
国際サッカー連盟(FIFA)のホームページを開くと、感動的な写真が目に付いた。先週末のドイツ・ブンデスリーガの試合前に、シャルケ04とボルシア・ドルトムントの選手たち、そして3人の審判、計25人が手をつないで輪をつくり、黙祷を行っている写真だった。
アメリカで起こった同時多発テロの犠牲者に対する祈りが、世界中に広がっている。先週末に世界の各地で行われたサッカーのリーグ戦でも、試合前に選手と観客とで黙祷が行われたところが多かったのではないかと思う。
あの事件がこれほどまでに世界の人びとの心に衝撃を与えたのは、人類がかつて体験したことのない恐ろしさを感じたからに違いない。ある日突然、ただの交通機関である旅客機が大型爆弾に変身し、空から襲いかかってくる。数人のテロリストがわずか数万円の航空券を買えば、いつでも起こりうる事件。これほどの恐怖があるだろうか。
「ワールドカップはだいじょうぶかな」
多くの人からそんな質問を受けた。
テロリストたちが、その存在と主張をアピールしようとすれば、世界的に注目を集めるイベントを狙うことは十分考えられる。かつてはそうしたテロが多かった。
1972年には、ミュンヘン・オリンピックが狙われ、当局との間で銃撃戦まで行われて犠牲者が出た。2年後に同じ西ドイツで行われたワールドカップは、厳戒態勢のなかの大会だった。スタジアムの周辺には軍用車がずらりと並び、機関銃で重武装した兵士たちが要所を固めていた。
軍事政権下のアルゼンチンで行われた78年大会はもちろん、90年イタリア大会まで、スタジアムから機関銃をもった軍隊の姿が消えることはなかった。ワールドカップは、長い間、テロの可能性に脅かされてきたのだ。
しかし今回の事件は、テロリストたちがある決意をすれば、どんなに武装警戒をしても防ぎようのない手法があることを示してしまった。
「ワールドカップはだいじょうぶか」という質問には、「現状では、あんなテロをやられたらどうしようもない」としか答えようがない。
FIFAと開催国の契約により、ワールドカップの「セキュリティー(保安)」確保の責任は、開催国にあるということになっている。
これまで、日韓両国組織委員会のセキュリティー担当者の中心的関心は「フーリガン」問題にあったのではないだろうか。サポーターの暴徒化をどう防ぐかという問題である。
それは依然として重大な問題である。しかしアメリカの事件後に開催される最初の巨大国際スポーツイベントの開催国としては、明確な「テロ対策」を打ち立てる必要があるはずだ。
これからの国際的な協力のなかで、テロリストたちをどこまで追い詰め、無力化させることができるかが、非常に重大なポイントとなる。それに加え、日本と韓国は、組織委員会と政府が協力し、どのようなテロ対策の下に大会を開催するのか、一から検討し、世界に示す義務がある。
「テロが怖いから、もう飛行機に乗りたくない」というのは仕方がない。しかし「テロが怖いから、ワールドカップには行きたくない」という状況にしてはいけない。日韓両国で協力して、世界のサッカーファンが安心してサッカーを観戦にくることができる状況にしてほしいと思う。
世界中のファンが4年にいちど、心から楽しみにしているサッカーの祭典ワールドカップ。その「祭り」の場で、人命が危険にさらされるようなことなど、あっていいはずがない。
(2001年9月19日)
1970年のワールドカップ・メキシコ大会のテレビ放映を見て、強く印象づけられ、感心したことがあった。ピッチの周囲に飾られた、色とりどりの花である。
メキシコシティのアステカ・スタジアムは、10万人の収容力をもつ巨大なサッカー専用競技場だが、スタンドを大きくするためにフィールドが広くとられている。縦105メートル、横68メートルのピッチの外に、かなりの広さの芝面があるのだ。
そこにプランターが並べられ、花が植えられていた。ピッチの中では、世界の頂点を極めるべくプロフェッショナルたちが激しい闘いを展開している。しかしすぐ外には、可憐な花が競うように咲き誇っている。その対比がおもしろく、また、ピッチの周囲に花を並べるメキシコ人たちのセンスに感心もした。
