
7年間続けてきたJリーグの「優秀放送賞」の審査委員をお役御免となった。ほとんど変わらぬメンバーで務めてきたが、こうした役割にフレッシュさが必要なのは当然のことだ。
審査にあたって、毎年20本以上の放送ビデオを見てきた。試合前、ハーフタイムの使い方、エンディングなどもチェックしなければならない。1試合当たり少なくとも2時間はかかるから、かなりハードな仕事だった。
しかしよく考えると、私は毎年同じような注文をつけ続けてきたような気がする。テレビ中継について書く機会はあまりないので、この際、念仏のように唱えてきた「試合中継への注文」を書いておくことにする。
第1に、メンバーリストは、必ず試合前に出してほしい。すでにストーリーが始まり、重要なせりふが話されているときに、出演者の顔の上に大きく字幕を流し、音声で出演者名を言う映画があるだろうか。試合が始まってからメンバー表を出すのは、それと同じことなのだ。
第2に、4人の審判名を、フルネームで、できればアップの表情を入れて、これも試合前にきちんと紹介してほしい。審判も重要な「キャスト」だからだ。試合が始まって数十分後、トラブルがあったときに「本日の主審は○○さんです」と初めて紹介する中継があまりに多い。
第3に、アナウンサーと解説者は、試合に集中してほしい。試合を楽しみたいとテレビを見ている視聴者の助けになってほしいのだ。展開に関係のないおしゃべりばかりの放送は、逆に、視聴者のじゃまになっている。
第4に、試合中のスコア表記は、必ずホームチームを左にしてほしい。攻撃の方向で示す日本式の表記では、どちらのホームゲームかがわからない。ことしから始まるサッカーくじを考えても不都合だ。
第5に、リプレーは、試合の流れを見て入れてほしい。チャンスの直後に挿入した無考えなリプレーで、大事なシーンが見られないことがある。リプレーはテレビ中継の最大の強みだが、それが致命的な放送ミスにつながることもある。
第6に、アナウンサーと解説者はしっかりとルールを勉強してほしい。オフサイドのルールと審判法を明確に理解していない解説者が跡を絶たない。
第7に、試合そのもので楽しませてほしい。余計なクイズを入れて試合中継を中断するなど主客転倒だ。
第8に、アップを減らしてほしい。プレーの流れがわからなくなるからだ。第9に...。このくらいにしておこう。
7年間の審査で見た番組で最も印象的だったのは、95年の11月に放送されたテレビ東京制作の「浦和レッズ対横浜マリノス」だった。
試合も一進一退だった。2−2の同点からPK戦となり、レッズが5−4で勝った。その試合の1プレー1プレーを、担当したテレビ東京の斉藤一也アナウンサーが的確に伝えていたのに、非常に感心した。話すリズムが試合のリズムと重なり、心地良く試合に引き込まれた。
同時に、映像の見事さにも感心させられた。中継は浦和の駒場スタジアムにかかる満月のアップから始まり、次第にカメラが引いて満員のスタジアムが映し出された。そしてエンディングは、最後のPKを決めたレッズのバインが、チームの歓喜の輪に加わらず、マリノスのGK川口のところに歩み寄って声をかけるシーンだった。
この年デビューしたばかり、20歳の川口は、がっくりとひざをついていたが、バインの言葉にうなずくと、少年のような笑顔を見せた。
あわただしい中継作業のなかで、番組をこの美しいシーンでしめくくった編集者のセンスに、私は素直に脱帽した。
(2001年2月21日)
今回は、「本当は書きたくない話」を書く。ワールドカップのチケット申し込み受け付けスタートの話題だ。
まあ聞いてほしい。
先週のある晩、テレビの人気ニュース番組を見ていたら、この話の特集があった。その最後に、キャスターに話が振られると、彼はこう答えた。
「私ですか? もちろん申し込みますよ」
思わず叫んだ。
「あなたは申し込まなくてもいい!」
そのキャスターは、日常の発言ぶりから、どう見てもサッカーに興味のない人だったからだ。
サッカーに興味はない。ワールドカップもどうでもいい。しかし今回の騒ぎを見ていると、プラチナチケットになるのは確実。もし当選すれば、何かの役に立つかもしれない----。
そんな気持ちで申し込み用紙を手にする人も少なくないのではないか。人気ニュース番組で特集を組むことによって、本来なら興味のなかった人まで「申し込まなければ」という空気に感染され、その結果、倍率をさらに高くしてしまうのではないか。そう強く感じたのだ。
