サッカーの話をしよう

No.761 テレビの力

 日本代表がガーナと対戦した国際親善試合(9日、ユトレヒト)の平均視聴率は10.7%だったという。
 日本協会の主催試合。相手国がつくった映像を受けてコメントをつけるという形はとれず、中継のTBSはたくさんの機材と20人を超すスタッフをオランダに送り込まなければならなかった。そのおかげで日本のファンは大逆転勝利(4-3)を見ることができた。
 実は、きょう9月16日は、サッカーにとって「テレビ記念日」とも言うべき日である。1937年、72年前のきょう、イギリスのBBC放送が史上初の生中継を行ったのだ。ただし正式の試合ではなく、アーセナルのトップチーム対サブチームの練習試合だった。
 3台のカメラを使用し、2台は両ゴール裏に置かれ、もう1台はスタンド上部の中央に設置された。アーセナル・スタジアムのメインスタンド上部からは北に約5キロ離れたBBCのビルまで見通すことができた。テレビ信号は無線で送られた。
 BBCが世界に先駆けてテレビの本放送を開始して1年たらず、受像機の普及も進んでいなかった。当時は1日わずか1時間、午後3時から4時までの放送。もちろんモノクロだった。
 この日の「アーセナル紅白戦」は言わばサッカーの生中継のテスト。1時間のうち割り当てられたのは、15分間だけだった。だが、「小さな画面でもサッカーの迫力を楽しむことができた」と、非常に好評だったという。
 この成功に力を得たBBCは、翌年4月にはロンドンで行われたイングランド対スコットランドの国際親善試合、そしてFAカップ決勝(プレストン対ハダーズフィールド)をフルで生中継する。
 だが当時のサッカー界、なかでもクラブは、テレビに大きな恐れを抱いていた。生中継されればわざわざスタジアムにくる人などいなくなると考えていたのだ。驚くことに、その考え方は1980年代まで根強く残っていた。地元クラブの試合の生中継が見られるようになるのは、90年代にはいってからだ。
 サッカーとテレビが本格的に結び付くには最初の放送から半世紀以上の歳月を必要としたが、いまや両者は切り離せないものとなった。「10.7%」は高い率ではないが、稲本潤一が冷静かつ正確なシュートでガーナのゴールを破った瞬間を見た人が、日本中で1000万人以上いたことになる。テレビがもつ影響力の大きさ、ファンに与える喜びの大きさは計り知れない。
 
(2009年9月16日)

No.760 エピ・ドロストの伝説

 先週土曜日にオランダ代表×日本代表戦が行われたオランダ東部のエンスヘーデ。会場の「デ・グロルシュ・フェステ」は、この町の強豪クラブ、FCトウェンテのホームスタジアムである。そのクラブショップで興味深いものを見つけた。
 白黒写真のポストカード。口ひげ、長髪の見知らぬ選手だった。店員に聞くと、誇らしげな表情で答えた。
 「エピ・ドロスト、『ミスターFCトウェンテ』だよ」
 FCトウェンテは、エンスヘーデ市の2つのクラブが合併する形で1965年に誕生した。「トウェンテ」とはエンスヘーデを含むこの地域の名称だ。
 黄金時代は70年代の前半。1部リーグで優勝争いに加わり、75年にはUEFAカップで準優勝を飾った。決勝は西ドイツのボルシアMGに屈したが、準決勝ではイタリアのユベントスを下した。そのチームの主将が、エピ・ドロストだった。
 「DFだったが優雅な技術と見事な攻撃参加で非常に人気があった。なかでもロングシュートは彼の代名詞だった」(地元で40年間サッカーを見ているヤン・デブルイン記者)
 66年、21歳のときにFCトウェンテに移籍、以後ほぼこのクラブ一筋で通し、合計548もの試合に出場した。34歳でいちど現役を離れたが、38歳で現役復帰し、クラブの降格危機を救った。
 FCトウェンテは98年に新スタジアムを建設、08年には西側と北側に2階席を付けて収容をそれまでの倍以上の2万4000人に拡大した。来年には3万4000人、再来年には4万人と拡大する計画だという。
 だがドロストはこの新スタジアムを見ることはなかった。95年5月、友人たちとサッカーを楽しんでいる最中に心臓発作で倒れ、49歳で帰らぬ人となってしまったのだ。
 昨年の大改修の際、サポーターが陣取る北側2階席に大きくドロストの顔が描かれた。スタジアムに冠された「グロルシュ」は地元のビール会社の名前。改装資金を負担したことで08年に命名権を獲得したのだが、以後、ファンは「エピ・ドロスト・スタジアム」と呼ぶようになった。
 「トウェンテは大クラブではないが近年はオランダで最も良質のサッカーをすると定評がある」とデブルイン記者。だがファンは現在のチームへの愛だけで生きるのではない。歴史を語り継ぎ、クラブのために奮闘した名主将の名と誇りを伝え続けることがもたらすものは小さくはない。


