国人選手の補強を要請した。契約期間途中の中田の移籍で、クラブにはかなりの資金(2億数千万円と推定されている)ができたのだから、それを生かしてもらおうという話だ。しかしクラブは拒絶した。
Jリーグクラブの例にもれず、ベルマーレも累積赤字に悩まされている。しかも母体企業が不況で苦しい状態にある。クラブ経営者としては、収入があったらまず赤字を埋めようという考えだったのだろう。
だがそれはおかしい。
選手の移籍によって得られた収益は、チームの補強のために「再投資」するのが、ファンをもつクラブの原則的な責任である。中田が抜けても、チームの戦力は落ちないようにしなければならないのだ。
ベルマーレ平塚は、株式会社の形態をとる「私企業」である。しかし今回のクラブのやり方は、本当にただの「企業」にしか見えない。赤字続きだった企業が、突然大きな商売が当たった。しかし経営者は、赤字補填にしか考えが回らない。
普通の会社ならそれでもいい。しかしベルマーレは普通の会社ではない。Jリーグ所属のサッカークラブなのだ。
平塚市が多額をつぎ込んで改装した平塚競技場をホームスタジアムとして無条件に使い、平塚市を中心とした湘南地域のファンが入場券を買って支えているのが、ベルマーレである。断じて一介の「私企業」ではない。なかば公的な責任をもった存在なのだ。それを忘れてもらっては困る。
第一に、中田を移籍させることに関して、ファンは意見を言う権利がある。ファンの声を無視して移籍はできない。
第二に、中田のためを考えてファンが移籍に理解を示したとしても、移籍で得られた資金はチーム強化に使われるべきだ。ファンの期待はベルマーレが優勝すること。その努力をしていることを示さなければ、ファンは納得しない。
選手はクラブの「資産」のようなものだ。しかし同時に、ファンあってのクラブであれば、ベルマーレ平塚という一企業ではなく、正確にいえば地域の人々やファンを含めた「クラブ」全体の財産なのだ。
中田の移籍で得られた資金をクラブ発展のためにどう使うのか。少なくとも、経営者は地域のファンに向き合い、しっかりと説明しなければならない。
クラブが自らの存在の本質を忘れ、公的な責任を忘れ、ファンの存在を忘れれば、クラブはやがて地域の人々に見放される。そうなってからでは遅いのだ。
(1998年8月19日)
「同じ仕事をしているほかの代表チームの連中から、日本はフィジカル面で非常にいい仕上がりになっているとほめられた」
3年半にわたって日本代表のフィジカル面を担当してきたフラビオ・コーチ(49)は、ワールドカップ・フランス大会でプロらしい仕事ができて満足そうだった。
他国のコーチたちの言を待つまでもなく、フランス大会での日本代表はすばらしいコンディションに仕上がっていた。それがはっきりと出たのがクロアチア戦だった。快晴、35度の猛暑のなかで、日本の動きはキックオフからタイムアップまでまったく落ちなかった。世界の強豪をあと一歩まで追いつめることができたのは、完璧なコンディションのおかげだった。
大会直前に井原がヒザを負傷するという事故があった。しかしドクターをはじめとした支援スタッフの努力もあり、なんとかアルゼンチン戦に間に合わせた。この間、リハビリのトレーニングを指導しながら精神面で井原を支えたのがフラビオだったという。
そのフラビオが今週はじめにブラジルに帰国した。日本協会との契約が7月いっぱいで満了したためだ。
フルネームはルイス・フラビオ・リベイロ・ボォンゲルミーノ。91年にヴェルディ川崎のフィジカル・コーチとして来日し、95年からは日本代表で加茂監督、そして昨年10月から岡田監督を補佐してきた。7年間の日本生活に、一応のピリオドを打ったのだ。
「日本では、ジュニアチームから筋力トレーニングを入れているところが少なくないが、それよりも、もっともっとボールを使って能力を高めるトレーニングをしなければならない」と語るフラビオ。
日本代表でも、フラビオのトレーニングの大半はボールを使って行われていた。「追い込み」が必要なときにも、ただ走らせるのではなく、ドリブルやシュートを入れ、サッカー選手としてのの技術や能力をアップさせながら、その実、かなりきついトレーニングをさせていた。
94年に日本代表の指揮をとったファルカン監督は、同じブラジル人ながら「日本選手はフィジカル能力が低すぎる」と嘆いた。
しかしフラビオは「日本人がフィジカル面でとくに劣るわけではない」と主張する。「それよりも、選手たちが自信をもってプレーすることが大事だ」。彼自身、「ヨーロッパとそれほど大きな差があるわけではない」ことをワールドカップで痛感したという。
91年からの7年間でいちばん記憶に残るのは、やはり、昨年11月、ジョホールバルでのあのイラン戦だったという。ワールドカップ出場を決めたというだけでなく、内容的にも印象的な試合だった。
実はこの試合、フラビオ個人にとっても長年の夢をかなえるものだった。81年、クアラルンプールで行われたワールドカップ最終予選で、サウジアラビアが中国に2−4で敗れた。そのときのサウジアラビア代表のフィジカルコーチが、フラビオだった。
「同じマレーシアで日本がイランを破った。日本代表チームが私に、16年前に逃したワールドカップ行きのチャンスを与えてくれたのだと思う。人生もサッカーも同じだ。負ける日もあれば、勝つ日もある」
できれば日本でもう少しフィジカルコーチとして働きたいと語る。日本のサッカーのために、自分ができることがまだまだあると信じているからだ。遠くない将来に、どこかのJリーグのクラブのベンチで、フラビオの穏やかな笑顔に再会したいと思う。
(1998年8月12日)