
新着の『ワールドサッカー』誌(イギリス)で、編集長のガビン・ハミルトン氏が、「日韓両国のすばらしいホスピタリティーにより、アジア初のワールドカップは大成功だった」と絶賛している。
彼はまた、韓国はほとんど南米的で、日本はヨーロッパ的だったと指摘する。熱狂的に自国を応援して大会を盛り上げた韓国に対し、日本は自国を応援しつつも公平なアプローチでこのワールドカップを楽しんだというのだ。
興味深い見方だと思う。日本人の私たちとしては、どうしても日本側に厳しくなる。そして韓国と比べて、「ここが悪い」という指摘が増える。
しかし共同開催は、文化も歴史も違うふたつの国でひとつの大会を行おうという試みである。「違い」があって当然だ。「外の目」としてハミルトン氏のような評価を読むと、目を開かされる思いがする。
ものごとの本質を見極める作業のなかで、見るポイントを変えることほど重要で、しかも難しいものはない。長い間探し求めていた本を最近ようやく見つけ、ページをめくりながらその思いを深めた。
チリから移住したアメリカ人であるルシアノ・G・カストロ著による『ワールドカップの歴史:南米からの見方』(2002年、アメリカのブルーノート出版社刊)という、そのものずばりの本である。
ワールドカップの歴史は、もっぱら「ヨーロッパの目」で語られてきた。とくに英語からの情報が中心になる私にとっては、イギリス(あるいはもっと狭くイングランド)人の目や見方、考え方を通じてワールドカップを見ることが中心になってきた。
同じ大会の同じ出来事でも、ヨーロッパ人の目からと、南米やアフリカ人の見たものでは違う解釈が成り立って当然だ。できるだけ南米やアフリカなどの「違った目」からの情報を入手するよう努力してきたが、実際のところは、なかなかままならなかった。
カストロ氏の本職は電気技師で、南アフリカにも長く住み、そこでは94年ワールドカップ(アメリカ大会)のテレビ解説者まで務めた。現在の国籍はアメリカだが、「南米人」としての誇りをもち、南米から情報を仕入れてワールドカップを見てきた。その著書のなかで、彼はヨーロッパ人たちの独善的な見方を敢然と攻撃する。
たとえば、78年アルゼンチン大会は「グラウンド状態が最悪だった」と、大きな非難を浴びた大会だった。とくにマルデルプラタのスタジアムのピッチは、まるで昨年11月の埼玉スタジアムのようにボコボコと芝生がはがれ、プレーに影響を与えた。
しかしカストロ氏は、「これは仕方がないことだった」とアルゼンチンを擁護する。
「ワールドカップは、ヨーロッパのサッカーシーズンに合わせて6月に開催される。しかしそれは南米では真冬にあたる。当時のヨーロッパの1月や2月のピッチコンディションを思い浮かべてほしい。あのときのアルゼンチンより悪くないといえるグラウンドがいったいいくつあるか」
ワールドカップ開催を通じて、多くの日本人が「世界」を広げただろう。世界には実にいろいろな文化や習慣をもった国があり、サッカーも驚くほど多彩だということだ。人びとの日常生活のなかにサッカーがあり、人びとの好みや願いに支えられて各国のサッカーが成立している。違いがあって当然なのだ。
ひとつの大会にも、世界の各地にいろいろな見方、評価がある。まして今日のワールドカップは、巨象のように途方もない規模があり、ひとりで全体を体験するのは不可能だ。一面的な見聞にとらわれず、広く世界の見方に耳を傾けて評価を確定していく必要がある。それこそ、「サッカー的態度」といえないだろうか。
(2002年7月17日)
今回のワールドカップで私を最も驚かせたのは、日本中で多くの人がサッカーに熱中したことだった。ワールドカップに、ではない。サッカーに、である。
メディアがあまりに騒ぐものだから、どんなものかと思って見てみた。そしてはまってしまった。そんな人が多かったのではないか。そうでなければ、決勝戦66パーセントなどという驚異的な視聴率が出るわけがない。
「サッカーはもういやだ」という声を聞いた。テレビで見ていても、とにかく疲れる。一瞬でも気を抜いたら、大事な場面を見逃しそうになる。トイレに立つことも、冷蔵庫にビールを取りに行くこともできない。集中しきっているから、見終わるとぐったりしてしまうというのだ。
