
試合開始後わずか6分間で2ゴールを叩き込み、「世界選抜」のような豪華メンバーを誇るレアル・マドリードを下す原動力となったのは、ボカ・ジュニアーズの大柄なFWマルチン・パレルモだった。
イタリアのセリエAでは、フィオレンチナからローマへ移籍したガブリエル・バティストゥータが得点を量産してチームの快進撃を支えている。
アルゼンチン代表は、激戦のワールドカップ南米予選で首位を独走中だ。牽引車は、ともに4ゴールを記録しているバティストゥータとエルナン・クレスポの「核弾頭コンビ」だ。
2000年の世界サッカーは、アルゼンチン人ストライカーの活躍が目立った。いま、アルゼンチンは、世界で最もストライカーが豊富な国だろう。エースのバティストゥータが負傷でワールドカップ予選を欠場しても、代わりに出場した選手が堂々とゴールを決めてみせる。
他の国ではこうはいかない。国際サッカー連盟(FIFA)の「ワールドランキング」首位のブラジルでさえ、エースのロナウドが負傷すると信頼できるストライカーを探すことができず、結局は34歳のロマリオを引っぱり出すしかなかった。
なぜアルゼンチン・サッカーには、「ストライカーの水脈」が豊かなのだろうか。トヨタカップでのパレルモの活躍を見ながら、そんなことを考えた。
「オフザボールの動きが違う」。ある日本人コーチは、ワールドカップのシュートシーンをビデオ分析して、このような結論を出した。バティストゥータは、自分のところにパスがくる前に複雑な動きをしてマークするDFの視野から外れ、「オンザボール」すなわちボールが自分のところにきたときには、常に有利な状況にしているというのだ。
非常に重要なポイントだと思う。しかし、何人ものストライカーを見ていると、それだけでは説明できないように思える。アルゼンチンのストライカーたちに共通しているのは、メンタル面の強さではないか。
点を取るということに関し、彼らは強烈な目的意識をもっている。いったんピッチにはいると、彼らが考えているのは、自分自身で相手ゴールにボールを叩き込むことだけに違いない。極端にいえば、相手チームが攻め込んでシュートを打とうとしているときにも、彼らは、次にどこでボールをもらってどう突破してシュートを打つか考えているのではないか。
2000年はまた、日本のストライカーが成長した年でもあった。城彰二がスペインで2得点を挙げ、西沢明訓がフランスから輝かしいゴールを奪ってスペイン移籍を決め、高原直泰はオリンピックとアジアカップで得点を重ねてエースの座を築いた。柳沢敦も着実に成長し、北島秀朗はたくましさを増した。
しかしそれでも、アルゼンチン選手たちのもつ強烈な「ストライカーのメンタリティー」には、まだまだ及ばないように思える。もっともっと、ゴールへゴールへと向かっていく姿勢がほしい。外しても防がれても、へこたれずにゴールを狙い続けるタフさがほしい。
トヨタカップで2点を決めたパレルモは、昨年、1試合でなんと3本ものPKを失敗したことがある。コパアメリカのコロンビア戦。1本目はバーに当て、2本目はバーを越した。そして試合終了間際にこの日3本目のPKを得ると、驚いたことに彼はまたも自らけり、さらに驚いたことにこんどはGKにセーブされたのである。
試合は0−3の負けだった。当然、サポーターは彼に非難の口笛を浴びせたが、彼は悪びれた様子も見せず、手を振って更衣室にはいっていった。これこそ、「ストライカーのメンタリティー」なのだろう。
(2000年12月6日)
先日、新潟でワールドカップ用のスタジアム、通称「ビッグスワン」を見る機会があった。スタンドにはゆったりとした椅子も設置され、ほとんど完成に近い印象だった。
すでに完成している3つのスタジアムに続き、来年の春から夏に大半のスタジアムが完成する。10年前、招致の準備が始まったころには最大の難問と思われていた「ワールドカップ規格のスタジアム」が勢ぞろいすると、いよいよ2002年大会も秒読みにはいる。
ところで、この大会では、日本、韓国とも10会場が使用されるが、日本のスタジアムにすこし気になることがある。「会場名」にばらつきがあることだ。
通常ワールドカップでは「都市名」が「会場名」として使用され、スタジアムの正式名称も併用される。たとえば2002年大会の決勝戦会場は「横浜」であり、6月30日に「国際競技場」で新しい世界チャンピオンが決まるということになる。
