
5万2410人。満員のスタジアムがそれだけでもつ「パワー」を、まざまざと感じさせる試合だった。先週の日韓戦の舞台となった東京の国立競技場だ。
韓国に勝てなかったのは残念だったが、日本の果敢な攻守はファンを喜ばせ、安心させるものだった。そしてその力の一部が、「満員のスタンド」から与えられたものであったことは間違いがない。
ことしはじめ、日本協会の事務局は、5月から6月にかけて東京で行われる日本代表の5試合のチケットをどう売るか、真剣に悩んでいた。
Jリーグと同様、日本代表の試合も自動的に完売になる時代はすでに終わっている。昨年9月、ウズベキタンを招待した「日本協会75周年記念試合」では観衆が4万5千を割った。95年のパラグアイ戦は2万2000、サウジアラビア戦は3万7000だった。
「ワールドカップを目指す日本代表をサポートするには、国立を満員にすることがいちばん」という思いが、当時の協会事務局の空気だった。
その意味では、5月の日韓戦は大成功だった。だがこれからはどうだろう。キリンカップのクロアチア戦(6月8日)は? ワールドカップ予選マカオ戦(23日)、ネパール戦(25日)、そしてオマーン戦(28日)は?
これらの試合の観客数が日韓戦を上回る、あるいは近い数字までいくとは思えない。入場料があまりに高いからだ。
東京で行われるキリンカップとワールドカップ予選は、券種、料金とも同じ。「SS席」が6000円、「S席」が5000円、「SA席」が4000円。ここまでが座席指定で、自由席は「A席一般」が3000円、「A席高校生」が2000円、「A席小中生」が1000円となっている。前売りも当日売りも同じ料金である。
カラフルで楽しい応援を見せてくれるゴール裏のサポーターも、大学生だったら毎試合3000円も払わなければならない。予選の3試合をすべて応援しようと思ったら、9000円になってしまうのだ。
「満員にして日本代表を応援したい」という考えなら、少なくともワールドカップ予選では、「自由席3日間共通券5000円」などというサービスができなかったのだろうか。あるいは、とにかくファンに来てもらうために、全体の入場料を安めに設定できなかったのだろうか。
結局のところ、協会はスタジアムを満員にすることより、「カネ儲け」を優先させたのだ。それは5月の日韓戦を見ても明白だ。
この試合では「SS席」と「S席」が通常より1000円高く、7000円と6000円だった。しかもSS席が通常より大幅に広げられ、メインスタンドではS席はゴールラインより後ろ、「ゴール裏」といっていいような席だった。それに押されて、SA席もA席も、見やすい席が通常よりずっと少なくなっていた。
ブラジル代表が相手で、巨額のギャラを払わなければならないなどという特別な理由があるのなら仕方がない。しかし韓国は基本的にノーギャラだった。協会は見事な商才を見せ、「人気カード」で大きな収益をあげたのだ。
協会が高い収益を上げること自体に異論があるわけではない。それが「ファン無視」「サポーター無視」で行われているところが大きな問題なのだ。
スタジアムが満員にならない。それ自体でファンやサポーターの熱は冷め、選手は「力」を失う。
これが「日本サッカー協会」の仕事なのだろうか。
(1997年5月26日)
Jリーグが99年度から大きく変わる。かねてから計画のあった「アクションプラン」が実行に移され、1、2部制になるのだ。
1部は16クラブ、他の参加希望クラブが2部を構成することになる。そして「アマチュア全国リーグ」がその下につくられる。きょうの話は99年にスタートするそのアマチュア全国リーグ。大学チーム参加の提案だ。
日本サッカー協会の登録区分では、Jリーグのクラブも、サッカー好きが集まった町のクラブチームも、そして大学のチームも、まったく同じ、年齢制限のない「第一種」のチームとなっている。
その第一種のなかで同じようなレベルのチームが集まってつくられているのが各種の「リーグ」だ。都府県リーグが基本になり、その上に関東、東海などの地域リーグ、さらにその上に現在はJFLとJリーグがある。いわば「ピラミッド構造」のリーグ組織が、日本サッカーの「骨格」となっているのだ。
