
今回は、パウロ・ディカニオというひとりのイタリア人選手の行動について話をしたい。
名門ユベントス、ミランなどでプレーし、小柄ながらシャープなシュート力で活躍してきたFWである。96年にイタリアを飛び出してスコットランドのセルティックに移籍し、翌年にイングランドのシェフィールド・ウェンズデー、そして99年からは同じイングランドのウェストハムでプレーしている。32歳。華やかな活躍をしながら、イタリア代表の経歴はない。
話は昨年12月中旬のことである。ウェストハムがアウェーでエバートンと対戦した。試合は1−1のまま終盤に突入し、ロスタイムにはいった。
そのとき、エバートンのDFラインの裏に長いボールが出た。ウェストハムのFWカヌートが走り込む。エバートンのGKジェラードが果敢に飛び出す。ペナルティーエリア外でかろうじてクリア。しかし彼はカヌートとの接触で足を痛め、そのままグラウンドに倒れた。
こぼれ球を拾ったのは、ウェストハムのFWシンクレア。すかさずペナルティーエリア内にボールを入れた。ボールは、エリア内に残っていたディカニオのところに正確に飛んだ。近くにエバートンの選手もいたが、ディカニオの技術をもってすれば、たやすくゴールを決められる状況だ。ボールを止め、ゴールにけり込んで決勝ゴール。誰もがそう思った。ところが、予想外のことが起こった。
ディカニオはシュートしなかったのだ。驚いたことに、手でこのボールをキャッチし、倒れたままで苦痛の表情を浮かべているGKジェラードを指さして、「ドクター!」と叫んだのだ。
試合はこのまま終わった。ディカニオの行動は、ウェストハムにとっては、勝ち点2を失う(勝てば勝ち点3のところ、引き分けだったので1)ことを意味していた。
「別に特別のことをしたわけではないよ」と、試合後、ディカニオは語った。しかしウェストハムのレドナップ監督は複雑な表情だったという。
「私は、当然、彼が得点するだろうと思った。すばらしいスポーツマンシップだと思う。しかし、誰かが同じことを私たちにしてくれると思うかい?」
ウェストハムのホームページには、ディカニオの行動について数多くの投書が寄せられた。称賛する意見が多かったが、なかには、「あのままゴールを決めても、誰も非難しなかっただろう。得点してからドクターを呼んでも、そう遅くはなかったはずだ」という意見もあった。「計算ずくのハンドなのだから、イエローカードものでは?」という皮肉屋もいた。
とはいえ、ファンのアンケートを集計すると、約8割が彼の行動を支持したという。
日本では、97年のゼロックススーパーカップで、ボールをつかんだまま負傷して、あまりの苦痛にボールを外に出すこともできなかったヴェルディ川崎のGK菊池を、鹿島アントラーズのFWマジーニョが機転をきかせて助けたことがあった。彼は、菊池に走り寄って、手でボールをつかみ、そこでプレーの流れを断ち切ったのだ。
しかしこのマジーニョの「機転」と比べても、ディカニオの行動は、誰にでもできるものではないように思える。目の前にころがってきた決勝点のチャンス。それを捨て去る行動の裏には、よほどの「哲学」があったはずだ。
日本のサッカーファンは、彼の行動をどう考えるだろうか。
試合後、ディカニオはこんなことを話している。
「試合中は、相手選手はもちろん敵さ。でも、ケガをしたら、それはもう敵じゃない。仲間なんだ。助けなければならないのは当然さ」
(2001年1月15日)
「あってはならないゴール」だったと思う。
元日の天皇杯決勝、鹿島アントラーズ対清水エスパルス。アントラーズの2点目だ。
アントラーズが先制し、エスパルスが2度追いつき、そして延長にはいってアントラーズがVゴールで勝負を決めた。
アントラーズの1点目は、ゴール前のFKをMF小笠原が直接決めたもの。エスパルスは布瀬直次主審がプレーを止めたものと勘違いし、まったく準備をしていなかった。主審の処置にも、小笠原のプレーにもまったく問題はなかった。むしろ、見事な判断とプレーだった。
しかし2点目には、大きな問題がある。
後半4分、アントラーズが右サイドでFKを得たところからプレーは始まる。
ビスマルクのキックにエスパルス・ゴール前で両チームの選手が激しく競り合い、ボールがはね返される。これをアントラーズが拾い、後方に回す。
