サッカーの話をしよう

No.331 シドニー・オリンピックのサッカーが始まる

 いよいよオリンピック・シドニー大会が始まる。
正式な大会期間では消化しきれないサッカーは、きょう13日に、メルボルン、アデレード、キャンベラ、ブリスベンの4都市で試合がスタートする。男子の決勝は閉会式の前日、30日にシドニーで行われる。始まればあっという間の2週間だ。
 1896年に始まった近代オリンピック。サッカーが正式種目になったのは、1908年のロンドン大会が最初だった。
 このころのオリンピックは、万国博と併せて開催され、4月に開幕し、10月まで延々と続くという信じがたい大会だった。サッカーには各国4チームずつエントリーすることができることになっていたが、実際には、フランスが2チームを出したほかは、各国1チームずつ、計6チームだけの大会となった。

 準決勝では、デンマークがフランスAを17対1で破るという、いまも破られていない記録が生まれた。ソフス・ニールセン選手の1試合10得点も、大会最多得点記録だ。しかしこのデンマークも、決勝戦では、イングランドのアマチュア代表で構成された「イギリス」チームに0−2で敗れた。オリンピックの正式な「初代金メダル」は、イギリスということになる。
 しかしその8年前のパリ大会、4年前のセントルイス(アメリカ)大会でも、非公式でサッカーが行われていた。
オリンピックが初めて大西洋を渡った1904年セントルイス大会。渡航費用があまりに高く、参加した競技者625人のうち533人は地元アメリカ人だったという。
 サッカー競技に参加したのは地元セントルイスのクリスチャン・ブラザーズ大学とセントローズ・キッカーズという2クラブと、カナダのゴルトFC、計3チームだった。

 ゴルトFCは、オンタリオ州のクラブで、この年すでに創立25年目を迎えていた。そしてカナダ選手権でトロント大学を破って優勝し、オリンピックへの出場権を獲得した。
 11月16日、クリスチャン・ブラザーズ大学を7−0で下したゴルトは、翌日、セントローズも4−0で下し、楽々と優勝を決めた。選手の大半はスコットランド、アイルランド、イングランドからの移民で、元セミプロも含まれていたから、アメリカの学生を料理することなど朝飯前だったのだ。
 ちなみに、「2位決定戦」はアメリカの両チームが対戦したが、11月20日に0−0の引き分け。翌日も同じスコアで結果が出ず、その翌々日、3戦目にしてようやくクリスチャン・ブラザーズ大学が2−0で勝った。
 優勝したゴルトは、特別列車でホームタウンに帰ると、町をあげての歓迎にあったという。ところが、正式種目ではなかったため、ゴルトには金メダルが与えられなかった。IOCがあらためて金メダルを贈ったのは、数十年後のことだった。

 1908年に正式種目になってから、過去19回の大会で争われてきたサッカーのメダル。しかしその大半はヨーロッパのものとなった。これに南米のウルグアイ(金メダル2回)、アルゼンチン(銀メダル2回)、ブラジル(銀メダル2回、銅メダル1回)の南米勢が続く。そして過去2回の大会でアフリカ勢が急上昇し、92年にガーナが銅メダル、96年にはついにナイジェリアが金メダルを獲得した。それ以外の大陸でメダルを取ったのは、68年の日本(銅メダル)ただ1回だけだ。
 サッカーでは、オリンピックは世界最高の大会ではない。しかしそれでも、簡単にメダルに手が届く大会ではないことは、歴史を見れば明白だ。そんななかで、日本がどこまでメダルに迫っていくか。本当に楽しみな大会となった。

(2000年9月13日)

No.330 走り続ける「草の根」審判たち

 まさに壮観だった。
 午後3時過ぎ、気温33度。容赦なく照りつける西日のなか、100人を超える人びとがいっせいに陸上競技の400メートルトラックを走り始めた。スタート地点は4カ所。12分間で何メートルを走ることができるかを計る体力テストだ。
 アメリカで宇宙飛行士の訓練のために開発され、70年ワールドカップに備えるブラジル代表のトレーニングに取り入れたことでサッカー界にはいってきたのが、一般に「クーパー走」と呼ばれるこの12分間走。ひとことで「12分間」というが、距離を決めて走るよりずっと大きな負荷がかかるという。
 さて、猛暑のなか、東京西部の国立市にある一橋大学キャンパス内のトラックを走っている集団は、東京都サッカー協会に登録している「三級審判員」の人びとである。

