サッカーの話をしよう

No.371 ドラガン・ストイコビッチ あまりにも人間的な天才

 とうとう残り2試合となった。延期されていた今夜の清水エスパルス戦を含めても、残り3試合である。
 名古屋グランパスのストイコビッチがサッカーシューズを壁にかける日が、いよいよ近づいてきた。14日のサンフレッチェ広島戦(名古屋・瑞穂陸上)がホーム最終戦、そして21日の東京ヴェルディ戦(東京スタジアム)が現役最後の試合となる。
 ドラガン・ストイコビッチ。1965年3月3日、ユーゴスラビアのニシュ生まれ。17歳で町のクラブでプロとなり、21歳で名門レッド・スターに移籍。イタリアで行われた90年ワールドカップで天才的なゴールを決め、世界にその名をとどろかせた。25歳のストイコビッチの前には、輝かしい未来が広がっているように思えた。

 しかしこの直後から苦悩が始まる。その夏フランスのマルセイユに移籍したが、ひざを痛めて思うような活躍ができず、翌年にはイタリアのベローナへ移籍。だがこんどは、相手の激しい当たりに自分をコントロールすることができず、出場停止を繰り返した。
 ユーゴスラビア代表の試合はなかった。内戦への処罰として、国連がスポーツ交流の禁止を決めたからだ。92年ヨーロッパ選手権の出場権を大会直前にはく奪され、94年ワールドカップは予選にさえ出られなかった。選手として最高の時期であるべき20代の後半、ストイコビッチは忘れ去られた存在になっていた。

 94年夏、名古屋グランパスへの移籍。それが大きな転機となった。最初の年は、出場停止を繰り返し、チームも最下位に低迷した。しかし95年にアーセン・ベンゲルが監督に着任すると大きく変わった。チームは整備されてJリーグの強豪に急成長し、ストイコビッチはその天才ぶりをチームの勝利に結びつけた。96年元日の天皇杯優勝は、ユーゴを出てから初めてつかんだタイトルだった。
 活動を再開したユーゴスラビア代表での活躍は、多くの人を驚かせた。95年、ペレは「世界の選手トップ3」のひとりに彼の名を挙げた。
 94年夏には、ストイコビッチのほかにも、何人もの世界的名手が来日し、Jリーグのレベルアップに貢献した。鹿島アントラーズのレオナルド(ブラジル)、浦和レッズのブッフバルト(ドイツ)などだ。しかしストイコビッチはその誰よりも長くJリーグでプレーした。過去数年間、ストイコビッチは世界に向けてのJリーグの「顔」だった。

 あと2試合、スタジアムはこの天才に対する惜別の思いであふれるに違いない。彼のエレガントなボールテクニック、変化に富んだドリブル、正確無比なロングパス、そして意表をつくヒールパス。誰もが、そのプレーのすべてを脳裏に焼き付けようと、目を凝らすに違いない。
 しかし私は、そうしたプレーだけでなく、彼の「心」を感じ取りたいと思う。
 先週、大分で行われた日本代表対ユーゴスラビア代表戦、ストイコビッチは試合後、こんな告白をした。
 「前半はなんとかがんばったが、後半はいろいろな思いがこみ上げてきて、集中力が切れてしまった」
 彼のプレーには、超人的なサッカー技術と、試合を読む目があった。しかし同時に、彼のゲームはいかにも人間的だった。過ちや後悔にあふれていた。天才でありながら弱さを隠し切れず、その弱さと戦おうとする人間だった。それこそ、サッカーという競技の根源的な魅力に違いない。
 そうしたものをすべて受け入れ、サッカーに対する深い愛情でくるんだのが、ドラガン・ストイコビッチだった。その最後のプレーを、私も心に焼き付けようと思う。

(2001年7月11日)

No.370 日本代表は本当に変わった

 キリンカップのパラグアイ戦は、日本代表が「本当に変わった」ことが明確になった試合だった。
 昨年10月、レバノンで行われたアジアカップで、日本は圧倒的な攻撃力を見せて優勝を飾った。余裕たっぷりのボールキープから、突然の変化で生み出された攻撃は、アジアのライバルたちを圧倒し、次つぎとゴールを重ねた。相手が守備を固めても、絶妙なFKで得点を奪った。
 日本の強さは、チームプレーと個人のアイデアの組み合わせにあった。攻撃時に、ある段階までは自動的にパスをつないで組み立て、相手ゴールに迫るとチームプレーの拘束を解いて選手たちの創造性に任せる。高い技術と判断の速さが、その組み合わせに破壊的な力を与えた。

