
フェアプレーの精神は死んだのだろうか。
相手選手がケガして倒れたままなのを見たら、タッチラインの外にボールを出してプレーを止める。サッカーでは「常識」といっていい行為だ。しかし今回のワールドカップでは、そのフェアプレーに対する「お返し」がおかしなチームが多かった。
これまでなら、スローインを相手に渡してゆっくりと試合を再開していた。しかし今大会では、スローインを味方につなぎ、大きく相手陣奥のタッチラインにけり出すプレーが目立った。そして相手のスローインにプレッシャーをかけていく。いわば「恩をあだで返す」形なのだ。
フェアプレーはワールドカップにとって重要な要素だ。FIFAも「フェアプレー賞」を設け、6月21日には「FIFAフェアプレーデー」のイベントも行われた。試合前には、少年少女の手でフェアプレー旗が運び込まれ、フィールド上に示された。フェアプレーのオンパレード。しかし試合のなかでは、アンフェアーな行為が続出した。
ファウルされてもいないのに、あるいは少し接触しただけなのに、PKを狙って倒れる「ダイビング」。守備側では、1対1の競り合いで相手の腕やシャツをつかむ行為が横行した。さらに、胸を突かれたのに、顔面を覆って大げさに倒れ、相手を退場に追い込んだ卑劣な行為もあった。
フランス98は、すばらしいプレーがあった反面、何より勝利が優先し、勝つためなら何でもするという「ゲームズマンシップ」が支配した大会だった。
しかしそうした殺伐とした雰囲気のなかで、本物のスポーツマンとしての行為、フェアプレー精神を見る思いがしたこともあった。準々決勝での、フランスのMFエマニュエル・プティの行為だ。
開催国として、何が何でも勝たなければならないフランス。イタリアは、相手のそんな心理を見透かし、徹底的に守りを固めてカウンターアタックを狙った。得点できなくても失点さえしなければ、PK戦で五分五分の勝負に持ち込むこともできる。それがイタリアの計算だった。フランスは攻め切れず、無得点まま延長戦の終盤を迎えていた。
延長後半14分、フランスが右CKを得る。最後のチャンスかもしれない。キッカーはプティ。左足の鋭いキック。しかしゴール前でイタリアのディビアジョにオーバーヘッドキックでクリアされる。
そのボールをフランスが拾い、右タッチライン沿いに帰ってきたプティに戻される。再びゴール前に入れようとするプティ。だが長い髪を後ろにたばねた長身のMFは、急に動きを止める。イタリア・ゴール前で、ディビアジョがまだ倒れたままなのだ。
そのままボールを入れたら危険だ。プティは何の迷いもなく、平然と左足のヒールキックでボールをタッチラインの外に出した。
ワールドカップの勝利は、名誉のためだけのものではない。人生を左右する名声と、金銭的成功をもたらすのだ。だからどんな犠牲を払っても王座に近づこうとする。
しかしそうした「大勝負」だからこそ、そこで示されるフェアプレー精神あふれる行為は、優勝カップに勝るとも劣らない価値をもつ。プティの行為こそ、スポーツマンとしての本物の勇気の証明だ。
当然のことながら、イタリアのサポーターのみならず、フランス人のファンからも、プティに対して盛大な拍手が起こった。
私も少し安心した。フェアプレーの精神は、死に絶えてはいなかった。
(1998年8月5日)
「4年後は、きみの国の番だね」
会話の途中でそんな言葉をはさんだのは、フランス98の地元組織委員会(CFO)委員長ミシェル・プラティニだった。
90年イタリア大会以来4年ごとに会うエリアスとコンセプシオンのメキシコ人夫婦は、私の手を握って名刺をくれと言った。
「おまえは日本人だろう。4年後には子供と3人で日本に行くから、おまえのところに泊めてほしい」
取材でフランスを回っているうちに、「次は日本」ということをあちこちで考えさせられた。「次は自分たちがこの大会のホスト役になる」という実感は、うれしくもあり、また同時に怖さも覚えた。
記者仲間の心配は、「世界中からくるサッカーファンが夜中まで大騒ぎするような場所を提供できるか」という点だった。
