
ひょっとすると、ノーベル賞の受賞より大変なことかもしれない。
きのうスペインのマドリードで開催されたFIFAワールド・プレーヤー表彰式で、「日本と韓国のサッカー・コミュニティー」がFIFAフェアプレー賞を受賞した。
FIFA(国際サッカー連盟)のフェアプレー賞は1988年に制定され、これまでに22の人や団体が、フェアプレーの優れた体現者として表彰されてきた。
この賞の特徴は、ポイント制で争われるのではなく、FIFA(なかでもブラッター会長)の主観で決められていることだ。それぞれの年にFIFAが「すばらしい」と感じたことを、いわば場当たり的に表彰してきたのだ。
個人では、自らハンドの反則を認めたドイツのプロ選手フランク・オルデネビッツ(元ジェフ市原)や、現役生活を通じてイエローカードのなかったガリー・リネカー(元名古屋グランパス)などが受賞している。団体では、特定のサッカー協会だけでなく、「ダンディー・ユナイテッドFC(スコットランド)のファン」、「トリニダード・トバゴの観客」など、とても特定できない人びとまで、ひとまとめにして表彰している。
今回表彰された日韓の「サッカー・コミュニティー」とは、もちろん、ワールドカップ時のもの。しかし両国のサッカー協会やワールドカップ組織委員会といった公的な組織だけでなく、一般の観客、ファンなど、ワールドカップを取り巻いたすべての人びとが対象になっている。
韓国は、国中を真っ赤に染めた応援ぶりのスペクタクルと楽しさ、そして平和さが強い印象を与えた。
そして日本は、出場チームを迎えた各キャンプ地の雰囲気、「フーリガン」と心配されたイングランドのサポーターたちまで仲間として取り込んでしまったファン、そして日本が負けた後も、イングランドやブラジルの応援で大会を盛り上げた観客などが、受賞理由に挙げられている。
忘れてならないのは、日韓ともに温かみのある雰囲気をつくったことだった。大会を総括して、ブラッター会長は「笑顔のワールドカップ」と表現した。世界を幸せな気分にしたという評価だった。
世界のいくつかの「サッカー先進国」では、サッカーの試合は攻撃性のシンボルであり、ファンは暴動を起こすもの、対戦するチーム同士のサポーターはけんかをするものと相場が決まっている。いわば「性悪説」を前提に、大会運営や警備が行われている。
ワールドカップ時の日韓両国は、それとは対照的だった。私自身は日本の警備陣の石頭ぶりが気になったこともあったが、全体としては、ファンや観客のマナーを信じ、警官たちでさえ、笑顔でソフトな対応をしていた。「性善説」による大会運営、そして、それでも何の問題も起こらない雰囲気をつくった日韓両国に、世界が大きな感銘を受けたのは当然だった。
Jリーグの発足以来、平和で楽しさにあふれたスタンドの雰囲気は、世界に誇るものと思ってきた。日本のサッカー自体は世界から学ばなければならないことが多いが、スタンドの雰囲気やファンの行動は、「サッカーの応援や観戦はこうあるべきだ」と、世界に対してメッセージを発するに値するものだ。
FIFAはワールドカップ時の日本を「ブルー・パラダイス(青い天国)」と表現した。私は、「天国」というより、「エデンの園」に近いものではないかと思う。永遠に続く平和ではなく、まだ「悪」を知らないだけだからだ。
今回の表彰は、日本の「サッカー・コミュニティー」に、その平和を守る努力を怠ってはならないと求めているように思えてならない。
(2002年12月18日)
ボールは、まるで吸い寄せられるように井原正巳のところに飛んできた。彼はそれを次つぎとクリアし、王者ジュビロ磐田の攻撃を止めた。
9月14日、磐田スタジアム。ブラジル人FWコンビを負傷で欠き、日本人選手だけで臨んだこの試合、浦和レッズは後半立ち上がりに2点を奪って優位に立った。そして、その後40数分間、ジュビロの猛攻をはね返し続けたのが、井原だった。
昨年はじめ、ジュビロからレッズに移籍した井原は、守備の組織を固めることができずに悩んだ。しかしことし、ハンス・オフト監督を得て、守備組織は飛躍的に改善された。その力を示したのが、Jリーグ最強の攻撃をストップしたこの試合だった。
井原正巳が初めて日本代表に選出されたのは1988年1月、日本代表監督に横山謙三が就任して最初の試合だった。まだ筑波大学2年生だった20歳の井原を、横山はリベロに抜擢したのである。
