サッカーの話をしよう

No.416 会場への道もワールドカップのうち

 6月5日水曜日に神戸で行われたロシア対チュニジア戦を見に行った友人から、「スタジアムに着くころには、おなかがいっぱいだった」という話を聞いた。
 他のワールドカップ会場でも行われていることだが、神戸ウイングスタジアムでも、混雑をできるだけ回避するために入場ゲート別の来場を呼びかけている。神戸では、スタジアムから歩いて5分ほどのところに地下鉄の駅があるのだが、そこに集中すると大変なことになるので、もうひとつ、JR兵庫駅からの徒歩ルートを設定した。
 こちらは25分間もかかるという。しかし「楽しかった」と、友人は言う。ルートが商店街をたどっていて、車両の通行が止められ、広い道をゆったりと歩けたからだけではない。両側の店が店前にワゴンなどを出して、スタジアムに向かうファンに元気に声をかけていたからだ。

 大きな紙コップによく冷えた生ビールを注いでいる店がある。かと思うと、串に指した肉を焼きながらおいしそうなにおいをまき散らしている店がある。友人は、そのジュウジュウと焼ける肉につられ、つい買って食べてしまった。だから、スタジアムに着いたころには、おなかがいっぱいだったという。
 ワールドカップ・グッズに限らず、いろいろなものを売っている店、楽しそうに話しながら飲んだり食べたりしている人びと。そうしたなかを車に気を取られずに歩いているうちに、気がつくとスタジアム入り口だった。
 その話を聞いて、地下鉄でスタジアムに行った私は、心からうらやましく思った。
 サッカー観戦の楽しみは、スタジアムだけのものではない。家を出てから試合を見て家に帰るまでの全体験が、心に残る。ましてそれが日常のJリーグなどではなく、一生の出来事であるワールドカップ観戦だったらなおさらだ。

 まだ国内の全会場を回ったわけではないので、ランキングなどつけることはできないが、神戸と対照的なのが埼玉スタジアムだ。徒歩で行くことのできる浦和美園駅からスタジアムまで20分あまり。フェンスで仕切られた立派な歩行者専用道路がつくられている。ところが、そこがあまりに殺風景なのだ。
 音楽は流れているが、途中に救護所がある程度で、ほかには何もない。ただ歩くしかない道なのだ。私も、6月6日の試合に、駅から歩いた。
 途中、歩行者専用道路の切れ目に弁当を売っている場所があり、その周辺では、たくさんの人びとが路肩に座って弁当を食べていた。まるで何かの災害の避難所のようで、見るに忍びなかった。
 なぜ、あの広大な歩行者道路に、見るだけでも楽しい出店などを出せなかったのだろう。スペースがあるのだから、パラソルとテーブルを出して、簡単なレストランぐらいできそうだし、弁当売り場の周囲に簡単なベンチを置いておけば、みんなもっと人間らしい食べ方ができるのに...。

 スタジアムの敷地ではないのだから、大会スポンサーなどの制約を受けることもないはずだ。たとえば「夜店」を運営する団体に権利を与えれば、焼きソバやたこ焼きなどの簡単な食べ物だけでなく、金魚すくいやヨーヨーすくいなど、歩くだけでも楽しい道が生まれるではないか。
 道が楽しければ、みんなゆっくりと歩く。試合後の駅の混雑緩和にも役立つ。
 6月6日に埼玉スタジアムで試合を見た別の友人は、「駅から遠すぎる」と話していた。といっても、兵庫駅から神戸のスタジアムまでに比べると、ずっと近いのだ。
 「道が楽しくなかったからだろう」
 と聞くと、彼はこう言った。
 「そうかもしれない。何か、強制収容所への道を歩かされているような感じだった」
 
(2002年6月12日)

No.415 JAWOCは自らの手でチケット販売を

 6月2日、釜山のホテルで目覚めてテレビをつけると、NHK・BS放送のニュースが飛び込んできた。
 「きょうさいたま市で行われるイングランド対スウェーデンの入場券が、2600枚インターネットで販売されている」というニュースだった。
 イングランドの大会初戦とあって、日本で行われる1次リーグ24試合中屈指の人気カード。当然、入場券は完売のはずだった。
 ところが、国際サッカー連盟(FIFA)と契約して海外販売分を担当してきたバイロム社(イギリス)に、売れ残り分がまだあった。日本組織委員会(JAWOC)は、混乱を避けるために「入場券の当日販売はしない」という取り決めをFIFAとかわしていたのだが、バイロム社は6月1日から当日販売をしていた。完全に約束違反だ。それを知ったJAWOCは、長い議論の末、「ひとりでも多くの人が観戦できるなら」と、追認し、併せてメディアに情報を流したのだという。