午後9時キックオフの試合が中心だったフランス大会。しかし11時に試合が終わった後、マルセイユやパリの中心街では、午前2時、3時までレストランが食事を提供し、広場ではお祭り騒ぎが続いていた。それが、世界のサッカーファンの「アフターマッチ」の楽しみなのだ。
あるJリーグ関係者は、あれほどたくさんのボランティアスタッフがそれぞれに責任をもって働く姿に感嘆した。スタンドで席に案内してくれるボランティアは、大半がにこやかで親切で、しかも何を聞いても、明確な答えが返ってきた。
スタジアムの「動線計画」も特筆ものだった。観客、役員やスタッフ、チーム、報道関係者などがそれぞれに邪魔し合わないよう、徹底的に通路(動線)を分ける。それによって、不要なトラブルはなかった。
いい点ばかりではない。フランス大会で問題になった点は、そのまま2002年大会の「課題」となった。
最大の問題は入場券だ。できるだけ多くの日本のサッカーファンが試合を見られるようにし、しかも世界中から訪れるファンを満足させるためには、どんな配券計画が有効だろうか。実際にスタジアムに来る人が定価で入手できるようにしなければならない。
フランスでは生命にかかわる事件になった「フーリガン」問題も、しっかりと分析して対策をたてる必要がある。甘く見ることはできない。かといって警備過剰で純粋なファンやサポーターに不快な思いをさせてはならない。
今回フランスを訪れた人が共通して実感したことがある。「ワールドカップは、国をあげてホスト役を務めるもの」という事実だ。
スタジアムだけでなく、町中や移動の車中で、フランスの人びとが心から世界のサッカーファンを迎えてくれているのが実感できた。日本の合宿地や試合地では、日本語の案内や歓迎の言葉も目についた。
チリ×オーストリア戦後にサンテチエンヌからパリに向かったTGVの車掌さんは、その夜に行われていた同じグループのイタリア×カメルーン戦の試合経過を、たどたどしいスペイン語とドイツ語で車内放送していた。スコアが動くたびに、車内のあちこちで歓声や落胆の声が上がった。
6月10日からの33日間、フランスは「クープ・ドゥ・モンド(ワールドカップ)」に生きた。そんな国でワールドカップを追いかける生活は、サッカーを愛する者にとってこの上ない幸せだった。
「次は私たちの番」。
それは、日本の組織委員会(JAWOC)だけの仕事ではない。私たちワールドカップに関心をもつ者すべてが、自分自身のこととしてもたなければならない感覚なのだ。
(1998年7月27日)
1990年ワールドカップ・イタリア大会が大詰めを迎えたある日、ローマ市内を見下ろす丘の上のホテルでひとつのパーティーが開かれた。2年後に決定する98年大会の開催国に立候補しているフランスの招致委員会が主催したPRのための会だった。
世界中からの数百人の報道関係者の注目が招致活動の中心的人物プラティニに集まるなか、私はワールッドカップの伝説的な英雄の姿を認めて胸をときめかせた。ジュスト・フォンテーヌ。58年スウェーデン大会にすい星のように登場し、六試合で13ゴールという不滅の記録を残した得点王だ。
「フランス大会」のひとつの売り物は、フランスご自慢の高速鉄道TGV。そのネットワークを全土にはりめぐらせて大会運営をするというものだった。そのパネルの前にいたフォンテーヌ氏に、私は写真を1枚撮らせてほしいと頼んだ。
サッカーを知らない人ならそのへんのおじさんかと思いそうな気楽さで、彼は快く引き受けてくれた。そして撮り終わると、思いがけないことを言った。
「写真ができたら、1枚送ってくれないか」
フランス人の専門のカメラマンもたくさんいるなかで、なぜ小さなカメラを1台もっているだけの私にそんなことを言うのか、不思議だったが、帰国するとすぐに1枚プリントして指定された住所に送った。
彼からは丁寧な礼状が届き、2年後のヨーロッパ選手権(スウェーデン)で再会したときには「TGVとワールドカップ13ゴール。2つの世界記録」と刻んだ見事なバッジのセットをプレゼントしてくれた。当時、TGVは時速515キロの世界最高速度記録をもっていたのだ。
あの出会いから8年。ワールドカップ初出場を決めた日本の「デビュー戦」がトゥールーズでのアルゼンチン戦であることを知ったとき、私は不思議な因縁を感じた。