そうした話は、年配の男性に多かったようだ。これまでテレビでJリーグを見ても、あまり面白いとは思わなかった。しかしワールドカップはまったく違った。スピード、激しい接触、一本のパスがもつ意味、そして芸術的なまでの守備。それは、かつて体験したことのない興奮だった。
なぜ、ワールドカップのサッカーがそれほど人びとの心をとらえたのだろうか。もちろん第1には、超一流のプレーだったからだろう。しかし私は、それに劣らない理由が、テレビ放映の質にあったのではないかと思っている。
今回の国際映像をつくったのは、フランスに本社を置くHBSという会社だった。日常、何かの番組をつくっている会社ではない。ワールドカップの国際映像制作のためにつくられた会社であり、技術スタッフはすべてフリーランスのテレビ技術者、すなわち「傭兵部隊」だった。
かつては、ヨーロッパでも、サッカー中継は国営放送局など有力局の独占だった。しかしデジタル多チャンネル化にともない、10年前に比べると毎週数十倍もの試合中継番組が制作されるようになった。そうした制作の担い手となっているのが、彼らフリーランスの技術者たちなのである。
試合の流れを分断しないカメラワーク。プレーの意味や意図を即座に映像として伝える絶妙の「スイッチング(同時に撮影されているいくつもの映像から電波に載せる映像を選ぶ作業)」。日本人が魅せられたのは当然のことだった。
もうひとつ見逃せないのは、アナウンサーと解説者の集中度だ。Jリーグなどふだんの日本のサッカー中継は、ともすれ緊張感に欠け、試合の流れなどそっちのけでアナウンサーと解説者の「サッカー談義」になってしまっている。当然、視聴者は試合に集中することなどできない。
しかし今回のワールドカップでは、アナウンサーはプレーしている選手名を正確に伝えようと努力し、解説者も手みじかなコメントで試合を引き締めた。彼ら自身がサッカーに熱中し、のめり込んでいたから、視聴者を集中させる放送ができたのだろう。
ワールドカップが終わり、Jリーグが始まった。今回のサッカー人気が定着するか一過性のもので終わってしまうかは、何よりもまず選手たちがどんなプレーを見せるかにかかっている。しかし同時に、テレビ放送の質も、大きなカギを握っている。
番組制作予算はワールドカップの数分の1、あるいは数十分の1かもしれない。カメラの台数も限られているだろう。しかしそのなかでも、技術者たちの努力工夫と、アナウンサーや解説者たちの集中度があれば、ワールドカップに負けない魅力を伝えることができるはずだ。
「どれ、Jリーグでも見てみるか」という人びとは何百万人もいるはずだ。いったん合わせたチャンネルを変えられないような、そしてトイレにも立つことができないようなテレビ中継を期待したい。
(2002年7月10日)
美しいフィナーレだった。
6月29日、韓国南部の大邱。韓国とトルコの対戦には、3位決定戦らしい、角の取れた雰囲気があった。いつもは相手にブーイングを浴びせかける赤いサポーターたちも、この日は大きなトルコ国旗を掲げて両チームの健闘を期待した。
試合も見事だった。1カ月間に7試合。疲労のピークにありながら、両チームは果敢に攻め、ゴールを守った。勢いのうえでのファウルはあったが、汚い反則はほとんどない気持ちのいい試合だった。韓国が終盤に見せた追い上げは、理屈抜きで胸を打った。しかしそれ以上のシーンが試合後に待っていた。
終了のホイッスル。追い上げ空しく2−3で敗れ、グラウンドに倒れ込む韓国の選手たち。そこにトルコの主将ハカンシュキュルが歩み寄り、抱き起こした。そして肩を組んでいっしょに観客の歓呼に応えようとうながした。
やがてその輪はピッチ全面に広がった。交互に肩を組んだ両チームの選手たちが横一列になってスタンドのファンにあいさつに向かった。
「俺たちは最後まで戦いぬいた。きょうは勝者も敗者もない。みんなが勝者なんだ」
ハカンシュキュルのそんな気持ちが、あっという間にスタジアムを包み、公園や広場で応援していた数百万の韓国国民に伝わり、そしてテレビを通じて世界中に広まっていった。黄金のFIFAワールドカップの価値に勝るとも劣らない、すばらしいメッセージだった。
そして翌30日の横浜。ここでも、ドイツとブラジルの見事なプレーが私たちを酔わせた。しかし決勝戦に先立って行われた「クロージング・セレモニー」も、この大会の最後を飾るにふさわしい感動的なものだった。
