サッカーの話をしよう

No.376 スタジアム完成 快適な我が家への努力これから

 ワールドカップ前年のことし前半、次つぎと新スタジアムが完成し、使用が始まった。ワールドカップ会場ではないものの、同等の規模と内容の東京スタジアム、豊田スタジアムもオープンした。
 Jリーグが始まった93年には、10クラブのホームスタジアムで収容3万人を超えていたのは広島ビッグアーチだけだった。その後、96年に大阪の長居スタジアムが完成し、98年に横浜国際、2000年には宮城、そしてことしにはいると、4万人以上の収容能力をもつスタジアムがすでに9つもオープンし、10月には神戸の新スタジアムが加わる。
 新スタジアムには、それぞれに特徴があり、どこも見ていてとても楽しい。

 札幌ドームは、巨大な宇宙船のような外観が見事だ。埼玉スタジアムは、観客席の配置が緻密に考えられていて、完成度の高いスタジアムと映った。大分のビッグアイは、ぜひあの屋根が完全に閉まっているところを見たいと思った。豊田スタジアムでは、観客席からの見やすさだけでなく、スタジアムに向かう橋からの景観に感嘆した。
 しかし実際に使用を開始してみると、どのスタジアムでも、いくつも不都合な点が出ているに違いない。ハード面だけでなく、試合運営面でも、すでにいくつもの変更を余儀なくされているのではないか。それは当然のことだと思う。
 いくら綿密な計画の下に建設されたスタジアムでも、実際に4万人、5万人という観客が押しかけると、想定していなかったことがいくつも起こるのも無理はない。重要なのは、こうして使用しながら、問題点をひとつずつ改善し、使いやすいスタジアムにしていくことだ。

 新しいスタジアムは、ワールドカップの舞台になるだけでなく、大半がJリーグのクラブのホームスタジアムにもなる。各クラブは、これまで何年間も使い慣れた旧スタジアムから「引越し」をすることになる。旧スタジアムの「改装」という形で大きくなったのは、鹿島アントラーズが使用するカシマスタジアムだけで、残りはすべて新設のスタジアムだからだ。
 たとえば、浦和レッズは、これまで2万人収容の駒場スタジアムを使用してきたが、3倍の収容力をもつ埼玉スタジアムが完成し、その使用も可能になった。
 新スタジアムは、サッカー専用で非常に見やすくなったとともに、慢性的な「入場券不足」も一挙に解消させるだろう。しかしその一方で、アクセスの面では、さいたま市の都心から非常に不便になってしまった。その点で反発しているファンも多いと聞く。同じような「ジレンマ」が、他のいくつもの新スタジアムと地元クラブの間にある。

 しかし私は、各クラブは積極的に新スタジアムを使用するべきだと思う。旧スタジアムでは、1試合平均の入場者数は1万人台がやっとだった。この程度の入場者数では、プロとしての自立は難しい。3万人、4万人と入場者を伸ばすことによって、初めて自立し、さらに事業を拡大していくことが可能となる。
 それは、クラブ側だけでなく、ファンにとっても歓迎すべきことであるはずだ。チームを強くするにはクラブの財政基盤が不可欠であり、そのためには、新スタジアムで観客数を大幅に伸ばすことが最も現実的な道だからだ。
 新スタジアムには、不便な点、不都合な点もあるかもしれない。しかしクラブとスタジアムとファン、みんなの努力と工夫次第で、次第に苦痛を減らすことは可能だ。
 スタジアムは完成した。しかしそれを各クラブの「快適な我が家」にする「建設工事」を、これから始めなければならない。

(2001年8月15日)

No.375 レバノンの友から教わったこと

 昨年10月、日本代表が2回目の優勝を飾ったアジアカップ・レバノン大会はもう遠い思い出となった。ワールドカップに向け、もう誰も過去を振り返ったりしない。
 しかし私は、ときどきレバノンの日々を思い出す。日本代表のサッカーだけではない。ひとりの中年ドライバーの、人のよさそうな笑顔が、頭に浮かんでならないのだ。
 「モシモシー!」
 出会いは、彼のけたたましい絶叫だった。
 イブラヒムは、日本の取材陣が宿泊していたベイルートのホテルに出入りするタクシー・ドライバーのひとりだった。到着の翌朝、日本の練習会場へ行こうとホテルを出たとたんに、彼につかまった。

