
キックオフしては、バックパスし、自陣ゴールにけりこむ。またセンターサークルにボールを置き、キックオフする...。こんな異常なシーンが、90分間になんと149回も繰り返された。最終スコアは149対0。しかし記録的な勝利を得たチームは、ボールに触れることさえなかった。
アフリカ大陸の東に浮かぶ島国マダガスカル。この国の2002年チャンピオンを決めるために、4チームが東海岸にある人口10万人の町トアマシナに集まった。10月21日に始まったプレーオフは、しかし、最終日を待つことなく、地元トアマシナのASアデマが優勝を決めた。
27日日曜日、昨年のチャンピオンでもある優勝候補のオランピーク・レミルネ(SOE)がDSAと対戦、終盤まで2−1でリードしていたのだが、終了直前に相手にPKが与えられ、同点とされた。2位SOEが2−2で引き分けたことで、首位アデマの優勝が決まったのだ。
そして迎えた10月31日、プレーオフの最終日、アデマと対戦したSOEのラツァラザカ監督は、4日前のPK判定に対する抗議として、オウンゴールを入れまくるよう選手たちに命じたのだ。
もちろんSOEはプロチームである。ことしのアフリカ・チャンピオンズリーグでは3回戦に進出した実績もある。国内で連覇できなくても、2位を占めれば、来年のチャンピオンズリーグ出場も約束されていた。それを自ら投げ打ってしまったのだ。
それにしても、149点とは! どんなに力の差がある試合でも、90分間に10点取るのは簡単ではない。ワールドカップ予選でオーストラリアがアメリカ領サモアから31点を取ったことがあったが、「3分に1点」でも、攻めるたびにゴールが決まった印象だったという。149点とは、想像を絶するゴール数だ。
たしかに、オウンゴールなら、相手にボールを触らせることなく、10秒もかからずに1点を記録することはできる。しかしそれをキックオフから終了のホイッスルまで繰り返すことなど、よほどの執念がない限りできるものではない。監督の指示に従って、90分間、自分のゴールに入れ続けたSOEの選手たち(そのなかには、マダガスカル代表のキャプテンまで含まれていた)は、何を思っていたのだろうか。
怒ったのは、地元アデマの「完全優勝」を見ようと集まった約1万人の観客だ。その矛先は入場券売り場に向けられた。試合終了を待たずに窓口につめかけた観客は、口々に払い戻しを求めたという。
国際サッカー連盟は95年に「サッカー行動規範」を発表した。サッカーを健全に保ち、いつまでも人びとに愛されるスポーツであり続けさせるための10箇条だ。その第1条に、「勝利のためにプレーする(play to win)」とある。どんな試合、どんな状況でも、勝とう、ゴールを奪おうという姿勢をもち、そのために最善の努力をすることが、サッカーをスポーツとして成立させる。勝利のためにプレーすることは、フェアプレーの基本でもある。
審判や役員は、なぜこの愚行をやめさせることができなかったのか。審判は、相手ゴールに攻める気配も見せずにオウンゴールを繰り返すSOEの選手に対し、「反スポーツ的行為」としてイエローカードを出すことができただろう。それでもやめなければ、次々と選手を退場させ、試合成立の最少人数である7人を切った時点で打ち切ることができたのではないか。
世界は広い。サッカーには本当にいろいろなことがある。しかしこの話は、面白がっているだけではすまない。勝つために一生懸命プレーすることの大切さを、もういちど考えてみるべきだと思うのだ。
(2002年11月13日)
11月3日に行われたイングランド・プレミアリーグのフラム対アーセナルは、興味深い一戦だった。フラムはティガナ、アーセナルはベンゲル。両チームの監督は、ともにフランス人だったからだ。
監督だけではない。ピッチ上にもたくさんのフランス人選手が出ていた。とくにフラムは、11人の先発のうち5人がフランス人だった。
「フランス・パワー」の活躍は、この2チームに限らない。2002年ワールドカップのフランス代表23人のうち8人がイングランドのクラブ所属だった。リバプールでは、フランス代表の監督を務めたこともあるウリエが指揮をとっている。