だが、この「ピラミッド構造」から離れ、独自のリーグをつくっているチームもある。銀行リーグ、商社リーグなどだ。そしてそのなかで無視できない存在が「大学リーグ」なのだ。
大学サッカーには全国リーグはなく、9地域のリーグが頂点となっている。その下に各都府県のリーグがある。「全日本大学連盟」に加盟校は402校(96年)にのぼる。
無視できないのはその実力だ。大学のトップクラスのチームがJFL程度の力があることは、「第一種」(96年から第二種も)の全チームに門戸が開かれた天皇杯で証明されている。毎年どこかの大学チームがJFLのチームを倒してベスト16やベスト8に進出しているのだ。
Jリーグのチームが大学に負けた例はないが、90年には読売クラブ(現在のヴェルディ)がPK戦で国士舘大学に敗れて大きな話題になった。
Jリーグ時代になって、高校の有力選手は大学よりもJリーグに行く傾向が強い。だが大学にも有望選手が多いことは、95年のユニバーシアード優勝を見るまでもなく明らかだ。その選手たちが、4年間の大半を同年代の選手たちだけを相手に試合しているのは、なんとももったいない。
大学のトップクラスのチームが、実力にふさわしい全国リーグでプレーすることによって、選手たちは大きな経験を積み、選手として成長することができるはずだ。それだけではない。周囲の社会人やクラブチームにも、大きなプラスになるはずなのだ。
実は、大学チームを全国リーグに入れようという案は65年に日本リーグが始まる前に真剣に検討されていた。当時の日本では大学と企業チームの力には大きな差はなく、天皇杯で大学チームが優勝するケースも少なくなかったのだ。
だが、結局のところ大学チームは日本リーグには参加しなかった。ひとつには毎年4年生が卒業してしまうので、春先には極端にチーム力が落ちてしまうという理由があった。だが何よりも決定的な要因は、大学のスポーツが、他大学との競技が第一義で、大学以外のチームとの試合には「体育活動」としての予算がつかないことだった。
偏狭なセクショナリズムで学生たちが伸びるチャンスを奪ってはならない。新しい「アマチュア全国リーグ」に、ぜひ大学チームの参加を期待したい。同時にサッカー協会側も、いくつも難しい問題もあるだろうが、学生たちにその実力にふさわしいリーグでプレーする機会を与える努力をしてほしいと思う。
(1997年5月19日)
長い間、話題になっては消えてきた「スポーツ振興くじ」の法案が、4月25日に超党派の「スポーツ議員連盟」の手によって国会に提案され、今週中にも成立する見通しだという。
結論から言えば、サッカーに関係する者として「Jリーグへの関心が高まる」と手放しで喜ぶ気にはなれない。法案提出までの経緯があまりに「ご都合主義」であり、さらに、集める資金の使途にまったく具体性がないからだ。
「現在の国庫では、スポーツ振興政策をこれ以上拡大することはできない。誰もがスポーツを楽しむ環境を整えるためにも、まったく新しい財源が必要」
これが今回の「スポーツ振興くじ」、具体的にいえばJリーグの試合結果を当てる「サッカーくじ」法案の主旨だと思う。
だが90年代のはじめから熱心に研究されてきたこの法案の提出がここまで遅れた原因は、「選挙」の存在だ。新しいギャンブルの創出、それも青少年に人気のある競技の勝敗を当てる「サッカーくじ」。青少年の射倖心をあおるなどと、話が始まった当初から反対の声が多く、選挙が近づくたびに、推進してきた議員たちは「知らん顔」を通してきたのだ。
そしてその間にも、議論らしい議論はまったく行われてこなかった。今回正式に法案が提出されたのは、議論が熟し、結論を出す時期にきたからではない。ただ次の「選挙」までに時間がある(ことにしている)からにほかならない。
21世紀の日本の社会を考えるとき、スポーツの振興、ことに「生涯スポーツ」の環境を整えることは非常に差し迫った課題である。誰もが気軽にスポーツを楽しめる「スポーツ享受権」とでもいうべきものが施設の充実で保証されない限り、日本という国は衰退の一途をたどるだろう。