 数日前からきている日本人記者を乗せたとき、みんな決まって携帯電話を取り出し、「モシモシー!」と始めたらしい。あまりに面白くて、以来、日本人の顔を見ると「モシモシー!」と大声をかけるようになったのだ。
 練習会場は遠く、公共交通機関はなかった。取材陣はすぐに「専用ドライバー」をもつようになった。私も、2人の同僚とともにイブラヒムの世話になることにした。
 大きな問題があった。彼はまったく英語ができなかったのだ。毎回、イブラヒムは、出かける前に英語のできる仲間を呼んで通訳してもらい、行き先や時間を念入りに確認してから出発した。
 日本は期待通りに勝ち進み、滞在は3週間近くになった。私たちは、イブラヒムの車で日本の試合が行われたサイダに通い、そして練習場に通った。バールベックというローマ時代の遺跡へ連れて行ってもらったこともあった。その間ずっと、彼はアラビア語で、私たちは日本語で通した。

 明日が決勝戦という日、練習が終わってホテルに戻ろうとすると、イブラヒムが「今夜の食事は、俺の家にこい」と言い出した。仕事をかかえていたので、「食事は無理だけど、お茶だけごちそうになろう」と、私たちは返事した。
 郊外の彼の家は、とてもきれいだった。4人の子どもたちは礼儀正しく、そして堂々としていた。驚いたのは、奥さんをはじめ、イブラヒムを除く家族全員が流ちょうな英語を話したことだった。
 「父は、内戦の時期に育ったので、まったく学校に通えなかったのです」と、17歳の長女が説明してくれた。
 「だから、私たちにしっかりとした教育を受けさせようと、がんばって働いてくれているのです」
 4人の子どもたちは、すべて私立の学校に通っていた。長女は弁護士になりたいと、エレガントな英語で話した。
 「お茶だけ」といったのに、次つぎと果物が出され、話が途切れることはなかった。楽しい1時間だった。

 日本が優勝して、帰国する日になった。私は、空港までの送りを彼に頼んだ。ホテルから空港まではわずか10分間ほどの行程だ。いつものように、私は助手席に座った。
 しばらく走ると、イブラヒムの様子がおかしいのに気づいた。見ると、ハンドルから右手を離して、しきりに両目をぬぐっているのだ。
 「きょうまで毎日、俺の車に乗ってくれた人たちが明日からいなくなる。寂しい」
 こう言いながら、彼は泣いていたのだ。
 「イブラヒム、きっとまたいつか会えるよ。もしここにくる機会があったら、必ず空港にきてもらうからな」
 彼の背中を叩きながら、そういうのがやっとだった。
 ワールドカップ開催にはたくさんの人の力が必要だ。しかし「外国語ができないから」と引っ込み思案になっている人が多いという。そういう話を聞くたびに、私はイブラヒムの笑顔を思い出すのだ。


375_001022イブラヒムとメルセデスsmall.jpg
イブラヒムさん

(2001年8月8日)