ところが、日本の10会場を見ると、「都市名」が使われていないところが6つもあるのに気づく。前述の横浜市と、札幌市、大阪市、神戸市は都市名だが、その他の宮城県、茨城県、埼玉県、新潟県、静岡県、そして大分県は、すべて「県名」すなわち「地域名」である。JAWOC(2002年ワールドカップ日本組織委員会)は、「スタジアムの建設主体の自治体名」を会場名としているからだ。
92年に国内の開催候補地を募集したとき、最大のポイントはスタジアムだった。しかし数百億円規模の施設である。政令指定都市以外は県や府が建設するしかない。その結果、「立候補」名に府と県の自治体名がはいることになった。
15の自治体を「会場候補地」として「ワールドカップ招致委員会」が認めたのが93年のはじめ。これらの自治体は、招致資金の大きな部分も負担した。
96年5月に「日韓共同開催」が決まり、日本サッカー協会は会場を10に削減した。そのときにも当初からの「自治体名」がそのまま使われた。JAWOC発足後もそれは変わらず、ことし九月に国際サッカー連盟(FIFA)から発表された正式な試合スケジュールでも、「4都市6県」のままだった。
こんなことを言い出すのは遅きに失した感があるかもしれない。日本とヨーロッパでは、自治体というものの性格も違うだろう。しかしこのままでは、いくつもの会場が「迷子」になってしまうような気がする。外国の子どもが日本の会場を地図で調べようとしても、「ミヤギ」や「イバラギ」などの県名を探すのは簡単ではないからだ。
ワールドカップの会場は、スタジアムが誰のものかではなく、試合の行われる「町の名前」を冠するのが原則だ。過去の大会では、クラブ所有のスタジアムで試合を行ったこともあったが、その場合にも、クラブ名は出なかった。使われたのは、スタジアムのある都市名と、スタジアムの正式名称だけだった。
98年フランス大会の決勝戦会場となった「フランス・スタジアム」は、建設費の47パーセントを国が負担し、残りの資金は一般から出資を募ってまかなった。しかし会場名は、スタジアムが置かれた都市名「サンドニ」だった。
新潟と大分は、県名とスタジアムのある都市名が同じだからすんなりと変えることができるだろう。しかしその他の会場も、「宮城県」は「利府」に、「茨城県」は「鹿嶋」に、「埼玉県」は「浦和」に、そして「静岡県」は「袋井」に変更すべきだ。
県民の税金を使ってつくられたスタジアムかもしれない。しかし繰り返すが、ワールドカップの会場名は、「どこで」行うかを的確に示すべきもので、「誰が」パトロンであるかを示すものではないと思うのだ。
(2000年11月29日)
問題。
1965年に日本サッカーリーグが誕生し、日本に「全国リーグ」ができて以来、その「トップリーグ」から落ちたことのないチームがただひとつだけある。それはどこか。もちろん、日本リーグ時代の企業チームと現在のJリーグ時代のプロクラブを、連続した歴史をもつひとつのチームととらえての話だ。
先週土曜日、柏でレイソルと川崎フロンターレの試合を取材した。
すでに試合前、夕方に行われていた試合でジェフ市原が延長戦で勝利をつかんだことが伝えられていた。それは、事実上フロンターレのJ2降格が決定したことを意味していた。この日勝てば、残り試合の結果次第では勝ち点で追いつくことも可能だったが、得失点差の差は絶望的に大きかった。
小林寛監督は今季3人目の監督。GK浦上(1)とDF奥野(4)を除くと、「ひとけた」の背番号はなく、先発の11人中8人までが20番を超す大きな番号をつけていたことにも、フロンターレが歩んできた今季の苦しみが表れていた。
しかしこの日のフロンターレは、そんなことは微塵も感じさせないプレーを見せた。しっかりとした守備をベースに、優勝争いをするレイソルの弱点をつく攻撃を繰り出した。プレー内容も選手たちからあふれ出る闘志も、とても降格が決定的になったチームとは見えなかった。
サポーターも元気だった。この絶望的な状況のなかで川崎からやってきた数百人のサポーターは、まるで首位攻防戦のような声援を送りつづけた。
試合は、前半ロスタイムのゴールでレイソルが1−0で勝った。この瞬間、フロンターレのJ2降格が正式に決まった。
しかし選手もサポーターも立派だった。選手たちは胸を張ってサポーターにあいさつし、サポーターたちは試合中にも劣らない声援で、これからもチームとともに歩むことを示した。
