
「ベンチにはいるサブの選手数を増やし、延長にはいったときには、4人目の交代を許すべきだ」
鹿島アントラーズのトニーニョ・セレーゾ監督は、こう主張し続けている。今シーズンの開幕戦で試合後そう話し、先週、8月5日の横浜F・マリノス戦後にも、同じことを話した。今回は、セレーゾ監督の意見について考えてみたい。
現在のJリーグの選手交代は、試合前に5人のベンチ入り選手を登録しておき、試合中にいつでもそのうち3人まで交代させることができるというシステムになっている。
選手交代が3人になったのは、そう古いことではない。94年の国際ルール改正で「2+1」という制度が採用された。GKに限って、3人目の交代が許されるという中途半端なもので、翌年すぐポジションに関係なく3人の交代が認められた。
すなわち、Jリーグがスタートした93年には、まだ2人しか交代が許されていなかったのだ。ベンチ入りする交代選手枠が5人というのも、当時のルールに従って決められたものであり、各スタジアムでは、役員6人と交代選手5人、計11人が座ることのできるベンチが用意された。
まさか、そのベンチの収容人員を増やすことができないからベンチ入り選手枠を増やさないのではないと思うが、交代できる人数が2人から3人になってもベンチ入り選手枠が増えないのは解せない。
交代が3人になった95年のルールでは、公式戦において「登録できる交代要員」を「3人から最大5人まで」と従来のままだったが、96年のルール改正で最大人数を「7人」に増やした。イタリアのセリエAでは、その制限いっぱいの7人の選手がベンチにはいっている。
試合の状況次第では、「サブにあのポジションの選手を入れておけばよかったな」と思うときがよくある。交代で出せる選手の選択肢を増やし、試合をよりきめ細かなものにするためにも、ベンチ入りする交代選手の枠を7人に増やすべきだと思う。
セレーゾ監督の意見は、ここまではルールの範囲内にある。問題は「4人目の交代」だ。ルールでは、「公式戦では...最大3人までの交代」と規定されているからだ。
しかし、Jリーグの延長戦というのは、93年にスタートしたときに、国際サッカー連盟(FIFA)からテストケースとして認められ、そのままずるずると今日に至っているものだ。リーグ戦で延長戦を行うことこそ、「ルール外」のことなのだ。
そのJリーグで、延長にはいったときに限って4人目の交代を認めるというのは、非常に合理的だと思う。
これなら、90分間の戦いは、他の国と同じになる。選手交代に関しては、監督は90分間の勝負だけを考えて手を打つことができるからだ。
たとえば、同点のまま残り10分を切り、攻勢に試合を進めているとき、「ここでFWを出して勝負に出たい」と思っても、それが3人目の交代だったら、延長になったときに苦しくなるとう心配が、監督たちに「勝負」に出る交代をためらわせている。Jリーグの試合終盤の戦いに迫力が生まれないのは、それも影響しているはずだ。しかし延長になったら4人目の交代が使えるということであれば、その前に勝負に出ることができる。
なんども書いてきたが、私はリーグ戦で延長戦を行う現在のJリーグの試合方式には賛成ではない。しかし現状で延長戦を廃止できないというのなら、「4人目の交代」を早急に検討するべきだと思う。
セレーゾ監督の意見を他クラブの監督がどう考えるか、ぜひとも聞いてみたい気がする。
(2000年8月9日)
「ハーフタイムくらい、リラックスしたいなあ」
強く思ったのは、ヨーロッパ選手権のときだった。
オランダとベルギーの共同開催で行われたこの大会は、当然、試合の運営も両国の間で違いがあった。ふだんの国内リーグや国際試合でそれぞれにやっている方法がそのまま使われたのだろう。もちろん、観客の絶対数からすれば、それぞれの地元の人がいちばん多いのだから、この考え方は間違いではない。
しかし、ベルギーでの試合のキックオフ前、そしてハーフタイムの騒々しさには閉口した。性能の良い巨大スピーカーから、大会の公式ソングなどのロック音楽が大音響で流れてくる。それは、選手が入場してキックオフを待つ間にも鳴り止まず、主審がキックオフの笛を吹くと、ようやくおさまるのだ。
ハーフタイムにはいると同時に、また大音響でハイテンポのロック音楽が始まる。そしてそれは、後半のキックオフの笛が鳴るまで、途切れることなく続くのだ。いやはや...。
