
おそらく、世界のサッカー史で、ひとりのレフェリーがこれほどの「スター」になった例は他にはないだろう。判定をめぐって有名になったレフェリーはいる。しかし長い間トップクラスで笛を吹き、これほど世界中のファンから親しまれ、選手たちからも尊敬を集めたレフェリーは、ピエール・ルイジ・コリーナ氏(イタリア)が初めてだろう。
日本のファンには、横浜で2002年ワールドカップ決勝戦の笛を吹いた人、あるいは宮城での日本--トルコ戦の主審といえば思い出してもらえるかもしれない。
先週水曜日にはスウェーデンのエーテボリで行われたUEFAカップ決勝戦で笛を吹き、国際試合で主審を務めた回数が93回に達した。国際サッカー連盟(FIFA)が指名する「国際審判員」に登録されたのが1995年のことだったから、平均して毎年10試合以上国際舞台に立っていることになる。
コリーナ氏は、1960年2月13日に中田英寿が所属しているイタリア中部のボローニャで生まれた。そして世界最古の大学として有名なボローニャ大学の経済学部を卒業後、財務アドバイザーの仕事をしてきた。
少年のころは熱心なサッカーの選手。DFだったが、ファウルが多く、何度も退場処分を受けたという。17歳のとき、けがでプレーできず、仕方なく練習試合の主審を務めたのが審判の道にはいるきっかけだった。
「きみはレフェリーになるべきだ」という親友の熱心な説得に、彼は審判資格を取る決意を固めた。そして23歳という若さで全国レベルの試合の主審を務めるようになり、31歳でセリエA(プロ1部リーグ)の主審に昇格した。さらに95年に国際審判員となり、96年オリンピック決勝をはじめ、数々の大舞台で笛を吹くたびに評価を高めた。
「いいレフェリングにはいい準備が不可欠。とくに重要なのが戦術面の情報収集」と、最近、彼は語っている。
「3バックでプレーするチームと4バックのチームではレフェリングを変えなくてはならない。中盤で激しくプレスをかけるチームなのか、両サイドにウイングを置くチームなのかなど、対戦する両チームに関するあらゆることを知っておく必要がある。サッカーのレベルは年々上がっている。レフェリーもそれに遅れてはならないからね」
しかし彼は、四角四面の「法の番人」ではない。試合中は笑顔で選手に話しかけ、必要とあれば母国語のほか、英語、スペイン語、フランス語という堪能な語学力を生かして選手たちに語りかける。
「選手や監督たちと信頼関係が築ければ、選手は試合に集中していいプレーができるし、レフェリーも試合をうまくコントロールできる」
ときには、ルール外のことまでやってのける。
ある試合で、Aチームの選手が倒れて起き上がらないため、Bチームの選手がボールを外に出した。試合が再開され、Aチームがスローイン、受けた選手は大きくけってBチームのゴールラインに近いタッチにボールを出した。そして、Bチームのスローインを奪いに行こうとした。
そのとき、コリーナ氏が手をかざしてAチームの選手たちを制した。
「行くな!」
断固たるその一言に、Aチームの選手たちは自分の行為のみっともなさに気づき、恥じ入った表情で止まった。ルールをどう解釈しても、これは主審の越権行為だった。しかし誰もが認め、納得してしまうところに、コリーナ氏に対する選手やコーチたちからの絶大な信頼が感じられた。
ことし44歳。国際審判員の定年(45)歳まで、あと1年あまり。6月12日開幕のヨーロッパ選手権(ポルトガル)が、最後の大舞台となる。
(2004年5月26日)
「アフリカのワールドカップ」が決まる。今週土曜日(15日)、スイスのチューリヒで開催される国際サッカー連盟(FIFA)の臨時理事会で、2010年ワールドカップの開催国が決まるのだ。
ワールドカップを世界の6つの地域連盟で持ち回りにする制度の最初の大会。アフリカの5カ国が立候補の正式書類を提出し、昨年10月にFIFAによる視察を受けた。しかし投票1週間前の先週末にチュニジアが辞退を決め、残る候補国は、エジプト、リビア、モロッコ、そして南アフリカの4つとなった。
当初は6カ国だった。しかし昨年9月の正式書類提出を前にナイジェリアが辞退、「今後は南アフリカを支持していく」と表明した。辞退の本当の理由は、立候補書類をFIFA本部のあるチューリヒ(スイス)に持参する代表団の旅費を工面できなかったためだという説もある。