そのとき、エスパルス・ゴール左前に、白いユニホームがひとり倒れていた。DFの市川だった。競り合いでどこか打ったのか、倒れたまま動かない。ボールがセンターサークル付近の小笠原に渡ろうとしたとき、布瀬主審は広島禎数副審の合図で市川の状態を確認し、ボールを外に出すよう小笠原に手でサインを出した。
再びゴール前にボールがはいれば、倒れたままの市川は非常に危険な状態となる。ボールを外に出すのが、サッカーの常識であり、良識である。
敢えて笛を吹いて止めなかった布瀬主審の判断は、当を得たものだったと思う。主審が止めるよりも、選手がプレーを切るほうが、より「サッカー的」で、好ましい形だからだ。
しかし次の瞬間、小笠原は、そのままゴール右にロングパスを送っていた。ボールは残っていた鈴木の頭を越えたが、その裏に走り込んだ熊谷が角度のないところから強烈なシュート。GKがはじき、鈴木が押し込んだ。このプレーの間、市川はゴール前に倒れたままだった。
その瞬間、頭をよぎったのは、98年ワールドカップ準々決勝フランス対イタリア戦、延長終了直前のフランスのプレーだった。イタリア・ゴール前での競り合いでイタリア選手が倒れたままなのを見たフランスのMFプティが、センタリングする代わりに、ボールをタッチラインに出してしまったのだ。
試合の「重要性」は大きな問題ではないことが、この例でもわかるだろう。プティは、目の前にかかった勝敗、ワールドカップ準決勝に勝ち進む決勝ゴールのチャンスよりも、相手選手の安全を気づかったのだ。
誰にもできる行為ではない。しかし上体をすっと立て、顔を上げてゴール前の状況を見たまま、左足の裏でボールをラインの外に出したプレーは、ほれぼれするほどカッコ良かった。そして彼の行為は、世界中のファンと少年少女に強烈なメッセージとなって伝わった。
「タイトルを目指して戦う相手という以前に、僕たちはサッカー選手という仲間なんだ」
プティのような成熟した「サッカー人」の存在こそ、フランスがワールドカップを獲得できた最大の要因だったと思う。
主審の合図を無視した小笠原のロングパスを目で追いながら、私は心のなかで叫んだ。
「そんなに余裕のないことでどうするんだ!」
この日も、小笠原はすばらしい才能をもった若者であることを示した。しかしこの場面で当然のようにボールを外に出せるだけの人間的な広さが伴わなければ、その才能が真に成熟のときを迎えることはないだろう。
エスパルスのためにではない。サッカー自体と、何よりも、小笠原のために、「あってはならないゴール」だったと思うのだ。
(2001年1月10日)
サッカーの試合を追う旅は、同時に、いろいろなスタジアムとの出合いの旅でもある。
2000年も、日本や世界の各地でいろいろなスタジアムを訪れた。そのなかで最も強い印象を受けたのが、オランダ、アルンヘム市の「ヘルレドーム」と呼ばれる開閉式の屋根をもったスタジアムだった。
第一に、見事なテクノロジーの産物であることがあげられる。このスタジアムの特徴は、800トンの重さをもつ屋根がスライドして開閉するだけでなく、天然芝のピッチ全体をスタジアムの外に引き出すことができるところにある。
スタジアムの南、片方のゴール裏スタンドの背後にコンクリートで固められた広場がある。広さは、ちょうどピッチ1面分。サッカーの試合時には駐車場になるが、スタジアムをコンサートやモーターショーなどの催しに使用するときには、天然芝のピッチをコンクリートの台座ごとここに引き出すことができる。
台座を含めると1万1000トンにもなるピッチは、コンピュータで制御された油圧式の機械で動く。2時間弱で出し入れが完了するという。
このスタジアムをもつアルンヘム市はオランダ東部のヘルダーラント州の州都で人口13万。州と市は、この地域の活性化の核としてこのスタジアムを計画し、つくりあげた。
計画がスタートしたのは86年のこと。小さくてもいいから、最先端の技術を生かし、ショッピングセンターなども入れ、サッカーだけでなくいろいろな催しに使えるものにしようと計画が練られた。しかし建設資金がまとまり、工事が始まったのは10年後の96年のことだった。
98年3月に完成した「ヘルレドーム」は、たちまちのうちに地域の人びとをとりこにした。小クラブながらオランダ・リーグで過去10年間常に上位争いに加わる「フィテッセ」クラブの奮闘で、2万6000人収容のスタジアムは常に満員となった。雨でも雪でも、ゆったりとした席で安心して観戦できるスタジアムは、シーズンチケットの購買意欲を高めた。