いま、ピッチの周囲に並んでいるのは、花のプランターならぬ広告看板である。なかには、広告が次つぎと切り替わるものまである。ボールがタッチラインを割ってテレビカメラがそのあたりをクローズアップした瞬間に、広告がいっせいに切り替わる。いやでも目につく仕掛けだ。
サッカーの試合で得られる収入を増やし、それによってより高いレベルの競技を実現するための広告看板である。競技の現状から、仕方のないことだと思う。
さて、日本の競技場のいくつか、とくに陸上競技のトラックをもつスタジアムで、ここ数年、ピッチの周辺に見られるのが、人工芝である。
始まりは90年代はじめの東京・国立競技場だった。
国立競技場の芝面は106メートル×69メートルしかない。試合では、ライン際のボールをプレーするために、ラインの外にもライン内と同じ芝面が必要とされている。国際サッカー連盟(FIFA)は、選手の安全のために少なくともピッチの四方の外に幅1.5メートルの芝面が必要という指針を示している。
しかし国際規格の105メートル×68メートルのピッチを確保すると、国立競技場の場合、四方には0.5メートルの幅の芝面しか残らない。ラインの幅が12センチだから、そのわずか4本分である。
それでは見映えが悪いと考案されたのが、人工芝を置くことだった。最初はゴール裏だけだったが、やがてピッチの四方に置かれるようになった。最近では、横浜国際総合競技場のように、陸上競技のトラックの上にまで人工芝を広げているところもある。
しかしこれがとんでもない「危険物」であることが認識されていない。天然芝と人工芝では、表面の特質がまったく違う。天然芝のつもりで走ってきてラインの外に踏み出したら、足をとられるのは必至だ。負傷につながりかねない危険な状況なのだ。
先日のJOMOカップで、柳沢が足を滑らせてヒヤっとした場面があったのを記憶しているファンも多いだろう。
けががあまり報告されていないのは、選手たちがライン際でのプレーをセーブしているからだ。多少ピッチを小さくしてでも、ラインのすぐ外の人工芝を禁止し、十分な天然芝のスペースを確保するように指導すべきだ。
ピッチから規定の距離を離して置かれた広告看板が選手の危険になることはほとんどない。しかしあたかも選手たちの味方のように置かれた人工芝が、実は危険極まりない存在であることに、なぜ目がつぶられているのだろうか。
選手の安全は、何にも増して優先されなければならない。そしてなお余裕があったら、陸上のトラック全面に人工芝を敷き詰めてわざわざピッチを小さく見せるより、メキシコ人たちを見習って、花でも並べたらどうだろう。
(2001年9月12日)
「ゴールデンゴールは反スポーツ的なルールと言ってよい。スポーツというのは、常に逆転の可能性があるべきものだからだ」(アンディ・ロックスバーグ=元スコットランド代表監督)
「サッカー選手というのは、決められた時間のなかで結果を出すように訓練されている。だからゴールデンゴールには反対だ」(アーセン・ベンゲル=アーセナル監督)
ヨーロッパのコーチたちが、いっせいに「ゴールデンゴール」に反旗を翻した。
「ゴールデンゴール」とは、延長戦にはいったときに最初の得点を挙げたチームを勝者とする方式である。日本では94年以来「Vゴール」と呼ばれている。
かつては「サドンデス(突然の死)」と呼ばれた。しかしイメージが悪いと、国際サッカー連盟(FIFA)のヨゼフ・ブラッター事務総長(現会長)が自ら「ゴールデンゴール」という名称に決めたのは、Jリーグが「Vゴール」と名づけた数カ月後だった。
ワールドカップをはじめとしたFIFAの大会では、まず出場国を4チームずつに分けて「グループリーグ」を行い、その上位チームで勝ち抜き方式の「決勝トーナメント」を行って優勝チームを決める大会形式が取られている。
グループリーグでは90分が終わって同点の場合には引き分けだ。しかしその後は1試合で次のラウンドに進むチームを決めなければならない。そこで延長戦が必要になる。
FIFAは93年に行われたユース年代の世界大会でテストケースとして「サドンデス」を導入した。ワールドカップでも98年に導入、さらに、ことしのルール改正で、試合の勝者を決定する方法のひとつとして、大会規約で「ゴールデンゴール」を採用することが明文化された。
