サッカーの話をしよう

No.201 レフェリーよ、選手の友となれ

 例年どおり、この夏も少年やユース年代を中心にたくさんの大会や試合が行われた。ことしはゴールキーパー(GK)のボール保持時間を制限する新しいルールが施行され、レフェリーも大変だっただろう。
 これまでも、何度もプレーをやり直すなどGKに明白な「時間かせぎ」があったときには反則とされていた。だが今回はそれが「五ないし六秒間」と明確に、しかも極端に短く規定された。GKがほんの少しプレーを迷った瞬間にこの新ルールが適用され間接FKとなるケースに、この夏、何度か出合った。
 
 92年に「バックパスルール」(味方からのパスに対してはGKは手を使うことができない)ができた当初にも、「パス」ではなく「クリアミス」なのに手を使ったGKを反則とする判定が数多く見られた。そのときと同じようなレフェリーの「意識過剰」が、今回も起こりつつある。
 
 いろいろなレベルの試合を見て感じるのは、「いいレフェリング」が本当に見られないことだ。
 Jリーグの担当審判員には、コンディションさえ整えば見事なレフェリングを見せる人が何人もいる。そうした人びとはルールに関するしっかりとした知識をもち、ゲームのなかで的確に適用する能力を備えている。だが、本当に「いいレフェリングだな」と思えるケースはまずない。
 
 「いいレフェリング」とは何か。それは選手に最大の力を発揮させ、最後のホイッスルの瞬間まで試合を心から楽しませること。それに尽きる。
 
 地方レベルの試合で見たあるレフェリーは、まるで「選手性悪説」の信奉者でもあるかのようだった。ピーピーと笛を吹き、イエローカードを乱発した。選手がゲームをやろうとしているのに、レフェリーがひとりで舞い上がって「主役」を演じ、ぶち壊しにしているのだ。
 なぜこのようなことが起こるのか。ひとつの原因は「審判インストラクター」にある。育成のために、若手レフェリーにインストラクターがついて指導する場合がある。実際の試合でのレフェリングをインストラクターが見て評価するという方法だ。
 こうした指導中には、ともすればインストラクターの目が気になる。自分の手に委ねられているゲームの選手たちのことなど眼中になく、タッチラインの外にいるインストラクターの評価ばかり考えて笛を吹いてしまうのだ。
 
 こうした弊害は地方レベルの試合に止まらない。次のワールドカップの審判候補が集まるオリンピックやワールドユースでは、ときとして、「いい試合にしたい」という思いよりも、FIFA審判委員から「いい点をもらいたい」というレフェリングが見られる。
 もうひとつの問題はルールとレフェリー自身に対する「権威主義」だ。「ルールは絶対だ」「オレは偉いんだ」という態度で笛を吹くレフェリーに、Jリーグから地方レベルまでいたるところでお目にかかる。そうした人びとは、あからさまに「選手よりルールが大事」という態度を見せる。
 
 ゲームやルールは、まず何よりも選手の「喜び」のためにある。その助けをするのがレフェリーなのだ。
 キックオフ前には採点者の存在など忘れ、レフェリーはまずその「大原則」をしっかりと心に思い浮かべてほしい。そのうえで22人の選手の顔を見つめ、彼らに「友情と愛情」を感じてほしいと思う。
 選手たちが人生のなかの「輝く数十分間」を過ごすための助けをする「友」となれるのは、あなた方レフェリーだけなのだから。

(1997年8月25日)

No.200 トリニダードトバゴの幸せ

 ポートオブスペイン。
 カリブ海に浮かぶトリニダードトバゴ共和国首都、人口5万の町が、1989年11月17日金曜日、突然、赤く染まった。90年ワールドカップ大会予選、翌々日の対アメリカ戦に向け、みんなでナショナルカラーの「赤」を着て盛り上げようという呼びかけに多くの人が応え、町が赤い服装で埋まったのだ。
 
 この地域に割り当てられた出場数は2。すでに首位コスタリカの出場が決定、残るひとつの座を争うトリニダードとアメリカが同勝ち点で迎えた最終戦だ。得失点差で優位に立つトリニダードは、引き分ければ初出場が決まる。お祭り騒ぎになるのも当然だった。
 その晩、アメリカ代表チームが到着。深夜にもかかわらず空港には3000人もの市民が詰めかけた。だがそれは、野次を飛ばし、ブーイングするためではなかった。大きな拍手と歓声に迎えられたアメリカ・チームは、最初はとまどっていたが、すぐに手を振って歓呼に応えた。
 
