
成田空港に向かうリムジンバスのなかで考えた。
このバスに初めて乗ったのは、24年前の5月、78年ワールドカップ取材のためにアルゼンチンに向かうときだった。成田空港は開港してまだ1週間ほどしかたっていなかったはずだ。大きな反対闘争を経ての開港だっただけに、警備は厳重を極めていた。
箱崎の東京シティエアターミナルからバスが動き出したとたん、アルゼンチンの有名なフォルクローレ「花祭り」の軽快なメロディが流れた。当時の日本では、ワールドカップなどごく一部のファンしか関心がなかったから、ただの偶然だったのだろうが、アルゼンチンに向かう私への応援歌のようでうれしかった。
2002年韓国/日本大会の開幕まできょうで残り23日、わずか3週間あまりとなった。カレンダーの今月最後の日には、「開幕、フランス×セネガル(ソウル)」と書かれている。
ワールドカップは4年ごとの夢だ。世界のサッカーファンは、4年単位で人生を過ごし、4年ごとにひとつ年をとるという。
ワールドカップが人生の区切りとなり、人生のいろいろな出来事が大会と関連づけられて記憶される。ひとつのワールドカップを思い起こすと、そのときの自分がどんな状態だったか、そして次のワールドカップまでの4年間をどう過ごしたかなど、次つぎとよみがえってくる。
私にとっての「ワールドカップ元年」は、66年、中学3年生の8月だった。3週間ほど前に行われたイングランド大会の決勝戦を、たまたまテレビで見たのが、サッカーとワールドカップにのめりこむきっかけだった。
そのときを「誕生」とすると、2002年大会で私は9歳の誕生日を迎えることになる。たった9歳だ。ベテラン面をしてワールドカップの本を出したりしているが、それが9歳の子どもの書いたものだとすれば、自分自身で苦笑してしまう。
書籍や記録フィルムなどで「誕生以前」の大会の経過などを知ることはできる。しかし記録フィルムに残されているのは、ひとつの大会の膨大な事象のほんの一部でしかない。ワールドカップの喜びとして記憶される多くの出来事は、その時代に生き、ワールドカップに強い関心をもっていなければ、感じ取って心のなかに残すことはできない。
「1歳」の70年大会は、英字新聞で情報を追い、大会が終わってから1年間をかけてテレビ放映を楽しんだ。「2歳」の74年に初めて現地に行き、想像していた以上の喜びを味わった。
リムジンバスで成田空港へ向かった78年は、まだ「3歳」というのに雑誌編集の責任を負わされ、予想もつかない仕事の量に、いささか気が重い出発だった。その「門出」でアルゼンチンのフォルクローレがかかったことで、どれだけ私が勇気づけられたか、はかり知れない。
「4歳」の82年大会は、東京の編集部で原稿を受け、本をつくる役割だった。「6歳」の90年大会から新聞の仕事を始めた。毎日ファクスで記事を送った。「東京新聞」に記事を書くようになったのは、「7歳」の94年大会以来のことである。この大会から、原稿送りはパソコンを使ってのメール送信となった。
今大会は「9歳」。サッカーの指導でいえば、「ゴールデン・エージ」といえる。小学校時代の後半で、技術や戦術をどんどん吸収できる年代にあたる。そのつもりで、今大会に取り組んでいきたい。
さて、分別がつく年齢には、いつごろなれるのだろうか。実年齢で80歳を超えても、「ワールドカップ年齢」ではまだ17歳にしかならない。残念ながら、どう考えても、成人はできそうにないのである。
(2002年5月8日)
「ワールドカップの月」がやってきた。今月31日にはソウルで開幕戦のフランス対セネガルが行われ、それから先は、本当にひと息で決勝戦まで64の試合が日本と韓国で展開されることになる。
大会のID発行もすでに始まった。あと2週間もすればいくつかのチームが日本に到着してキャンプをスタートし、日本代表メンバー23人も17日に発表される予定だ(そう宣言したのはトルシエ監督だから、あてにはならないが)。
その5月を迎えて最も心配なのは、入場券の配布が間に合うかという点だ。
先月、ワールドカップの日本組織委員会(JAWOC)は国内第3次販売の申し込み受け付けと予備抽選を行い、入場券の送付方法も明らかにした。普通の書留郵便ではなく、「本人限定受取郵便」という、これまであまり聞いたことのない送付方法だ。