 そのアジアカップ以来、ひさびさに日本を見る人がいたら、「これが同じチームか」と目を疑うに違いない。相手ボールになったときのプレーが、この9カ月間で大きくイメージチェンジしたからだ。
 攻撃から守備に切り替わったときの日本のチームプレーは、アジアカップ時も見事だった。相手のパスコースを限定し、追い詰め、いつの間にかボールを奪い返してしまう守備だった。
 基本的な考え方は、現在も変わりはない。しかし相手ボールに対する個々のアプローチの速さ、詰めの激しさは、アジアカップ時の比ではない。現在の日本選手たちは、身体接触をいとわず、当たり負けもしない。昨年までの「ひ弱さ」は完全に消え、90分間、フルに、激しく戦うチームになった。
 変化の触媒役を果たしたのは、もちろん、ことしになってから経験した世界の強豪との対戦だった。

 3月にパリでフランスと対戦して0−5で叩きのめされた。昨年のアジアカップ時のサッカーができれば、勝てないまでもいい試合になるのではないかという期待は、こなごなに打ち砕かれた。
 4月にやはりアウェーで戦ったスペイン戦では、その敗戦を生かして徹底的に守備を固めた。ディフェンスに人数をかけ、同時に、個々の競り合いの場面で、ときには過剰な激しさで対抗した。
 そして5月末から6月にかけてのコンフェデレーションズカップは、その戦いをできるだけ前でするという「アグレッシブな守備」をつかんだ。スペイン戦は引いて守っているだけだった。しかしコンフェデレーションズカップでは、前に出て戦うことで、ボールを奪った後にいい形の攻撃ができるようになった。準優勝は、そうした段階的な変化がもたらしたものだった。
 そして、先日のパラグアイ戦で、その戦い方が、すでに日本代表の「ベース」になっていることが確認された。

 相手ボールを追い詰める日本選手の動きが、イタリアでプレーする中田英寿に似てきた。猟犬のように鋭くアプローチをかけ、いちどふっとスピードを緩めて相手に油断させ、その瞬間に襲いかかる。まるでヘビのような、狡猾ささえ感じさせる動きだ。
 アジアカップから9カ月。昨年12月の韓国戦を入れても、その間にこなした試合はパラグアイ戦まで9試合にすぎない。しかし経験の内容の濃さが、日本代表を昨年とはまったく別のチームにした。
 できるなら、3月のフランス戦のような、本当の意味で「壁」になるような試合が、このあたりでまたほしい。そこで自分たちの成長を確認するだけでなく、乗り越えるべきものまでの距離をしっかり見極めるためにも、相手のホームで世界クラスのチームと戦う機会がほしい。
 伸び盛りのいまほど、内容の濃い経験が必要とされているときはない。

(2001年7月4日)

No.369 サッカー・ファミリーで世界からの仲間を迎えよう

 先週、6月19、20の両日、韓国のソウルで「日韓サッカージャーナリストセミナー」が開催され、4人の仲間とともに参加してきた。昨年11月に新潟で初めての「日韓サッカージャーナリスト会議」を開催したのだが、韓国側の参加者の「ソウルでもぜひ開催したい」という熱意で実現したものだ。
 ワールドカップを成功に導くために何が必要か、活発な意見交換が行われ、非常に有意義なセミナーとなった。しかしそれ以上に、日本から参加した私たちは、韓国国内のワールドカップに対する熱気に圧倒された。
 今回のセミナーの主催者となったのは、「2002年ワールドカップサッカー大会文化市民運動中央協議会」という組織だった。「この大会を契機に、21世紀のより良い韓国社会をつくる」ことを目ざした、政府肝いりの組織である。

 この組織は、「親切、秩序、清潔」をテーマに、さまざまな活動をしている。エスカレーターで、歩く人のために片側を空けるなどの細かなことも含め、世界に対して恥ずかしくない国にしてワールドカップを迎えようという運動だ。 こうした意識は一般の人びとにも浸透し、積極的にワールドカップを盛り上げようという機運が強く感じられた。
 日本では、韓国側の準備が、とにかく「日本に負けない」ことばかり意識しているかのように伝える報道が多い。たしかにそうした面もあるかもしれない。しかしそれ以上に、「より良きホスト」としてワールドカップを迎えたいという、純粋な情熱を感じた。
 日本ではどうだろうか。ワールドカップの準備は、組織委員会(JAWOC)と開催自治体まかせになり、国としてどのような「ホスト」になるのかという意識はほとんど感じられない。それは当然のことのようにも思える。東京オリンピックを迎えようとしていた時代とは違う。国を挙げて何かに取り組むという時代ではないのだろう。