これまでサッカーに興味のなかった人が、ワールドカップだから見たいと思うことが悪いというのではない。ワールドカップをきっかけに熱烈なファンになることもある(私もそのひとりだった)。しかし自分で見に行く気などないのに、大騒ぎになっているからとりあえず申し込みをしようというのは困る。
熱心なサッカーファンにすれば、「そんなに騒がないでくれ」と言いたいのではないか。本当にワールドカップを見たいと思っている人に販売システムがわかるようにしてくれれば十分というのが、偽らざる気持ちではないか。だから私も「書きたくない」のだ。
3年前、98年ワールドカップで日本のファンを襲った悲劇を忘れてしまった人はいないだろう。日本の初めてのワールドカップ出場を見ようと、旅行会社企画のツアーに申し込んだ人の多くが、大会の直前になって「チケットがありません」という知らせを受け取った。日本の旅行会社が大規模な詐欺にあったためだった。
ツアー参加を取りやめた人、ともかくフランスに渡ってチケットを入手しようと努力した人。そのなかでも入手できずにスタジアムの外にいただけの人、とてつもない高額でなんとかチケットを買い、ようやくスタジアムにはいった人。その誰もが、深く傷ついた。
今大会のチケット販売システムは、そうした悲劇を繰り返してはならないと計画されたものだったはずだ。ところが、実際に販売計画が発表されてみると、多くのファンが絶望的な気分に陥ったのではないか。
「日本でワールドカップを開催する」ことは、大多数のファンにとっては、「初めてワールドカップを生で見るチャンス」というイメージだった。しかしそうではなかった。このままでは、状況は3年前とは違っても、そのときと同じような心の傷を、そのときとは比べようもないほど多くの人に残すのではないか。そんな懸念がしてならない。
JAWOCは、そうしたファンの心をしっかりと受け止めなければならない。正直者がばかを見るような思いを絶対にさせないでほしい。外れた人びとが「公平な抽選だったのだから仕方がない」と思えるように、受け付けと抽選を管理してほしい。
そして、国内外で入手されたチケットの「購入権」が、チケット業者、オークション、あるいは旅行会社などを通じて法外な価格で売買されるようなことなどないように、しっかりと監視し、正当な価格でファンの手に渡るよう、最後まで努力を払ってほしいと思うのだ。
(2001年2月14日)
きょうは、ひとつの言葉について考えたい。
「リスペクト」(respect)
「後ろを振り返って見る」という意味のラテン語から発して、ヨーロッパの各国語で、尊敬する、敬意を払うというような意味の言葉になった。「リスペクト」と発音するのは英語だ。
「私たちはすべてのチームをリスペクトしている」
昨年レバノンで行われたアジアカップ、対戦相手について聞かれると、日本代表のフィリップ・トルシエ監督は決まってこう切り出した。
通訳は、たいていの場合、「リスペクト」を「尊敬している」「尊重している」「敬意を払っている」などと訳す。
しかしどう訳しても、なかなかぴったりこない。
「サッカーでは何でも起こりうる。試合というのは、キックオフされるまでは常にフィフティ・フィフティと考えなければならない」
トルシエはそんな話もする。だから相手を「リスペクト」することが必要なのだ。彼は真剣にそう話す。けっして外交辞令ではないのだ。
サッカーは単純に戦力を比較して勝敗を決めつけることのできるスポーツではない。たとえ対戦相手のこれまでの成績が自チームと比較して悪く、誰の目にも力の差があるように見えたとしても、ひとつの定規で戦力を測って「100パーセント勝てる」と言い切ることなどできない。
だから試合に臨むときには、相手の価値をしっかりと認め、真剣に取り組まなければならない。そうした態度を、「リスペクトしている」というのだろう。
リスペクトしなかったために痛い目にあったチームは数限りなくある。最もわかりやすい例が、96年のアトランタ・オリンピック初戦で日本と対戦したブラジルだろう。
このときのブラジル・オリンピック代表は、オーバーエージの選手を3人入れ、「このままワールドカップに出ても優勝できる」とまで言われた。大会直前には世界選抜を3−1で下し、オリンピックの金メダルは間違いないと考えられていた。