テクノロジーの導入は、人件費、大会運営費の削減にも役立った。偽造チケットを判別する機械、入場券の自動改札機。そしてスタジアム内はプリペイドカードの導入で、完全キャッシュレスだ。クレジットカードでプリペイドカードを買うと、飲食物も記念品もすべてそのカードで買うことができる。スムーズな販売で、行列は消えた。
こうして、ヘルレドームとフィテッセは、アルンヘムの人びとの誇りとなり、見事に地域活性化の媒介役となった。
日本国内では、仙台スタジアムに感心した。仙台市内に97年に完成した2万人収容の球技専用スタジアム。都心から地下鉄で十数分、駅から歩いて数分というアクセスの良さ、試合の見やすさ、スタンド全体を覆う屋根、ゆったりとした座席など、申し分ない。
ここの「住人」はJ2のベガルタ仙台。2000年は上位に進出したが、まだJ1をうかがうほどの力はない。しかし今季は5試合にわたって観客が1万人を超し、1試合平均でも8885人となった。居心地のいい「ホームスタジアム」が家族連れのファンを増やす原動力になり、仙台という巨大都市の市民生活に少なからぬ影響を与えはじめている。
しっかりとした理念の下に建設されたスタジアムは、サッカーを通じて地域の生活に喜びを与え、人と人を結びつける。もたらす価値の大きさは、カネに代えることはできない。
ヘルレドームと仙台スタジアムに出合った2000年。21世紀の最初の年、2001年には、どんなスタジアムとの出合いがあるだろうか。
(2000年12月27日)
20世紀最後の年2000年。21世紀最初のワールドカップを目指して、世界の各地で予選が始まった年でもあった。
北大西洋、ノルウェーとイギリスとアイスランドで形づくられる三角形のちょうど中心に、「フェロー諸島」という18の島々からなる国がある。デンマークの自治領で、輸出の大半は水産物という「漁業国」である。
人口4万5000。その約1割が、9月3日、2002年大会を目指すワールドカップ予選の初戦に集まった。相手はヨーロッパ選手権出場の強豪スロベニア。後半41分に2点目を許して0−2、敗色は濃厚だった。
しかしスタンドのファンは誰ひとり席を立とうとしなかった。44分、ついに1点を返す。そしてわずか数十秒後、O・ハンセンが同点ゴールを叩き込んだ。選手とスタンドが一体となった歓喜は、全島に広がっていった。
サッカーが盛んになったのは1930年代。しかし協会の結成は1979年と遅かった。1月の平均気温が4度という暖かさながら、大西洋を渡る風に1年中吹きさらされ、年間280日も雨が降るという気候が、この島のサッカーの発展を阻んだ。サッカーとは、どろんこのなかでするスポーツだった。
80年代にはいって、サッカー協会は国中のグラウンドを人工芝にするという施策を断行した。天候に関係なく試合や練習ができるようにするためだった。その結果、競技人口は飛躍的に増加し、選手の質も上がった。そして88年、国際サッカー連盟に加盟を認められる。
90年9月、32歳のアイスランド人監督が率いるフェロー諸島代表は、初めての公式戦をオーストリアと戦った。ホームゲームだったが、天然芝の競技場がなかったため、試合はスウェーデンで行われた。結果は「ヨーロッパのサッカー史上最大の番狂わせ」といわれる勝利だった。1−0で勝ったのだ。
当時は完全なアマチュアチーム。ファインセーブの連続と白い毛糸の帽子で一躍スターとなったGKはトラック運転手、キャプテンは水産会社の営業だった。監督自身も、スポーツ店経営で生計をたてていた。
この試合に出場するために、代表選手たちは仕事を3日間休まなくてはならなかった。その「休業補償」は、島民全員からのカンパでまかなわれた。
それから10年。国を支える水産業が93年には世界経済の不況のあおりで大打撃を受け、フェロー諸島の生活は厳しさを増した。しかし島民は、一貫してサッカーチームを支え続けた。94年には元デンマーク代表のA・シモンセンが監督に就任、地道な強化が実りはじめた。現在では10人の選手がノルウェーやデンマークのクラブでプロとしてプレーしている。
「この国の若者は、何よりも勇気がある」
14歳以上のすべての代表チームを指導するシモンセン監督は、巨大な相手にも勇敢に立ち向かう島民気質こそ、フェロー諸島の選手たちが「大陸」に対抗する最大の武器だと語る。