ただし日本以外では、リーグ戦では採用されていない。すべて、勝ち抜き方式のトーナメントでの話である。それでも、先月末にヨーロッパ・サッカー連盟(UEFA)の要請で集まったコーチたちによる会議では、全員が反対だったというのだ。
UEFAでは、ヨーロッパ選手権で96年大会以来「ゴールデンゴール」を採用し、以来2大会連続で決勝戦がこの形式で決まっている。
ベンゲル監督は続ける。
「延長戦で1点をリードされてからのプレーにこそ興奮がある。ゴールデンゴールの採用によって、試合は守備的になってしまう。前後半15分ずつ、計30分間の延長戦をするのが、よりフェアだ」
「ゴールデンゴール」の導入には、選手たちの負担を軽減するという狙いもあった。自動的に30分間の延長戦をするよりも、もし3分目に得点がはいったらそこで終わりにしたほうが、疲労が少なく、次のラウンドに影響が少ないはずだからだ。
そうした側面はコーチたちの支持を得られそうに思うのだが、一顧もされていない。議論をするまでもなく全員が反対だったというのは、よほどの嫌悪感なのだろう。
もはやこれは、サッカーという競技をどうとらえるか、それに必ずともなう試合結果をどう受け入れるかという「文化」の問題のように思う。
サッカーは常に攻守が入れ替わり、またたく間にチャンスとピンチが訪れる。そのひとつを決めるか決めないかで勝負が決まるのではなく、一定の時間を戦って、より多くのゴールを挙げたほうが勝つ。それがサッカーの「文化」だ。
ヨーロッパのコーチたちは、延長戦になるとその文化が突然捨て去られてしまうことに、大きな違和感をもっているに違いない。さて、「Vゴール文化」の国・日本のサッカーファンは、彼らの感覚をどう考えるだろうか。
(2001年9月5日)
サウジアラビアが敗れた。
8月25日にイランのテヘランで行われたワールドカップのアジア最終予選A組、イランがサウジに2−0で勝った。前半は0−0。後半、イランがアリ・ダエイのPKで先制、サウジは退場者を出したうえにダエイにもう1点を追加され、完敗を喫した。
「スタンドを見上げたときには、もう勝つしかないと思ったよ」とイランのミロスラフ・ブラゼビッチ監督。98年フランス大会でクロアチアを率いてワールドカップに初出場、3位という偉業を成し遂げた名将だ。
この日、アザディ・スタジアムには10万の観客がつめかけていた。そのすべてが男性である。想像を絶する雰囲気は、「内弁慶」といわれるサウジの選手たちに巨大なプレッシャーになったに違いない。
8月中旬にスタートしたアジアの最終予選。この試合はイランの初戦だったが、サウジにとっては2試合目。1週間前、ホームのリヤドでの初戦で、バーレーンに先制点を奪われて大苦戦し、終了直前にようやく追いついて1−1の引き分けに持ち込むという失態を演じていた。
全8試合のリーグ戦で2試合を終えて勝ち点1。3回連続出場を目指すサウジにとっては、「もう負けられない」というぎりぎりのところだ。
「第2節」を終えたところで、A組をリードしているのは、アラビア湾の人口60万人の島国バーレーン。サウジ戦で引き分けたのに続いて、8月23日にはホームのマナーマにイラクを迎えて2−0の勝利を収めた。
「猛練習が選手たちに自信をもたらした。フィジカルが強くなったので、これまでのように守っているだけでなく、攻撃もバランスよくできるようになった」と、ドイツ人のボルフガンク・ジドカ監督は語る。バーレーンは「ワールドカップ出場の有力候補」といわれたクウェートを1次予選でけ落として最終予選進出。その実力は侮れない。
B組では、「最有力候補」中国が好スタートを切った。25日に瀋陽にUAEを迎えた初戦、開始わずか2分で李小鵬が先制点を奪うと、試合を完全にコントロールし、2点を追加して3−0で勝った。
A組はバーレーン、イラン、サウジ、イラクのほかタイが争い、B組は中国、UAEとカタール、オマーン、ウズベキスタンが争う。両組の首位は自動的に「韓国/日本大会」への出場権を得る。しかし2位になると、もうひとつの組の2位とプレーオフを戦い、勝っても、最後の出場権をかけてヨーロッパのチームと対戦しなければならない。非常に険しい道だ。
日本代表には予選はないが、「予選真っ最中」の日本人もいる。レフェリーたちだ。
