サッカーの話をしよう

No.552 ユース代表に注目

 0-0のまま終了かと思われた試合は、後半40分、「ホーム必勝」を期すFC東京の執拗な攻めが実を結び、MF栗澤が決勝ゴールを挙げた。アシストはMF今野。その今野を突破させる絶妙のパスを送ったのが、後半22分から交代で出場したMF梶山陽平だった。
 1985年9月24日生まれの梶山はU-20日本代表の攻撃のリーダー。昨年秋のワールドユース・アジア予選でも活躍を期待されていたが、夏に負傷し、欠場を余儀なくされた。梶山を失ったU-20日本代表は、苦戦続きだったものの、見事に6大会連続のワールドユース出場を決めた。
 その名のとおり20歳以下の選手による世界選手権であるワールドユースは、日本にとって非常に重要な大会だ。国際サッカー連盟主催の年齢別世界選手権にはこの下の年代の「U-17」もあるが、日本では中学から高校への進学期で強化が難しい。プロになって1、2年目で迎えるワールドユースは、選手たちにとって本格的な世界への挑戦の、絶好の第一歩なのだ。

 2年にいちど、奇数年に開催されるワールドユース。第15回となることしの大会は、6月10日から7月2日にかけてオランダで開催される。日本は地元オランダ、アフリカのベナン、そしてオセアニアの強豪オーストラリアとA組にはいり、開幕日に開催国オランダと戦う。
 2003年にUAEで開催された大会でベスト8進出の好成績を挙げた大熊清監督が引き続き指揮をとる現在のU-20日本代表は、昨年10月にマレーシアで開催されたアジア予選のときにはひ弱な感じのするチームだった。高校生で2003年大会に出場、昨年のアテネ・オリンピックにも出場したFW平山相太以外は、国際舞台の経験がほとんどないだけでなく、国内でもトップクラスの試合経験が不足していたからだ。

 1次リーグは3連勝で突破したものの、準々決勝以降は3試合連続のPK戦。DF増嶋竜也(F東京)を中心にした守備は粘りがあったが、攻撃の組み立てには苦労した。高い技術としっかりした戦術はもっているのだが、フィジカル面で劣り、ワールドユースでは苦戦は免れないだろう――。そう感じた。
 しかし今季のJリーグを見ていて、私はワールドユースへの期待がどんどんふくらんでくるのを感じている。F東京の梶山だけでなく、たくさんの選手がJリーグの舞台で活躍を始めたからだ。
 移籍などで主力の半数が抜けた千葉(市原)では、DF水本裕貴とMF水野晃樹がしっかりとレギュラーになり、チーム力アップに貢献している。G大阪ではMF家長昭博が左サイドに定着した。競争の激しい磐田の攻撃陣で、負傷者続出でチャンスを与えられたFWカレン・ロバートも、試合ごとに自信をつけ、本来の力を発揮し始めている。

 さらに、昨年のアジア予選時には選ばれなかったMF本田圭佑が、1月のU-20代表カタール遠征で大活躍し、加入したばかりの名古屋でも早くもチームを動かす司令塔の役割を果たしている。東京Ⅴの「怪物」FW森本貴幸(まだ16歳)も、ナビスコ杯で2ゴールを決めた。気がつくと、Jリーグの舞台でU-20代表選手たちが生き生きと躍動しているのだ。
 大熊監督は、こんどの日曜(17日)から選手を集め、4日間のミニ合宿を行う。しかし来週の後半には、選手たちを所属クラブに帰さなければならない。U-20代表の大半の選手が、Jリーグに出場するか、ベンチ入りを期待されているからだ。
 この年代では、Jリーグの1試合1試合が大きな成長の糧になる。Jリーグで彼らのプレーをチェックしながら、ワールドユースを楽しみに待ちたいと思う。
 
(2005年4月14日)

No.551 東京Ⅴと千葉、豊かになったJリーグ

 日曜日に味の素スタジアムに出かけた。Jリーグ第3節、東京ヴェルディ対ジェフ千葉市原の対戦だった。ともに今シーズンになって初めて見るチームだ。
 東京Ⅴは、アルディレス監督の指導が浸透して元日の天皇杯決勝で快勝し、久々のタイトルを手中にした。DF李康珍(韓国U-20代表)、MF小林大、相馬崇人、FW平本一樹らの若手が自信をつけ、今季新加入のブラジル代表FWワシントンの得点力が優勝争いへと引っ張ってくれるのではないかという期待のうちに新シーズンにはいった。
 一方の千葉は、クラブ名に千葉市の名前を入れ、ユニホームもこれまでの黄色と緑から、黄色と紺に一新した。ことし秋には千葉市に新しいスタジアムが完成する。心機一転、大きな飛躍を期す年である。にもかかわらず、日本代表DFの茶野、代表にあと一歩といわれる左サイドのMF村井が磐田に移籍し、外国人選手も総入れ替えになって、不安の残る開幕だった。