翌日にはJ2の最終節が行われ、浦和では超満員のサポーターの前でレッズが10人になりながらもVゴールで勝利をつかんだ。そして激しく競り合ってきた大分トリニータを振り切ってJ1昇格を決めた。
レッズも今季、のたうち回った。J2全40試合、延々と続くリーグ戦のなかでリズムを崩し、優勝争いは絶望的になり、逆に大分に追い上げられて余裕を失った。10月には、危機感をもった横山謙三ゼネラルマネジャーが総監督に就任、自ら直接指揮をふるうという緊急態勢をとらなければならなかった。
トリニータにとっては、2年連続の無念だった。昨年は最終日のロスタイムで追いつかれて引き分け、追っていたFC東京に逆転でJ1昇格をさらわれた。そしてことしは、最終戦を1−0の勝利で終えて浦和の試合の結果を待ったが、やはりあと一歩及ばなかった。
世界には数多くのクラブがある。しかしそのなかで、降格や2部暮らしを経験したことのないクラブは、ほんのひとにぎりしかない。名門、強豪といわれるクラブでさえ、長い年月のなかでは例外なく苦しい時期を経験している。
昇格も降格もサッカーの一部である。選手もクラブもファンも、それを受け入れ、それぞれの立場で懸命にやっていくしかない。フロンターレの選手やサポーター、そして浦和の駒場スタジアムを埋めた2万の観衆を見ながら、Jリーグにもそうした「常識」のようなものが育ちつつあるのを感じた。
最初の「問題」の正解は「ジェフ市原」(日本リーグ時代は古河電工)。ここ3年、すっかり「残留争い」の常連となったジェフだが、ついに20世紀の間は日本のトップリーグだけで過ごしたことになる。
(2000年11月22日)
「ビデオを詳細に検討したが、あのPK判定は正しかった。しかしその一方で、レッドカードは不要だったというのが審判委員会の見解である。イエローカードで十分だった」
アジア・サッカー連盟(AFC)のファルク・ブゾー審判委員長(シリア)の口から爆弾発言が飛び出したのは、アジアカップ(レバノン)の決勝戦前日に行われた記者会見だった。
問題のケースは大会序盤、韓国対中国戦のことだった。中国のFW宿茂臻のドリブルに韓国DF洪明甫が激しくチェック、宿茂臻が倒れた。主審のアルメハンナ氏(サウジアラビア)は迷わず笛を吹き、ペナルティースポットを指すと同時に、洪明甫にレッドカードを出した。
AFCの記者会見には、ジャーナリストだけでなく、大会の最終段階まで残った審判員たちも出席していた。アルメハンナ氏もその席にいた。ブゾー委員長の言葉に、私は思わず彼を見たが、表情は変わらなかった。
いろいろなレベルの大会を見てきたが、「審判委員会」のような当事者組織がひとつの判定をこれほど明確に「誤審」と明言したのは初めて聞いた。
ルールでは、試合が終わったら主審が試合中に下した判定を覆すことはできない。そして国際サッカー連盟(FIFA)は、試合中の判定に関して担当審判がメディアにコメントしてはならないと通達している。余計な混乱を避けるためだ。そして各組織の審判を統括する審判委員会も、誤審があっても明確には認めないのが通例である。
それは、よく言われるように「仲間をかばう」ためではない。審判委員会が「誤審」と認めれば、その審判はある種の「レッテル」を貼られてしまうからだ。
日本サッカー協会とJリーグで審判委員長を務める元国際審判員の高田静夫氏はこう語る。
「選手も審判も人間であり、ヒューマンエラーがあるのは当然です。しかし選手はたとえミスをしても、次の試合、あるいは同じ試合のなかでリカバーすることができる。それに対して審判は、なかなかそれを取り戻す機会がなく、ひいては、『あのときの審判か』などと、選手との信頼関係に影響を与えるのではと心配されます」
ブゾー委員長は、長くアジアの審判技術の向上に貢献してきた人である。いわばアジアの審判たちの父のような存在であり、FIFAでも審判委員会メンバーとして信頼が厚い。その人がメディアに、しかも本人がいる前で「誤審」と明言したのは、明確な哲学のうえに立ってのものだったのだろう。
審判も人間である以上、見落としや判断ミスは不可避であり、サッカーという競技が、選手や審判のミスも包含するものであるという認識を広めなければならない。そして、たとえ誤審が結果に影響を及ぼしても、審判の人格を傷つけたり、ましてや危害を加えるようなことはけっしてあってはならない。