「スポーツ議員連盟」の人びとがこのようにスポーツ環境整備の必要性を考えていれば、まず国庫からの財源確保に真剣に取り組むべきではないか。そういう動きはまったく見えない。
そして仮に国庫からこれ以上のものが望めず、「サッカーくじ」が「必要悪」(青少年への悪影響の危険性は当然存在する。スポーツ振興が進むことによって青少年にもたらされるプラスとのバランスが最大の問題だ)だとしても、肝心の「スポーツ振興政策」が具体的な「行動計画」として提示されない状況での「見切り発車」は、危険極まりないと言わざるをえない。
現在の日本のスポーツ環境は非常に貧弱だ。それは近代日本のスポーツ政策が学校と企業を中心としたものだったからだ。そこから一歩はみ出すと、スポーツを楽しむためには、金銭あるいは時間的に大きな犠牲を払わなければならない。「スポーツ振興」などという具体性のない「掛け声」だけで、この状況が改善されるわけがない。
みんながサッカーを楽しめるグラウンドがほしい。サッカーに限らない。野球やテニスやゲートボールなど、だれもが気軽に自分の好きなスポーツを楽しめる施設を、「こういう計画で整備します」という具体案なら、実のある議論ができるはずだ。
いま必要なのはそうした具体的な「行動計画」であり、そのためにいくら必要かを算出することではないか。そのうえで「サッカーくじ」による資金集めが必要という提案なら、多くの人の賛同を得ることができるだろう。
この国のスポーツ振興政策について、具体的な施策とそれにかかる費用について、徹底的な議論が、何よりも優先されなければならない。
(1997年5月12日)
4月23日。Jリーグの開催日。しかしそれに関係なく一般ニュースに「サッカー」の文字が躍った。在ペルー日本大使公邸の占拠事件が、ペルー当局の強行突入によって解決を見た日だった。
公邸占拠事件の第一報を聞いたのは、昨年12月、アジアカップ取材中のアブダビでだった。日本のいない準決勝の当日。朝日新聞のベテランカメラマンは、スタジアムから直接リマへと出発していった。
それから4カ月、23日の「突入」はゲリラたちが「サッカー」に興じていた瞬間を狙ったものと伝えられている。
「いくら広いといっても大広間でサッカーなんかできるのかな」と、疑問を持った人も多いだろう。だがサッカー狂たちは、「うーん、大広間か。それならちょうどいいな」と考える。ゲリラたちが使用していた「ボール」は、衣類を丸めたものだったという。そうだろう、そうに違いない。
何でもきちっとやらなければ気が済まない国民性なのか。サッカーというと、公式のボールを使い、公式の広さのあるグラウンドに公式のゴールを2個置かなければできないと考える人が多い。
しかし1個の「ボール」があればどこでもできるのがサッカーの本質である。そのボールも、公式のものどころか、丸ければ何でもいい。
「サッカーの神様」ペレは、貧しかった少年のころボロ布を丸めたボールでサッカーに興じたという。
ボールだけではない。ちょっとした広さがあれば、どこでも「グラウンド」になる。日本リーグ時代の日立を最下位から優勝に導いた名将・高橋英辰さんは、中学時代に寄宿舎の部屋でサッカーをしたという。軟式テニスのボールを使い、1人ならば「壁パス」とシュート、仲間がいれば押し入れをゴールにして一対一のゲームだったという。
サッカーを楽しむ気持さえあれば、フットサルという「公式」の形がなくてもほんのわずかな場所でゲームに熱中することができるのだ。
Jリーグの観客数が落ちても、少年の間ではサッカーが相変わらず絶大な人気スポーツで、各地の少年チームは入会希望者が順番待ちと聞く。しかし少年や周囲の大人たちがサッカーをひとつの「習い事」のようにとらえているのではないかと少し気になる。
サッカーはユニホームを着てグラウンドに行って、コーチから教わるもの。ボールも決められたもの。
そうではない。サッカーというのは、丸いものを足や体の各部で自由に扱い、工夫を凝らしたフェイントで相手を抜き去り、相手が必死に守るゴールを仲間と協力し合って陥れるなどの「喜び」を基本とするゲームなのだ。
