サッカーの話をしよう

No.656 大きく成長した日本代表

 「たしかに走る量は増え、走ることでチャンスをつかむ回数も多くなった。でもただ走ればいいというものではない。走らないほうが良いときなら走らない。頭を使い、考えながらやっている」
 地元ベトナムとのアジアカップ1次リーグ最終戦を控え、日本代表MF遠藤保仁(G大阪)は落ち着いた口調でこのような話をした。
 昨年7月にイビチャ・オシム監督が就任して以来、初めて長期間をともに過ごし、緊張を強いられる大会を経験している日本代表。そのなかで、チームがオシム監督の目指す方向にぐんぐん成長しているのがわかる。
 昨年はJリーグの選手だけで7試合を戦った。ことしにはいってから「ヨーロッパ組」を招集し、そのなかでMF中村俊輔(セルティック)とFW高原直泰(フランクフルト)がこの大会の代表に選ばれた。そして3試合を通じて意思疎通がスムーズになり、全員が共通のイメージをもってプレーできるようになった。

 この大会には暑さという小さからぬ要素がある。気温33度、湿度70パーセントという過酷な条件の下で90分間ハイペースのプレーを続けることなど不可能だ。しかしオシム監督は、どのようにプレーをコントロールするかなど指示はしていいない。ひたすら、「日本のサッカー」を実現することだけを求めている。そして練習や試合を見ていると、そうしたサッカーが姿を現しつつあることがわかる。
 もしこの大会がもっと気候条件の良い場所や季節に行われていたら、いまの日本の攻撃を食い止められるチームはアジアにはなかっただろう。それくらい、現在の日本の攻撃には驚きがある。

 アクションを起こす。それによって生まれたスペースを他の選手が使う。そうしたプレーが連続し、タイミングの良い動きとシンプルなパスの組み合わせが大きな驚きを生む。頻繁にポジションを入れ替えながら次つぎとスペースをつくり、使うサッカーは、「日本型トータルフットボール」とも言える。
 他チームの監督たちは口をそろえて「日本にはいい選手がたくさんいる」と語る。しかし日本が頼るのは個人の力ではなく集団プレーであることを、日本の選手たちがいちばんよく理解している。

 FW高原のシュート能力は本当にすばらしい。MF中村俊のテクニックと視野の広さは、チームの大きな力になっている。しかし彼らのそうした能力がチームにとって価値があるのは、彼らも他の選手たちとまったく変わらず「チームとして驚きをつくる」プレーに徹しているからだ。
 準々決勝の相手はオーストラリア。最初はもたついたが、1次リーグ3試合で調子を上げてきた。強豪中の強豪だ。しかしどんな結果になっても、2010年ワールドカップに向けて、今大会が日本代表の重要なステップになるのは間違いない。
 
(2007年7月18日)

No.655 ベトナムの情熱

 ハノイ西郊のミディン・ナショナルスタジアムは4万人の観客で埋まり、壮絶な雰囲気のなかにあった。
 満員の観客は1プレーごとに反応し、一体となって歓声を上げる。両サイドに架けられた巨大な屋根にその歓声が反響し、ピッチ上で戦う赤いユニホームのベトナム代表に巨大な力を与え、その相手となった白いユニホームのUAE代表は新たないけにえとなった。アジアカップB組の初戦、最も弱いと予想されていたベトナムが、強豪UAEを2-0で下したのだ。 

 ベトナムは、オリンピックにもワールドカップにも出場したことがない。現在のFIFAランキングは142位。しかし20世紀の4分の1を、戦火で国土が焦土と化すなかで過ごしながら、この国の人びとのサッカーへの情熱は衰えることを知らない。
 インドシナ半島で最初にサッカーが盛んになったのは、この国の南の中心地であるサイゴン(現ホーチミン)だった。19世紀半ばからベトナムを植民地としていたフランス人の手により、1923年には「コーチシナ・サッカー協会」が設立され、34年にはフランス・サッカー協会の一地域となった。
 「コーチシナ協会」は48年に「ベトナム・サッカー協会」と改称され、4年後には国際サッカー連盟(FIFA)への加盟も果たす。54年にはアジア・サッカー連盟(AFC)の創設メンバーのひとつとなり、56年、60年の第1回、第2回アジアカップでは連続して4位を占めた。

 ところが第2次世界大戦後に始まったフランスとの独立戦争で最終的な勝利を収めた54年、国土は南北に分断され、ベトナムは米ソ冷戦の熱い最前線となって後のベトナム戦争へと突入していく。
 北ベトナムは62年に独自のサッカー協会を設立、2年後にはFIFAへの加盟を果たす。しかしAFCは南ベトナムの要請で北の協会の加盟を認めなかった。当然、国際舞台での活動は著しく制限されることになる。
 75年、ようやくベトナム戦争が終結し、「南ベトナム」という国が消滅して、北ベトナムのサッカー協会がこの国を統轄するサッカー組織となる。80年には全国リーグも始まった。しかし社会主義政権の下、国の復興に時間がかかり、サッカーの強化も進まなかった。新生・ベトナムのワールドカップ・アジア予選初出場は、94年アメリカ大会のことだった。