そして先週土曜日、チュニジアが辞退を表明した。都市数が少ないこの国は、隣国リビアとの共同開催を希望していた。しかし「共同開催は費用がかかりすぎる。他に単独で開催したいという国があるのだから、今回は認めない」とFIFAのブラッター会長が拒否、開催を断念した。
ただ、取り残されたリビアは、まだレースから降りてはいない。今回の立候補には、かつて、国家元首カダフィ大佐の下、「テロ支援国家」と言われてきたこの国のイメージを変えるという目的もあったから、FIFA理事会による投票という晴れの舞台に出るチャンスを逃すことはないかもしれない。しかし、FIFA視察チームの報告では、施設、財務計画、そして世界的なスポーツイベント開催経験など、あらゆる面で他の3カ国より劣り、完全なアウトサイダーになるのは必至だ。
残る3カ国のなかで最も有力と見られているのが南アフリカだ。4年前、2006年大会の開催国を決めるFIFA理事会の投票では、最後までドイツと競り合った。あと一歩のところで、南アフリカに投票するはずだった理事のひとりが決戦投票を棄権して帰国してしまうというスキャンダラスな事件が起こり、「アフリカのワールドカップ」の実現は4年遅れたが、今回は万全の態勢だ。
「すばらしいワールドカップを開催できる能力がある」と、ベルギー・サッカー協会会長ヤン・ペータースを団長とするFIFA視察団のレポートも最高の評価を与えた。開幕と決勝戦を予定しているソウェトの「サッカー・シティ」は、9万4700人もの収容力をもつ世界有数のサッカー専用スタジアムだ。
「スタジアムも通信施設も、私たちはアフリカで最高のものをもっている」と、招致委員会のダニー・ジョーダーン会長も自信満々だ。
その南アフリカの最大のライバルは、今回で4回目の立候補となるモロッコと見られていたが、最近になってエジプトが猛追を展開している。エジプトの売り物は、観光立国であるため、宿泊施設が十分にあること。世界最古の文明国という歴史も、大きなポイントだ。一方のモロッコは、同じアラブ圏のサウジアラビアから資金援助を受け、財務計画では最も優れているという。ただ、施設面での不安があり、FIFA視察団の評価はエジプトより低かった。
日本の小倉純二氏を含む24人のFIFA理事の投票は完全非公開。どこかが過半数を獲得するまで、最下位を落としながら投票が続けられる。多ければ3回の投票が必要になる。しかし現在の状況では、ブラッター会長が参加しない最初の投票で南アフリカが過半数の12票を取る可能性も十分ある。
投票の結果は日本時間で土曜の午後8時ごろに発表される予定だ。さて、どうなるか。
(2004年5月12日)
キックオフから終了のホイッスルまで、感嘆のしどおしだった。こんなに立派なサッカーを見たのは、何年ぶりだろうか。
日本女子代表が北朝鮮に勝った。幸運に助けられて勝ったのではない。攻撃でも守備でも、90分間、文句のつけようのないプレーをしての完勝だった。オリンピックの出場権がかかった試合で北朝鮮を3−0で破ったというのは、たとえていえば、男子代表がワールドカップ予選の最終プレーオフでイングランドを叩きのめしたようなものだ。
24日、国立競技場には、3万1324人という大観衆が集まった。大声援がピッチ上の選手たちに力を与え、選手たちのプレーがスタンドを燃え上がらせた。その熱気と一体感は、男子代表がワールドカップ初出場に大手をかけた97年のジョホールバル(マレーシア)でのイラン戦を思い起こさせた。
それにしても見事なサッカーだった。相手チームを研究し尽くし、日本の力と正確に対比させて戦略を練り、選手を鍛え上げた上田栄治監督の力量に改めて驚かされた。そして、それぞれの役割を忠実にこなし、自分自身の力を100パーセント発揮した選手たちの精神的な強さも見事だった。多くの選手にとっておそらく一生に何度もできないパフォーマンスを、この大事な一戦でやってのけたのは、本当にたいしたものだ。
日本のサッカーでは、女子の競技人口は男子のわずか40分の1程度にすぎない。サッカーは老若男女を問わず楽しめるゲームであるのにこれほどの差があるのは、女子がプレーできる環境がなかったためだ。男子なら、部活動やクラブなど、自分のレベルに合ったチームでプレーすることができる。しかし女子はそうはいかない。
チームがない。指導者がいない。グラウンドがない。更衣室などの施設もない。サッカーが大好きで、このスポーツを人生の友としてずっとプレーしたいという、男子ならごく普通の願いをもつ少女や女性たちが、その希望をかなえられる率はとても低い。