 しかし朝刊で朝6時にこのニュースを知った人がインターネットでバイロム社が運営するチケットセンターにアクセスしようとしても、まったくつながらなかったという。なかには、12時間も格闘して、結局つながらなかったという話もあった。
 運良く購入できた人は、国内12カ所でバイロム社が運営する「チケッティングセンター」へ出向いてチケットを受け取った。しかし正確に何枚売られたのか、バイロム社あるいはFIFAからは何の発表もない。
 4年前のフランス大会では、日本の旅行社が大がかりな詐欺にあい、数万人のファンが応援ツアーの申し込みをしながらチケットを入手できないという被害にあった。日本サッカー史上最大の悲劇だった。多くの人の心に、一生消えることのない悲しみを残した。

 そうした悲劇を繰り返してはならないと、FIFAと日韓の組織委員会は入念な計画を練ったはずだ。しかし海外販売分とともに、チケットそのものの印刷を担当したバイロム社の無責任な仕事ぶりが、昨年来、世界中で大きなトラブルを巻き起こしてきた。
 JAWOCは3日に、売れ残った4日以降の3試合分のチケットについて、電話販売で受け付けることを決めた。しかし電話やインターネットの受け付けでは、申し込むのに何時間も、ときには十数時間もかけ続けなければならない。JAWOCに求められるのは、より人間的な対応だ。
 試合の2日前までに売れ残りがあったら、そこで海外向けあるいは全国的な販売を打ち切り、JAWOCの責任で試合前日に試合開催地で先着順、または抽選で「地元販売」に切り替えるべきだ。
 昨年秋の「第2次販売」のときには、3日間、毎日8時間も電話をかけたがつながらなかったという人がたくさんいた。さらに、ことしにはいっての第3次販売では、予備抽選で当選して数十万円もの代金を支払わせられながら、落選してひどく落胆した人も少なくなかった。

 すべては、JAWOCが、どこかの立派なビルのなかにいて、自分たちだけは安全に、そして確実に入場券を売り、購入するファンの気持ちや苦労などまったく顧みない結果だった。
 JAWOCは、日本のファンとワールドカップをつなぐ唯一の公的な組織である。もうFIFAやバイロム社に振り回されている場合ではない。余っている入場券があるなら、責任をもって彼らから取り上げ、事務総長が自ら先頭にたち、自らの手で直接ファンに売るという潔さ、ファンとの連帯を見せなければならない。
 ワールドカップは始まり、宝物のような試合が一日ごとに過ぎ去っていく。悠長なことをしている時間はない。
 
(2002年6月5日)

No.414 禁煙ワールドカップ

 イギリス政府の健康保健協議会が主催する禁煙キャンペーンへの協力を、政府がイングランド代表チームに求めたことがあった。86年、ワールドカップ・メキシコ大会の直前のことである。
 「サッカーの代表チームは青少年に大きな影響力をもつ。とてもいいことだ」と、イングランド・サッカー協会は大賛成だった。しかし慎重なボビー・ロブソン監督は、スタッフも含めたチーム内でどの程度タバコが吸われているのか、一応調査することにした。喫煙者がたくさんいたら、そのようなキャンペーンへの協力は不正直な行為になると考えたからだ。
 選手には、もちろん喫煙者はいなかった。コーチング・スタッフもすべて非喫煙者だった。用具係、報道担当、マッサージ師...。チームの全員から回答があった。喫煙者はただひとり。チームの健康を預かるドクターだった!

 「今大会は『スモーク・フリー・ワールドカップ』です」
 ワールドカップの主催者である国際サッカー連盟(FIFA)は、2002年韓国/日本大会を前にそう宣言した。
 「自由にタバコを吸っていい」という意味ではない。「煙のない大会」、つまり「禁煙ワールドカップ」ということだ。
 観客席、メディアセンター、大会運営施設を含め、大会の公的な場所はすべて禁煙になった。喫煙が許されるのは、決められた「喫煙スペース」においてだけである。
 各国記者が仕事をするメディアセンターは、これまで「フリー・スモーク(喫煙自由)」だった。フランス大会では、仕事をするデスクのある「ワーキングスペース」は禁煙ということになっていた。しかし仕事が忙しくなると、おかまいなしに吸う記者が多く、コーラを飲んだ後の紙コップを灰皿代わりにしたり、じゅうたんを敷いた床に吸い殻を投げ捨てる者まで出てきた。