JAWOCから入場券が発送されると、各地区で郵便物を配達している郵便局から入場券の受け取り人に「到着通知」が送られる。それを受け取った人は、自分がどの郵便局で受け取りたいかを通知し、身分証明証をもってその郵便局の窓口に行って受け取るという方法である。
間違いがないように、また、不正がないようにという配慮なのだろうが、これはあまりに行き過ぎではないか。入場券を受け取る人に、あまりに多くの労力を強いるうえに、多くのトラブルが予想されるからだ。
身分証明には、運転免許証、パスポートなど、写真付きの公的証明書であれば1点、健康保険証など写真の付いていない公的証明書あるいは写真付きの社員証、学生証などであれば2点必要だという。
委託された郵便局は厳格に業務をこなすだけだから、窓口でトラブルが発生するのではないか。そして不正を意図したわけでないファンが身分証明の不備を理由に受け取りを拒否され、あるいは何かの都合で受け取ることができず、多くの入場券がJAWOCに戻されてしまうのではないか。
JAWOCのスケジュールでは、入場券の発送開始は5月上旬だという。そして郵便局では、10日間、その郵便物を留め置くというから、受け取ることのできなかった入場券は5月下旬になってJAWOCに戻ることになる。
それが大量に発生したらどう対処するのだろうか。再度通知して、送付するのだろうか。もし何かの都合で本人が受け取ることができない場合には入場券を受け取る権利がなくなるのだろうか。そしてその代金はどうなるのか。宙に浮いた入場券は?
入場券販売の時点で、すべての入場者の氏名と生年月日を厳格に登録させられた。そのうえに郵送料までとって代金を先払いさせられたあげく、入場券を受け取ることができず、ワールドカップを見ることができなかったファンはどうなるのだろう。
4年前、日本の旅行会社が詐欺にあって、ツアーの申し込みをしながら観戦ができなかったファンが大量に出た。悪くすれば、今回は、それ以上の悲劇的な事態に発展する恐れさえ感じる。
入場券を受け取ることができないままにその試合が終わってしまったら、誰がどんな責任を取ろうと、つぐなうことなど不可能だ。JAWOCはそうしたファンの気持ちをどこまで理解しているのか。
できるだけ公平に、そして悪質なチケット業者などが介入する危険を避けようとしてきたJAWOCの努力と工夫は、評価できる。しかし最後の入場券送付で無用のトラブルを起こしてしまったら、元も子もない。
「本人限定受取郵便」などという「屋上、屋を架す」愚は避け、通常の書留郵便、あるいは宅配便で着実に届けるよう努力すべきだと思う。
(2002年5月1日)
4月10日に福岡で行われたJ2のアビスパ福岡対モンテディオ山形戦の試合後に、地元福岡が引き分けたことに怒ったひとりのサポーターが韓国代表のユニホームをグラウンドに投げ込んだ行為が大きな事件となっている。福岡の韓国人選手・盧廷潤が、その行為を母国への侮辱と受け取り、福岡をやめるとまで言ったからだ。
投げたサポーターは、ただ勝てなかったことに対する抗議のシンボルとして、ユニホームを投げ込んだのだろう。代表チームのユニホームがいわば国旗と同格にあり、国家と民族の誇りを象徴するものであるということに思いが至らなかったのに違いない。
ここで日本の国旗・国歌についての議論をするつもりはない。しかし戦後の日本の教育のなかで、国旗・国歌についての教育を避けてきたことは、予期せぬ「副産物」を生んだ。他国の国旗・国歌への無神経さである。
自国の国旗・国歌に対して反対意見をもつことは自由だし、それに敬意を表さない権利も認めるのが、真の自由主義国家であると思う。しかし他国の国旗・国家、そしてそれに準ずるものに対する態度が同じであっていいというわけではない。世界の多くの国では、自国の国旗・国歌をとても大事にしているからだ。
ことしになって国内で行われた2つの国際試合、3月のウクライナ戦と4月のコスタリカ戦で、非常に気がかりに思ったことがある。相手チームの国家が歌われている最中にもスタンドの人の動きが止まらず、ざわつきがおさまらなかったことだ。
警備の関係で入場が大幅に遅れた大阪でのウクライナ戦は特別なケースだったとしても、横浜の試合も同じような状況であったのにはがっかりした。コスタリカの歌手が、愛国心を込めてあの壮大な国歌を歌っている最中に、通路を行き来している人がいるのは、非常に失礼なことだった。