 快晴の日曜日、スタジアムには朝早くからファンが押し寄せた。彼らは1人残らず真っ赤なシャツを着ていた。この島生まれのカリプソ音楽がにぎやかに演奏され、全員がリズミカルに体を動かす。それは、「生か死か」の「予選最終戦」の雰囲気ではなかった。完全に「お祭り」だった。
 まだ明るい日差しのなかでキックオフ。引き分けを狙うトリニダードはスローペースで試合を始める。攻めあぐねるアメリカ。しかし30分、アメリカのカリジュリがなかばやけくそで放ったミドルシュートがGKモーリスの意表をつき、ゴールを破った。
 アメリカの効果的な攻撃はこれひとつだった。しかしそれは、トリニダードトバゴ120万国民の夢を打ち砕くに十分だった。
 後半の反撃実らず0−1のまま試合終了。狂喜乱舞するアメリカ選手たちの横では、トリニダードの選手たちが力なく芝生に突っ伏していた。その失望は、誰にも理解できた。
 
 だが静寂は一瞬のことだった。その後、スタンドには信じ難い光景が広がっていった。真っ赤なシャツを着たファンたちは笑顔を取戻して踊り、いちだんと高い声で歌った。そしてアメリカチームには、盛大な拍手さえ送ったのだ。
 テレビ観戦していた人びとは家を飛びだして町に繰り出した。いまやスタジアムの「お祭り」はポートオブスペイン全体のものとなり、翌日まで続いた。
 ワールドカップには行けなかった。しかしこんなに浮き浮きとした思いは初めてだ。だからその喜びを表現し、みんなで分かち合いたい。そのあまりの純粋さは、「勝利至上主義」に毒された世界のスポーツ界に理屈抜きの感動を与えるものだった。
 
 日本サッカーにとってこの上なく大きな意味をもつワールドカップ・アジア最終予選スタートまで3週間たらずとなった。今回は完全な「ホームアンドアウェー」方式で、日本でも4試合が行われる。
 試合のことを考えると不安が次々と頭をもたげ、胃がキリキリと痛む。国立競技場のスタンドでどれだけ冷静でいられるか自信はない。すべてのファンに共通する気持ちに違いない。
 だがそうした「恐れ」より、トリニダードの人びとのような「喜び」の気持ちをもちたいと思う。こんなスリリングな体験をさせてくれる日本代表、相手チーム、そして何よりもサッカーそのものに、まずは深く感謝したいと強く思う。
 
 「喜び」。それは、世界最大の人気競技サッカーを支える、最もベーシックな要素だからだ。

(1997年8月18日)

No.199 知識公開でコーチと審判の育成を

 先月オープンしたJヴィレッジ(福島県)に、興味深い施設がある。すばらしい状態の芝を敷きつめた10面ものグラウンドばかりに目が行きがちだが、「階段教室」形式で160人を収容する「コンベンションホール」は、別の意味で非常に重要な施設といえる。
 すでに、この施設を利用する審判研修会や各種の公認コーチ講習会が多数予定されている。「階段教室」は「平面教室」に比べてはるかに話が聞きやすく集中できる。この施設が日本サッカーの発展に果たす役割は小さくはないはずだ。
 報道の対象になることはほとんどないが、サッカー協会は年間を通じて非常に多くの研修会や講習会を開催している。知識や技能をもった人を増やし、同時に交流を通じてレベル向上に努めることは、協会の重要な仕事だからだ。

 なかでもコーチと審判の養成は緊急課題だ。少年を中心にサッカー選手数が増大し、試合も増えた。しかしそれを支えるしっかりとしたコーチ、審判員の数は圧倒的に不足している。
 だが講習を受けようとしても、すぐに受講できことはまずない。コーチや審判を指導するインストラクターの数もまったく足りず、協会にもこれ以上の講習会を組織するマンパワーや資金はないからだ。
 公認コーチは毎年数十人ずつ増えるだけ。審判も、「見習い」に当たる四級は次々と生まれるが、上のクラスへ上がっていこうという意志があっても、指導を受けるチャンスは非常に少ないのが現状だ。
 ではどうしたらいいのだろうか。
 インストラクターと受講者が対面して指導を受けるのが理想の形であることは間違いない。しかしその機会を十分つくれないなら、「対面教育」だけでなく、「マス教育」も必要なのではないだろうか。