 東京Ⅴは、天皇杯で見せたポジティブなサッカーに磨きがかかり、生き生きとしたサッカーを見せた。左ウイングバックの相馬の攻撃力を生かすためにインサイドMFの平野が的確に、そして献身的に動いた。
 平野は、98年ワールドカップに出場したベテランである。ワールドカップ当時は名古屋の所属だった。その後、京都、磐田、神戸と渡り歩いたが、能力を発揮しきれず、2003年に東京Ⅴにやってきた。アルディレス監督は彼を辛抱強く使い、見事に復活させた。
 平野の特徴は、左サイドで鋭く縦に抜けて入れる正確なクロスにある。その役割の主役を若い相馬に譲りつつ、相馬の動いた穴をカバーし、チャンスと見れば自ら得意の左サイドに出て果敢な突破を見せる。開始早々2点をリードされた東京Ⅴが前半のうちに同点にすることができたのは、左サイドを有効に使うことができたからだ。

 東京Ⅴの良さは予想できたが、千葉がこんなに良くなっているとは思わなかった。抜けた外国人選手の穴は、オーストリア、ルーマニア、ブルガリアの代表クラスを補強して埋めたが、左からの攻め上がりでこのチームの攻撃を特徴づけてきた村井の穴は埋めがたいだろうと思っていた。
 しかし昨年まで右ウイングバックでプレーしていた坂本が左に回り、村井とは違ったスタイルながら、それ以上に効果的な動きを見せていたのには驚いた。前半1分、FKをすばやくFWハースにつなぎ、間髪を入れずにサポートして左サイドを突破、FW巻の先制点を演出したのは坂本だった。
 茶野が抜けたDFには水本、坂本が左に回った右サイドには水野の、19歳コンビがはいって見事なプレーを見せた。ふたりとも、6月にオランダで行われるワールドユース選手権での活躍を期待されている伸び盛りの選手だ。

 新外国人のFWハース、DFストヤノフはすでにチームにしっかり溶け込んで中心的な役割を担っている。しかしそれだけでは千葉は戦力を落としていただろう。今季の千葉が昨年にも増して良くなったのは、DF斉藤、MF阿部、佐藤、羽生、FW巻などの選手たちが、例外なく昨年より何パーセントか力を伸ばし、自信をつけ、動きを増やしているからにほかならない。
 それが「チームをつくる」ということなのだろう。オシム監督の手腕に、改めて感心させられた。
 勝敗をめぐって胃が痛くなるようなワールドカップ予選を見た水曜日の週末に、気が晴れ晴れとするような積極的な攻め合いの美しいサッカーを見せてもらえた。日本のサッカーも豊かになったのだとつくづく感じた日曜日。試合は2-2の引き分けだった。
 
(2005年4月6日)

No.550 埼スタ満足度アップ作戦

 「埼スタ満足度アップ作戦」----。そのものずばりだが、どこかユーモラスで、企画した人びとの意気込みが伝わってくる名称の「大作戦」が、きょう実施される。
 先週イランに敗れて、非常に重要な1戦となった今夜のワールドカップ・アジア最終予選、バーレーン戦。その会場となる埼玉スタジアム(通称「埼スタ」)への行き帰りを、少しでも楽しいものにしようという試みだ。
 いまや「日本代表のホームスタジアム」といっていい埼スタには、大きな悩みがあった。アクセスの悪さだ。東京の地下鉄南北線に直結する埼玉高速鉄道の「浦和美園」駅が最寄り駅なのだが、スタジアムまでは徒歩で20分もかかる。少し遠くから来ている観客は、ナイターの場合、終電の時間を気にしながらの観戦になる。

 「2月9日の北朝鮮戦では、通常以上のセキュリティー対策が取られたこともあり、行きも帰りも大変だったと、ファンから苦情が寄せられました」と、スタジアムを所有する埼玉県の県土木整備部公園課・澤正博さん。バーレーン戦はもっと快適に観戦してもらおうと、公園課とともに総合政策部交通政策課が中心になって検討が始まった。
 そのひとつとして、試験的に行われるのが、試合前、浦和美園駅から埼スタまでのシャトルバス(所要8分間)の無料化。従来1人100円で運用してきたものを、埼玉高速鉄道の費用負担により無料で運行することにしたのだ。
 5万9399人が観戦した2月の北朝鮮戦。往路ではそのうちの64パーセントにも当たる3万8358人が浦和美園駅を利用し、駅前から100便出されたシャトルバスの利用者は5330人、駅を利用した人の約13パーセントだった。これを無料にして、もっと多くの人に利用してもらおうというアイデアだ。

