サッカーの話をしよう

No.343 フェロー諸島の幸せ

 20世紀最後の年2000年。21世紀最初のワールドカップを目指して、世界の各地で予選が始まった年でもあった。
 北大西洋、ノルウェーとイギリスとアイスランドで形づくられる三角形のちょうど中心に、「フェロー諸島」という18の島々からなる国がある。デンマークの自治領で、輸出の大半は水産物という「漁業国」である。
 人口4万5000。その約1割が、9月3日、2002年大会を目指すワールドカップ予選の初戦に集まった。相手はヨーロッパ選手権出場の強豪スロベニア。後半41分に2点目を許して0−2、敗色は濃厚だった。
 しかしスタンドのファンは誰ひとり席を立とうとしなかった。44分、ついに1点を返す。そしてわずか数十秒後、O・ハンセンが同点ゴールを叩き込んだ。選手とスタンドが一体となった歓喜は、全島に広がっていった。

 サッカーが盛んになったのは1930年代。しかし協会の結成は1979年と遅かった。1月の平均気温が4度という暖かさながら、大西洋を渡る風に1年中吹きさらされ、年間280日も雨が降るという気候が、この島のサッカーの発展を阻んだ。サッカーとは、どろんこのなかでするスポーツだった。
 80年代にはいって、サッカー協会は国中のグラウンドを人工芝にするという施策を断行した。天候に関係なく試合や練習ができるようにするためだった。その結果、競技人口は飛躍的に増加し、選手の質も上がった。そして88年、国際サッカー連盟に加盟を認められる。
 90年9月、32歳のアイスランド人監督が率いるフェロー諸島代表は、初めての公式戦をオーストリアと戦った。ホームゲームだったが、天然芝の競技場がなかったため、試合はスウェーデンで行われた。結果は「ヨーロッパのサッカー史上最大の番狂わせ」といわれる勝利だった。1−0で勝ったのだ。

 当時は完全なアマチュアチーム。ファインセーブの連続と白い毛糸の帽子で一躍スターとなったGKはトラック運転手、キャプテンは水産会社の営業だった。監督自身も、スポーツ店経営で生計をたてていた。
 この試合に出場するために、代表選手たちは仕事を3日間休まなくてはならなかった。その「休業補償」は、島民全員からのカンパでまかなわれた。
 それから10年。国を支える水産業が93年には世界経済の不況のあおりで大打撃を受け、フェロー諸島の生活は厳しさを増した。しかし島民は、一貫してサッカーチームを支え続けた。94年には元デンマーク代表のA・シモンセンが監督に就任、地道な強化が実りはじめた。現在では10人の選手がノルウェーやデンマークのクラブでプロとしてプレーしている。
 「この国の若者は、何よりも勇気がある」
 14歳以上のすべての代表チームを指導するシモンセン監督は、巨大な相手にも勇敢に立ち向かう島民気質こそ、フェロー諸島の選手たちが「大陸」に対抗する最大の武器だと語る。

 20年前に1500人だった登録選手数は、いまでは5600人に達した。うち女子1250人。男性の5人にひとりはサッカー選手ということになる。
 小さな国。劣悪な気候。しかしそのなかで人びとは心からサッカーを愛し、極東の国で開催されるワールドカップを目指して勇敢な闘いを展開している。
 2000年、世界のサッカーは、ひとりの選手に60億円という途方もない移籍金が動くなど、ビッグマネーの話題で沸いた。しかしそんなものとは無関係のところで、人びとの心を動かし、生きる勇気を与えている選手やチームも、無数にある。
 クリスマス休暇を楽しみながら、島の家々では、九月のスロベニア戦のことが繰り返し語られているに違いない。

(2000年12月20日)
クリエイティブ・コモンズ・ライセンス

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1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。

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