 日本のサッカーには、四級から一級までの審判員がいるが、四級は「見習い」。この資格をとり、練習試合などで規定の試合数をこなして試験を受け、三級に昇格することで、初めて主審として公式戦の笛を吹くことができるようになる。
 東京都サッカー協会は、8月下旬から2回の「三級審判員研修会」を開催した。東京には現在約3500人の三級審判員がいるが、2回の研修会に集まったのは合計で約600人。参加は任意だったのに、これほど多くの人が集まるのは驚きだ。
 私は、この研修会で「審判とフェアプレー」というような話をしてほしいと招かれていた。丸1日のプログラムのなかで私に割り当てられた時間は体力テストの前の1時間半。昼食直後で、下手な話に半分以上が眠ってしまうのではないかと心配したが、それどころか、参加者の熱気に、こちらが押されるような思いがした。

 話が終わると、次つぎと手があがり、熱心な質問が相次いだ。質問は、主題だけでなく、近づくオリンピックへの期待や、サッカーとマスメディアのあり方など、非常に幅広かった。
 東京協会の山田正・審判委員長によると、出席者の3分の1は2級、1級など「上」を目指している若手。そして残り3分の2は、地域で少年少女チームなどの指導者だという。審判であると同時に指導者でもある人びとが、心から日本のサッカーが良くなることを願い、心を砕いているのが伝わってきた。
 話が済んだ後、彼らの熱気に引っ張られてグラウンドに向かった。そして、走る人と計測する人、全員が2人1組に分かれて「クーパー走」をするのを、トラックのすぐそばで見た。ひとりが走る間、その相方は何メートル走ったかをチェックして、知らせるのだ。
 3分間、4分間と走るうちに、多くの人の表情が苦痛でゆがみはじめる。山田委員長から「無理しないで、マイペースで」と声がかかる。しかしやめてしまう人はほとんどいない。

 こんな悪コンディションのなかで、何が彼らを走り続けさせているのだろう。これはひとつの研修会のなかでの体力テストにすぎず、昇級に直接関係するわけではない。記録はそれぞれの審判手帳に残されるだけだ。
 走り続けるのは、自分たちが審判をするプレーヤーたちのためなのだ。しっかりと体力をつけて、少しでもいい審判をして、プレーヤーたちに試合を楽しんでもらおうという一心に違いない。そう感じた。
 いま、オリンピックに出場するスター選手たちにも、当然、少年時代があった。そして、こうした人びとに指導され、審判をしてもらって、今日がある。
 苦痛に顔をゆがめ、歯を食いしばって走りつづける人びとの姿を見ていて、本当に日本のサッカーを支えているのは誰か、垣間見た思いがした。

(2000年9月6日)

No.329 オリンピック「小野外し」でアジアカップが見えた

 「アジアカップが見えてきた」
 27日に発表されたシドニー・オリンピックの代表メンバーを見て、私がまず感じたのはそのことだった。
 最大のポイントは、小野伸二(浦和レッズ)を外したことだ。相次ぐ負傷でコンディションが万全ではないとはいえ、小野のタレントはオリンピックの上位進出にぜひともほしかったに違いない。しかしトルシエは体調が100パーセントではないという理由で(と想像される)小野を選ばなかった。10月に、日本サッカーにとってオリンピックに負けないほど重要な「アジアカップ」が控えているからだ。
 アジアカップはアジアのチャンピオンを決める大会である。4年にいちど、オリンピック年に開催される。日本は92年の広島大会で初優勝を飾ったが、前回の96年大会では準々決勝で敗退した。

 フィリップ・トルシエ監督に率いられる日本代表の最大のターゲットは、当然のことながら2002年のワールドカップである。今回のオリンピックも、その強化スケジュールの一環にすぎない。たとえメダルを取ったとしても、ワールドカップの目標「決勝トーナメント進出」を逃したら意味は半減する。
 そしてアジアカップは、ワールドカップへの準備という面では、オリンピック以上の意味をもつ大会である。
 日本にはワールドカップ予選がない。開催国のひとつとして自動的に出場権を与えられているからだ。だからアジアカップでは、優勝か、それに準じる成績を残し、「予選なしで出場」の正当性を示す必要がある。
 同時に、予選がないことで、タイトルをかけた「真剣勝負」は、2002年前にはこのアジアカップが最後になるかもしれない。来年のコパ・アメリカ(南米選手権)は参加が難しい状況だ。となると、2001年から2002年にかけてのチーム強化は、もっぱら親善試合が中心になることになる。