トゥールーズこそ、フォンテーヌ氏の「ホームタウン」だった。彼が私にわざわざ写真を送ってくれと頼んだのは、98年のワールドカップ開催が決まれば、トゥールーズまでTGVが開通することになっていたからだった。だからTGVの敷設計画のパネルの前での写真をほしがったのだ。
以来、トゥールーズと聞くと、フォンテーヌ氏の優しい笑顔を思い出すようになった。
トゥールーズはフランスの宇宙航空産業の中心地として知られている。フランスの航空機の歴史はこの町から始まり、絵本「星の王子さま」で有名な作家サンテグジュペリが、郵便飛行機のパイロットとして活躍した場所でもある。
市営のミュニシパル・スタジアムは第二次大戦後すぐ建設され、今回大きく改装されてワールドカップ開幕を待っている。はじめは陸上競技場だったが、現在はトラックの部分にも観客席が設けられ、3万7000人の球技専用競技場だ。
この町の特徴はラグビーもサッカーと同じような人気をもっていることだ。スタジアムはサッカーとラグビーのクラブが共用し、ともに市民の大きな誇りになっている。そして、サッカークラブ「トゥールーズFC」は、日本にきた初めてのフランスクラブ(84年)でもある。
そのトゥールーズに、今週の日曜日には濃い青の日本代表のユニホームがあふれる。トゥールーズにとっては11日のカメルーン×オーストリア戦(B組)に次ぐ2試合目。あのワールッドカップ得点王フォンテーヌ氏が待つ「バラ色の町」で、日本サッカーの歴史に新しいページが刻まれる。

(1998年6月8日)
ワールドカップの主役、それはもちろんプレーする選手たちだ。FIFA新会長でも、組織委員会委員長でもない。サッカーに生命を吹き込むことができるのは選手たちだけなのだ。
そしてもうひとつ。選手たちによって命あるもののように躍動し、世界の人々の注目を浴びるのが、サッカーボールだ。
直径22センチ、重さ約430グラム。ほぼ1気圧に保たれたボールは力強く張り、選手たちは足や頭などを使って自らの意思を表現していく。ボールは、その選手の技術水準を正確に観衆の前に示す。
「ボールは汗をかかない」という言葉がある。90分間の戦いで人間は疲労する。しかしボールは疲れない。だからボールを目一杯動かして相手ゴールを狙う。それが近代的なパスのサッカーの出発点だ。
だが1930年にウルグアイで第1回ワールドカップが開催されたころのボールは、現在のものとはずいぶん違ったものだった。
当時のボールは牛の尻の皮を表に使い、豚の膀胱をチューブとして使っていた。表面には1カ所開口部があり、そこから中のチューブの口の部分を取り出して空気を入れ、口をしばって中に入れた後に皮のヒモで開口部を縫い合わせた。重さや大きさは同じでも、固くて厚い皮のボール。キックの感触や技術自体も、今日とは違ったはずだ。
第1回ワールドカップには使用球の規定がなく、決勝戦に出場したウルグアイとアルゼンチンはともに自国製ボールの使用を主張して譲らなかった。結局コイントスで前半はアルゼンチン、後半はウルグアイのボールを使うことになった。両チームがこだわるだけのことはあった。前半、アルゼンチンが2ー1でリードしたが、後半になるとウルグアイが3点を決め、4ー2で初代の世界チャンピオンになったのだ。
ボールが「主役」になったもうひとつのケースが66年イングランド大会の決勝戦だ。
2ー2で迎えた延長戦、イングランドのハーストの放ったシュートは西ドイツ・ゴールのバーの下側を叩き、真下に落ちて大きくバウンドした。バー越しにクリアする西ドイツDF。しかしスイス人のディーンスト主審は線審と協議の末ゴールインを認めた。西ドイツでは、その後何十年も、ボールがラインを越えていないという「証拠探し」が行われたという。
この当時まで12枚あるいは18枚のパネルを組み合わせてつくられていたボールは、次の70年メキシコ大会から正五角形12枚と正6角形20枚を組み合わせた32枚型になる。それとともに現在もポピュラーな「白黒ボール」が登場する。