音楽を流すのは、観客を楽しませようという目的に違いない。実際、音楽に合わせて踊ったり、楽しそうにいっしょに歌っているファンもたくさんいる。
しかし私は、これは間違った考えだと思う。完全に主客が転倒しているからだ。
「主」とはサッカーのことだ。ヨーロッパ選手権の観客は、どちらかのチームのサポーターか、あるいは熱心なサッカーファンのはずだ。彼らは、間違いなく「サッカー」の試合を見るために高い入場料を払っている。試合主催者の責務は、何よりもまず、その試合を最大限に楽しんでもらうことではないか。
ベルギーの試合運営は、まるで、「サッカーはつまらないかもしれませんから、せめて試合前やハーフタイムに楽しんでいってください」と言っているように感じられる。それは、試合の生中継中にクイズを流したり、サッカーに関心のないタレントを呼んできて話をさせたりする日本のテレビ局と同じ発想だ。
そしてまた、これほどでなくても、現在のJリーグのクラブにも、結果的に似た発想の試合運営をしているところがいくつもある。試合前やハーフタイムにディスクジョッキーのような人が試合の流れやスタンドの反応に無関係にはしゃぎまくっているスタジアム、人気タレントを呼んでハーフタイムに盛り上げようというスタジアム。いずれも、自分たちのチームや、サッカーの試合そのものの魅力を信じていない結果だ。
試合前には、少々にぎやかな時間があってもいい。しかし基本的には、軽めの音楽を、ボリュームを絞って流してほしい。そして選手が入場してからは、スタンドの興奮が盛り上がるままに任せてほしい。キックオフは、ファンにとって待ちに待った「開演」のときなのだ。余計な演出などつけないでほしい。
そしてハーフタイムは、固唾を飲んで見守っていた45分間から「解放」されるとき。席から立って背伸びをしたり、トイレに行ったり、前半のプレーを語り合うときなのだ。ここでは、何よりもリラックスできる軽い音楽にしてほしい。
私の音楽の趣味を押し付けようというのではない。ハーフタイムが終わって選手がふたたびピッチに姿を現したとき、それまでにリラックスしていれば、ホイッスルとともに自然に試合に集中することができるのだ。
何とかファンを楽しませようというサービス精神はわかる。しかしまずはサッカー自体の魅力を信じ、それをフルに楽しむことができる環境をつくる努力をするべきだと思う。
ハーフタイムは「退屈な待ち時間」ではない。後半の45分を楽しむために、リラックスできる時間であってほしいのだ。
(2000年8月2日)
言いたくはない。言ってはいけないと思うが、暑い。
梅雨が明けて、関東地方の暑さは増す一方だ。先週末には、連日のように「今夏最高気温」を記録した。
はっきり言って、この暑さはサッカーには向かない。鍛え上げているプロならともかく、冷房のきいたなかで仕事をしている人が「たまの休日だからサッカーでもやるか」というような気候ではない。もしサッカーの魅力に負けて炎天下のグラウンドに出ようものなら、健康を損なうことは必至だ。
そんな暑さのなかで、私が監督をしている女子チームは「全日本選手権東京予選」という重要な大会を戦っている。女子のサッカーの日程もけっこう忙しく、国体やその予選などの期間もあるため、11月の「関東予選」に進むチームを決めるには、東京予選を7月に開催するしかないのだ。
そして、私たちが使っているグラウンドの大半にはナイター設備などないから、試合の多くが真っ昼間に行われる。午前11時キックオフの試合など、脳天に強烈な太陽が照り付け、五分間も走ったら体温が急上昇してクラクラする。
それを救うのが冷たい水だ。試合前からたっぷりと摂り、試合中にも機会を見つけてはタッチラインの外に置いてあるボトルから補給する。体温を上げないためには、のどの渇きを覚える前に水分を補給するしかないのだ。
しかし、この「試合中の飲水」が、なかなか難しい。ルールでは「アウトオブプレー中」にしなければならない。ボールがゴールラインやタッチラインから出たとき、反則の笛が鳴って試合が止まったときなどに、すばやく飲まなければならないからだ。ボトルはいろいろな場所に置いておくが、ポジションによっては飲みにくい人もいる。