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エピ・ドロスト
 
(2009年9月9日)

No.759 ベスト4宣言は生き方の話

 「ワールドカップでベスト4」などと言ったら、世界中が笑うに違いない。なにしろ、ホームで開催された02年大会を別にすれば、2大会、6試合で1分け5敗という悲惨な成績の日本なのだ。
 日本にも笑う人がたくさんいる。だが、日本代表監督・岡田武史は、ことし1月、意を決してそう宣言した。
 「岡田監督は目標はワールドカップ・ベスト4と語っていますが、可能でしょうか」
 以来、日本代表と対戦したチームの監督会見では、必ずこうした質問が出た。通訳された質問を聞いて、外国の監督たちは一様に困惑した顔をした。そして適当なコメントでお茶を濁した。
 「サッカーに不可能はないよ」云々。
 「ワールドカップ・ベスト4」と言っても、日本のサッカーはその距離感さえつかめない。出場4回目。02年にはベスト16に進んだが、他の2大会では勝利さえない。常識的には「1次リーグ突破」が現実的な目標だ。それさえ世界から見れば「奇跡」だろう。ベスト4になるには、そこからさらに2試合勝たなければならない。
 しかし私は岡田監督を笑う気にはなれない。いや、「それしかない」とさえ思う。
 日本はアジアでは確固たる地位を築き、ワールドカップ出場自体はもはや「挑戦」ではなくなった。だが上位進出が見込めるわけでもない。大きな期待を受けた06年大会も1分け2敗だった。世界のトップクラスとの力量差、競技環境の差を考えると、1000メートルもの岩壁を見上げたときのような、途方に暮れた思いを抱かざるをえない。普通に準備して大会に臨んでも、失望を繰り返すだけだ。
 だから「ベスト4宣言」なのだ。
 出場権を得たことで満足せず、その上に行くんだという高い「志」を抱き、生活のすべてをワールドカップで勝つことに向けた努力に費やす―。巨大な壁を乗り越えるには、尋常ではない覚悟と努力を必要とする。
 「ベスト4宣言」は「生き方」の話だ。可能かどうかを検証するものではない。問うべきは、それに向かって選手たちが毎日を生きているかどうかだ。
 ワールドカップ開幕まで9カ月あまり。その覚悟が問われる絶好の機会が訪れた。今週土曜、アウェーでのオランダ戦だ。「ワールドカップ・ベスト4クラス」を相手に、日本代表はどんな戦いを見せてくれるだろうか。いまは笑われてもいい。本気で挑んでいる姿勢を示してほしい。
 
(2009年9月2日)