 2002年に向けて重要な意味をもつ2大会が、9月、10月に連続して行われることは、日本にとって頭痛のタネだった。オリンピックで上位に残ったら、2週間半のうちに6試合を戦うことになる。アジアカップも決勝までいけば同じ試合数だ。
アジアカップ開催国は中東のレバノン。開幕は10月12日。オーストラリアでフルに戦った選手が再びコンディションを整えて参加できる時間的余裕はない。だからトルシエ監督も、オリンピックで上位まで行った場合は、アジアカップにはまったく違うメンバーで臨まなくてはならないと覚悟しているはずだ。中田英寿も、中村俊輔も、稲本潤一もいない日本代表だ。
 そこに小野が「残った」意味が出てくる。10月までにコンディションを上げられれば、アジアカップで大きな戦力になるのは間違いない。だから敢えて万全ではない小野を外したのだ。

もしアジアカップがなければ、大会の後半にしか間に合わない状況でも、小野はオリンピックの18人に入れられただろう。昨年のワールドユースで、トルシエは負傷をかかえていた稲本を18人のメンバーに入れてナイジェリアに連れていった。近い将来、彼が日本を背負う選手になると判断したからだ。
 「アジアカップ・チーム」の攻撃陣には、脂の乗り切った森島寛晃と西澤明訓のセレッソ・コンビ、カズ(三浦知良)、中山雅史らがいる。そしてMFには名波浩、FWには城彰二という切り札もいる。もちろん、GKは川口能活で万全だ。
DFラインにやや不安は残るが、こう見ると、アジアカップでも十分優勝を狙うことのできるメンバーがいることがわかる。そこに天才・小野のパスワークが加わることで、2002年に向け重要な準備のステップを踏めると思うのだ。

(2000年8月30日)

No.328 ワールドカップ予選は地球規模の巨大大会

 ヨーロッパ予選が始まった。
 8月16日、2002年ワールドカップ韓国/日本大会ヨーロッパ予選第2組のリトアニア対アンドラ。旧ソ連の「バルト三国」のひとつリトアニアが、ピレネー山中の小国アンドラを1−0で下した。8月に行われるのはこの1試合だけだが、9月2日には全9組の予選がいっせいにスタートする。
 ヨーロッパサッカー連盟(UEFA)加盟国は全部で51。その全加盟国が2002年大会にエントリーし、前大会優勝で自動的に出場権を与えられているフランスを除く50カ国が予選に参加している。

 第1組から第5組が各6チーム。残りの4組が各5チームで構成されている。すべて「ホームアンドアウェー」形式のリーグ戦。来年10月6日までにすべての対戦を終え、各組1位が出場権を獲得、第2位の9チームにアジア予選の第3位を加えた10チームを2チームずつ組み合わせ、これもホームアンドアウェー2試合のプレーオフを行って勝った5チームが出場権を獲得する。すなわち、ヨーロッパからは、フランスを加えて14ないし15の国が2002年大会に出場することになる。
 全240試合。それは、Jリーグの第1、第2両ステージを合わせた試合数に等しい。気候の悪い12月から2月を避け、ほぼ1カ月に1試合のペースで行われる予選。各国の国内リーグは毎月いちどずつ週末のスケジュールを空け、代表チームの活動期間をつくる。それによって、外国のクラブでプレーしている選手が心おきなく予選のために祖国の代表チームに合流することができる。

 ワールドカップでは、4年にいちど原則としてひとつの国で開催される大会を「決勝大会」と呼んでいる。それに対し、世界の各大陸で繰り広げられる「予選大会」がある。2002年大会では、195カ国が予選大会に出場し、総計800もの試合が行われることになっている。まさに地球規模の巨大大会。その大半がホームアンドアウェー形式だから、世界の大半の国が「韓国/日本への道」の舞台となる。
 ヨーロッパより半年早くことし3月に本格的なスタートを切った南米予選では、ブラジルが大苦戦を強いられている。首位アルゼンチンを3−1で下してほっとしたのもつかの間、チリに0−3という大敗を喫して尻に火がついたブラジルは、オリンピックに「オーバーエージ」の選手を出す計画を取りやめ、ワールドカップ予選に集中させることにしたという。
 ヨーロッパの各組にはそれぞれシード国があるが、「安全」と思っている国はない。ヨーロッパ選手権で圧倒的な強さを示したオランダでさえ、ポルトガル、アイルランドと同じ組にはいり、安閑としてはいられない。