いまや、「フランス・パワー」のないプレミアリーグなど考えられない。しかしフランス・サッカーの「イングランド侵攻」の歴史は、驚くほど浅い。20世紀初頭にクロジエというGKがフラムで活躍したが、その後は1984年にアストンビラと契約したシクスまで皆無だった。彼も、15試合に出場し、2ゴールを記録しただけで、1年でイングランドを去った。
しかし92年はじめにドーバー海峡を渡ったひとりのフランス人FWが歴史を変えた。マンチェスター・ユナイテッドに黄金時代をもたらしたエリック・カントナである。
才能には疑いがなかった。フランス代表でも欠くことのできないエースだった。しかし歯に衣着せぬ言動と、絶え間のない監督やレフェリーたちとの衝突は、カントナを25歳で引退に追い込もうとしていた。
91年の年末、引退を決意していたカントナを、数人の友人がいさめた。もし契約半ばで引退してしまったら、所属のニームに多額の違約金を支払わなければならない。カントナは翻意した。しかしフランスはもういやだと主張した。
「フランスから遠く離れて、文化違うところ、たとえば日本なんかどうかな」と、彼は言った。
エージェントが調べたが、日本は日本リーグのシーズン終盤に近く、そのタイミングでの移籍は無理だった。エージェントはイングランドのクラブはどうかと薦めた。
カントナは了承した。歴史の転換点だった。92年、リーズをリーグ優勝に導いたカントナは、即座にマンチェスター・ユナイテッドに引き抜かれ、大好きな背番号7を背負っていくつものタイトルをもたらした。
以後、フランス・サッカーの優秀さを認めたイングランドのクラブが、数多くのフランス人選手を獲得するようになる。そして、フランス人選手とフランス人監督は、イングランド・サッカーの質的向上に大きな貢献をする。
A・ヘイズ他著の近刊『フランス革命〜カントナ以後イングランド・サッカーの10年間』(英国・メインストリーム社刊)を読みながら、私の頭をよぎったのは、日本と韓国の関係だった。
過去数年間、数多くの韓国人選手がJリーグで活躍した。洪明甫、柳想鉄らはワールドカップでも大活躍した。しかし現在、代表クラスは市原の崔龍洙、京都の朴智星、清水の安貞桓など数人にすぎない。
指導者としては、札幌の張外龍監督がいる。シーズン半ばに就任、J2降格から救うことはできなかったが、確固たる信念の下、チームをまとめ上げた。
もっと数多くの韓国人選手、韓国人指導者が、日本のサッカーにほしい。ワールドカップ共同開催をきっかけに、韓国だけは「外国籍選手」の枠から除外し、流入を促進してはどうか。
日本で不足している2つのポジションであるストライカーとストッパーに次々と優秀な選手を輩出している韓国のサッカーから学ぶものは、まだまだ多いはずだ。
(2002年11月6日)
煙山(けむやま)「FC東京ゴール前チャンス。戸田がシュート、クロスバーに当たりました! こぼれたボールをもう一回FC東京。バックスタンド側、アマラオがケリーにパス。もういちど、もういちど攻めろ。ああ!...」
青島「拾った! シジクレイが拾ったが...」
煙山「もう一回FC東京。アマラオ。中央にはいってくる戸田にスルーパス」
青島「土屋がクリアだ!」
煙山「またFC東京が拾った。右サイド、石川が下げて加地がクロスを上げる。ヘディング、アマラオ!」
青島「ようやくキーパー掛川がつかみました」
息詰まる実況は、東京のラジオ局「ニッポン放送」の煙山光紀サッカーパーソナリティーと、フジテレビの青島達也アナウンサーだ。
10月19日、Jリーグ第9節のニッポン放送生中継は、東京の国立競技場から、FC東京対ヴィッセル神戸戦だった。この試合で、2年ぶりの「バトル中継」が実施された。
煙山アナがホームの東京を、そして青島アナがビジターの神戸を担当し、ボールをもった側の担当がマイクを握る。中継自体がふたりの戦いだ。
柔らかな声質の煙山アナ。澄んだ声の青島アナ。聴取者は、その違いでどちらの攻撃か感じ取ることができる。
煙山アナは、Jリーグが発足したころからラジオ中継をしてきたベテラン。青島アナも、フジテレビだけでなく、スカイパーフェクTVの海外リーグ中継もこなす。ともに、ラジオとテレビの違いはあっても、現在の日本の放送界を代表する実力派だ。
目を閉じて、そのふたりがたたみかけるように発する言葉を聴いていると、国立競技場のピッチが目の前に浮かび上がってくる。ステレオ放送だから、左から東京の大サポーターの歌声、右からは数は少ないが神戸サポーターの力強い声援がはいってくる。