 復路には浦和美園駅までのシャトルバスはないが、その代わり、埼玉新聞社の協力を得て「終電時刻案内」を試合前の駅前で配布する。
 以前、ドイツのシュツットガルトで試合を見たとき、後半40分過ぎ、電光掲示板に最寄りの地下鉄駅から出る特別電車の時刻表が繰り返し掲出された。試合前に駅の時刻表を見たときには30分に1本程度だったので、増発されることを知りとても安心した覚えがある。
 今回は、浦和美園駅の駅頭で配布される埼玉新聞の号外裏面に「広告」として掲載する。広告掲出料は50万円。県庁の広報予算から支出してもらったという。
 試合後にはスタジアムの南広場で「プチ国際屋台村」が開かれる。韓国、タイ、メキシコなどともに、今回はバーレーン料理の屋台も並ぶという。終電時刻案内があるから、ビールを片手に安心して試合の話に花を咲かせることができるわけだ。

 浦和駅、東浦和駅、北越谷駅からのシャトルバス(有料)については、途中の有料道路をノンストップ通過(後日精算)や、周辺信号の調整など、細かな対策も練られている。
 「道路の改善など、まだまだ課題は山積しています」と、公園課の澤さん。しかし今回の埼玉県の取り組みには、いわゆる「お役所」感覚は皆無。試合日が迫るなか、観戦ファンの「満足度アップ」のため、できることからしていこうと、担当者たちが目を輝かせながら走り回って関係各方面を説得している様子が想像できる仕事ぶりではないか。
 「埼玉新聞の号外は新聞社が配布しますが、私たちも駅頭に出て配布をお手伝いするつもりです」と、交通行政課の椎木隆夫さん。
 施設がすばらしいだけでは足りない。こうした無数の人びとの努力が、埼スタを愛される本物の名スタジアムに育てていくに違いない。
 
(2005年3月30日)

No.549 イランのサッカー

 今週金曜日(25日)にワールドカップ予選で日本を迎えるイランは、アジアカップ3回、アジア大会4回の優勝を誇るアジア屈指の「サッカー強国」だ。アーリア系のイラン民族は体が大きく頑強で、しかも闘争心にあふれている。アジアのチームだけでなく、ヨーロッパのチームでさえ、イランと戦うときには相当な覚悟を必要とする。
 西アジアの高原の国イラン。東西の文化が交わるところとして古代から栄え、紀元前5世紀から約2500年間にわたって数々の王朝が強国を建ててきた。そんなイランにサッカーがはいったのは20世紀のはじめ。担い手は、西ヨーロッパ諸国に留学して帰国した若者たちだった。
 この国のサッカー史は政治と切り離すことができない。18世紀末からのカージャール王朝が衰え、ロシアのコサック旅団の士官だったレザー・ハンが「パーレビ朝」を打ち建てたのが1925年。新国王は積極的に近代化を進め、スポーツ振興にも力を入れた。

 20世紀初頭から開発が始まった石油が、この王朝の切り札だった。当初イギリスに握られていた利権は、第二次世界大戦後、第二代国王パーレビをかついだアメリカの手に渡り、全世界の埋蔵量の約1割を占めるといわれる石油資源の利権を操って、パーレビは内政改革を進めた。
 彼は大のサッカーファンだった。スイス留学中に学校チームの主将まで務めた彼は、クラブの育成と代表強化に力を入れた。60年代から70年代にかけて経済が急成長するなか、イランはアジアカップで3連覇。そのピークが、78年のワールドカップ・アルゼンチン大会出場だった。
 1次リーグで敗退したものの、強豪スコットランドと1−1で引き分ける健闘を見せ、レベルの高いプレーが世界の目を引いた。この大会で活躍したDFエスカンダリアンは、当時ブームを迎えていたアメリカのプロリーグに移籍、ペレ、ベッケンバウアーらとコスモスでプレーした(彼は引退後もアメリカに住み、息子のアレクコはいまアメリカ代表選手になっている)。

 実は、このワールドカップ出場は、国内的には大きく揺れていた時期の出来事だった。イスラム教を軽視したパーレビの政策が国民の反感を買い、デモが始まったのがこの年の1月。12月にはそのデモが最高潮に達し、79年1月にはついにパーレビが国外に脱出、亡命していたイスラム指導者のホメイニが帰国して「イラン・イスラム共和国」を打ち建てたのだ。
 80年には隣国イラクとの間で国境をめぐる紛争が持ち上がり、10年近くにわたって戦火が続く。当然のことながら、イランのサッカーは大きな打撃を受けた。
 79年11月にホメイニ支持派の学生たちが起こしたアメリカ大使館占拠事件を契機にアメリカは今日まで続く経済制裁を発令、以後、経済的には苦しい状態となっている。しかし90年代以降のイランは、国内的には、非常に安定した時期と言ってよい。サッカーがよみがえったのはそのおかげだった。