 それでは、私たちは、JAWOCや開催自治体が準備するワールドカップをただ楽しめればいいのか。私はそうは思わない。それでは、私たちはワールドカップの「ホスト国」としての楽しみの半分しか味わうことができず、世界中からやってくるサッカーファンも、スタジアムでしかワールドカップを楽しむことができないことになるからだ。
 日本には、巨大な「サッカー・ファミリー」があるではないか。日本サッカー協会には、2万を超すチームと、80万人もの登録選手がいる。登録審判員も10万人を超す。OB、市町村のサッカー協会、ファンを加えれば、数百万人のサッカーを愛する人びとがいるはずだ。
 ワールドカップ開幕まで、残り340日を切ったいま、世界の「サッカー・ファミリー」を迎えるために何かできる人がいるとすれば、それは日本の「サッカー・ファミリー」をおいて他にはない。

 まずは、日本サッカー協会が動かなければならない。「ワールドカップ・ホスピタリティー・プロジェクト」をつくり、世界中からやってくる「サッカー・ファミリー」をどんなふうに迎えるのか検討する。そしてそれを都道府県サッカー協会の単位で実行に移していく。
 お金をかける必要はない。いるのは情熱と工夫だ。韓国の「文化市民運動協議会」は、8月に開幕300日前を記念して、ソウルから済州島の西帰浦まで、韓国内の全10会場を回る2002キロのサイクルツアーを決行する。世界中から参加者を募集するが、費用は参加者負担だという。
 必要なのは、「ホスト」として、世界中からやってくる仲間を歓迎し、心から楽しんでもらおうという姿勢だけだ。

(2001年6月27日)

No.368 東京ヴェルディ 試合前の仲間たち

 長い廊下の向こうから長身の選手が歩いてくる。逆光でシルエットになった映像からは、誰であるか見えない。近くにきて、胸についた番号から、ようやくDF中沢選手であることがわかる。
 やがて彼は、ロビーのようなところに出る。そこにはすでに対戦相手の選手たちが出てきている。中沢選手は、ごく自然に彼らに近づき、握手し、会話をかわしている。
 ことしからホームタウンを東京に移し、「東京ヴェルディ1969」という名称になったヴェルディ。その試合で私がとても気に入っているのが、試合前にスタンドの大型映像装置に映し出される選手たちの入場直前の様子だ。ヴェルディのホームゲームでは、もう何年も前からこの映像がファンに提供されている。
 この日の対戦相手はセレッソ大阪。中沢選手がセレッソの森島選手のところにいくと、20センチも背の低い森島選手は背伸びするように彼の頭を見て、中沢選手をからかうようなジェスチャーを見せる。負傷明けの中沢選手は、トレードマークの長髪を切り、見違えるようにスマートになっていたからだ。
 やがてヴェルディの選手たちが次つぎとロビーに姿を見せ、それぞれにセレッソの選手たちと握手をかわす。そこにレフェリーが出てきて、選手たちのシューズとすね当てをチェックして回る。機械的に見るのではない。言葉をかわし、握手をしながらチェックをしているのだ。
 カメラは後ずさりして出口の方向に出ていく。ヴェルディを先導するキャプテンの北沢選手が映し出される。
 北沢選手が左向きに腰をかがめると、そこには入場のときに選手と手をつないで歩く少年がいる。少年に一言二言声をかける。「よし、いこうぜ」とでも言ったのだろうか、少年が小さくうなずく。そして正面に向き直った北沢選手の顔は、一瞬にして「戦士」の表情に変わっている。気合と闘志が、大型映像からあふれるように伝わってくる。
 時間にすればわずか2、3分間だろう。この映像が流れている間、アナウンスはヴェルディのクラブスポンサーを紹介している。いわば、その「背景」としてこの映像が使われているのだ。
 しかし私はいつも、この映像が楽しみで仕方がない。そこに選手たちの本当の姿が映し出されているからだ。
 いったんピッチに出て試合が始まれば、互いに勝利のために全力を尽くす。相手のゴールを攻め合うサッカーという競技では、それは技の見せ合いではなく、激しい「バトル」となる。選手たちは、まるで「かたき同士」のように相手のプレーを妨害し、また相手の弱点をつく。
 しかし、実際には、彼らは「仲間」でもある。プロとして互いに尊敬し、試合の外では所属チームを離れて友人としてつき合う関係なのだ。
 レフェリーも同じだ。試合中には、選手たちはときに激しく抗議もする。しかし試合前には、こうして握手をかわし、仲間として「いい試合をしましょう」と声を掛け合うことができる存在なのだ。しかしそうした「真の姿」は、めったにファンの前に示されることがない。
 ヴェルディの試合前の映像は、短時間ながら、そうした実像を百万言に勝る力強さで印象づける。このシーンを見るたびに、私は、サッカーという競技、サッカー選手たち、そしてレフェリーたちに、強い愛情を感じさせられる。そして心のなかで、「みんながんばれ!」と叫んでいるのだ。
 ヴェルディの試合前の映像は、フェアプレーの精神のすばらしいメッセージだ。ヴェルディというクラブが、それをどこまで意識しているか、私は知らないが...。