 煙の害だけでなく、これでは火災の危険もある。仕方なく、地元組織委員会は灰皿を用意し、それぞれのデスクに置くことにした。
 観客席も禁煙だったはずなのだが、堂々と吸っている人がたくさんいた。タバコの煙が苦手な人は、試合を楽しむどころではなかったという。
 今大会はそういうことにはならない。「スモーク・フリー」は、決勝戦まで、日韓の全会場で実施されることになる。
 サッカー・スタジアムは、もはや屈強な男性サポーターだけの世界ではない。女性も子どもも、そして年配者もやってくる。鼻やのどなど呼吸器系に病気をもつ人でも、周囲からの逃れようのない煙を恐れることなく、安心してサッカーを楽しめる場でなければならない。
 FIFAは、86年大会まで、タバコ会社をワールドカップの公式スポンサーのひとつにもち、場内の広告看板に堂々とタバコの銘柄を入れていた。そう自慢できる組織とはいえないが、今回の禁煙宣言は高く評価したい。

 しかし考えてほしい。スタジアム内では、タバコの煙に煩わされることなく、安心して試合を楽しむことができるが、一歩スタジアムの敷地を出ると、そこは普通の日本の社会なのだ。最寄の駅まで歩く間、たくさんの人が「ようやく禁煙区域を抜けた」とばかりに歩きながらタバコに火をつけたら、周囲の人びとの楽しい一日が台無しになってしまうかもしれない。
 そして町なかに出れば、人込みのなかで歩きタバコをする人があふれている。「スモーク・フリー・ワールドカップ」を体験した外国からの観戦客は、大いにとまどうだろう。
 スタジアムの内外で「スモーク・フリー」になれば、立派なスタジアム、すわり心地のよい椅子、そして快適なアクセスなどと同じように、大会成功の重要な要素になると思うのだが...。
 
(2002年5月29日)

No.413 23人が決まった

 ワールドカップに出場する日本代表23人が決まった。
 ことしの準備試合にまったく出場していなかったベテランのDF秋田豊とFW中山雅史が選出され、日本最高のテクニシャンであるMF中村俊輔は選ばれなかった。中村の左足から放たれるFKがワールドカップで見られないのは残念だが、私は、フィリップ・トルシエ監督のチームづくりを信頼したいと思う。
 代表チームというのは、日本の選手のなかから実力順に23人を選ぶわけではない。負傷、出場停止など、大会中に起こりうるあらゆる事態を想定し、チームをやりくりできる人材をそろえることが必要だ。4年前、カズ(三浦知良)、北沢豪という予選勝ち抜きの功労者を最後の最後に落とした岡田武史監督の決断も、そうしたバランスを考えてのものだった。

 そして今回のトルシエのチームづくりには、岡田監督にはなかった基準も含まれている。23人で構成されるグループの人間的なつながりを重視した点である。
 23人の選手は、全員が同じ立場であるわけではない。先発を予定されている選手がいる。交代出場してチームを変えるための切り札がいる。そして、状況によっては、試合に出場することなく大会を終えるかもしれない選手もいる。大会が始まれば、当然のことながら、選手のあいだに明暗が生まれる。
 しかしそれがチームに影響を与えるようではいけない。個々の状況はどうあれ、チーム内にいつも明るく前向きな雰囲気と、次の試合への強いモチベーションがあふれていなければならない。試合に出ていなくても、ふだんの生活でチームを盛り立てていけるような選手が必要なのだ。
 4年間にわたって、トルシエは選手たちの技術や戦術能力だけでなく、そうした人間的な側面も観察してきた。先週発表された23人は、その結果に違いない。だから信頼したいと思うのだ。

 4年前のフランス大会に出場した22人と今回の23人を比べて、大きく違う点がある。世界の舞台での経験の豊富さだ。
 4年前のチームには、96年のアトランタ・オリンピックに出場した選手が5人と、95年の17歳以下世界選手権に出場したMF小野伸二がいるだけだった。そのなかで、MF中田英寿だけが、17歳以下、20歳以下の世界選手権と、23歳以下のオリンピックの3大会に出場した豊富な経験の持ち主だった。
 今回の23人は、それとは比較にならない豊富な経験をもった選手の集団となった。
 98年ワールドカップの経験者が8人いる。オリンピック、20歳以下世界選手権の出場経験者はともに11人。17歳以下世界選手権の出場者は5人。こうした大会に2回以上出場した選手は13人にもなる。さらに、2000年アジアカップ優勝経験者も11人含まれている。