No.374 リーグ戦の効用

 関東女子サッカーリーグの前期が終了した。
 関東サッカー協会加盟の8都県から1チームずつ出てホームアンドアウェー形式で行われているこの大会。前期7試合を終えて、私のチームの成績は6勝1敗だった。
 楽な試合はほとんどなかった。しかし試合を重ねるごとに個々の選手が力を伸ばし、結果としてチーム力が伸びているのが確認できてうれしかった。その最大の要因は、「コンスタントなリーグ戦」だ。
 4月29日に開幕し、12月2日に閉幕する今季は、8月いっぱいが休みになるので、ほぼ毎月2試合のペースとなる。私のチームも、4、5月で2試合、6月に2試合、7月に3試合と、コンスタントに試合を消化した。
 ひとつの試合が終わると、次の試合まで2週間ほどある。週2、3回の練習だから、5、6回の練習をして次の試合ということになる。
 もちろん、年間を通じての練習課題はある。しかし4月の後半から、私は、毎回の練習の重点を、次の試合を想定したものにした。外側からの崩しをするための練習、オフサイドトラップを多用する相手に対する攻めの練習、そして相手との力関係を考えて、いくつかの試合の前には、守備の課題をワンステップずつこなす練習も取り入れた。
 守備の練習は、退屈で、ときには苦しいものもあったが、練習の狙いを説明すると、選手たちは意欲的に取り組んでくれた。その結果、6月ごろから試合内容は次第に濃いものとなっていった。ひとつひとつの試合が、明確な意図をもったものとなったのだ。
 東京の女子1部リーグは、10チームの1回戦総当たりで年間わずか9試合だった。慢性のグラウンド不足で、日程もなかなか固まらない。しかもその間にふたつのトーナメントがはさまれるから、とてもコンスタントなリーグ戦などできない。関東リーグ参加は今回が2回目だが、改めて「リーグ戦の効用」を知る思いがした。
 夏休みになると、毎年いろいろな年代の「全国大会」が行われる。全日本少年サッカー大会から全国高校総体まで、その大半が勝ち抜き形式の大会だ。各年代のチームの目標は、こうした「全国大会」であり、またその予選となる。
 そうした大会自体が悪いというのではない。日程をよく考え、十分なインターバル(試合と試合の間に少なくとも1日は必要だ)があれば、良い面もあるだろう。
 しかしサッカー選手を育てるのは、やはり「リーグ戦」という大会形式なのではないか。いろいろな相手と、シーズンを通じてコンスタントに対戦し、対戦相手ごとにしっかりと準備して臨む試合を積み重ねることで、その経験が大きな財産となるからだ。
 もちろん、私のチームのように対戦相手ごとにテーマを変えるのではなく、コーチによっては、「相手が誰であろうと自分たちのサッカーをする」というポリシーの持ち主もいるだろう。しかしそれも、前の試合で出た課題を、次の試合に向けてこなしていくということで、本質的には変わりはない。
 近年では、「リーグ戦の効用」に対する理解が広まり、有力高校チームなどでリーグ戦を組むケースも出てきた。しかし最高目標に連日試合をする勝ち抜き方式の大会がある限り大差はない。1年の最大の目標をリーグ戦にする必要がある。
 「リーグ戦の効用」は、選手を育てることだけではない。レフェリーの育成、グラウンド使用の年間均等化、そして試合運営スタッフの養成など、いろいろな側面がある。日本全国のサッカーの「基本」を、リーグ戦にしていかなければならないと思う。

(2001年8月1日)

No.373 明石市の花火大会事故は他人事ではない

 兵庫県明石市の花火大会で起きた惨事のニュースを見て、「他人事ではない」と感じたのは私だけではないはずだ。
 狭い歩道橋に一挙にたくさんの人が詰め掛け、しかも進もうとした方向がぶつかり合った。その「前線」にいた人びとが押しつぶされた。重軽傷者は100人を超すというが、命を落とした人が2歳から9歳の子どもと、お年よりの女性だったことが、やりきれない思いにさせる。「弱い者」が犠牲になったのだ。
 「他人事ではない」と思ったのは、この事件がサッカー場で繰り返されてきた惨事とそっくりだからだ。

 1985年にベルギーのブリュッセルで起こった「ハイゼル事件」では、相手チームのサポーターに襲いかかられて逃げようとしたイタリア人ファンが、わずか高さ1メートルの壁に押し付けられて39人もの死者を出した。89年にイングランドのシェフィールドで起こった事件では、95人もの人が亡くなった。入場券をもたないファンが入場ゲートを破って場内に突進したことが原因だった。
 昨年からことしにかけては、アフリカ各地で同様の惨事が繰り返されている。1年足らずのうちに200人以上がサッカー場で命を落としているという。あってはならないことだ。
 大量虐殺のために爆弾やマシンガンが使われたわけではない。「凶器」は人間だった。人間の集団と、群集心理と、そして安全対策の甘さだった。まさに「人災」だった。

 日本も例外ではない。95年のJリーグでこんな事件があった。柏で行われたレイソル対ガンバ大阪。試合後、ゴール裏にいたガンバのサポーターが、レイソルのファンに三方を囲まれて襲われたのだ。女性を含む約20人のガンバ・サポーターは、ゴール裏の防球ネットに詰まって逃げ場を失った。最終的にはネットの一部をはがして逃がしたのだが、非常に危険な状態だった。
 暴力的な行動に出たレイソル・ファンは、わずか数人だった。しかし群集心理からか、彼らの周囲にいたファンも、口々にののしり、それがガンバ・サポーターに恐怖を与えた。警備員は数十人いたが、「押さないでください」と繰り返すだけで、押し寄せるレイソル・ファンを排除することができなかった。
 「人災」の危険は、サポーターの暴走だけではない。地震や火災のときに、実際どうなるか。恐慌状態に陥った観客が短時間に出口に集中したら、あるいは下り階段で押されて誰かが倒れたら、とんでもないことになる。実は、地震や火災よりも、こうした「人災」のほうが怖いのだ。

