サッカーの話をしよう

No.651 試合は誰のものか

 「試合は、いったい誰のものか----」。最近、Jリーグの試合を見ながら、よくこんなことを考える。「誰に所有権があるか」という話なら、間違いなくホームクラブである。私が考え込むのは、「誰のための試合か」という点だ。
 プロの試合は、入場券を購入してスタンドに足を運んでくれる人がいて成立する。年間何億円というスポンサー収入やテレビ放映権収入も、根源をたどれば試合を見るために何万人かの観客が集まるという事実にぶつかる。まばらにしか観客のいない試合に、誰が広告を出すだろうか。
 それなのに、Jリーグの試合では、観客を無視し、「自分たちのためだけの行為」が横行していると感じるのだ。

 たとえば試合の終盤に行われる選手交代だ。
 勝っているチームの選手たちは、決まって、ゆっくりと歩いて出る。10秒でも余計に時間をかけ、楽に勝とうとしているのだ。ほんの数秒前まで精力的にダッシュを繰り返していた選手が、急に力が消えてしまったかのようにだらだらと退場していく。まるで「これが最後の仕事」と考えているかのように...。
 そうした姿は、観客の目にはどう映るのだろうか。私が観客なら怒る。私は、毎試合終了時間が近づくと、「ああ、もう終わってしまうのか」と悲しくなってしまうからだ。常人にはまねのできない技巧、信じがたいほどのがんばりを、もっともっと見ていたいと思うからだ。つまらない時間かせぎでその楽しみを奪われたら、怒るのは当然だ。

 6月9日、千葉との試合前に横浜F・マリノスの齋藤正治新代表が記者会見を開き、「2010年までに、年間の総観客数を100万人にする」という目標を語った。年間20試合として1試合平均5万人は、現状の2倍以上の数字。気が遠くなる目標に違いない。「この目標に向かって、クラブの各機能の力を集約する」と齋藤代表は力説した。
 しかしその試合、1−0のリードで迎えた終盤、横浜FMの選手たちは当然のようにゆっくりと歩いて交代した。退場でひとり少なくなっていたかもしれない。だがどんな状況でも最後まで全力でプレーすることこそ、観客に対するプロとしての最低限の責務のはずだ。私はゆっくり交代することで勝利に近づくとは思わないが、たとえそうであっても、そのために最も大事な観客を裏切っているのだ。

 横浜FMだけを非難するつもりはない。現在のJリーグには、「誰のための試合か」と疑いたくなるようなシーンがあふれている。コーナーまでゆっくりと歩いていくCKキッカー、少し痛いだけで大げさにピッチに倒れ、起きようとしない選手...。
 安っぽいヒロイズム、子どもっぽい甘え...。そういうものを一掃し、観客が心から満足するような試合を提供しなければ、観客は、増えるどころか、次第に離れてしまう。
 「試合は誰のものか」。選手もチームも、もういちど白紙の状態で考える必要がある。
 
(2007年6月13日)

No.650 エゴかチームプレーか

 「中村憲剛のようなクオリティーの選手が、近くにフリーの選手がいたのに自分でシュートして外した」
 6月1日に静岡で行われたキリンカップのモンテネグロ戦後の記者会見で、日本代表のイビチャ・オシム監督は「いい時間帯もあったが、個人プレーに走る選手がいるのは問題だ」と強調した。一例として出したのが、2−0で迎えた後半9分のMF中村憲のプレーだった。
 相手陣深く、右サイドでパスをつないで起点をつくり、DF駒野が中央へドリブルではいって横パスを送る。それをFW高原がスルーすると、ゴール正面で中村憲がフリーとなった。あわてて寄せてくる相手DF。中村憲の左から上がってくるMF山岸は完全なフリーだ。しかし中村憲は、二歩、三歩とボールをもつと、強引にシュートを打った。相手に詰められ、余裕がなかったシュートは、右上に外れた。これを、オシム監督は「目立ちたい一心のプレー」と断じたのだ。

 たしかに左の山岸に出していれば、もっとフリーでシュートが打てたかもしれない。あるいは山岸からの強く低いクロスが中央に飛び込む味方に合ったかもしれない。しかし中村憲自身は、相手DFの体勢から山岸へのパスをカットしようと狙っていると感じ、瞬時に自らのシュートを決断したのではないだろうか。
 「サッカーに正解はない」とは、日本代表や横浜FMなどの監督を務めた岡田武史氏の口ぐせだ。ある瞬間に、何かの決断を下し、実行に移さなければならない。別の道を試してみることはできない。監督や選手にできるのは、経験をもとに決断を下したら、あとは自らを信じて実行することだけだ----。
 試合を見ていて、明らかに「エゴ」と感じるプレーもある。チームの勝利のためのプレーではなく、自分自身の満足のためのプレーである。しかしこのときの中村憲は、明らかな「エゴ」とは感じられなかった。