誰も、日本などをリスペクトしていなかった。その結果、0−1で敗れるという、手ひどいしっぺ返しを受けた。
「格下」(私はこの言葉が嫌いだ)のチームをリスペクトせず、見下す態度は、「格上」のチームに対する必要以上の恐れと表裏一体をなしている。
もう三十数年も前、日本代表がブラジルの強豪クラブと対戦した。試合を前に、日本選手の何人かが、相手の名声に押されて萎縮しきっていた。それを見たデットマール・クラマー・コーチはこんな話をしたという。
「相手と日本の実力を比べたら、富士山と琵琶湖ほどの差があるが、精神力と作戦によってその間に空中ケーブルを架けることもできる。富士山を征服することもできるのだ」
その言葉に励まされた日本は、自分たちのもっているものを出し切って2−1の勝利を収めた。相手の力を正確に認めたうえで、それを恐れずに戦うこともまた、「リスペクトのある」態度ということができる。
相手の価値を認めること、「リスペクト」を、サッカー、そしてスポーツ全般の精神的な柱のひとつにするべきだと思う。そうすれば、そこから、試合中や試合後のいろいろな態度が生まれてくるのではないか。
どんな試合でも真剣に取り組むようになるだろう。負傷した選手には、どちらのチームであろうと気づかうだろう。そして試合が終了したら、勝っても負けても、狂喜したり倒れ込むのではなく、自然に互いの健闘を称えあうことができるだろう。
相手をリスペクトすることは、自分自身をリスペクトすることにもつながるのだ。
(2001年2月7日)
日本で最も歴史のあるサッカー専門誌である『週刊サッカー・マガジン』(ベースボール・マガジン社)が、きょう発売された号で通算第800号を迎えた。1966年5月創刊。35年にもなる長寿雑誌である。
私がサッカー報道の世界でスタートを切ったのは、この雑誌の編集者としてだった。73年から82年、第96号から277号。長い歴史の一部を編集者として担った。
64年の東京オリンピックを契機に「サッカー・ブーム」が到来し、翌65年には日本サッカーリーグが誕生した。新聞の扱いも大きくなった。ベースボール・マガジン社は66年2月に『スポーツ・マガジン』という既存の雑誌で「サッカー特集号」をつくり、その売れ行きを見て月刊誌の創刊に踏み切った。
初代編集長は、戦前から児童書などを手がけてきたベテラン編集者の関谷勇さんだった。73年に発行された第100号に、牛木素吉郎さんが興味深いエピソードを紹介している。
創刊を前に、関谷編集長はいろいろな関係者にあいさつし、相談して回った。そのなかで月刊誌の創刊を危惧した人がふたりいた。サッカー協会の「知恵袋」岡野俊一郎さん(現会長)と、協会機関誌の編集をしていた読売新聞の牛木さんだった。
岡野さんは「ありがたい話だが、すぐにつぶれたらサッカー人気に水をさす」と心配し、牛木さんは「最初は季刊にしたら」と慎重意見を語った。しかし関谷編集長は、「月刊で売れないようなら季刊でも売れません」と、きっぱり言いきったという。
サッカー・ブームは68年のメキシコ・オリンピック後に下降線をたどり、70年代には日本リーグの人気も低迷した。
雑誌も変遷をたどった。モノクログラビアだけの100ページだった創刊号から、7年後に第100号を迎えるころには、カラーページが大幅に増えた226ページもの雑誌になった。77年には「月2回」の発行とし、サイズも大きくした。しかしサッカー人気の低迷のなかで売れ行きは伸びず、81年には月刊誌に戻す。92年、Jリーグの誕生とともに再び月2回となり、翌93年にはついに週刊化に踏み切った。Jリーグをよりタイムリーに報道するためだった。
しかしこの雑誌を動かし続けたひとつ大きな要因は、ライバル誌の存在ではなかったか。71年に『イレブン』(日本スポーツ出版社、後に廃刊)、79年に『サッカー・ダイジェスト』(日本スポーツ企画出版社)、そして86年には『ストライカー』(学研)が創刊された。ライバルに絶対に負けたくないという意識が、超多忙な仕事のなかで編集者たちの支えとなった。
ところで、この雑誌で創刊以来、35年間も休まずに連載を続けている執筆者がいる。牛木素吉郎さんだ。新聞社を定年退職して大学の教授になったいまも、毎週健筆を振るっている。