 それだけではない。4年前には皆無だった海外クラブでのプレー経験者が、5人もいるのだ。なかでもMF中田英は、4年間にわたるイタリア・セリエAの経験の持ち主だ。MF小野も、1年間のフェイエノールト(オランダ)での経験で、ひと回りもふた回りも大きくなった。
 忘れてならないのは、これらの経験の大部分が、トルシエの功績というより、日本サッカーを支えてきた指導者や、選手個人の努力で積み重ねられたものだということだ。トルシエはそうした選手たちをひとつの戦術の下にまとめ、さらに、強烈なプレッシャーのかかる大会を乗り切ることのできる強い人間性を重視して23人のチームを構成した。
 平均年齢25歳は若い。しかし経験が足りないわけではない。大会中、若さがもたらす伸びにも期待したい。
 
(2002年5月22日)

No.412 稲本潤一のモチベーション

 ロンドンでプレミアリーグのアーセナル対エバートンを見た。
 リーグ最終日。すでに、その3日前にアウェーでマンチェスター・ユナイテッドを1−0で下し、FAカップに続いてプレミアリーグでも優勝を決めていたアーセナルにとっては、ホームのファンに「2冠」を報告する喜びの試合でもあった。
 数日間ロンドンを覆っていた雲が切れ、明るい日差しに包まれた午後、アーセナルは4−3で勝ってファンの幸福感をさらにふくらませた。
 試合後、ピッチの上でプレミアリーグ優勝の表彰式があった。選手とスタッフ全員が登場したが、そのなかに、背番号19、稲本潤一選手の顔もあった。

 ユニホーム姿の選手は、背番号順に並び、ひとりずつピッチの上につくられたひな壇の上に登っては優勝メダルを受け取り、カップをもってファンに掲げて見せた。しかし20数人の選手のうち、3人だけはメダルを受け取ることができなかった。「出場10試合以上」という規定があるためだ。
 21歳のGKスチュアート・テイラーは、今季プレミア9試合出場の記録をもっていた。昨年秋、イングランド代表でもある第1GKのデービッド・シーマンとその控えが相次いで負傷し、チームが危機に陥ったとき、敢然とゴールに立ったのがテイラーだった。1月なかばまでの9試合で、アーセナルは6勝2分け1敗という好成績を挙げ、優勝の足固めをした。
 そのテイラーが、後半40分から交代出場したときには、スタンドから割れんばかりの拍手が起こった。誰もが、これで彼にも優勝メダルをもらう資格ができたことを知っていたのだ。もちろん、アーセン・ベンゲル監督も、その意図で出場させたのである。

 優勝セレモニーの喜びの輪のなかで、メダルを受け取ることができなかった稲本は悔しそうだった。UEFAチャンピオンズリーグなどで4試合の出場があったものの、プレミアリーグのピッチにはついに立つことができなかった。ヨーロッパへの挑戦1年目は、がまんを強いられた年だった。
 稲本は笑顔を絶やさなかった。しかし顔は笑いながらも、両腕を組み、居心地の悪さに耐えている様子だった。
 現在の世界サッカーのひとつの頂点ともいうべきプレミアリーグ優勝。しかしその優勝に、自分の力が必要とされることはなかった。仲間の選手たちやチームスタッフから肩を抱かれて声をかけられ、会話をかわしていても、稲本の心に何が渦まいているか、遠いスタンドの席からも想像がつく気がした。

 思えば、稲本にとって、そうした思いは、最初ではないのかもしれない。99年のワールドユース選手権準優勝のときも、負傷明けで体調が十分ではなく、ほとんどプレーできないまま銀メダルを受け取った。5月11日のアーセナル・スタジアムでは、そのときよりはるかに悔しい思いが支配していたように思う。
 しかしがっかりしているひまなどない。逆に、稲本の前には、大きなチャンスが広がっている。もちろん、ワールドカップである。
 そのチャンスを十分に生かして日本をひっぱり、上位進出に導くことができれば、それは必ず、稲本のサッカー人生の大きな飛躍につながる。アーセナルでの立場も、当然変わるはずだ。
 試合後、短時間ながら稲本の表情を見ることができた。そして、誰よりも稲本自身が、そうした思いを強く抱いているのだと感じた。
 5月11日、アーセナル・スタジアムでの華やかな優勝セレモニー。そのときの思いが、ワールドカップでの稲本の強烈なモチベーションとなる。
 
(2002年5月15日)

サッカーの話をしようについて

1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。

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