 98年には20年ぶりのワールドカップ出場も達成した。マレーシアのジョホールバルで日本との死闘の末敗れ、疲れた体を引きずって強豪オーストラリアとの連戦に臨んだイランだったが、0−2で迎えた第2戦の後半に一瞬のスキをついて連続ゴールを決め、同点に追いついて出場権を獲得した。その粘り強さ、最後まであきらめない精神力こそ、イラン・サッカーの最大の力に違いない。
 イラン代表も、3月17日に国内組だけで合宿にはいり、国外組は20日に合流した。イランのメディアは連日のように日本情報を流し、日本代表監督ジーコのひと言ひと言まで紹介している。
 予報では、3月25日のテヘランは晴れ時々曇り、最高気温13度、最低気温11度、湿度67パーセント、無風。「決戦」は目の前だ。
 
(2005年3月23日)

No.548 浦上選手の引退あいさつ

 大げさなセレモニーではなかった。報道もされなかった。しかし春とは思えないような寒さのなか、なぜかほっとさせられる出来事だった。
 先週土曜日のJリーグ第2節、川崎フロンターレ対浦和レッズは、川崎にとって待ちに待ったホーム開幕戦だった。実に5シーズンぶりのJ1。等々力競技場には2万4332人のファンが詰め掛けた。川崎は昨年の第2ステージ王者浦和を相手に一時3−1とリードする健闘を見せ、最終的には3−3で引き分けたものの、「J1でも十分戦えるぞ」と、ファンを満足させた。
 この試合のハーフタイムに小さなセレモニーが行われた。昨年まで川崎のゴールキーパーとして活躍した浦上壮史(うらかみ・たけし)さん(36)の引退あいさつだった。
 闘志あふれる守備とともに気さくな人柄からファンからも慕われていた浦上さんだが、昨シーズン終了時にクラブから引退が発表されていた。東京の国学院久我山高から日産ファームを経て92年から横浜マリノスで3季プレー、95年から清水エスパルスに2季在籍した後、97年に川崎に加入、守護神として活躍してきた。川崎での出場試合数は182にものぼった。
 簡素なセレモニーだった。メインスタンド前に置かれた小さな台にスタンドマイクが置かれ、そこにスーツ姿の浦上さんが出てきてあいさつするというだけのものだった。メインスタンドに向かって話さなければならないところを、緊張した浦上さんはバックスタンドに向かって話し始めてしまい、クラブの広報担当があわてて注意すると、スタンドがどっと沸いた。
 「みなさんこんにちは」と話し始めた浦上さんの口から次に出たのは、私にとってとても意外な言葉だった。彼はまず、ビジターの浦和のサポーターに向かうと、こう話しかけたのだ。
 「レッズ・サポーターのみなさん、私ごとですが、しばらくご容赦ください」
 浦和のサポーターは、アウェーでもホームチームを圧倒する迫力をもっているので有名だ。この日も試合前の選手紹介のときから、川崎の選手の名がアナウンスされると大きなブーイングを投げつけていた。しかしこのときには、毒気を抜かれたようだった。そしてブーイングどころか、大きな拍手が起こった。
 川崎のサポーターに向き直った浦上さんは「いつかここに戻ってきて、クラブのために働きたい」と、短く語ると、スタンドに向かって手を振りながら台を降りた。大きなコールが巻き起こったのはもちろんだった。しかし浦和のサポーターたちからも、再び盛大な拍手が送られた。
 サポーター同士がいがみ合い、相手チームに見境なくブーイングするのは、Jリーグでは日常的なことだ。この日も、浦和のサポーターは、浦上さんのあいさつに対してブーイングはしないまでも、無視しても不思議はなかった。浦和を応援するためだけにここにきているからだ。
 しかしそんな空気が一瞬で変わった。浦上さんのほんの一言、それもおざなりではなく、大人として、礼儀正しく浦和のサポーターに向かっての、「おことわり」の言葉が起こした「奇跡」だった。
 一般に、試合の運営面ではどうだろうか。場内アナウンスなどで、こうした意識が払われているだろうか。逆に、無闇に対立をあおるものになっていないだろうか。スタジアムには闘志が充満していなければならない。しかしそれは憎悪のぶつけ合いという意味ではない。浦上さんが起こした小さな奇跡に感心しながら、そんなことを思った。
 浦上さんは、清水時代のチームメートでもある大榎克己さんが監督を務める早稲田大のGKコーチとして指導者の道をスタートするという。
 
(2005年3月16日)

サッカーの話をしようについて

1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。

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