豪華なショーだったわけではない。むしろ地味な演出だった。そのなかに出場32カ国の大きな国旗をもった数百人のボランティア・スタッフが「出演」していた。旗を運びながら、彼らは精いっぱい背伸びをしてスタンドを埋めたファンに手を振った。
この大会を支えてきたのは、間違いなく彼らボランティアだった。大会の役に立ちたいと、学業や仕事を休んで参加した人びと。どの会場都市に行っても、笑顔でファンを案内するボランティアの姿が目についた。世界中からやってきたファンや報道関係者の心に、ロナウドのゴールやカーンのセーブと同じように長く残るのは、ボランティアたちの心からの親切と、温かいもてなしの心だろう。
クロージング・セレモニーでは、そうしたボランティアたちが、自分の気持ちを体いっぱいに表現していた。言葉にならない彼ら自身の感動を7万の観衆に、そして世界の人びとに向かって示していた。ただの「お手伝い」ではない。彼らこそ、選手たちと並んで、この大会のひとつの主役であったことを、私は理解した。
7月1日午前1時。横浜国際総合競技場から新横浜駅に向かう報道関係者用シャトルバスは超満員だった。まだ興奮さめやらずに試合のことを語り合うブラジル人たち。ひざの上にパソコンを広げてわき目も振らずに仕事するドイツ人。1カ月間の取材で疲労困憊のカメラマンは、座ったとたんに居眠りを始めていた。
バスが動きだした。そのとき、メディアセンターからバスへの案内をしていたボランティアの女性たちが、バスに向かって両手を振った。バスのなかからどよめきが起こった。そして、多くの報道関係者が「アリガトウ!」と叫びながら手を振った。
サッカーはもちろん見事だった。しかしそれ以上にすばらしかったのは、人と人の心が結びつき、通い合ったことだった。
美しいフィナーレだった。
(2002年7月3日)
「日本代表監督フィリップ・トルシエ」の4年間が終わった。
日本代表の監督として、トルシエほど物議をかもし出した人物はいなかった。攻撃的で歯に衣着せぬ発言は、しばしば大きな問題となり、たくさんの敵もつくった。
しかし私は、彼が日本代表と日本のサッカーに発し続けたメッセージを忘れてはならないと思っている。それは、「サッカー選手である前に、人間らしい人間であれ」ということだ。
トルシエの日本での最初の衝撃は、98年10月、最初の国際試合後の記者会見での質疑応答拒否事件だった。試合の朝、伊東輝悦選手のお母さんが亡くなった。
「人の生命の前では、サッカーなど無に等しい」
トルシエはそう語っただけで、一方的に席を立った。
会見室は騒然となった。しかし私は、彼が正直な気持ちを語っていたように思った。
サッカーチームは家族のようなものだ。そのひとりの母親の死は、チーム全体の悲しみである。何もなかったように試合を決行した日本サッカー協会は、明らかに何かが欠落していた。トルシエはそこに強い反発を感じたのではないかと思ったのだ。
それから2年半後の昨年3月、日本代表がパリでフランス代表と戦った歴史的な試合を、私は見逃した。直前に父が亡くなったためだった。
遠征の地で誰かからそのことを聞いたトルシエは、わざわざ弔電を打ってくれた。心のこもった電文だった。
帰国後の記者会見の後に、私は彼に礼を言った。そして、重要な試合を取材に行けなかったことをわびた。
彼の言葉は、2年半前とそっくり同じだった。
「いや、人の生命の前では、サッカーなど無に等しい」
さらに月日が流れてことし5月。アウェーでレアル・マドリードと対戦した翌日に、トルシエの甥が交通事故で亡くなった。トルシエはチームを離れ、ひとりパリに戻った。再合流したのは、ノルウェー戦の前日のことだった。
日本に戻ったら日本代表23人の発表がある。パリに滞在中、トルシエはその発表会への欠席を日本協会に申し出た。少しでも長く家族とともに過ごしたいのだと、私には思えてならなかった。
しかし日本サッカー協会は「またトルシエのわがままが始まった」ほどにしか考えていないようだった。その思いが報道陣にも伝わり、トルシエはまた敵を増やした。
トルシエは、非常に明晰なサッカー頭脳とともに、未熟で、欠点の多い性格をもった男だった。駆け引きもした。しかし同時に、彼ほど人間としての心や思いやり、そして人と人とのつながりをサッカーの場に持ち込んだ指導者は、これまでの日本サッカーにはいなかった。