 96年、新組織のプロリーグ(Ⅴリーグ)が発足し、ベトナムのサッカーは急成長の時代を迎える。そして現在ではタイと並ぶ東南アジアの二強と言われるようになり、その力は今回のアジアカップ初戦で見事に証明された。
 UAEに快勝した晩、ハノイ中心部の大通りでは、何千台ものバイクに乗った若者たちが赤地に黄色い星を描いた国旗を誇らしげに掲げて走り回っていた。その姿を見て、この国も、世界に数多(あまた)ある「サッカー狂国」のひとつであることを実感した。
 
(2007年7月11日)

No.654 1対1はゴールへ向かうな

 カナダで行われている「U−20(20歳以下)ワールドカップ」。日本の初戦は、ヨーロッパ予選で2位という強豪スコットランドに対する見事な勝利だった。
 大柄な相手に対し、小気味良くパスを回し、ドリブルで突破し、守備でも鋭い出足でボールを奪ってリズムをつかんだ。3−1の勝利は当然の試合内容だった。
 そのなかで「おや?」と思うシーンがあった。後半30分過ぎ、MF柏木(広島)の見事なスルーパスでFW森島(C大阪)が右からフリーで抜け出したときだ。決定的なチャンスだったが、シュートは前進したGKマクニールの体に当たってはね返された。

 「おや?」と思ったのは、U−20ワールドカップだけでなく8月から始まる北京オリンピックのアジア最終予選でも活躍が期待される森島のような選手でも、GKとの1対1の基本的なプレーができていなかったからだ。
 DFラインを完全に置き去りにして、GKさえ破れば得点となる「1対1」は、1試合に1回あるかどうかという絶好機。これを確実に決められれば得点力はぐっと上がるし、チームも楽になる。しかし実際には、森島のケースのようにGKに防がれることが非常に多い。ドリブルの「方向」が間違っているのだ。
 大半の日本のストライカーは、どんな場合でもゴールにまっすぐ向かってドリブルしていく。追走してくる相手DFにつかまる恐怖があるからだ。しかしGKから見ると、これは非常にありがたい。

 GKのポジションはボールとゴールの中心を結ぶ線上が基本だ。相手がまっすぐ向かってくれば、左右にポジションを動かさずに冷静に前進のタイミングを計りさえすればよい。GKにとっては失うものなどない状況。思い切り相手の足元に飛び込むと、シュートは体のどこかに当たる。
 少しでも左右どちらかのサイドからの突破だったら、ストライカーが向かうべきは「ゴール」ではなく「シュートを打つ場所」だ。シュート力にもよるが、常識的にはペナルティーエリア正面の「アーク」と呼ばれる弓形の周辺だろう。
 ここに向かっていけば、最終的にゴール正面の最も得点の確率の高い場所からシュートができる。そのうえGKから見れば左右にポジションを修正しなければならず、より難しい状況になる。ストライカーは、シュートのときに驚くほど優位に立っていることがわかるはずだ。

 それだけではない。逆サイドからカバーをする相手DFがきたとしても、この方向のドリブルはDFにとってはピッチを横切るような動きに感じられ、タックルのポイントがつかみにくく、非常に嫌なプレーなのだ。
 GKとの1対1の状況で得点の確率を上げる秘訣は他にもいくつかある、しかしまずは「ゴールに向かう」という無意識のプレーを捨て去り、GKの立場から見て守りにくいドリブル方向を工夫する必要がある。
 
(2007年7月4日)

No.653 胸を張れ敗者

 最近、ひとつのシーンを探して3万枚近くのJリーグの写真を見る作業をした。しかし結局見つからなかった。
 探していたのは、「胸を張る敗者」だ。
 誰でも勝つことを目指して練習し、試合に臨む。そして勝つために90分間走り、戦う。スタンドを埋めたサポーターはそんな彼らを信じ、献身的に声を挙げて励まし続けてくれる。しかし勝つ保証など、どこにもない。相手の力が上回るときもある。不運に見舞われることもある。引き分けでなければ、対戦した2チームのうちひとつは「敗者」とならざるをえない。
 一生懸命にやってきたことが報われず、敗戦で終わったことに失意の念を抱かない者はいない。それは日本人に限らず、万国に共通することに違いない。しかしその後の「態度」には、大きな差異があるように感じる。