 指導内容の教科書をつくり、誰でも簡単に入手することができるようにする。VTRをつくり、販売、あるいは貸し出しによって、たくさんの人が見られる状態にする。あるいは、これから本格的にスタートするデジタル衛星放送の一チャンネルを通じて、「放送受講」を可能にする。
 重要なのは、「知識をオープンにする」ことだ。
 通信教育と短期間のスクーリングで公認コーチをつくり出すところまでいけばいうことはない。それが不可能でも、指導や練習方法などで悩み続けている全国のコーチたちに、トップクラスの知識を提供することは、少なからぬ効果があるはずだ。審判養成についても同じだ。
 1969年にアジア全域を対象としたFIFA(国際サッカー連盟)コーチングスクールが日本で開催された。そしてその講義録を元に、翌年、日本サッカー協会は第1回コーチングスクールを開講した。

 その受講者のひとりは、地元に帰ると、高校や中学の指導者だけでなく、少年サッカーなど「素人同然」の指導者たちも集め、「県コーチングスクール」を開いて自分の得た知識を数百人の仲間に広めた。
 この人こそ、「清水サッカーの父」といわれる堀田哲爾さんだった。清水や静岡県のサッカーが大きく発展した最大の要因は、堀田さんが知識を自分のものだけにとどめず、広く仲間に伝えたことだったのだ。
 堀田さんの時代には「人から人へ」と伝えるしかなかった。しかし現代はいろいろな方法で知識や技能を伝えることができる。
 インストラクターや資金の不足を嘆いているばかりでは、問題は解決しない。知識をオープンにすることだけでも、協会の仕事は大きく助けられるはずだ。

(1997年8月8日)

No.198 アジア軽視の無責任組織FIFA

 FIFA(国際サッカー連盟)とはいったい何のための組織なのか。
 昨年の2002年ワールドカップ日韓共同開催決定の「ご都合主義」に続き、今度は98年ワールドカップのアジア最終予選の突然の試合方式変更だ。その無責任、無定見ぶりに、ただただ、あきれるばかりだ。
 アジア最終予選は、1次予選を勝ち抜いた10チームでの「集中開催」になるはずだった。数チームずつのグループで「ホームアンドアウェー」で行うのが予選の本来の姿。だがアジアはあまりに広いため集中開催という形がとられた。忘れてならないのは、それを決めたのが、他でもないFIFAのワールドカップ組織委員会であることだ。

 95年12月に行われた全世界の予選組分け抽選会に先立って、アジア地区ではこの方式をとることを同委員会は決めた。それを受けて、実際に予選を主管するAFC(アジアサッカー連盟)が、1年後の96年12月に「最終予選」の日程を決めたのだ。
 7月21日のFIFA「ワールドカップ組織委員会ビューロー」の議題は、その会場を決定することだけだった。だがそれがシンガポールに決まりかけたとき、メンバーのひとりであるサウジアラビアのアルダバル氏が猛反対した。
 サウジアラビアらアラブ勢4カ国はバーレーンでの開催を主張していた。アルダバル氏は「シンガポールなら、アラブ4カ国は出場しない」と強硬だったという。そしてなぜかビューローは折れ、「ホームアンドアウェー」方式への切り替えを決めたのだ。
 FIFAの定款では「ビューロー」は緊急事態に対処するために「委員会」によって任命され、委員会と同様の権限をもつ。ワールドカップ組織委員会はあらかじめヨハンソンFIFA副会長を筆頭に8人で構成されるビューローを設けていた。95年12月の委員会決定をビューローが覆したことになるが、手続き上は問題はない。

 問題は、この日程変更がアジアのサッカーに与える影響だ。会場の決定を待つばかりだった「最終予選大会」をわずか3カ月前にキャンセルし、予定より1カ月半も早く試合を始めろというのだ。各国の「国内サッカー」が深刻な打撃を受けるのは必至だ。
 過去、1次予選が終わってから最終予選の日程を決めていたAFCが、1年も前に予定を発表したのも、プロ化したばかりの各国国内リーグを支援しようという意識の表れだった。
 今回の決定を欧州に置き換えれば、6月にフランスで開幕予定のワールドカップを、4月からホームアンドアウェーでやると2月に決めるようなものだ。ユベントスやバルセロナなど強豪クラブをかかえる各国協会、そしてチャンピオンズリーグ決勝が5月に控える欧州連盟(UEFA)に受け入れられるはずはない。