他国の国歌が歌われている(あるいは演奏されている)あいだには、スタジアム内の全員が起立し、水を打ったように静かにしていなければならない。それが他国の国歌に敬意を表する態度だ。国際社会の常識といっていい。
このことはこのコラムでもなんども書いてきた。しかしワールドカップ前に、もういちどだけ書いておきたい。
国歌が歌われている(演奏されている)最中に動くことが許されるのは、選手たちの表情を伝えることを仕事とするカメラマンたちだけだ。他の人びとは、大会役員であろうと、ビールを手に自分の席に戻る途中の観客であろうと、自分の席を探しているファンであろうと、国歌が始まったら全員がその場に立ち止まり、直立してその国歌に敬意を表さなければならない。
そして国歌が終わったら、盛大な拍手を送らなければならない。それが、ワールドカップ開催国の国民、すなわち大会の「ホスト」役としての最低限のマナーだ。
横浜でのコスタリカ戦では、もうひとつ気になることがあった。国歌の最中に2機のヘリコプターが上空を旋回していたことだ。騒音がコスタリカ国歌を妨げた。
このヘリは、警備のためだったらしい。テロの危険から私たちを守るためのものだから、警備の方法は当局に任せるしかない。保安の常識として、「この時間には上空を飛ばない」などということは、口が裂けても言えないだろう。しかし、競技場のすぐ上を旋回することが、その騒音で国歌を妨害し、相手国への敬意を欠く結果になったことだけは知っておいてほしい。
どんなに親切なもてなしを受けても、自分たちが大事にしているものに敬意を表されなかったら、「ゲスト」は不愉快な思いをする。そんなことになってはいけない。
(2002年4月24日)
イタリアのミラノに住むドイツ国籍の日本人。そんな友人がいる。職業は写真家である。かつてはサッカーのビッグゲームを追って世界中を飛び回っていた。いまは「サッカーと生きる人びと」を求めて、世界の各地をゆったりと歩いている。
カイ・サワベ氏には、沢辺克史(かつひと)という、親からもらった立派な名前がある。しかし数年前にドイツ国籍を取得したときに、お気に入りの「Kai」にした。
ヨーロッパ・サッカーの写真を撮りたいと、大学卒業後、ドイツに渡ったのが20年ほど前のこと。スポーツ写真のエージェントに所属して経験を積み、1年後に独立してフリーランスとなった。
日本にいたころは苦しそうだった。何事もきまじめに考える性格は、なかなか周囲となじまなかった。人間関係を器用にこなすことができず、小さな行き違いに居心地の悪さを感じているようだった。
個人主義が貫かれたドイツに住み始めて、気が軽くなった。競争の激しいドイツのスポーツカメラマンのなかでめきめきと頭角を現し、やがてドイツ人カメラマンたちからねたまれるほどの実力を身につけた。数回のワールドカップ取材は、すべてドイツからの登録だった。
しかし次第に、ビッグゲームを追うスポーツカメラマンの世界に嫌気がさしていった。少しでもいい撮影ポジションを取ろうとする争いはエスカレートする一方だった。そして大多数の同業者は、写真という手段でサッカーの魅力や世界を表現しようというのではなく、雑誌や新聞に売るためのスターのショットを撮ることに血眼になっていた。
サッカーを撮ることをやめた。正確にいうと、ひじを張って撮影ポジションを奪い合うような試合の取材はやめた。以後は、自分でテーマを考え、いろいろな写真を撮った。日本の競輪をテーマに写真集をつくったこともあった。98年ワールドカップでは、スタジアム外に「超簡易仮設スタジオ」をつくり、世界中からやってきたサポーターを撮影し、インタビューした。
そんなサワベ氏が、99年から日本の月刊誌「ワールドサッカーマガジン」(ベースボール・マガジン社)に連載をはじめた。「フットボール・デイズ」と名づけられた連載は、世界のスター選手の写真やインタビューでいっぱいの雑誌のなかで、ひときわ光彩を放つものだった。
世界の各地を訪ね、サッカーと人びととのつながりを考える。マラドーナの時代の栄光を忘れきれないナポリ(イタリア)の市民、北大西洋の島国フェロー諸島の人びとのサッカーへの情熱...。サワベ氏らしい考え抜かれたテーマが、画面の隅ずみまで神経の行き届いた写真と、選び抜かれた言葉で構成された文章で表現されていた。