「10年間の日本のリベロを育てるんだ」
そうした横山の意欲は、誰の目にも明らかだった。井原を選出するに当たって、横山は、日本代表の守備の中心であり、主将であり、しかも30代を迎えたばかりで衰えなど見られなかった加藤久を外していたからだ。
横山の決断は正しかった。井原はその後10年間にわたって日本代表の守備を支え、主将として日本を初めてのワールドカップ出場に導いた。日本サッカーの歴史に新しい1ページを書き加えたのは、この控えめな男だった。
井原の前に日本代表の主将を務めていたのは、「闘将」のニックネームそのもののファイター柱谷哲二だった。96年にアームバンドを引き継いだ井原は、自らの「主将像」を結べずに苦しんだ。
97年秋、フランス・ワールドカップを目指す長く険しい予選。日本代表は、前半戦で1勝2分け1敗という思いがけない苦境に陥り、加茂周監督解任という非常事態に陥った。第5戦、アウェーでのウズベキスタン戦は、生き残りをかけた、ぎりぎりの試合だった。
そしてここで、井原は変わった。それまで反則の少ないクリーンな守備を誇ってきた井原が、キックオフ直後、いきなり相手に猛烈なタックルを見舞ったのだ。主審は迷わずイエローカードを出す。
しかし井原は平然とカードを受けると、振り返ってチームメートを見回した。
「きょうは、こうやって戦うんだ」。無言でそう伝えた。
苦しい試合だった。しかし日本は一歩も引かずに戦い、貴重な勝ち点1を得た。この試合が予選のターニング・ポイントだった。数多くのヒーローを生んだこの予選だったが、私は井原が見せたこの態度を忘れることができない。
20歳で日本代表となり、日産自動車、横浜マリノスで「勝者」の道を歩み続けた井原。しかし穏やかなその表情の裏には、常に何物かとの戦いがあった。それは、自分自身を乗り越える戦いだったに違いない。
ことし11月、ナビスコ杯決勝で鹿島アントラーズに敗れた後、井原は悔し涙を流した。この大会は、彼がまだ取っていない唯一のタイトルであり、同時に、レッズにとっては、初めてのタイトルとなるはずだったからだ。それを乗り越えることができなかった悔しさが、試合後の井原に涙を流させた。
日本サッカー史上空前の代表出場123試合。数々のタイトルとワールドカップ出場の栄誉。しかし本当に偉大なのは、彼が常に何かを乗り越えようと真摯に取り組んできた姿勢ではないか。
人生だから、成功も失敗も、勝利も敗北もある。しかし井原は、自分自身の姿勢を失ったことはない。
(2002年12月11日)
史上初の両ステージ優勝で、ジュビロ磐田が今季Jリーグの「完全制覇」を達成した。
年間の総勝ち点は、昨年と同じ71。全30試合で可能な総勝ち点90に対し、79パーセントという驚異的な達成率だ。年間勝ち点2位チームは、昨年が54、ことしも55という数字だったから、ジュビロがいかに他を圧倒した強さであるか、理解できるだろう。
こうした継続的に強いチームは、たまたま生まれるものではない。計画的に選手を獲得し、それを育て、そしてチームとして相互理解を深めることによって、初めてつくり上げることができる。
鈴木政一監督は、かつてこのクラブでスカウトを担当しており、現在のチームの多くは、そうした時代に獲得してきた選手たちだという。そこに、ジュビロの強さの大きな秘密がある。
鈴木監督が第一に欲したのは、頭がよく、技術のしっかりとした選手だっただろう。守りを固める相手を攻め崩せなければチャンピオンになることはできない。そのためには、しっかりとパスをつなげる選手が必要だからだ。
今季、ジュビロは数々のビューティフル・ゴールを見せたが、その多くは、中盤でボールを奪ったところから流れるようにパスをつないで決めたものだった。パスの質の高さだけでなく、ボールをもたない選手の動きの質の高さにおいて、ジュビロに匹敵するチームはなかった。
しかし、鈴木監督の「人選び」には、もうひとつの狙いがあったように思える。それは、「左利き」を重点的に採用したことだ。
今季第2ステージの大半で先発した選手を見ると、10人のフィールドプレーヤーのうち3人が左利きだった。DF山西尊裕、MF服部年宏、MF名波浩である。左利きが不足している日本のサッカーでは異例のことだ。