 当然、ヨーロッパや南米を相手にこんな無謀なことはしない。それをアジア相手に平気でやるところに、現在のFIFAの「無責任体質」が表れている。
 ワールドカップがどれほど重要でも、世界のサッカーの存立の根幹がクラブによる国内サッカーにあることを忘れてはならない。クラブが存続できなければ選手は活動の場を失い、サッカーは滅びる。
 無責任で無定見な決定で国内サッカーの存立を脅せば、最終的にはワールドカップやFIFA自体の存立を危うくすることを、ヨハンソン氏はじめビューローのメンバーは知るべきだ。彼らから見てアジアがどんな「サッカー後進地域」であろうと、このような暴挙が許されるはずはない。

(1997年7月28日)

No.197 第3のチーム、レフェリーズ

 わかってはいても、つい「ラインズマン」と言ってしまう。サッカーには、もう「ラインズマン」はいないのに。
 96年のルール改正で、「ラインズマン」(線審)という名称は消えた。現在は「アシスタントレフェリー」、日本語で「副審」と呼ぶことになっている。
 実は「ラインズマン」という呼び方自体、数年前から不都合なものとなっていた。女性審判員の進出が原因である。95年の女子世界世界選手権では「ラインズウーマン」という名称が登場したが、その後は男女を区別する必要もないと、「ラインズパーソン」という言葉が使われていた。
 こうした数年間を経て、FIFA(国際サッカー連盟)は九六年に「アシスタントレフェリー」に統一することにした。だがこの名称変更は女子審判の存在だけが理由ではない。むしろ主たる理由は別のところにあった。

 「ラインズマン」というと、タッチアウトとオフサイドを見るのが主たる仕事だった。古くは両チームから1人ずつ出して審判を務め、両者の意見が合わないときに第三者に意見を聞くシステムだった。「問い合わせを受ける人」を意味する「レフェリー」という名称自体、そこから生まれている。レフェリー(主審)とラインズマン(線審)は起源から「地位」の違う存在だったのだ。
 しかし「よりよいレフェリングシステム」を求めてきたFIFAのひとつの結論が、「レフェリーとラインズマンの密接な協力」だった。ラインズマンは、タッチアウトやオフサイドを見るだけでなく、ゲーム全体に注意を払ってレフェリーの補助をする。「アシスタントレフェリー」への名称変更の最大の理由はこうした考え方を徹底させることにあったのだ。

 二人のアシスタントレフェリーは両サイドのタッチラインを担当し、それぞれハーフラインまで動く。たとえば、メインスタンドから見てこちら側のアシスタントレフェリーは右半分、向こう側は左半分を動く。レフェリーは両エンドの左コーナーを結ぶ仮想の対角線上を動き、いつも片側のアシスタントとプレーをはさみ込むように見る。
 だが、ボールがないところ、レフェリーの背後で反則や違反行為があると、非常に難しいことになる。逆サイドのアシスタントが気づいて旗を上げても、レフェリーには見えず、トラブルのもととなる。
 こうしたトラブルを防止するために、FIFAは昨年のアトランタ五輪と先月のワールドユース選手権でひとつの試みを実行した。アシスタントの持つ旗にスイッチを仕込み、レフェリーの腕につけたバイブレーターと連動させるという仕掛けだ。レフェリーの背後で何かがあったら、アシスタントはこのスイッチを押すことでレフェリーだけに知らせることができる。

 トランシーバーを使うアイデアもあったが、注意を喚起することができれば十分という考え方だ。ワールドユースまでのテストの成果に力を得たFIFAは、来年のワールドカップでもこのシステムを採用する方向だという。
 サッカーは11人ずつで構成された2つのチームが競い合うゲームである。だがピッチの上にはもうひとつの「チーム」がいることを忘れてはいけない。
 1人のレフェリーと2人のアシスタントレフェリーで構成されるチーム。プレーする両チームと同じように、この「第3のチーム」も、各人が自分の役割をしっかりとこなしつつチームワークを保つことが、「成功」への欠くことのできない条件なのだ。

(1997年7月14日)

サッカーの話をしようについて

1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。

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