 Jリーグの試合直後、選手たちがどんな態度をとるのか気をつけて見てみた。すると、負けたチームは、多くの選手が両手を腰に置いて下を向いていた。そしてぞろぞろと歩いてサポーターのいるスタンド前に行くと、まるで不祥事を起こした企業の幹部のように深々と頭を下げた。一方勝ったチームは、互いに抱き合い、握手し合って喜び、サポーターのところに走っていくと手を上げて歓呼に応えた。
 ヨーロッパのサッカーにはこんなシーンはない。試合が終わると、ただ近くの選手と握手をかわし、集まるでもなく、スタンドに手を振りながらあっさりと引き上げてしまう。それだけを見ていると、どちらが勝ったのかさえわからないときがある。

 こうした差異の背景のひとつには、「あいさつ」という文化の違いもあるだろう。「かたち」のなかに心を込める日本。そしてストレートな表現で心情を伝え合うヨーロッパ。文化なのだから、どちらがいいという話ではない。
 しかしそれ以上に感じるのが、「敗戦は悪」、「恥じ入らなければならない」という日本固有の感覚だ。下を向くのは「自分は恥じ入っている」ことを示し、深々と頭を下げるのは「謝罪」を示す形式だ。
 たしかに情けなくなるような敗戦もあるだろう。しかし勝負は時の運。選手にできるのは、全力を尽くすことだけだ。その結果、力が及ばなかった敗戦なら、それが意味するのは、よりいっそうの努力が必要ということだけだ。

 敗戦はスポーツの結果のひとつにすぎない。けっして「悪」ではないし、「恥じ入る」必要もない。そうしたことをファンに示すのも、プロ選手たちの責任だと思う。
 敗戦の悔しさを押し殺して顔を上げ、相手チームの選手たちと健闘をたたえあい、そして応援してくれたサポーターたちに感謝の拍手を送って引き上げていってほしい。下を向くのは、チームバスがファンの人波を離れてからでいい。スタジアムでは、「堂々と胸を張る敗者」であってほしいと思うのだ。
 
(2007年6月27日)

No.652 木陰

 「Jリーグのクラブも、こんな存在にならないといけないな...」
 道を歩きながら、そんな思いにとらわれた。
 先週の週末は、梅雨入り後とは思えないすばらしい好天だった。とくに土曜日は、雲ひとつなく、空気も澄み、夏至間近の強烈な日差しがじりじりと照りつけた。しかしグラウンドに向かう道は、思いがけなく快適だった。桜の並木が見事な木陰をつくっていてくれたからだ。

 ほんの3カ月前は枯れ枝につぼみがふくらみ始めたころだったはずだ。あっという間に開花し、満開となり、花が散ると若葉が出て、いまは青々とした葉を枝いっぱいに茂らせている。そしてその枝は、太陽からのエネルギーを少しでも多くとらえようと大きな広がりを見せている。生命の神秘を思わざるをえない。
 地中に張り巡らせた根から吸い上げられた水分は、太い幹を通り、枝を伝い、何十万枚もの葉の隅々にまで送り込まれる。濃い緑の葉は、その水分と太陽のエネルギーを原料に、樹木を育てる栄養をつくり出す工場だ。
 しかし樹木は、大きく枝を広げて自らを成長させているだけではない。酸素を放出し、先週末のような日差しの下では私たちに美しい木陰を提供し、そして、なぜか人間の心を落ち着かせる景観まで与えてくれるのだ。

 冒頭に書いた思いにとらわれたのは、ここまで考えたときだった。
 Jリーグのクラブには、根を張るべきホームタウンがある。この樹木に豊かな水分を提供しているのはホームタウンにほかならない。ホームタウンは、練習や試合の会場を提供し、その人びとは入場券を買ってスタジアムを埋め、無条件の愛情を注いで声援を送ってくれる。ホームタウンがなければ、Jリーグ・クラブという木はすぐに枯死し、倒れてしまうだろう。
 では、クラブはホームタウンにどんな恩返しをしているのか----。人びとに喜びを与えているだろうか。誇りになっているだろうか。そして、強烈な日差しをさえぎり、人びとに安らぎを与える木陰を提供しているだろうか。

 もしかすると、自らのための水分を確保することだけに汲々として、ホームタウンにどんな価値を還元するのかにまで思いが至らないクラブもあるのではないか。あるいはまた、自らが目立とうとするあまり、枝を広げずにひたすら上へと伸び、「ランドマーク」にはなっても、豊かな木陰を人びとに提供できないクラブもあるのではないか。
 成長するために根を張り、枝を広げ、天に向かって青葉を茂らせる自らの精いっぱいの生命活動のなかで人びとに無限の恩恵を与えている樹木。そうした「生命の達人」の域になるのは大変だろうが、Jリーグのクラブがもしそれに近づけたら、「百年」どころか、「千年」のいのちも可能になる。
 
(2007年6月20日)

サッカーの話をしようについて

1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。

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