サッカーほど、ラジオ中継の難しいスポーツはない。選手は状況に応じて流動的に動き、一瞬のうちに攻守が入れ替わるからだ。
しかし世界には、ラジオ・アナウンサーが大スターという国もある。アルゼンチンで活躍するウルグアイ出身のビクトル・ウーゴ・モラレスもそのひとりだ。スタジアムあるいはテレビで観戦しながら、ラジオをつけて彼の実況を聴くというスタイルが、アルゼンチンの常識となっている。
流れるように試合を追って状況を正確に伝えるだけでなく、サッカーという競技に新しい意味と価値を付け加えたのが、彼の実況といわれる。
「神よ、このような美しいゲーム、サッカーを与えてくださったことを感謝します」
86年ワールドカップでマラドーナが5人抜きのゴールを決めたときの言葉は、あまりに有名だ。
70年を超す歴史をもつアルゼンチンのラジオ中継文化には及ばなくても、この煙山、青島両アナの「バトル実況」は、ラジオ中継の新しい可能性を開くものだ。攻守の移り変わりが現場で見ているように伝わり、ゴール前のシーンでは急激に自分の心拍数が上るのがわかった。
Jリーグ・スタートとともにラジオ中継を始めたニッポン放送。聴取者にわかりやすい放送をと、いろいろな工夫をしてきた。しかし「バトル中継」はひとつの「決定版」のように思える。現状では毎回の放送でできるわけではないようだが、各クラブに担当アナをひとりつけるようなことができれば、もっともっと充実した放送になるだろう。
「楽しかった!」
15年前にニッポン放送の試験に3回落ちたという青島アナは、あこがれの「ラジオ・デビュー」に上気した表情だった。
「話し手」の喜びが伝わってくる放送だった。
(2002年10月30日)
Jリーグの試合を見に行って、いくつか、「これはいいな」と思うものがある。
ひとつは、以前にも紹介したが、東京ヴェルディの試合で実施している入場直前の選手たちを映す大型映像だ。
ロッカールームから出てきた両チームの選手たちが、互いに、そしてレフェリーたちとも握手をかわしている。「いっしょにいい試合をしよう」というメッセージが、説明の必要なく伝わってくる。
もうひとつは、柏レイソルの試合前のアナウンスだ。
「○○チーム、そしてそのサポーターのみなさん、柏スタジアムにようこそ。柏市、レイソル・サポーター、そして柏レイソルは、皆さんを心から歓迎します」
すばらしい言葉だ。試合が始まれば、勝利のため、相手を倒すために全力を尽くす。しかしその前に、遠くからきてくれた相手チームとそのサポーターに敬意を表し、スタジアムにいる全員で温かく歓迎しようという、「ホスト」の意識が強く表れている。
このアナウンスが流れると、スタンドからまばらな拍手が起きる。本当はもっと盛大な拍手であってほしいと思うが、それでも、とてもいい瞬間だ。
そして最近、もうひとつ「お気に入り」ができた。浦和レッズの試合前、選手たちと手をつないで入場してくる子供たちだ。
ワールドカップですっかりおなじみになった「エスコート・キッズ」。Jリーグでも、実施するクラブが増えている。しかしレッズの「エスコート」は少し変わっている。
第1に、子供たちは11人しかいない。手をつないで入場してくるのはレッズの選手だけ。ビジターチームの選手たちにはついていない。そして第2に、子供たちはレッズの赤いユニホームではなく、黄色いシャツを着ている。
全員が入場して整列すると、子供たちは、いっせいにビジターチームの選手たちのところに行く。そして、手にもっていた一輪の花をそれぞれの選手に手渡し、恥ずかしそうに握手すると、そのまま走ってスタンド下に消えていく。
よく見ると、子供たちの黄色いシャツには、フェアプレー・マークがプリントされている。子供たちは、レッズの選手たちとビジターの選手たちを一輪の花で結び、双方に「フェアプレーでやろうね」と、約束させているのだ。
ワールドカップでは、試合前に選手たちが全員すれ違いながら握手をかわした。しかし試合前の緊張感のなかで、ときに相手を威圧しようとしているようにさえ見えた。
しかしかわいい子供たちから花を渡されて「フェアプレーをお願い」と言われたら、どんな選手の心にもずしんと響くのではないか。
