サッカーの話をしよう

No.641 勝とうとすること

 「Jリーグは『人づくり』などと言うが、日本のサッカー界がやろうとしていることは、世界のベスト10入りを目指すなど、結局は勝利至上主義ではないか。それで本当に『人づくり』などできるのでしょうか」
 先週、大阪で関西大学の社会学部創立40周年記念のシンポジウムに出席した。「Jリーグとまちづくり・人づくり」をテーマとしたものだった。その最後に、フロアからこんな質問が出た。その質問を聞いて、長い間忘れていたひとつの言葉が突然よみがえった。もう40年近く昔の話である。

 高校生になって初めて公式戦に出してもらったのは、何かの大会の1回戦、前半だけで6−0と大量リードを奪った試合の後半だった。無我夢中で走っているうちに、目の前で相手GKがボールをはじいた。必死に飛びつくGKより一歩先に私はボールにさわり、ゴールに流し込んだ。
 いわゆる「ごっつぁんゴール」である。でも1点は1点。しかも初めての公式戦での初ゴールだ。私は狂喜して飛びはねた。そのときである。
 「あいつら、勝つことしか考えてないよ」
 疲れ切った相手チームのひとりの選手が、うんざりしたような口調でこう言うのが聞こえたのだ。私はドキッとした。何か恥ずべき行為をしてしまったのだろうか。すでに6点もの差がついたこの試合。私には、もっと違うプレーの仕方があったのだろうか。
 試合が続くなかで、私はいつの間にかそんなことを忘れてしまっていた。しかし試合中に感じた小さな「後ろめたさ」は、何らかの傷となり、40年間も心のどこかに眠っていたのだろう。

 いまなら、胸を張って言うことができる。私は、点差に関係なく、ゴールを目指して一生懸命にプレーした。それはあるべき態度だった----。
 スポーツを価値のあるものにする最も根源的な要素は、「勝利を目指すこと」だ。勝とうとする努力をぶつけ合うことだ。だからこそ勝利に大きな喜びがあり、負けても深い満足を得ることができる。
 相手をみくびって力を抜いたり、不まじめな態度で試合に臨んだり、あるいは点差が開いたからといって遊びのプレーに走るなどという行為は、けっしてあってはならない。それは相手に対する侮辱であり、同時に自らの価値を落としてしまう行為だ。
 40年前の試合で感じた小さな後ろめたさは、不要なものだった。

 先週のシンポジウムで、私はこんな答えをした。
 「大切なのはフェアプレーの精神を忘れないことです。相手を尊重し、一生懸命に努力し、戦うことです。勝とうとすることはフェアプレーの最も根本的な態度のひとつです。フェアプレーの精神さえ忘れなければ、世界のベスト10にはいろうという努力が、当然、『人づくり』にもつながるはずです」
 
(2007年4月4日)

No.640 卒業

 真冬のような寒さが続いた3月。寒気が去ると、一足飛びに春になった。日本の3月は「別れ」の季節でもある。
 クラブチームにはないが、学校のチームにはあるもの。それが「卒業」だ。学校のチーム自体は何十年でも続いていくが、卒業する生徒はチームから離れざるをえない。
 何年間かいっしょにボールをけり、喜びや苦しさを分け合った仲間も、卒業とともにそれぞれの道へと分かれていく。サッカーを続けようと決心したら、自分にとって新しいチームにはいらなければならないことになる。

 人間というのは、心のどこかで、自分が属する集団や仲間の存在に依存しているものだ。サッカーのようなチーム競技では、その度合いはより強くなる。
 サッカーはひとりではできない。仲間と役割を分担し、力を合わせなければ試合にならない。当然責任も生じるが、孤独な戦いではない。励まし合い、助け合うことができる。そこから離れなければならなくなったとき、そうした集団の一員であることの心地良さに初めて気づく。
 しかし卒業すれば、もう同じ集団の一員であることはできない。緊張感のなかで、新しいチームに飛び込んでいくしかない。
 練習を重ねて築いてきたコンビネーションも、仲間や指導者から得た信頼も、すべてゼロに戻る。まず自分自身の名前を覚えてもらい、自分という人間を理解してもらうところからスタートしなければならない。この時期、進学とともに新しいチームにはいることで気が重いプレーヤーも多いのではないだろうか。

 だが怖気づく必要などない。視点を変えれば、新しいチームにはいることは大きなチャンスでもあるからだ。
 新しいチームには新しい指導者がいる。新しい仲間もできる。新しい環境のなかで、新しい自分を発見することができるかもしれない。中学のときには自分自身が生まれついてのDFだと思っていたプレーヤーが、高校のコーチによってFWとしての隠れた才能を見出され、飛躍のきっかけをつかむかもしれない。
 慣れ親しんだ集団から切り離され、いったんひとりになって再スタートしなければならないことで、自分自身の内面にも変化が生まれるかもしれない。サッカーのプレーヤーというのは「チーム」という集団の中でしか存在しないが、プレーヤーとしての強さを決めるのはチームの強さではなく、独立した個人の強さにほかならない。新しいチームに飛び込むことは、その強さを身につける大きなチャンスでもある。