「フリーキック」、「ビバ!サッカー」と続いた牛木さんのコラムは、常に刺激に満ちた話題で考える材料を提供する貴重なサッカーの教科書だった。私もその教科書で育った。なかでも、ヨーロッパのクラブ組織、地域に根ざしたクラブのあり方に関する記事は、現在のJリーグを生む思想的なバックボーンとなったと、私は評価している。
35年前の創刊号で、牛木さんは2本の記事を書いている。そのひとつには、「ワールドカップ予想」というタイトルがついていた。協会の機関誌以外では初めてワールドカップを本格的に紹介した歴史的な記事だった。
そして35年。当時は夢物語にすぎなかった「ワールドカップ日本開催」が、もうそこまできている。2002年ワールドカップ、そしてそれからの日本サッカーも、きっとこの雑誌とともにあるに違いない。
(2001年1月31日)
日本代表の三浦淳宏が横浜F・マリノスから東京ヴェルディに移籍することになった。ジェフ市原の酒井友之は名古屋グランパスで、そして山口智はガンバ大阪で、新シーズンをプレーすることが決まった。
カズ(三浦知良、京都サンガからヴィッセル)、井原正巳(ジュビロ磐田から浦和レッズ)など、このシーズンオフには日本人大物選手の移籍が目立った。しかしそれでも、Jリーグのクラブはまだまだ「おとなしい」ように思う。
うまく機能すれば、移籍は、クラブと、そしてリーグの活性化の切り札となる。チーム力を強化するためだけではない。新シーズンに向けて、あるクラブが「去年とは違う」ことを最も強くアピールできるのが、新しい選手の獲得だからだ。仮に戦力としては大差なくても、チームに新しい選手を投入することは、新シーズンへの期待をふくらませ、それ自体が活性化の効果を生む。
移籍する選手も、新しい環境に移り、新しいクラブで新しい役割を負ってプレーすることは、大きな刺激となる。移籍を契機に急速に伸びた選手は多い。
現在、国際サッカー連盟(FIFA)は、新しい時代の移籍システムを摸索している。しかしどのようなシステムになろうと、サッカー界を活性化する移籍そのものの重要性は薄れることはないはずだ。
サッカーの母国イングランドにおいてプロが公認されたのが1885年。しかしその前から、有力クラブはスコットランドのクラブから有償でスター選手を移籍させてきた。それから百数十年、西暦2000年には、移籍金の世界記録は60億円という途方もない額になった。
しかし世界は広く、移籍の歴史も長い。70年代のウルグアイでは、現金が調達できなかったため、「ステーキ550人前」で選手を獲得したクラブがあった。名古屋グランパスのストイコビッチも、ユーゴ国内での最初の移籍のときには、簡素な照明塔四基との交換だった。
難しいのは、元のクラブのファンやサポーターと、移籍した選手との関係だろう。国内の移籍では、つい先日まで中核だった選手が、ライバルである対戦相手の一員となるからだ。
1990年、地元で開催されるワールドカップの直前に、イタリアで当時の世界最高額となる高額の移籍があった。フィオレンティナのロベルト・バッジオが、15億円という巨額でユベントスに引き抜かれたのだ。
実は、フィオレンティナは深刻な財政危機にあり、この移籍で救われたのだが、ファンにはそんなことはわからない。クラブのアイドル選手を移籍させた会長の自宅を襲撃するなど、大きな騒ぎとなった。
数カ月後、バッジオがユベントスの一員としてフィオレンティナとのゲームに戻ってきた。地元のファンは、「裏切り者」とののしり、彼がプレーするたびにいっせいに口笛を吹いた。バッジオはめげずに懸命なプレーを見せ、シュートも放った。しかし後半、意外なことが起きた。
ユベントスがPKを得た。通常のPKキッカーはバッジオである。決勝ゴールのチャンスだ。しかしバッジオは、「僕には、けることはできない」と拒否してしまったのだ。
激怒したユベントスの監督はすぐにバッジオを交代させた。彼は、スタンドから割れんばかりの拍手を受けながら、フィオレンティナのスカーフを巻いてピッチを後にしたという。
日本ではJリーグ時代になって本格化した移籍。しかし世界では、確実にサッカーの一部になっている。その効果を考えれば、日本でも、もっと活発化していいはずだ。そのなかで、このバッジオのような、心を打つ出来事も生まれるのだろう。
(2001年1月24日)