北朝鮮戦は16パーセントを超す視聴率を記録したという。「オリンピック予選」という呪術的な言葉に引きつけられた結果かもしれないが、視聴者は女子のサッカーの認識を大きく改めたに違いない。「女子サッカー」という特殊な競技があるのではない。男子に同じようなスピード感と創造性をもつ「サッカー」を、女子がプレーしているだけなのだ。その認識が、今後、女子の競技環境を改善する力につながってほしいと思う。
この予選をめぐる報道のなかで、選手たちの多くがアルバイトをしながらサッカーを続けていることが大きく扱われた。それをなんとかしてほしいと訴える選手もいた。
しかしそんなことは当然ではないかと、私は思う。選手たちは、誰かのためにサッカーをしているのではない。自分自身を表現する最高の手段として、自分自身のために取り組んでいるのだ。そして、彼女たちが通常プレーする試合には、数百人を超す観客がつめかけることはない。
わずか20数年の歴史しかない日本の女子のサッカーだが、企業の売名や宣伝に利用され、中途半端な状態で放り出されたことが何度もあった。そうした懸念もなく、自分自身の力で生活を立てながら誰はばかることもなく大好きなスポーツに取り組めるのは、何と幸せなことだろう。
テレビを通じて1000万の人びとを感動させても、オリンピックに出場しても、現状では、女子のサッカー選手たちは、それで生活していくことなどできない。間違いなくアルバイト生活は続く。打算で取り組んでいるわけではない選手たち。そこにこそ、彼女たちの強さと美しさがある。
(2004年4月28日)
「なぜサッカーは1チーム11人なのですか」
そう質問されて困った。「11」といえば、サッカーを象徴するといっていい重要な数字だ。しかしどんな理由でこの数に決められたか、明確な資料がない。私の説明も、推論の域を出ない。
サッカーの最初のルールは1863年に書かれた。その全14条には、1チームの人数の規定は含まれていない。「11人」が初めてルールに登場するのは、サッカーが誕生してから30年以上経た1896年のことである。
サッカーが生まれたころには、試合のたびに両チームで人数を取り決めていたらしい。それを「11人に固定しよう」と、主要クラブ同士で申し合わせしたのは1870年のことだった。翌年に始まったFAカップでは、大会規約に盛り込まれた。
ではなぜ、11人なのか。
競技としてのサッカーが、中世から行われていた「フットボール」という大衆娯楽に起源を発していることはよく知られている。しかし直接的には、イングランド各地の「パブリック・スクール」で19世紀にはいってから教育の一環として取り入れられたことが、近代的なスポーツとして成立する最大の要因となった。
パブリック・スクールとは、全寮制の男子私立中高等学校である。その寮対抗の形で行われたフットボールに、少年たちは熱中した。ただ、校内だけの競技だったから、各校はそれぞれのルールでプレーしており、進学先の大学ではどの学校のルールでプレーするかがいつも論争になった。「統一ルール制定」の動きが起こるのは当然だった。
さて、パブリック・スクールのフットボールには、大別すると、2つのタイプがあった。ひとつはボールを手にもって走るプレーを主体とするゲーム、そしてもうひとつは、原則として足でボールを運ぶゲームである。しかし1チームの人数は、学校によって実に多様だった。プレーするグラウンドの大きさがさまざまだったからだ。ある学校では、下級生は15人制、最上級生は6人制とされていた。体力に合わせたのだ。
足でボールを運ぶドリブル主体のゲームを伝統とする学校に、ロンドン郊外のハロー校があった。「ハロー・フットボール」のルールでは、試合はキックオフで始まり、「ベース」と呼ばれた幅5・4メートルのゴールがあり、オフサイドがあり、GKの原型となる選手もいた。現代のサッカーに近いゲームだった。
この学校には、縦135メートル、横90メートルのグラウンドがあった。その広さにちょうどの人数だったのだろう、1814年に「1チーム11人」と定められた。記録に残る最古の「11人」である。1863年に制定されたサッカーのルールはこのハロー校のものに近かったから、グラウンドの大きさも1チームの人数も、自然にハロー校のものが基準になったのではないだろうか。それが私の推論だ。