 「卒業」とともに新しいチームに移る選手が日本中に何人いるかわからない。しかし恐れず、前向きに、明るく、そして勇気をもって取り組んでほしいと思う。
 日本の4月は、希望に満ちた「新しいスタート」の季節でもある。
 
(2007年3月28日)

No.639 問題は高さ

 問題は「高さ」。身長の問題ではない。「標高」である。
 ことし9月に中国で開催される女子ワールドカップ予選のプレーオフ第1戦を見事な戦いで勝ち取った女子日本代表「なでしこジャパン」。メキシコとのアウェー第2戦は3月17日にメキシコのトルーカで開催される。初戦の結果2−0というアドバンテージをもつとはいえ、簡単な戦いではない。トルーカは標高2680メートルという高地だからだ。
 「高さよりも暑さが気になる」と、出発を前に、なでしこジャパンの大橋浩司監督は語った。少し前に視察に行ったときには気温が30度もあったという。トルーカはメキシコのなかでも「常春」の町として知られるところ。観光案内書には、真夏でも30度を超すことはめったにないと書いてある。もっとも近年の地球温暖化で「常識」も通じなくなっているのかもしれない。
 しかし2680メートルというのは、おそらく近年の日本サッカーが経験する最も標高の高い場所での試合となる。昨年9月に日本代表が標高2300メートルのサヌア(イエメン)で試合をしたが、そのときにはそれほど大きな影響は出なかった。なでしこジャパンも、ちょうど4年前にサヌアとほぼ同じ高さのメキシコシティで試合をし、2−2で引き分けている。だが今回はさらに400メートル近く高くなる。その影響がどの程度になるか、予想は難しい。
 この高さになると、気圧が平地の7割程度になり、体に取り込める酸素の割合はさらに少なくなる。低地から行っていきなり激しい運動をすると、動悸、息切れ、頭痛、めまいなどの症状を起こす。いわゆる高山病だ。
 エクアドルやボリビアがワールドカップ南米予選を3000メートル級の高地でホームゲームを開催し、好成績を残したことから、「高さ」を利用しようというサッカーチームが増えている。最近では、標高4000メートルにあるポトシをホームとするボリビアのクラブが南米のクラブカップに出場し、対戦チームが「スポーツ医学的に無理」と反発するなど問題化した。
 やっかいなのは、高度の影響には個人差があり、誰がどんな影響を受けるか予想がつきにくいことだという。じっくりと時間をかけて高度順化のトレーニングが行えればいいが、プロのカップ戦や、今回のなでしこジャパンのように順化期間が限られた状況ではどうしようもない。
 「日本と同じように、メキシコにもホームの利点を生かす権利がある」と、第1戦後、メキシコのクエジャール監督は語った。それも一理ある。しかしことさらに「高度の利」を生かそうという最近の風潮は行きすぎのように思う。
 だが変えられないものは受け入れ、その影響が出ないよう最大限の努力をするしかない。15時間もの時差、大橋監督が警戒する暑さ、そして高さ。メキシコとの対戦の前に、なでしこジャパンは、そのすべてに打ち勝たなければならない。

(2007年3月14日)

No.638 レフェリーを育てるもの

 1984年12月16日、シンガポールの国立競技場。アジアカップ決勝戦の主審を終えたばかり、当時37歳の高田静夫さんは、心地よい虚脱感のなかにいた。
 先輩の勧めで審判員になって12年。とんとん拍子に1級まで進み、この年からは国際審判員に名を連ねていた。しかしこのころまで、高田さんはサッカーの審判という仕事を心から楽しいと思ったことはなかった。選手や監督たちから文句の言われどおしだったからだ。

 当時は国際審判員も2年目にならないと「FIFA」の名前のついたワッペンを交付されなかった。1年目はいわば仮採用期間。高田さんは日本国内のワッペンのまま、500円の笛をもってシンガポールのグラウンドを走った。
 この大会では、審判員は試合当日の朝に4人の名前が発表され、競技場でそれぞれの役割が知らされた。決勝戦の朝、高田さんは4人のなかに自分の名前があるのを知った。
 しかし他の3人のなかにはスペインのA・ラモカスティーリョさんとイングランドのG・コートニーさんという2人のゲストレフェリーがいた。ともに世界でもトップクラスにはいる名主審だ。高田さんは何も期待はしなかった。
 キックオフの30分前、「タカダ、きみが主審だ」と告げられた。頭のなかが真っ白になった。2人のヨーロッパ人は線審(現在の副審)を務めることになった。