 ことしにはいって次つぎと完成したワールドカップ用のスタジアムの多くは、試合を見やすくしようと、観客席の傾斜を急にしている。それも危険な要素だ。
 ワールドカップでは、たくさんの外国人観客をはじめ、そのスタジアムには初めてという観客も多いだろう。しかし観客の半数は、通常Jリーグを見ている人びとのはずだ。そうした人びとが、緊急時にも冷静な行動を取れば、スタジアム全体でパニックは抑えることができるはずだ。
 Jリーグの各スタジアムでは、場内放送などで緊急時の心構えを告知している。しかし誰も真剣に聞いているようには見えない。ことしの第2ステージのうちに、各スタジアムでなんどか避難訓練を実施しておくべきではないか。大変かもしれないが、人命には代えられない。非常に有用な経験となるはずだ。
 明石市の事件では、主催者の見通しの甘さや、警備の不手際が指摘されている。だがどんなに正確に原因を突き止めても、いちど失われた命は戻ってはこない。

(2001年7月25日)

No.372 小野が運ぶ喜びのメッセージ

 小野伸二の血管にはサッカーが流れている。その赤血球は、白黒のサッカーボールに違いない。
 今週土曜日に広島で行われるサンフレッチェ戦を最後に浦和レッズを離れ、小野はオランダ、ロッテルダム市の名門クラブ、「フェイエノールト」に移籍する。
 先週、ジェフ市原を迎えての「ホーム最終戦」、別れを惜しむファンの声援に、小野は見事なプレーで応えた。初めてプレーするFWというポジションから、自由自在に動いて攻撃を組み立てた。今季絶好調のジェフも、前半なかばを過ぎて小野が「フル稼動」を始めてからは、沈黙せざるをえなかった。

 静岡県沼津市で生まれた小野は、幼稚園時代にキックの魅力に取りつかれ、自宅近くの空き地のコンクリート壁に向かって、毎日ひとりでボールをけりつづけた。やがて小学生時代に「サッカー」というゲームと出合い、チームで行う試合のなかでゴールを決めること、試合に勝つことの喜びを覚える。
 沼津市の今沢中学校から清水商業高校時代にかけて、小野はテクニックを磨き上げ、「天才」の名をほしいままにした。各年代の日本代表にも、自動的に選ばれ続けた。
 98年のJリーグデビューは、まさにセンセーションだった。体も顔も左を向いていながら、ワンタッチで右にいる味方に出すパスは、ファンを熱狂させた。Jリーグで2試合プレーしただけで日本代表に選ばれ、6月にはワールドカップ・フランス大会にも出場した。

 それから3年半、ワールドユース選手権準優勝、左ひざの大けが、レッズのJ2降格、相次ぐ故障、そして「(ワールドカップへの)最後のチャンス」と自ら言い切って臨んだ先月のコンフェデレーションズカップ準優勝などの「アップダウン」を経験した。そのなかで、小野のサッカーはぜい肉がそぎ落とされ、よりシンプルになった。
 ひとりでボールをけることに熱中していた幼年時代、相手を抜き、ゴールを決めて、飽くことなく勝利をつかもうとした少年時代、そして、トリッキーなパスを駆使して相手の逆をとることを楽しんだ青年時代。そうした時期を経て、小野はチームの勝利のためのプレーに徹する成年期を迎えた。それは、一選手の成長の跡であると同時に、サッカーという競技の、発展の歴史そのものでもあった。
 先週のジェフ市原戦の決勝ゴールは、小野のFKが相手DFに当たり、大きくコースが変わりながら、ゴールぎりぎりにとび込んだものだった。
 「チームメートや、周囲で僕を支えてくれた人の力が、あのボールをゴールに入れさせたのだと思います」

 試合後、小野はそう振り返った。その言葉に嫌味はなく、ごく自然に聞こえた。
 「昨年、J1への昇格を決めた土橋さんのVゴールのときにも、そう感じました」
 ひとりでボールをけり、ひとりで勝利を決めてきた少年は、「チームゲーム」であるサッカーという競技の本質をつかみ、見事に成熟したサッカー選手になった。
 小野の血管に流れる赤血球、サッカーボールは、エネルギーを生む酸素を体中に運ぶだけではない。見ている者に喜びを運び、元気を運ぶ。そして、スタジアムいっぱいの笑顔を生む。
 新天地オランダでも、いくつもの試練や壁が待っているだろう。しかしまちがいなく、時を経ずして、小野のプレーは人びとの心をつかむだろう。そして、フェイエノールトの地元ロッテルダムだけでなく、全オランダ、そして全ヨーロッパに、「サッカーの喜び」のメッセージをもたらすに違いないと、私は信じている。

(2001年7月18日)

サッカーの話をしようについて

1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。

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