 予選敗退の歴史をもたないドイツも、今回は第9組でイングランドという強豪と対戦しなければならず、急速に力をつけているギリシャ、フィンランドも同じ組で予断は許さない。イタリアも、ルーマニア、ハンガリーと同じ組にはいった。
 こうした組分けは、すべて昨年12月に東京で行われた「予選抽選会」で決められた。そして予選は来年11月末までにすべて終了し、12月にはいよいよソウルで決勝大会の組分け抽選会が行われる。
 楽に勝ち抜くチームなどごくわずか。出場権を獲得するチームの大半が、山あり谷ありの予選を勇敢に戦いながら、それぞれの国民の魂を揺さぶり、サッカーの歴史をつくっていく。
 ワールドカップという大会の本当のすごさは、決勝大会よりむしろ予選大会のほうにある。今回、日本にはその予選がないのが残念だが、その分、世界中の予選に注目してみようと思う。

(2000年8月23日)

No.327 FC PAF 20年間の友情物語

 今週は「私事」の話をしたい。
 私が監督をしている女子サッカークラブが、ことし創立二十周年を迎えた。
 FC・PAFは、東京の実践女子大学サッカー同好会の卒業生によって1980年につくられた。実践女子大ではその5年前、75年に同好会が発足し、「チキン・フットボールリーグ」と名づけられた京浜の女子リーグで数年のうちに2回にわたって優勝していた。関東の女子サッカー草創期の強豪だった。
 部員の大半は、大学入学後に始めたサッカーだった。しかしきれいな芝のグラウンドでボールをける喜びを見出した彼女たちは、たちまちサッカーのとりことなった。そして卒業してもサッカーを続けたいとつくられたのが、FC・PAFだった。
 できたばかりのクラブとはいえ、学生時代からのチームワークは抜群だった。2シーズン目の82年3月には、第3回全日本女子選手権大会準優勝という成績を残している。

しかし社会人の女性だけのクラブは、ほどなく慢性の選手不足に陥った。監督もいない時期が長く、中心選手は試合前にウォーミングアップもろくにできない状態だった。
「試合のときにメンバー表を書くだけでいいなら」と、なかば「押しかけ」で私が監督になったのは、そんな時期だった。
しかしチームのなかにはいって驚いた。選手たちは、ひとりの例外もなく、やろうと決めたことをどんなことがあってもやり抜こうとする意志の強さをもっていた。技術的には未熟でも、彼女たちのサッカーに対する情熱は、私が知っていたサッカー仲間の誰よりも熱かった。
 若い女性が週に2日も3日も練習し、週末はほとんど試合につぶれるのだ。よほどの決意と、サッカーに対する情熱がなければ続くものではない。

 よく、「大住さんのもっている女子チームは...」などと言われるが、とんでもない。FC・PAFは、いまも昔も、100パーセント、選手たちの力で運営されているクラブである。私は、彼女たちの情熱に引っぱられて、ついてきただけなのだ。
 やがてクラブには実践女子大の卒業生以外からの選手も加わり、その情熱に見合うように年々成長していった。
 社会人のサッカークラブが東京でコンスタントに活動を続けるのは至難の業といっていい。とにかくグラウンドが不足している。メンバーは、この20年間、練習や試合と同じように「グラウンド探し」に奔走した。
 情報を集め、借りられそうなグラウンドの担当を決めて、抽選などに参加する。現在は、ケガなどで「休部中」のメンバーのなかに献身的に働いてくれる人が何人もいることで、クラブが成り立っている。

 ひとりのメンバーは、家庭と仕事の都合でもう8年も練習や試合にくることができない。しかしそれでも、毎月1回、時間をつくって都内のあるグラウンドの抽選会に出かける。非常に倍率が高く、数カ月にいちど程度しか当たらない。しかし自分がプレーするわけでもないグラウンドを、彼女は何年間もとり続けているのだ。これ以上の無私の行為があるだろうか。
 このクラブを見ていると、サッカーというスポーツのチームゲームとしての良さが本当によくわかる。ひとりでは何もできない。心を合わせ、力を合わせなければ、試合に勝つことはおろか、試合をすることもできない。そこに友情が生まれる。
 選手たちを貫く友情こそ、このチームを20年間にわたって引っぱってきた原動力だった。
 今週末、クラブは20周年の記念行事を開く。現役選手からOG、その夫、そして子どもたちまで、70人以上が集まる。20年分の友情が集まれば、楽しい会にならないはずがない。

(2000年8月16日)

サッカーの話をしようについて

1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。

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