その連載が本になった。連載と同じタイトルで、つい先日、双葉社から発行された。写真と文章が半々の、ていねいな仕上げの本だ。
ページをめくっていくと、世界中でサッカーがいかに愛され、サッカーが人びとの生活といかに密接に結びついているか、理屈抜きに伝わってくる。あらためて、良質な写真のもつ力を見る思いがする。
そしてまた、サワベ氏が、被写体となった人びととしっかりと向き合い、心を通わせたことがわかる。
若いころの、彼の人間関係の不器用さを思った。不器用だったからこそ、自分を飾ったりごまかしたりすることなく、まっすぐに他人と向き合ってきたのではないかとも、考えた。
人間とサッカーと写真に、まっすぐ向き合ってきた20年間。写真を見つめていると、写真のなかの人びとからも見つめられているような気がした。
(2002年4月17日)
「そういえば、そんな組織があったな」
名前を挙げたら、こんな反応が返ってくるような気がする。財団法人日本サッカー協会の「2002年強化推進本部」である。
ちょうど2年前、2000年のいまごろは、この名前が新聞に載らない日がなかった。この年の6月で切れるフィリップ・トルシエ日本代表監督との契約を更新するか、憶測が飛び交っていたころだ。
「強化推進本部」は、前年、99年の7月に日本代表チームのサポートのために設立され、釜本邦茂・日本協会副会長が本部長となった。しかしこの推進本部はサポートというより「お目付け役」のような立場になってしまい、トルシエとの関係が悪化した。両者のあいだには、日々、不信感がつのるばかりだった。
トルシエは、日本協会との約束どおり、シドニー・オリンピックとアジアカップ決勝大会への予選を突破した。そして2000年の春には、それまで別々に強化を進めていたオリンピック代表とA代表を統合し、2002年に向けての具体的なチームづくりに着手したばかりだった。しかし4月末に韓国との親善試合で敗れたことで、「契約不継続論」、あるいは「解任論」に火をつけた。それは国民的な関心事にまで発展した。
大騒動に決着をもたらしたのは、岡野俊一郎・日本サッカー協会会長の決断だった。6月にモロッコで行われたフランス戦の結果などを見てトルシエに対する信頼を固め、一部の強化推進本部員の反対を押し切る形で、日本代表を2002年までトルシエに任せるという結論を出した。
7月、日本協会は強化推進本部を改組し、岡野会長が自ら本部長に就任して再スタートを切った(木之本興三・Jリーグ専務理事、大仁邦彌・日本協会技術委員長は副本部長として留任)。
強化推進本部の重要な役割は、監督の強化方針に従って年間の強化スケジュールを立案し、Jリーグとの日程調整をすることだ。昨年とことしの日本代表の活動日程とその内容を見れば、推進本部がいかに「サポート役」を果たしてきたかわかる。
2001年には、ヨーロッパの「国際試合デー」に合わせた画期的な強化が行われ、Jリーグを長期間中断することなく、ヨーロッパでの国際試合を4試合もこなすことができた。3月のフランス戦(アウェー)をはじめとするこれらの試合が、日本代表の強化にどれほど重要な役割を果たしたか、語るまでもない。
そしてワールドカップ年のことし前半は、Jリーグと、準備のための国際試合の、絶妙なバランスを実現した。
難しい課題もあった。3月下旬のヨーロッパ遠征は当初予定されておらず、Jリーグの日程がはいっていた。しかし日程決定後、どうしてもここにアウェー試合を入れたいというトルシエからの要望が出た。推進本部はJリーグと調整し、同時にポーランドという恰好の相手とのマッチメークに成功した。
ワールドカップへの準備が順調に進んでいるいま、誰も「強化推進本部」の名前を口にする者はいない。それは、推進本部にとって大きな「勝利」ということができる。
ワールドカップでどこまでいけるか、結果がどうなるかはわからない。しかし強化推進本部が、2000年7月以来、日本代表チームの見事な「サポート役」を果たしてきたことは高く評価されるべきだと思う。
この組織は、2002年ワールドカップのためだけのものだった。その経験を生かし、代表サポートのための恒常的な組織と、その考え方を構築し、固める必要がある。その新組織設立の提案が、「2002年強化推進本部」の最後の仕事となる。
(2002年4月10日)