3−5−2システムのなかで、鈴木監督はMFの左アウトサイドには右利きの藤田俊哉を使うことが多かった。しかし藤田は左サイドをプレーの「起点」としただけで、自由自在に動いた。そして彼が動いた後のスペースを、攻撃的MFの名波、ボランチの服部、そしてストッパーの山西が、非常に有効に使った。
サッカーの選手は左右どちらの足でも同じようにボールを扱えるように訓練されている。右利きだけれど、左足のほうが強いシュートを打てる選手もいる。しかし試合中に使うのは、8割以上が利き足なのである。チームが右利きばかりだと、攻守両面においてバランスが悪くなるのはそのためだ。
さらに現代のサッカーでは、鋭く曲がる速いクロスボールが非常に重要な武器となっている。こうしたボールは、利き足でないとけることができないから、左利きがいるかいないかは、チームの攻撃力、得点力に大きな影響を与える。ジュビロは常時3人もの左利きをピッチに出し、彼らが次々と左サイドを駆け上がって好クロスを入れた。
さらに、控えにも、MF金沢浄、MFアレクサンダー・ジヴコヴィッチ(ユーゴスラビア)という左利きを置いていた。第2ステージで優勝を決めたVゴールは、藤田に代わって左サイドにはいった金沢の左足タックルから生まれたものだった。
他のJリーグ・クラブも、左サイドには左足のスペシャリストと呼ばれる選手を置いているが、多くは1人だけ。他の選手が左サイドに走り込むと、右足にもち替えてクロスを入れるケースが多い。
左利きが不足している日本サッカーのなかで、いちはやく左利きの戦術的な重要性に注目し、明確な狙いをもった選手獲得と時間をかけての育成で今日のチームをつくったジュビロ磐田と鈴木監督に、改めて敬意を表したい。
(2002年12月4日)
「サッカー界は太陽を失った...」
川淵三郎会長は、目を真っ赤に泣きはらし、力を振り絞るようにそう語ると、言葉をつまらせた。
日本サッカー協会の名誉総裁でもあった高円宮憲仁さまのご逝去は、まるで天照大神が天の岩戸に隠れてしまったようなショックだった。まだ47歳の若さだった。それが、悲しみを増幅させる。
10ものスポーツ団体の総裁職などを兼務され、ご自身も熱心なプレーヤーだった。記者仲間には、フットサル大会でごいっしょしたことがあるという人が何人もいる。
「いつも真剣で、いっしょにプレーするのが気持ちよかった」と、彼らは口をそろえて語る。
私自身には、そうした経験はない。しかしことし5月おわり、ワールドカップ取材で韓国に滞在中に、開幕戦出席のため日本の皇室としては戦後初めて韓国を公式訪問された高円宮さまのニュースを地元のテレビで見て、感銘を受けた覚えがある。正確な言葉は覚えていないが、非常に堂々とした口調で、韓国の歴史と文化を称賛し、日韓親善の意義を説かれた。
金大中(キム・デジュン)大統領との会見では、日本代表の小野伸二選手の言葉を引用して、新しい時代への期待を語られたという。
「『僕は本を通じて韓国との過去のことを知った。でも、サッカーを通じて韓国の人びとを知った。これからサッカーを通じて韓国の友との友情をいっそう深めたい』と、小野選手は話しています。こういう考えをもった若者たちが、日本でさらに増えていくと思います」
韓国の人びとの間に澱(おり)のようにたまっていた日本に対する憎悪や不快感が、高円宮さまの訪韓によってずいぶん減らされたのではないか。強くそう感じた。
「ユーモアも一流だった。日本人で、これほどスピーチの上手だった方は、そういないのではないか」。そう語る人も多い。
聞く人は、最初のひと言からお話に引き込まれた。それは、誰かが書いた原稿ではなく、高円宮さまご自身の言葉で貫かれていたからだ。国際的な視野をもち、スポーツや音楽、演劇などへの幅広い情熱をもたれていたからこそ、生まれた言葉だった。
言葉だけではない。皇族として限りなく制約を受けるなかで、高円宮さまほど、ご自身の意志での行動を常とされた方は少ないのではないか。
日本代表のワールドカップの1カ月間を内側からとらえたDVD『六月の勝利の歌を忘れない』(岩井俊二監督、発売元エンジンネットワーク/電通)のなかに、目立たないが、感動的なシーンがある。
冷たい雨のなか、奮闘空しくトルコの堅守を崩すことができなかった決勝トーナメント1回戦の直後のシーンである。ロッカールームに戻ってきた選手たちを、高円宮さまが、妃殿下の久子さまとともに、部屋の外に立って出迎えられていたのだ。