 すぐにキックオフの時刻がきた。無我夢中で走った。そのなかで、両線審が絶妙のタイミングで高田さんにサインを送ってくれた。それに助けられながら、90分間はあっという間に過ぎた。試合はサウジアラビアが2−0で中国に勝ち、初優勝を飾った。
 表彰式が始まろうとしていた。高田さんは2人の線審とともにスタンド下のロッカールームに向かおうとした。しかしそのとき、副審のひとり、コートニーさんが高田さんの肩をつかんでこう言った。
 「タカダ、われわれは決勝戦でいいレフェリーができた。しばらくとどまって、この場を楽しもうじゃないか」
 大きな2人の線審にはさまれるように小さな高田さんが立ち、数分間、表彰式の模様を見守った。
 「なんて幸せなんだろう」
 高田さんはそう思った。「これまでやってきてよかったな」。心からそう思えた。

 その後、高田さんは86年と90年の2回のワールドカップで審判を務め、94年に現役を引退、以後、後進の育成に力を注ぎながら、Jリーグと日本協会の審判委員長を歴任、2006年に退任した。
 ことし2月24日、東京都と関東のサッカー審判協会が高田さんの退任記念特別講演会を開催し、100人を超す審判員や関係者が集まった。このアジアカップ決勝戦でのエピソードは、そのときに語られたものだ。
 つらいことが多く、報われることの少ない審判員たち。しかし彼ら抜きにサッカーは成り立たない。もっと審判をサポートし、勇気づけることが必要だと、高田さんの話を聞きながら思った。その責任は、審判養成の関係者たちだけでなく、サッカーにかかわるすべての人、サッカーを楽しむすべての人にある。
 
(2007年3月7日)

No.637 Jリーグ フェアプレーの約束

 試合前、スタジアムの大型映像装置にまだユニホームに着替える前の姿の選手たちが映し出された。浦和の山田とG大阪の実好。2月24日、東京・国立競技場で開催されたゼロックス・スーパーカップに出場した両チームのキャプテンだ。
 ふたりとも真剣な表情で何か黄色い大きなものに書き込んでいる。黄色いのはフェアプレー旗。両キャプテンはそこにサインをしていたのだ。
 やがてひときわ高い音楽のなか、両チームがピッチに入場する。先導するのは、6人の子どもたちが持つフェアプレー旗。そこには、この日の試合に登録された全選手のサインがはいっていた。

 今季から、J1、J2のリーグ戦、ナビスコ杯など800近い試合で、当日、全出場選手がフェアプレー旗にサインをすることになった。フェアプレーの精神で戦うことをファンに約束する----。それを示すためのサインだ。
 選手の入場をフェアプレー旗が先導するという形を始めたのは国際サッカー連盟(FIFA)。1990年代にはいってからだった。やがてその形式が国際試合の標準となり、Jリーグでも独自のフェアプレーキャンペーンマークを染め抜いた旗が先導役として使われるようになった。
 しかし何年も前から、私はその形があまりにも空しいと感じていた。単なる儀式として形骸化し、選手たちはこの旗の意味すら考えもしないに違いないと思ったのだ。
 フェアプレー旗を先頭に入場するという行為は、本来、選手たちがその精神の下にプレーするという姿勢を表すもののはずだ。しかし実際には、試合が始まるとそんな姿勢は忘れ去られ、醜い行為の応酬となってしまうのだ。

 フェアプレー旗へのサインは、その姿勢を全選手が再確認し、併せてファンに「約束」することを明確にするものだ。「署名をした約束」は「契約」に等しい。歯を食いしばって守り抜かなければならない。
 ことしのゼロックス・スーパーカップは試合内容こそ一方的だったが、この「約束」の精神が両チームの姿勢によく表れていたように思う。
 イエローカードが浦和に3枚あった。無理なタックルや審判への不服の態度を示したことが原因だった。しかし激しいぶつかり合いがあった後の握手など、これまでになく「互いに尊重し合って戦おう」というすがすがしい態度が見られたように思う。私は、この試合では「約束」はほぼ守られたと感じた。

 「約束」が必要なのは選手たちだけではない。監督をはじめとしたチームの役員、4人の審判員や競技役員、私たちメディア、そしてスタンドを埋めたファン、サポーター...。試合にかかわる人すべてが、それぞれの分野でフェアプレーを誓い、実践しようという心構えが必要だ。そうなれば、日本のサッカーは確実に良くなる。
 この日、黄色い旗に書かれた30数人のサインに、私は大きな希望を感じた。
 
(2007年2月28日)

サッカーの話をしようについて

1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。

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