さらに86年メキシコ大会では、それまで天然の牛革だけだった素材が人工皮革に代わる。より完全に近い球形、変形しにくいこと、そしてキックしたときのボールの伸びなど、大幅に「改善」されたものだった。ただワールドカップ決勝大会で初めて使われたため、フリーキックなどのコントロールが定まらず、「もっと早く使わせてほしかった」という不満ももれた。
今大会も、メーカーはワールドカップのために新しいボールを用意した。特殊な加工でより弾みやすくしたのだという。このボールに慣れるために、Jリーグでは今季の開幕から使用している。
他に何もなくても、たった1個のボールがあればゲームができるサッカー。それゆえに世界のすみずみにまで広まったサッカー。ワールドカップでも、原点が1個のボールであることに変わりはない。
(1998年6月1日)
2年間にわたって予選を行い、決勝大会の組分けが決まってから7カ月。盛り上げられ、焦らされた果てにやってくるワールドカップ開幕戦。しかし世界中の期待に反し、その試合内容は退屈なことが多い。
ワールドカップで「開幕戦」が特別な試合として行われるようになったのは62年のチリ大会のこと。
それまでの大会では、開幕日に各地でいっせいに試合が行われるという形だった。しかしチリ大会では、地元チリがサンチアゴの国立競技場に満員の観衆を集めてスイスと戦い、3−1の勝利を収めて国民を熱狂させた。
以後70年大会まで開催国が開幕戦に登場したが、66年のイングランド、70年のメキシコはともに0−0の引き分け。開催国のチームにあまりに大きなプレッシャーがかかるのを避けるため、74年大会からは前回優勝チームが開幕戦に登場することになった。
ところが74年西ドイツ大会の開幕戦、ブラジル×ユーゴスラビアはまたも0−0。78年アルゼンチン大会でも、西ドイツがポーランドと無得点で引き分けた。
4大会連続の「開幕戦ノーゴール」に幕を下ろしたのは82年大会。アルゼンチンを1−0で下したベルギーのバンデンベーグのゴールだった。
以後は、86年イタリア1−1ブルガリア、90年アルゼンチン0−1カメルーン、94年ドイツ1−0ボリビアと、毎回得点が記録されている。だがどの試合もワールドカップならではのレベルの高さやスピーディーな展開はほとんど見られず、退屈な内容であることに変わりはなかった。
待ちに待った試合。注目度と期待の大きさは、決勝戦にも匹敵する。ところが選手やチームは、まだ「ワールドカップ・モード」になっていない。開催国のファンの雰囲気などにリズムがなじんでいない。
しかも出場するのは前回優勝チーム。連覇を目指す立場であれば、グループリーグの初戦は絶対に負けてはいけない。もちろん勝つつもりで試合に臨むが、リスクは冒さない。引き分けでもよしとする。
そして対戦チームは、世界が注目するなかで恥はかきたくないから、「ディフェンディング・チャンピオン」に対してしっかりと守りを固めたサッカーをする。必然的に、36年間も2点以上をとったチームが出ていないのだ。
私の体験の中では、「エキサイティングな開幕戦」にはお目にかかったことがない。ただ、いちどだけ、意外な結果にびっくりしたことがある。90年大会でマラドーナを中心とするアルゼンチンがアフリカのカメルーンに0−1で敗れたときだ。しかもカメルーンは最終的には2人が退場になって9人でアルゼンチンの攻撃を退けたのだ。
あと2週間あまりに迫ったフランス大会の開幕。今回はブラジルが24年ぶりに登場する。74年大会のときには、前回優勝の立役者だったペレがすでに引退しており、しかもケガ人続出でチームが整っていなかった。最近アビスパ福岡のヘッドコーチに就任したペトコビッチなどを擁するユーゴに負けなかったのが幸運なほどだった。
しかし今回のブラジルは四年前の優勝時より数段優れた攻撃力を備えている。大会のスーパースター候補の筆頭と誰もが認めるロナウドが加わり、破壊力は抜群だ。スコットランドは当然守勢になるだろうが、元来カウンターを得意とするチームなので、持ち味を発揮するかもしれない。
ワールドカップ開幕戦。何度裏切られても、また期待に胸を高まらせてしまう。まるで、新しい恋が始まるように。
(1998年5月25日)