トルシエが無条件に愛したのは、サッカーに一生懸命に取り組み、向上心をもって努力する選手たちだった。スター意識にとらわれた選手などを見つけると、容赦のない批判の言葉を浴びせたが、その裏にも深い愛情があった。
選手たちがどれほどその愛情を感じていたかは知らない。しかしこれから10年、20年とたち、彼らが指導者など現在とまったく違った立場になってひとつのチームを率いていかなければならなくなったとき、この4年間、どれだけトルシエの愛情に引っぱられてきたかを、明確に理解することになるだろう。
その愛情は、人間として人間らしく生きる姿勢から発生している。伊東選手のお母さんの死を心の奥底から悲しみ、「その前ではサッカーなど無に等しい」と、本心から思う心から生まれたものだ。
こうした「人間らしい心」がもたらす力をトルシエから教わったことを、けっして忘れてはならないと思うのだ。
(2002年6月26日)
ワールドカップも日程の3分の2、試合数にすると全64試合のうち8割以上の56試合を終えた。残りはわずか8試合。日本では4試合だけである。日本国内の10会場のうち、すでに6会場が全日程を消化してその役割を終えた。
外国からきている取材陣に話を聞くと、日本の大会運営の評判は悪くない。「とてもいいオーガニゼーションだ」と言ってくれる人も少なくない。
しかし、「韓国のほうがよかった」という話を、たくさんの日本取材陣から聞いた。「とにかく親切で、感じがよかった」というのだ。
ワールドカップの規模、大会の広がりから見ると、ひとりが体験できる範囲など、たかが知れている。それぞれの狭い経験からいろいろな印象をもつのだから、ある人が「すばらしかった」と感じ、別の人が「ひどかった」と思っても不思議ではない。しかし韓国の各会場で、あるいは町なかで、人びとがとても親切だったのは、私も強く感じた。
共通するのは「笑顔」である。スタジアムの周辺で道を聞くとき、メディアセンターで案内を受けるとき、韓国の人びとは、まず笑顔をつくり、親身に、ていねいに教えてくれる。ボランティア・スタッフはもちろん、警備会社の人びとや警官まで、親切そうな笑顔を浮かべた。
結局、道がわからないときがある。問題が解決できないときもある。運営上の不手際もある。しかし笑顔で対応し、一生懸命に相手の力になろうとしている人に対すると、結果などどうでもいいとさえ思ってしまう。
一方、日本の会場では、ボランティアを含む運営スタッフは、職務には忠実なのだが、相手の身になって考えるという、重要な基本が忘れられてしまっているのではないかと思わざるをえない場面になんども出くわした。
「報道陣というのは悪いことをするものだと思い込んでいるんですよ」
あるカメラマンが、こんな不満をもらした。
「あれはだめ、これはだめというばかりで、その禁止事項に違反している者がいないか、常に見張られている。感じ悪いですよ」
一般の観戦客がどのような思いをしているのか、毎日試合を追いかけて飛び回っている身としては、なかなか話を聞く機会がない。しかし報道陣と同じように、見張り役ばかり目について、本当に観客の助けになろうとしている人が少なければ、「感じ」がいいわけはない。
私の印象では、日本でも、ボランティア・スタッフはおおむね親切で感じがいい。しかし警備スタッフなど有給で働いている人びとに、「観客や来場者の助けになろう」という意識が低いように思う。自分たちはワールドカップというサッカーのお祭りの「ホスト」役であるという認識と、このお祭りをフルに楽しんでもらおうという意識がとても低いように思う。おそらく、まじめすぎるのだろう。
残り4試合。残された試合会場は、静岡、大阪、埼玉、そして横浜。しかし横浜の国際メディアセンター、駅や空港の案内など、スタジアム以外にもいくつもの重要なポイントが残されている。
私の期待は、それらの場所で働く人びとが、ありったけの笑顔をふるまってくれることだ。大会の終盤、みんな疲れがたまっている。準々決勝から決勝戦まで、見逃すことのできない試合が続くのだから、殺気立った雰囲気になるかもしれない。そうしたときに心からの笑顔を見せてくれる人たちがいれば、大きな救いになる。
残り10日間。いま言いたいのはこれだけだ。
「がんばれ、日本の運営スタッフ! あなたたちの笑顔が、稲本や鈴木のゴールに負けない意味をもっている」
(2002年6月19日)