少年時代にどれだけ「サッカーの喜び」を体験できるかが、その人のサッカー人生を大きく左右する。その喜びは、チームでの練習や、両親の声援を受けての試合より、日常の「遊び」のなかにより多く含まれている。
こんなにサッカーが盛んになったのに、町で「サッカー遊び」をしている少年を見かけないのはちょっと不幸だ。もっともっと日常的なサッカー遊びが増えてほしい。そのなかにこそ、心がウキウキするサッカーの喜びが隠されている。
丸4カ月にもわたる人質事件が解決した日、ニュースを見ながらこんなことを考えるのは不謹慎だっただろうか。まるでアクション映画のように一部始終がテレビで流され、その作戦行動のあまりの見事さに「現実感」を失ったためと、お許しください。
(1997年4月28日)
4月16日。寒風にさらされた水曜の夜だった。
この日各地で行われたJリーグに集まった観客は合計4万9471人。1試合平均でわずか6184人。この平均値も、市原でのジェフ×サンガ戦の3057人という数字も、ともにJリーグの最低記録を更新するものとなった。
昨年の観客数激減で各クラブは大打撃を受けた。収入が目論見より大幅に低くなってしまったからだ。
当然のことながら、今季を前に各クラブは「観客数回復」の計画を練り、実行に移してきた。入場料の値下げ、ファンクラブ組織のてこ入れ、ホームタウンでのサイン会、果ては駅頭での選手によるチラシ配り、「たまごっち」プレゼントなど、さまざまな「努力」の跡を見せた。
だがシーズンが始まって明らかになったのは、そうした努力がまったく数字に結びつかず、かえって観客数の低下を見るという現実だった。
なぜJリーグの観客数は低迷を続けるのか。それは努力の方向性が間違っているからではないか。
多くのクラブでは、「収入が落ちたから」、観客を呼び戻すための工夫を始めたのではないか。仮にスポンサーやテレビ放映権からの収入が潤沢にあり、入場料収入など取るに足らないものであったら、観客数の低減など気にも止めなかったのではないか。
もちろん、収入を増やすことはプロのクラブとしては当然の努力目標だ。だがそれより何より、「満員のファンの前で選手たちにプレーさせたい。ひとりでも多くの観客に試合を楽しんでもらいたい」という気持ちが必要ではないか。求められているのは、何よりもファンやサポーターなど観客の立場に立った試合運営であるはずだ。
4月16日、川淵三郎チェアマンは夫人を伴って市原の自由席で試合を見た。1人2000円の当日券を買っての入場だった。
だがその数日前、開幕日のスタジアムで、Jリーグの役員とクラブの首脳数人が暖かそうな本部運営室でお茶を飲みながら談笑している光景を見た。
晴れてはいたが外には冷たい風が吹き、キックオフを前にスタンドは半分も埋まっていない。だがその部屋には「危機感」のかけらも感じられなかった。
そんな場所にいていいのか。スタジアムの外に出かけ、少なくとも駅から歩いてみるべきではないか。
ファンの表情は期待で輝いているか。スムーズに入場できるか。自分の席に迷わずたどり着けるよう、場内の案内は足りているか。観客席は清潔で座り心地がいいか。売店やトイレの数に不満はないか。そして何よりも、試合をきちんと見ることができるか。
スポーツだから、いつもエキサイティングな展開になるとは限らない。ホームチームがいいところなく負けるときもある。しかし運営面は、いつも良くなければならない。試合ごとに、そしてシーズンごとに良くなって観客の満足度を増していかなければならない。そうするためには、あらゆる種類の観客の立場になって試合を見る努力を怠ってはならないのだ。
「努力」がすぐに実を結ぶとは限らない。しかし今季を前に各クラブが実施したいろいろなアイデアが、本当に観客の立場を考えてのものだったか、見直す価値はある。ファンの心をとらえることのできない施策をいつまでも続けるのは逆にマイナスだからだ。
入場券を買えとは言わない。しかしあえて寒風のゴール裏に夫人と座った川淵チェアマンの気持ちを、Jリーグの全関係者が共有しなければならない。
(1997年4月21日)