No.758 背番号誕生物語

 「クラブカラーの神聖さをけがすものであり、禁止とする」
 1928年8月末、イングランド・サッカー協会(FA)とイングランド・リーグ(FL)が、傘下の4クラブに通達を送った。禁止されたのは「背番号」だった。
 「観客がもっと選手の区別をしやすいようにしよう」
 アーセナルのチャップマン監督の呼び掛けに応え、シェフィールド・ウェンズデー対アーセナル、チェルシー対スウォンジーの2試合で、選手たちが背番号をつけてプレーした。ホームチームが1番から11番、ビジターが12番から22番だった。
 サッカーのみならず今日のスポーツに不可欠な背番号。しかし最初から使われていたわけではない。サッカーで記録に残る最初の背番号使用例が、1928年8月25日にその4クラブが出場したFLの試合だった。
 いちどは禁止された背番号。再び登場したのは5年後、33年のFAカップ決勝のことだった。ラジオ放送のコメンテーターを助けるためだった。やはり1から22の「通し番号」がつけられた。
 ようやくFAとFLが全試合で背番号をつけることを決めたのが1939年。しかし第二次世界大戦の勃発でそれどころではなくなり、背番号つきのリーグが始まったのは戦後の46年のことだった。
 このときには両チームがそれぞれ1番から11番をつけた。そしてGKが1、「フルバック」が2と3、「ハーフバック」が4から6、そして「フォワード」が7から11という今日に続く背番号のイメージができた。
 ちなみに、日本に背番号の習慣が生まれたのは1930年代の初めだった。ただ、最初は左ウイングが1番、以下FWが5番までつけ、ハーフバック、フルバックと番号が増えていってGKは11番をつけていたと、故・高橋英辰さん(日本代表や日立などで監督、後に日本サッカーリーグ総務主事も務める)から聞いたことがある。
 おもしろいことに、今日もサッカーのルールには背番号に関する規定はない。「つけなければならない」という決まりもない。背番号は、それぞれの大会規定によって定められているだけなのだ。
 今日では、背番号はポジションではなく、選手個人を示すものとなった。そして選手のイメージと背番号は不可分なものとなった。それぞれの背番号にはそれぞれの物語がある。だが背番号そのものにも、興味深い「誕生物語」がある。
 
(2009年8月26日)

No.757 サッカーにミスはない

 「まだミスしていない人がいるぞ!」
 練習試合の半ば、相手チームのコーチがこんなことを叫んだ。
 「安全なことばかりしていないで、もっとチャレンジしよう!」
 なるほどと思った。とても大事な指摘だ。そして急に、好きな映画の1シーンが頭をよぎった。
 『セント・オブ・ウーマン/夢の香り』というアメリカ映画。盲目の退役軍人である主人公(アル・パチーノ)が、出会ったばかりの若い女性にタンゴを教えようと申し出るシーンである。
 「間違えるのがこわい」と尻込みする女性に主人公はこう言う。
 「人生と違って、タンゴでは間違えるということはない」
 「もし間違って足がからまっても、踊り続ければいい」
 私は、「サッカーはミスのゲーム」と思っている。「果てしなく続くミスのゲーム」と言い替えてもいい。シュートを打ってもゴールの枠をとらえられるのは3本に1本程度。ドリブル突破の試みはタックルに阻まれ、単純なつなぎのパスさえインターセプトされる。試合のなかでパスが20本以上つながることなどまずない。
 日本のサッカーのレベルが低いためではない。世界のどんなレベルのサッカーを見ても、UEFAチャンピオンズリーグやワールドカップでも、選手たちは頻繁にミスを犯す。
 逆に言えば、ミスがあるという前提で「プレスをかける」という積極的な守備が生まれ、試合が緊迫感をもったものになる。ただ自陣に引き下がるのではなく、果敢にボールを奪いに行こうと動く。そこで奪えなくても、次の選手がパスの出先に激しく詰め寄る。ミスの存在こそサッカーの生命力と言っていい。
 ところがコーチたちは極端にミスを嫌う。もちろん集中力不足のミスは避けなければならないが、果敢にチャレンジした結果のミス(ミスと言えるかどうか)まで非難するコーチがいる。コーチのみならず、味方選手のミスに対しあまりに不寛容な選手も多い。
 「失敗は悪」という文化が、私たちの社会にはある。だがそれで安全第一のプレーに走るより、ミスを恐れずに果敢にプレーするほうが確実に伸びる。そしてサッカーがより楽しくなる。
 サッカーが「ミスだらけのゲーム」であるなら、逆手を取って、「ミスは存在しない」と言い換えてもいい。
 「人生と違って、サッカーにミスはない。ただプレーし続ければいい」
 
(2009年8月12日)

サッカーの話をしようについて

1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。

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