小中学生ではなかなかこれができず、体温が上がりすぎて具合が悪くなる子が多い。それを防止するために、日本サッカー協会では、こうした年代の試合では、レフェリーが試合を止めて選手たちに飲水タイムをとらせるよう、数年前から指導している。
悪くない指導だと思う。ルールにはないことだが、子どもたちの健康を考えれば、当然のことだと思う。
だが、こんなことをしなければならないのは、本来「サッカー向き」ではない真夏の日中に試合をさせるからではないか。まずは、こんな不健康な時間に試合をしないように努力するべきではないか。
夏休みに大会を開催する必要が本当にあるのだろうか。それも、連日、場合によっては1日に2試合、3試合をさせるなんて、子どもたちの健康を無視した「虐待」といってもいい。
夏休みは子どもたちのスポーツの最盛期だ。夏休みだから、まとまった時間がとれ、数日間の大会に参加することができる。その経験は、子どもたちの成長に大きな役割を果たすだろう。しかし経験を健康と引き換えにすることはできない。
さらに、子どもたちが猛暑の日中に喜んでプレーをしているのか、改めて考える必要がある。数十年間も続けてやってきたことだから正しいわけではない。「夏にしかできない大会」そのもののあり方を考え直す必要があると思うのだ。
私は、子どもたちの試合も、春や秋の気候のいい時期に、毎週1試合のペースのリーグ戦で行うのを原則にすべきだと考える。数多くのチームを集めて連日試合させること、真夏の昼間に試合をさせることは、いずれも間違っていると思う。
夏休みには、サッカーなど休みにして、海やプールに行ったり、家族で旅行に行くほうがずっと意味がある。
(2000年7月26日)
ずっと気になっていたことがある。サッカーで最も美しい習慣のひとつが、最も醜い行為につぶされかけていることだ。これまで日本ではあまり見かけなかったが、やはり、その行為をするチームが現れた。
先週土曜日に東京の国立競技場で行われたヴェルディ川崎対鹿島アントラーズの試合の1場面から話を始めたい。
問題のシーンは後半7分ごろに起こった。中盤左で前線にパスを出したアントラーズのビスマルクがプレー直後にからまれ、グラウンドに倒れた。しかしアントラーズはプレーを続け、右に回って名良橋がシュートを放った。ボールはヴェルディのGK本並の正面に飛び、難なくキャッチ。ここで本並はビスマルクがまだ倒れているのを見て、ボールを右タッチのハーフライン近くにけり出した。ビスマルクの治療をするためにプレーを中断させたのだ。
ビスマルクが倒れたのだから、本来ならアントラーズの選手たちがボールを外に出すべきだった。しかし0−0の状況で余裕がなかったのか、それとも、わかっていても、プレーを中断する必要がないと思ったのか。
それでも、本並がボールをけり出してくれた時点で状況を理解できたはずだ。しかしアントラーズが選んだのは、本並の好意を逆手にとって勝利を得ようとすることだった。
しばらくしてビスマルクが立ち上がり、アントラーズのスローインで試合が再開された。 ボールを受けたのはFW平瀬。彼はボールをヴェルディ陣の奥深く、コーナー近くにけり出した。そして、チームメートに押し上げるように指示し、ヴェルディのスローインにプレッシャーをかけたのだ。狙いは当たり、アントラーズがボールを奪って平瀬に回し、シュートがきわどくヴェルディ・ゴールを襲った。
プレー中に誰かが起き上がれないようなケガをしたと思ったら、それがどちらのチームの選手でも、ボールを外に出してプレーを止める。治療が終わると、試合は相手チームのスローインになるのだが、すぐにボールを出した側のチームに戻される。それは、サッカーで最も美しい行為だ。そこには、「相手チームも『敵』ではなく、いっしょに試合をしている『仲間』だ」という、フェアプレーの根源的な精神が表現されている。
しかし数年前から、相手の好意を利用して試合を有利にしようという傾向が出てきた。98年ワールドカップでは、平瀬やアントラーズとまったく同じプレーをするチームがいくつもあった。ただ日本では、幸いなことにこうしたプレーはこれまであまり見なかった。
私はアントラーズにはっきりと聞きたいと思う。あのプレーは、何かの勘違いで起こったことなのか。それとも、アントラーズ、あるいはトニーニョ・セレーゾ監督が、そうするように指導しているのか。