ところで、「なぜ11人か」というテーマで、忘れられない名解説がある。サッカー記者の大先輩である牛木素吉郎さんが、69年の「サッカーマガジン」に書かれた話である。
「人間が片目で同時に識別できる数は、4つがせいぜいであって、つまり、1人の人間は両眼で8人しか監督できない。そこで、主審と線審2人の計3人で合計24人を監督するのが限度なのである。両チーム合わせて、選手の数は22人ではないか、という質問に対してお答えすると、残りの2人は、審判員が、おたがいに、他の審判員を監督するのにあてられるわけである」
もちろんジョークである。しかし19世紀のパブリック・スクールのルールをいくら掘り起こしても、この創作ジョークの簡明さにはとてもかなわない。とにかく、サッカーは1チーム11人なのである。
(2004年4月21日)
初夏を思わせる陽気だった先週末。Jリーグに行って、自分のクラブの練習や試合に行って、副審までして、思い切りサッカーを楽しんだ。おかげでだいぶ日に焼けた。
木曜日には今月下旬のヨーロッパ遠征のメンバーが発表される。無断外出事件の8人はどうなるか、ジーコはどうチームを立て直すのかなど、あれこれ思い悩んでいたが、桜が舞い散るなかでボールをけっていたら、何か楽しいことを考えたくなった。そこで、「サッカーの世界は広い」という話を掘り起こしてみた。
最初に目に付いたのは、68年にコロンビアの首都ボゴタで行われた試合だ。
いまでこそ南米の強豪のひとつになり、ワールドカップ出場の常連になったコロンビアだが、この当時は、非常に弱い国のひとつだった。そのコロンビアの代表チームが、ブラジルのサントスFCを迎えて親善試合を行った。お目当ては「サッカーの王様」ペレである。外国のスターで観客を呼ぼうというコロンビア協会の作戦は、90年代初頭までの日本とそっくりだ。
狙いは見事に的中し、スタジアムは4万人のファンで満員となった。だがあろうことか、ギリェルモ・ベラスケスという主審がペレを退場処分にしてしまった。若いころ(といっても27歳だが)のペレは、危険な反則に怒って報復し、よく退場になっていた。
当然、ファンが騒ぎ出した。彼らの目当てはペレだけだ。ペレを見るために、通常より高い入場料を支払ったのだ。試合を続けられないほどの騒ぎに困り果てたコロンビア協会は、ベラスケス主審を副審と交代させ、ペレをピッチに戻してしまったという。
同じ年のイングランドには、決勝ゴールの得点者が主審という出来事があった。プロの3部リーグ、バロウ対プリマスでの話。CKのこぼれ球を拾ったバロウのジョージ・マクリーンのシュートはゴールを外れるコースだったが、ペナルティーエリアのラインあたりにいたイバン・ロビンソン主審を直撃、大きく跳ねてゴールにはいってしまった。
「審判は石と同じ」と、サッカーでは言われる。ボールが審判に当たってコースが変わっても、プレーはそのまま続くのだ。一瞬とまどったロビンソン主審だったが、すぐに冷静さを取り戻し、ゴールを認める笛を吹いた。その後プリマスが懸命に追い上げたがゴールを記録することはできず、結局1−0でバロウが勝った。得点者は、マクリーンと記録された。
60年代の後半というのは、いろいろ面白いことがあった時期のようだ。67年には、アルゼンチンの1部リーグで、1試合に7つものPKの判定があったという。主審はオスカル・チャベス。彼はインデペンディエンテに5本、バンフィールドに2本のPKを与えた。しかしこのうち成功したのは、インデペンディエンテの2本だけで、残りの5本は失敗に終わった。試合は3−2でインデペンディエンテが辛勝した。
どうやら、PKというのは、量産されると成功率が下がるものらしい。Jリーグの記録を見ると、過去11シーズンの全2826試合で697回PKが与えられ、523回の成功が記録されている。成功率は75パーセント。これが普通の「成功率」だろう。ところが私は、99年7月にパラグアイで開催された南米選手権で、1試合に5本のPKが与えられ、成功はわずか1本という試合を見たことがある。
2本与えられたコロンビアは1本をDFイバン・コルドバが決めたが、アルゼンチンは与えられた3本をすべてFWマルティン・パレルモがけり、全部失敗した。試合は3−0でコロンビアが勝った。
世界は広い。思い悩むより、どんなときにも前向きにサッカーを楽しんでいきたい。
(2004年4月14日)