(2001年6月20日)

No.367 日本代表を変えた「中山イズム」

 決勝戦ではフランスとの大きな力の差を感じずにいられなかったが、コンフェデレーションズカップ準優勝は予想外の収穫だった。
 GK川口能活のセーブは神がかりだった。MF中田英寿はすばらしいリーダーシップを見せた。DFをまとめた森岡隆三、松田直樹、左サイドで新境地を見せた小野伸二、新しい驚きのMF戸田和幸とFW鈴木隆行、そして改めて「日本の宝」であることを確認させたMF森島寛晃、みんなすばらしかった。
 しかし日本代表チームがこれまでより一段上のレベルに達したとしたら、それはひとりの選手がもたらしたものではないか。私はそう強く感じた。33歳、最年長のストライカー中山雅史である。

 今大会、日本が最も大きく変わったのは、90分間にわたって全員が体を張った戦いを見せる姿勢だった。相手へのすばやいアプローチ、体を寄せ、相手に自由なプレーをさせまいとする激しさ。そして、味方のがんばりでコースを限定されたパスを読んでの積極果敢なインターセプト。それが強豪を相手に五試合でわずか1失点という守備の「ベース」だった。
 そして、そうした取り組みを自らの「姿勢」で示し、日本チーム全体に広めたのが、中山だった。
 初登場は初戦、カナダ戦の前半38分。その後半、中山は中田英寿の強いパスを追い、左タッチライン際でかろうじて追いついた。中田のパスが強すぎたため、カナダのDFは「タッチに出る」と判断、一瞬気を抜いた。中山はライン上でボールを止め、すかさず方向を変えて相手を置き去りにした。そしてそのセンタリングから、FW西沢明訓の2点目が決まった。

 この瞬間、日本代表はひとつの重要な「脱皮」を遂げた。中山の姿勢が周囲の選手にも伝わり、昨年までの「華麗なパスワーク」に「体を張って激しく戦う姿勢」が加わって、より実戦的な戦闘力をもったチームとなったのだ。
 続くカメルーン戦では、「中山さんのようにプレーする」と語ってピッチに出ていったFW鈴木が見事な2ゴールを決めた。この試合でも、続くブラジル戦でも、中山は後半のなかばに出場すると、チームと、そしてスタジアムのムードをがらりと変えた。
 「中山を入れても、戦術が変わるわけではない。だが、メンタル面でチームに与える影響はすごく大きい。彼がはいると、チーム全体にエネルギーが注ぎ込まれたように思えるほどだ」。日本代表を率いるフィリップ・トルシエ監督も、「中山はこのチームのシンボル」と絶賛する。

 ブラジル戦では、MF伊東輝悦の変貌ぶりに驚かされた。高い才能をもちながら、伊東はプレーがおとなしく、強豪を相手にしたときには物足りないプレーを繰り返してきた。しかしこのブラジル戦では、体を張って戦い、闘志むき出しの攻撃を見せた。
 チーム全体が「中山イズム」で染められたことが、準優勝の最大の要因だった。
 「チームの勝利のために、できることをするだけ」と謙虚に語る中山。彼はFWである。「守備で貢献」などと言われても、本当はうれしくないかもしれない。
 しかし彼のプレーは、FWかDFか、守備か攻撃かなどという区別を超え、サッカーというゲームそのものへの取り組み方の原点を指し示しているように思えた。
 それは、彼がジュビロ磐田で、そして日本代表でも10年も前から発し続けてきたメッセージである。そして代表では、いまようやく周囲に伝わり、チームを変質させる力となった。その意義の重要さは、来年のワールドカップでより鮮明になるはずだ。

(2001年6月13日)

サッカーの話をしようについて

1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。

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