「世界でやっているのだから、日本だけやらなければ、国際試合で困ることになる」
このような意見には、私は絶対に賛成しない。日本の選手は、こういうことをするチームがあることを知っているだけでよい。相手がそういうチームなら、そんなことで失点をくらわないように注意すればよい。
どんなに高度なテクニックを駆使して見事なプレーを見せても、そこにフェアプレーがなかったら、感動を与える美しいサッカーにはならない。逆に言えば、サッカーというゲームの魅力を殺すには、アンフェアなプレーをすれば簡単だということだ。そんな試合には、誰も見向きもしなくなるだろう。
勝利を追い求めて全力を尽くすことは、それ自体がフェアプレーの重要な要素だ。しかしそのために何をしてもいいわけではないのだ。
(2000年7月19日)
名古屋グランパスが主力の日本人3選手がチームの戦力構想から外れたことを発表した事件は、グランパスだけでなく、全国のファンを驚かせた。
「戦力外」とされたのは、日本代表DFとしてモロッコでのフランス戦でも活躍した大岩剛選手(28)、日本代表の右アウトサイドでレギュラーに近い位置を得ているMF望月重良選手(27)、そして98年ワールドカップ代表でもあった左サイドのMF平野孝選手(25)。
原因はジョアン・カルロス監督(44)との衝突のようだ。
グランパスでも中心になるべき3選手の練習態度などに腹を立てたジョアン・カルロス監督が3人をチームから外し、直後の試合でジュビロ磐田に大敗した。監督は即座に辞任を申し出たが、クラブ側は監督を慰留し、逆に3選手を「切る」という荒療治に出たのである。
現在、3選手はいずれも「名古屋が好きだから残りたい」と、Jリーグ選手協会に仲介を求める動きも出ている。しかし先週土曜日のリーグ戦前、クラブは3人を切った理由を地元サポーターに直接説明し、「戦力外」という考えを再確認した。
スター選手と監督の衝突は、世界のどこにでもある。別に目新しい事件ではない。しかし多くの場合、どちらが正しいかに関係なく、監督のほうが犠牲になる。監督の代わりはいくらでもいるが、スター選手を探すことは非常に難しく、また高い移籍金を必要とするからだ。
名古屋の場合、昨年もこの3選手と監督の衝突があり、そのときには田中孝司監督が辞任に追い込まれた。しかし今回は、クラブはジョアン・カルロス監督を全面的に支持し、レギュラー選手3人を切った。
これは、監督の言い分が正しく、選手が間違っていると、クラブが判断したわけではないと思う。そうではなく、「力関係」で監督が勝ったのだ。
ジョアン・カルロス監督は、96年から98年まで鹿島アントラーズで監督を務め、96年には年間優勝、97年には第1ステージ優勝を飾っている。厳しい指導で規律にあふれたチームをつくることで評価が高い。
来年からストイコビッチ抜きで戦わなければならないグランパスにとって、大事なのは若いタレントを育て、集団で戦うことのできるチームをつくることだ。そのためには、ジョアン・カルロスの手腕がどうしても必要となる。
一方、今回戦力外通告を受けた3手は、「何が何でもこの3人を中心にポスト・ストイコビッチのグランパスをつくる」という結論を、グランパスに出させることができなかった。クラブの「査定」において、ジョアン・カルロスに敗れたというわけだ。それは、シーズン終了後に、次年度の新戦力との比較で戦力外通告を受ける場合と何ら変わりはない。
このような状況下で「プロ選手」にできることは、新しい働き先を探すことだけだ。選手協会やファンに働きかけてクラブの決定に影響を与えようとするなど、時間の無駄だ。
3選手の実力について疑念はない。3人ともまだ十分若く、Jリーグの選手としても、また日本代表選手としても大きな可能性をもっている。1日も早く自分の置かれた状況を認識し、それぞれに新しい活躍の場を探してプレーに復帰すべきだ。
サッカーというゲームは、スターの数で勝負を決めるものではない。それは、今季JリーグでのFC東京の試合ぶりや、ヨーロッパ選手権準決勝で強敵オランダを倒したイタリアが、身をもって示している。
名古屋グランパスの選択は、監督以下、選手全員が心を合わせて戦うことのできるチームをつくることだった。
私は、その結論を支持する。
(2000年7月12日)