 「たとえば1点をリードされている状況だったら、同じプレーをしただろうか」と、オシム監督は判断の基準を示した。たしかにひとつの指針にはなる。しかし中村憲の判断が私の想像どおりだったとすると、リードされている状況だからこそ、同じプレーをしたかもしれない。
 モンテネグロ戦の後半、日本のリズムが崩れたのは、チーム全体に「自分のいいところを見せよう」という雰囲気が広がり、プレーが少しずつ遅くなったためだった。オシム監督はそうした雰囲気を危惧し、チーム全体に強く警告を与えるために、彼が最も信頼する選手のひとりである中村憲のプレーをあえて挙げたのだろう。
 サッカーに「正解」はない。しかし「間違った判断」はある。それがいくつも積み重なっていったら、チームは大きな打撃を受ける。オシム監督の警告をチーム全体でしっかり感じ取れたら、日本代表はひとつ前進できるはずだ。
 
(2007年6月6日)

No.649 Jリーグは世界で第6位

 3月3日に開幕したJリーグは今月末までに13節を終え、早くも全日程の3分の1を突破した。5月にはいって上位チームのもたつきが続くなか、先週末、千葉に見事な逆転勝ちをしたG大阪が一歩抜け出した観がある。
 一方ヨーロッパでは、続々とシーズンが終了している。ヨーロッパのシーズンは夏から翌年にかけての「越年制」だ。そのなかで、ドイツのブンデスリーガが、今季も「第1位」を確定した。1試合平均観客数の話である。

 ブンデスリーガ1部は、Jリーグと同じ18クラブで構成されている。全306試合で集めた観客は1189万9765人。1試合平均にすると3万8888人となる。2位はイングランドのプレミアリーグで1試合平均3万4363人だった。ただし総観客数では、20チームで構成され、全380試合のプレミアリーグが100万人以上多い。
 それでは、日本のJリーグは、世界各国のサッカーリーグのなかで、1試合あたりの観客数ではどのくらいの順位になるのだろうか。
 正解は、第6位。3位スペインの「リーガエスパニョーラ」、4位イタリアの「セリエA」、そして5位フランスの「リーグアン」のすぐ下に位置するのだ。Jリーグ1部(J1)の昨年の総観客数は559万7408人。1試合平均では1万8292人だった。

 この数字は、ヨーロッパではオランダ、トルコ、スコットランド、ポルトガルなどをしのぎ、ヨーロッパ以外ではトップにあたる。もちろん、アルゼンチン(1万7363人)、ブラジル(1万2385人)といった南米の強豪国も含めての話である。
 さらに、今季のJリーグには観客増加の傾向が見られる。第13節を終了した時点で1試合平均1万8964人。1試合あたり672人の増加ということになる。
 大幅に増やしているクラブもある。昨年4万5573人という世界でもトップ20にはいろうかという観客数を記録した浦和は、今季のホーム7試合で平均5万0996人と5000人以上も増やし、川崎も4000人以上の増加を見ている。
 大幅に減っているのは磐田1チーム(1万8002人から1万3264人)だけで、7クラブが「微減」、浦和を筆頭に11クラブが観客数を増やしているのだ。

 観客数は、天候やチームの調子、順位などでも左右されるが、下位でも大宮のように3000人以上の増加を示しているクラブもある。観客を増やそうという各クラブの努力が次第に実を結び始めてきていることがわかる。
 Jリーグの観客数は、2004年に10年ぶりに平均1万8000人を突破し、過去3年間、この数字を維持してきた。この「安定期」から、2万人の壁を突破すべく、「飛躍期」にはいったのではないか。来年あたり、フランスのリーグアン(今季は1試合平均2万1811人)を抜き、「世界第5位」に進出することも十分可能だ。
 
(2007年5月30日)

No.648 アピールする

 最近、ひとつの言葉にひっかかって仕方がない。
 「アピールする」
 スポーツ新聞の選手のコメントに、毎日のように登場する言葉だ。たとえば日本代表の合宿に初めて呼ばれた選手の口から、判を押したようにこの言葉が出る。
 監督に自分のいちばんいいところを見てもらい、認められたい----。その気持ち自体は、よく理解できる。
 「サッカーはひとりでする競技」。Jリーグの育成年代を担当するあるコーチの口からこんな言葉を聞いたことがある。小学校から中学、高校、そして大学、あるいはJリーグへと上がるたびにチームを移る。新しいチームでは誰も自分のことなど知らない。なんとかして、認められなければならない...。
 現在の日本のトップクラスの選手たちは、多かれ少なかれこうした環境で育ってきた。厳しい競争を勝ち抜き、自分の力を認めさせ続けてきたから、現在の地位がある。「アピール」は、別に新しいことではないのだろう。