すでに8月17日のイラク対タイ戦(バグダード)で岡田正義さんが主審を務めた。副審は石山昇さんと原田秀昭さん、第4審判は太田潔さんだった。今週土曜、9月1日には、タイ対サウジアラビア戦(バンコク)で布瀬直次さん、カタール対中国戦(ドーハ)で上川徹さんがそれぞれ主審を務める。
これらの試合での評価が、来年のワードルカップへの重要な資料となるはずだ。
ところで、アジア予選は、テレビ朝日が全試合の放映権をもっているはずなのだが、まだ1試合も放映されていないのはなぜだろう。なんども書いてきたが、独占放映権をとった局は、放映する義務がある。自局でできない場合には、他局に放映してもらうようにしなければならない。
アジアの国々の命を削るような予選、スリルにあふれたドラマを放映しないのは、宝の持ち腐れというだけでなく、サッカーファンを愚弄する行為と言わなければならない。
(2001年8月29日)
「その金額じゃ、うちの選手たちはスローイン1回だってやらないな」
主としてイングランド・サッカー界のコメントを集めた近刊『決めゼリフを言う選手、捨てゼリフを吐く監督』(フィル・ショウ著、森田浩之訳、廣済堂出版)に、こんな言葉があった。
「吐いた」のは、コベントリー・シティーのゴードン・ストラカン監督。イングランド・プレミアリーグにおけるレフェリーの手当てが、1試合わずか200ポンド(約3万6000円)と聞かされてのコメントだった。
年俸にして数億円を受け取る選手がごろごろといるプレミアリーグ。90分間のプレーが1000万円以上になる選手も少なくない。ストラカンの言葉はジョークではない。正直な感想だったはずだ。
120年を超すプロの歴史をもつイングランドでも、レフェリーたちは誇り高い「アマチュア」である。自分自身の生計をたてる職業をもち、その「余暇」にサッカーのレフェリーとして活動するというのが基本だった。
そのイングランドに、レフェリングの新時代が到来しようとしている。イングランドのサッカー協会(FA)が、トップクラスのレフェリーに「基本年俸」を支払うことになったからだ。
FAによると、プレミアリーグとトップクラスのカップ戦を担当する主審24人を選び、このプログラムを実施するという。
主審の「基本年俸」は3万3000ポンド。日本円にして約600万円である。これに試合ごとの手当てがつく。ヨーロッパサッカー連盟(UEFA)の97年の調査によると、イングランドでは1試合あたりのレフェリー手当ては、200ポンドではなく375ポンド(約6万7500円)。年間20試合を担当すると、年間収入は4万ポンド(720万円)を超すことになる。
完全な「プロ化」とは言いがたい。レフェリーをして得られる収入が大幅に増えたといっても、物価の高いイングランドにあっては、ようやく生活できるという金額だからだ。レフェリーたちは、この「エリート集団」に選ばれても、自分自身の職業を続けることは禁止されていない。
ポイントは、2週間ごとに3日間ずつの「トレーニングセッション」に参加することを義務づけられていることだ。
30代から40代のレフェリーたちにとって、最大の問題は、フィットネスの維持である。現代のトップクラスのサッカーはスピード化が進む一方だ。その試合についていくには、レフェリーたちも定期的に相当なトレーニングをしなければならない。
しかしレフェリーには所属チームはない。それぞれの仕事をもち、その余暇に、自分ひとりでトレーニングをすることになる。若くて巨額の年俸をもらっているだけでなく、専門家がつきっきりで指導に当たっているプレーヤーたちに対抗するのは不可能といっていい。
今回のイングランドの「改革」は、ここに手をつけたものだ。集団で、専門化の指導を受けて定期的にトレーニングを続けることによって、レフェリーたちのフィットネスは大幅に向上するはずだ。
FAは、プレミアリーグを担当する副審48人、プレミアリーグ外のプロの試合を担当する主審50人、副審180人も指名した。これらの人びとにも、トレーニング参加手当てを支給して同様のプログラムを展開するという。
一気のプロ化ではなく、レフェリーたちの「トレーニング環境」の改善に目をつけた今回のイングランドの改革。どのような成果が出るか、世界中が注目している。
(2001年8月22日)