サッカーをもつ社会にそのような「常識」が確立していけば、自然とブゾー委員長のような態度が出てくるはずだ。それによって、より成熟した「サッカー社会」になるのではないか。
私は、選手のプレーや監督の采配と同じように、審判の判定についても、大いに議論があるべきだと思う。審判は別に「神聖不可侵」の存在ではない。
しかしそうしたオープンな議論は、審判委員会がどう認定するか以前に、メディアが自主的にしなければならない。テレビ、新聞などで報道に当たる者がルールと審判技術についてのしっかりとした知識をもち、ピッチの上で起こったこと、そしてその判定の意味を的確に報道し、そのうえで判定を「まな板」の上に乗せなければならない。
ブゾー委員長の言葉を考えながら、私もメディアの一員として身の引き締まる思いがした。
(2000年11月15日)
イングランドの超人気クラブ、マンチェスター・ユナイテッドが、2002年から始まる新しいユニホーム契約をナイキと結んだことが話題となっている。
ナイキは、ブラジルをはじめとした数多くのナショナル・チーム、そしてスペインのFCバルセロナなどの人気クラブと契約してユニホームなどを提供している。しかしユナイテッドとの契約はまったく破格のものだった。13年間で約3億ポンド。日本円にして500億円にのぼろうという数字なのだ。
ナイキは97年にブラジルと10年間の契約を結んだが、そのときの契約金は年間約10億円といわれた。ユナイテッドは年間約38億円。ちょうど2倍の値段がついたことになる。
マンチェスター・ユナイテッドは、わずか10年ほどの間にとてつもない「巨大産業」になってしまった。地元マンチェスター、そして英国各地だけでなく、世界の各地に専門のクラブショップを展開し、いまや「世界ブランド」とさえいえる。
海外の空港の免税品店を覗くと、スポーツ用品売り場には必ずといっていいほどこのクラブのレプリカキット(ユニホームセット)が置いてある。それが安いとはいえない値段なのだ。ナイキの巨額の契約は、ブラジル代表との契約に見られる世界最強チームという「イメージ戦略」より、むしろキットの製造販売利益という「実利」を狙ったものに違いない。
先月、イングランドではもうひとつ別のうわさがもちあがっていた。マンチェスター・ユナイテッドが、どこのスポーツ用品メーカーとも契約を結ばず、独自のブランドをつくって、それを自ら商品展開するのではないかという推測だった。
イングランドのプレミアリーグには、独自のブランドのユニホームを着ているクラブがいくつかある。用品メーカーと契約するより、クラブのマージンは格段に大きくなるからだ。そして同時に、できるだけ安くして、毎年ユニホームを買い換えてくれるファンの負担を減らそうという考えだという。
すでに「世界ブランド」となったマンチェスター・ユナイテッドなら、生半可なメーカーとの契約より、はるかに大きな利益に結びつくと指摘する声も多い。しかしクラブのグッズ売り上げが現在のまま続くとは、だれも保証できない。どんなクラブも、ずっと勝ちつづけることなどできないからだ。
だからユナイテッドは、よりリスクの少ない、「年間わずか38億円」のナイキとの契約に踏み切ったのである。
すこし前までは2年にいちどほどだったクラブ・ユニホームのモデルチェンジも、最近では毎年行われるようになった。近年の流行は、「第2ユニホーム」を毎年大幅に変えることだ。
ホーム用のユニホームは、伝統のクラブカラーやデザインがあるので、マイナーチェンジしかできない。しかしアウェー用の第二ユニホームなら、赤から青にしても、あるいはピンクなどの奇抜な色にしても問題はない。「通」のファンは喜んで第2ユニホームも買う。ホーム用よりはるかに数は少なくても、ばかにできない売り上げになる。
今季のヨーロッパ・サッカーを見ていると、第2ユニホームに、これまであまり使われていなかった色がはやっているのに気づく。うすいグレーだ。スペインのバルセロナ、イタリアのユベントス、フランスのパリ・サンジェルマンなどが、申し合わせたようにグレーの第二ユニホームを着ているのだ。
レプリカ・ユニホームはクラブやあこがれの選手たちとファンを結ぶ重要な道具ではあるけれど、マンチェスター・ユナイテッドとナイキが結んだ契約の額を見て、なにか複雑な思いがするのは私だけだろうか。
(2000年11月8日)