 しかし----。私はここでひっかかる。
 サッカーという競技の目的は、チームとして相手に勝つことだ。もちろんリーグ表彰にも「MVP」や「得点王」があり、「個人記録」も残される。だがそれはすべて枝葉末節にすぎない。個々の選手のすべてのプレーはチームの勝利のためにあるはずだ。これまで新しいチームでポジションを得られたのは、勝つために必要な選手であることを証明できたからに違いない。
 「チームが勝っても自分がいいプレーができなければ満足はできない」という気持ちは当然のことだ。しかし「チームは負けたけど自分は得点したから満足」などと思っている者がいたら、サッカー選手としては信頼に値しない。
 信頼できる選手とは、チームの勝利だけを目指して戦い抜く選手だ。自分自身がどんな状況にあろうと、キックオフの瞬間から終了のホイッスルまで、勝つためにどうしたらいいかに集中し、考え、体を動かす選手だ。

 そうした選手が初めて日本代表候補合宿に呼ばれたとしよう。彼は、チームがどんなサッカーを目指しているのか、監督の言葉や練習から考え、実行しようと努力するだろう。そして練習試合でやたらに1対1の勝負を仕掛けたり、無意味にボールをまたいだりなどしない。試合が始まったら、チームの勝利だけを考え、攻撃と守備を懸命に繰り返す。
 そんな選手があちこちに出始めている。それは、日本において、「サッカーという文化」が広まっただけでなく、深まってもきたことのあかしのように思う。しかしその一方で、残念ながら、「チームゲーム」というサッカーの本質を理解しない選手がまだ数多くいることも事実だ。
 心ある監督であれば、選手に「アピール」など求めない。チームの勝利に貢献できる「本物のサッカー選手」であるかどうかだけを見極めようとするに違いない。
 
(2007年5月23日)

No.647 海藤さんと奈良原さん

 天候はなかなか安定しないものの、木々の緑が日々に濃くなっていくのがわかる。しかし日本の四季で最も心地良い5月に、相次いで悲しい知らせが届いた。私にとって仕事上の「恩人」が続けて亡くなられたのだ。
 5月3日に海藤栄治さん(享年71歳)が帰らぬ人となり、12日には奈良原武士さんが69歳の若さで後を追うように旅立たれた。

 海藤さんは、日本サッカーリーグ時代に本紙で健筆を振るわれ、卓球の報道でも高名なスポーツ記者だった。Jリーグのスタートを目前にした93年4月、当時運動部長だった海藤さんの「鶴のひと声」で本紙夕刊スポーツ面にサッカーのコラムを定期掲載することが決まった。海藤さんは本コラムの「生みの親」である。
 運動部の記者だった財徳健治さんからの推薦を無条件に信頼し、海藤さんは、フリーのライターとしてはほとんど実績もなかった私に連載を任せることを決断された。以後、このコラムは私の仕事の根幹となった。

 奈良原さんは共同通信のスポーツ記者として活躍された方である。60年代、創刊されたばかりの『サッカー・マガジン』(ベースボール・マガジン社)から海外情報の記事の依頼を受け、毎月寄稿するうちにサッカーにのめりこんだ。日本人記者としてワールドカップを初めて取材された数人のうちのおひとりである。1970年のメキシコ大会のことだった。サッカー界では「鈴木武士」の名前で執筆されていた。
 79年から91年にかけては、ボランティアで日本サッカー協会機関誌『サッカー』の編集長を務められた。依頼した原稿がなかなか届かず、発行が遅れることもたびたびだったが、奈良原さんが丹精を込めて編集された全98巻は、当時の日本サッカーの貴重な記録だ。87年には『天皇杯六十五年史』、96年には『日本サッカー協会75年史』(ともに日本サッカー協会発行)という膨大な資料の取りまとめにもご尽力された。

 私がフリーになったばかりの88年、「暇だろうから機関誌に何か書け」と奈良原さんから命じられ、9月開幕の日本リーグの新シーズンのプレビューを書いた。
 しかし取材費など出ない。仕方なくすべて電話取材で済ませた。全12チームの監督の自宅に、夜、電話して話を聞いたのだ。まだそんなことができる時代だった。もちろん私は奈良原さんから言い渡された締め切りを守ったが、機関誌の発行はこの号も大幅に遅れ、「プレビュー」の記事が出たのは開幕して1カ月も経たころだった。なにはともあれ、これが私にとっての「デビュー作」だった。
 「サッカージャーナリスト」と名乗ることにさえ、ためらいやとまどいがあった当時、海藤さんや奈良原さんをはじめとした先輩がたがチャンスを与えてくださったことを忘れることはできない。
 合掌。
 
(2007年5月16日)

サッカーの話をしようについて

1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。

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