「こんな子供たちが見ているんだ。お手本になるようなプレーをしよう」----。そう思わなかったら、プロ失格だ。ワールドカップの形だけをまねるのではなく、しっかりとした理念に裏打ちされたスマートなアイデアだと思う。
少し残念なのは、こんな素敵なメッセージが、スタンドにはあまり伝わっていないように感じられることだ。スピーカーからは「入場のテーマ」が大音響で流れたままで、サポーターの盛り上がりは最高潮。何をしているかのアナウンスも流れない。「もうひと工夫」ほしいところだ。
子供たちが手渡す花は、ビジターのチームカラーに合わせたガーベラだという。レッズの運営担当者は、試合日の朝早く、開店前の花屋さんから11輪のガーベラを受け取ってくる。
1本100円。合計1100円。それでも、どういうふうに使われるか知った花屋さんは、1本ずつていねいに包んでくれるという。そんな花屋さんの心も、選手や、スタンドのファン、サポーターに伝わってほしいと思うのだ。
(2002年10月23日)
ある日曜の朝、新聞を開いて頭に血がのぼった。
「助っ人で勝った」
こんな見出しが出ていたからだ。Jリーグで、FC東京がエース・アマラオのゴールで勝った試合だった。
「冗談じゃない。アマラオは『助っ人』じゃないぞ!」
アマラオは、FC東京が「東京ガス」として旧JFLに加盟したころからの選手で、チーム最古参のはずだ。そして、チームをJFLからJ2へ、さらにJ1へと導いた立役者だ。その功労者が、なぜ「助っ人=一時的なメンバー」呼ばわりされなければならないのか。
怒った勢いで、東京の西部、小平市にあるFC東京の練習場に向かった。
練習中のアマラオは、誰よりも大きな声を出し、誰よりも力強く走っていた。
「30歳を過ぎたころから、どのくらい寝ればいいか、どういうトレーニングをすればいいか、わかってきた。おかげで、20歳の選手にも走り負けないよ」
来日した92年以来11シーズン、アマラオは驚くべきコンスタントさで得点を重ねている。293の公式戦に出場して170ゴール。1試合平均0・6点は、JFL時代(7シーズン)、J2時代(1シーズン)、そしてJ1時代(3シーズン)と、相手のレベルが上がっても、まったく落ちていない。そこに、アマラオの努力の跡を見ることができる。
「来日当時、東京ガスは完全なアマチュアチームで、ユニホームの洗濯も練習場のライン引きも自分たちでしなければならなかった。単に2部のクラブと思って移籍してきたので、プロでなかったのは驚きだった」
ブラジルでは、主としてイトゥアノというクラブで活躍し、トヨタカップにも出場した名門クラブ、パルメイラスでもプレーしたアマラオ。ギャップの大きさに最初はとまどったという。
ただ、実力的にはまだまだだったが、チームメートはみなサッカーを愛し、勝ちたい、強くなりたいという気持ちをもっていた。社員として仕事をしながらサッカーに打ち込む姿勢にも感心した。
東京ガスは次第に力をつけてJFLの上位に進出、98年には初優勝して99年に誕生したJ2への参加資格を得る。クラブ名もFC東京と改称した。そうしたなかで、アマラオはサポーターから「キング・オブ・トーキョー」の称号で呼ばれるようになる。
「ラモスやジーコのように日本のサッカーに貢献した人がそう呼ばれるならわかる。でも僕は、まだそれに値しないと、正直とまどった」
しかしサポーターが自分のことをそんなふうに大事に思ってくれているのだと考えるようになって、やっと受け入れられたという。
「僕は、ひとりの選手として、そして人間として、このチームと一緒に育ってきた。感謝しているし、このチームは、僕にとって第2の家族だと思っている」
99年、苦しい戦いの末にJ1昇格を決めたとき、サポーターも一緒になって抱き合ったり、胴上げしたりした。そのときの幸福感は、日本にきてからの10年間で、最も美しい瞬間だという。
「みんなの力で勝ったんだと、心から思えた。そして僕も、その力の一部になれた。本当に感動的だった」
きょう10月16日、アマラオは36回目の誕生日を迎えた。日本にきてから11回目の誕生日である。
短く刈り込んだ髪には、だいぶ白いものが目立つようになった。しかしどの試合でもチームを勝利に導くためにゴールに向かっていく彼のプレーは、白髪の本数の何百倍、何千倍ものファンに、夢と勇気を与えてきた。
もう絶対に、アマラオを「助っ人」などと呼ばせない。
(2002年10月16日)