サッカーの話をしよう

No.638 レフェリーを育てるもの

 1984年12月16日、シンガポールの国立競技場。アジアカップ決勝戦の主審を終えたばかり、当時37歳の高田静夫さんは、心地よい虚脱感のなかにいた。
 先輩の勧めで審判員になって12年。とんとん拍子に1級まで進み、この年からは国際審判員に名を連ねていた。しかしこのころまで、高田さんはサッカーの審判という仕事を心から楽しいと思ったことはなかった。選手や監督たちから文句の言われどおしだったからだ。

 当時は国際審判員も2年目にならないと「FIFA」の名前のついたワッペンを交付されなかった。1年目はいわば仮採用期間。高田さんは日本国内のワッペンのまま、500円の笛をもってシンガポールのグラウンドを走った。
 この大会では、審判員は試合当日の朝に4人の名前が発表され、競技場でそれぞれの役割が知らされた。決勝戦の朝、高田さんは4人のなかに自分の名前があるのを知った。
 しかし他の3人のなかにはスペインのA・ラモカスティーリョさんとイングランドのG・コートニーさんという2人のゲストレフェリーがいた。ともに世界でもトップクラスにはいる名主審だ。高田さんは何も期待はしなかった。
 キックオフの30分前、「タカダ、きみが主審だ」と告げられた。頭のなかが真っ白になった。2人のヨーロッパ人は線審(現在の副審)を務めることになった。

 すぐにキックオフの時刻がきた。無我夢中で走った。そのなかで、両線審が絶妙のタイミングで高田さんにサインを送ってくれた。それに助けられながら、90分間はあっという間に過ぎた。試合はサウジアラビアが2−0で中国に勝ち、初優勝を飾った。
 表彰式が始まろうとしていた。高田さんは2人の線審とともにスタンド下のロッカールームに向かおうとした。しかしそのとき、副審のひとり、コートニーさんが高田さんの肩をつかんでこう言った。
 「タカダ、われわれは決勝戦でいいレフェリーができた。しばらくとどまって、この場を楽しもうじゃないか」
 大きな2人の線審にはさまれるように小さな高田さんが立ち、数分間、表彰式の模様を見守った。
 「なんて幸せなんだろう」
 高田さんはそう思った。「これまでやってきてよかったな」。心からそう思えた。

 その後、高田さんは86年と90年の2回のワールドカップで審判を務め、94年に現役を引退、以後、後進の育成に力を注ぎながら、Jリーグと日本協会の審判委員長を歴任、2006年に退任した。
 ことし2月24日、東京都と関東のサッカー審判協会が高田さんの退任記念特別講演会を開催し、100人を超す審判員や関係者が集まった。このアジアカップ決勝戦でのエピソードは、そのときに語られたものだ。
 つらいことが多く、報われることの少ない審判員たち。しかし彼ら抜きにサッカーは成り立たない。もっと審判をサポートし、勇気づけることが必要だと、高田さんの話を聞きながら思った。その責任は、審判養成の関係者たちだけでなく、サッカーにかかわるすべての人、サッカーを楽しむすべての人にある。
 
(2007年3月7日)
クリエイティブ・コモンズ・ライセンス

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1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。

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