勝った試合の後でロッカールームを訪れ、お祝いを言うことは、誰にもできる。だが負けた試合後の選手たちに言葉をかけるのは、相手の心情が痛いほど伝わってくるだけに、簡単なことではない。
しかしこのときの高円宮さまの態度と表情は、気高く、ワールドカップの勝敗など超越したものだった。いつものように姿勢正しく立たれ、ご自身の苦痛など微塵も見せずに右手を差し出された高円宮さまとの握手から、何かを感じた選手も多かっただろう。
「全力を尽くして戦ったのだから、恥じることはない。堂々と胸を張ってください」
それは、スポーツにおける究極の「真理」の瞬間だった。
高円宮さまは、本物の「スポーツ人」だった。
(2002年11月27日)
全国高校選手権の岡山県予選決勝で、決勝点となるべきゴールが誤審によって認められず、結局PK戦となって、負けていたはずのチームが勝つという「事件」が起こった。
1−1で迎えた延長前半、作陽高校のシュートが水島工業高校のゴールを破り、ネットを張るためにゴールの後ろに取り付けられている支柱に当たってピッチ内に戻った。作陽の選手たちは歓喜して抱き合い、水島工の選手たちはがっくりとうなだれた。しかしなぜか「ゴールイン」の笛は吹かれず、そのままプレーが続行された。主審は、ボールがゴールポストからはね返ったと勘違いしたのだ。
試合後、ビデオで検証した結果、明らかな誤審であることが判明した。しかし試合結果も、全国選手権出場校も変わることはなかった。
ルール第5条に、「プレーに関する事実についての主審の決定は最終である」と明記されている。プレーが再開される前ならばその決定を変えることができるが、いったんプレーが再開されたら、変えることはできない。試合結果も、その判定を生かしたままで決定される。受け入れ難いことかもしれないが、そうした「理不尽」も、サッカーという競技の一部なのだ。
ところが今週、イングランドで興味深い「事件」が起きた。審判が、試合中の決定を試合後に覆したのである。
プレミアリーグのアーセナル対トットナム。結果は3−0。ホームのアーセナルの完勝だった。勝負の分かれ目は、前半26分、トットナムのウェールズ代表MFサイモン・デービスの退場だった。60分間以上を10人でプレーしなければならなくなったトットナムに勝機はなかった。
退場は2枚目のイエローカードによるものだった。26分にビエラへのラフなタックルで2枚目を受けた。誰の目にも明らかな反則だった。問題は1枚目だ。
その4分前、デービスのタックルにコールが大きく吹っ飛んだ。マイク・ライリー主審は迷わずイエローカードを出した。ところがこのとき、デービスはコールにほとんど触れてもいなかったのだ。
試合後、トットナムのホドル監督は、「最初のイエローカードは明らかな間違いだった。見直してほしい」と、ライリー主審に要望した。ライリー主審はビデオを見直した。
「僕はタックルをよけようとしただけなんだ。主審は自分の判断で判定を下したのだろう。でも正直に言えば、不運で、厳しすぎる決定だったね」というコールのコメントも読んだのかもしれない。ライリー主審は誤審を認め、1枚目のカードを撤回するとイングランド協会に通知、協会もこれを認めた。必然的に、退場処分も取り消された。
審判の人数を何人に増やしても、誤審をゼロにすることはできない。はいったはずのゴールが無視されたり、ないはずの反則で退場になったり...。だが「間違いだった」と認めることはできても、時間を戻したり、試合をやり直したりすることはできない。
ただひとつだけ、こうした「理不尽」をなくす方法があるとしたら、それは、相手チームの選手が「正直」になることだ。水島工の選手たちは、その場で「ゴールにはいっていた」と主審に告げることができた。コールも、試合後のコメントを、カードを出そうとしているライリー主審自身に語ることができたはずだ。
そんな「正直さ」を、今日のサッカーで期待するのは、ばかげたことだろうか。
誤審を減らすよう、ゼロに近づけるように、努力や制度の改善が必要なのは言うまでもない。しかし本当の問題は、あまりに勝負にこだわり、スポーツに不可欠な正直さや公正な態度が、まったく見られなくなってしまったことではないだろうか。
(2002年11月20日)