20年前に1500人だった登録選手数は、いまでは5600人に達した。うち女子1250人。男性の5人にひとりはサッカー選手ということになる。
小さな国。劣悪な気候。しかしそのなかで人びとは心からサッカーを愛し、極東の国で開催されるワールドカップを目指して勇敢な闘いを展開している。
2000年、世界のサッカーは、ひとりの選手に60億円という途方もない移籍金が動くなど、ビッグマネーの話題で沸いた。しかしそんなものとは無関係のところで、人びとの心を動かし、生きる勇気を与えている選手やチームも、無数にある。
クリスマス休暇を楽しみながら、島の家々では、九月のスロベニア戦のことが繰り返し語られているに違いない。
(2000年12月20日)
ピッチの中央につくられた表彰台の上で、鹿島アントラーズの選手たちが喜びを全身で表している。横浜F・マリノスの選手たちが無念の表情で立ち尽くし、それを見つめている。
その一人ひとりの間を、黄色いウエアの選手が回って言葉をかけている。選手に対してだけではない。スタッフにも、ひとりずつ話しかけている。マリノスのGK川口能活だった。
12月9日に行われたJリーグ・チャンピオンシップの第二戦は、川口にとって痛恨の試合だっただろう。前半だけで3点を奪われた。1点目は破られてはいけないニアサイドを破られた。2点目は防ぎようがなかった。しかし3点目は、中田浩二が入れたクロスパスのミスキックを、楽々とつかんだと思った瞬間、ボールがぽろりと手からすべってゴールにはいった。
守備力を誇るアントラーズを相手に、3点のビハインドはあまりに大きい。後半、マリノスは猛攻をかけたが、差は縮まらなかった。川口は、その責任を強く感じていたに違いない。
川口にとっての2000年は、「耐える」シーズンだったのではないか。
Jリーグでは第1ステージで優勝を飾ったが、圧倒的な強さを示しての優勝ではなかった。セレッソ大阪との決戦で苦杯を喫して首位の座を奪われた。最終節に川崎フロンターレがセレッソに勝ったおかげで、ようやく手にしたタイトルだった。
日本代表では、さらに忍耐が必要だった。99年には名古屋グランパスの楢崎正剛と交互にゴールを守った川口だったが、ことしは大事な試合にはことごとく楢崎が起用された。オリンピックの「オーバーエージ」枠も、楢崎のものだった。
その楢崎がオリンピックで負傷して、アジアカップの第1GKの座が川口に回ってきた。レバノンで、川口は気迫にあふれた守備を見せた。軽率な場面もあったが、落ち着きと、DFラインの統率は光るものだった。
そして、チームが川口の活躍を本当に必要としたときには、見事にその期待に応えた。サウジアラビアの猛攻を受けた決勝戦、川口は磨きぬいた感覚を総動員してゴールを守り抜いた。鳥肌が立つような守備で、川口は日本に「アジア・チャンピオン」のタイトルをもたらした。
しかしマリノスにとってことし最も重要な試合で、彼は力を発揮できなかった。
「いつもうまくいくわけではない」。試合後、川口はこんな言葉を残した。投げやりのように聞こえたかもしれない。しかし私には、彼の成長の証であるように思えた。
GKとして体格に恵まれない川口は、それを補うためにストイックなまでのトレーニングと摂生を続けてきた。しかし結果が悪いときには、気持ちのもって行き場がないように見えた。
しかし耐えることを強いられた1年間は、彼の肩から力を抜き、「最善を尽くして、たとえつらいものであっても、結果を受け入れる」という心境をもたらしたのだろう。それが、試合後のコメントだったように思う。
アントラーズが表彰を受けている間に川口がチームメートの間を歩きながらかけていたのは、謝罪の言葉のようだった。
「ごめんな」「すみません」。
そうと知れたのは、声をかけられた選手やスタッフの大半が、彼の言葉に驚き、強く首を振ってその言葉を否定していたからだ。そしてだれもが彼を抱きしめ、健闘をたたえた。数年前の川口なら、悔しさに泣き崩れていただろう。しかしこの日、謝罪の言葉を繰り返しながらも、川口は驚くほど堂々としていた。
マリノスはアントラーズに負けた。川口はゴールを守りきることができなかった。しかし私が川口の姿に見たのは、勝敗を超越した「英雄」の姿だった。
(2000年12月13日)