
日本代表にくっついて、カザフスタン、ウズベキタンと、中央アジアの国を動いている。
旧ソ連のこれらの国がアジアのサッカー仲間になったのは1994年。それ以前には夢にも思わなかったワールドカップ予選での対戦、その場に来ている自分自身を考えると、サッカーの世界の広さと不思議さを思わずにはいられない。
今回のアウェーゲームで感じるのは、随行する報道陣の多さだ。新聞、雑誌、テレビ、ラジオなどを合わせると、なんと百数十人もの報道関係者が日本代表を追って動いている。多分、世界でも最大規模の「アーミー」だろう。
当然、受け入れ側の各国協会は悲鳴を上げる。記者席の用意、通信手段の確保などの仕事が、他の国との対戦とは比較にならない量となるからだ。しかしそれ以上に大変なのが、日本代表のプレスオフィサー(報道担当)だ。
日本代表のプレスオフィサーは加藤秀樹氏(30)。ファルカン前監督時代以来のベテランだ。
「プレスオフィサー」というと、思い出すことがある。10年ほど前のブラジル代表チームだ。
日本のような全国紙がないブラジルでは、代表チームの試合になると全国から数百人の報道関係者が集まる。当時のプレスオフィサーはビエイラという太った男だ。練習会場で、彼は記者の間をとび回って冗談を交わしながら要望を聞き、記者会見をアレンジし司会を務める。ほれぼれするような仕事ぶりだった。
だが彼の仕事はそれで終わりではなかった。夜、地方から来た報道関係者が集まるホテルを回り、バーに現れては記者の家族の健康を尋ね、取材のうえで何か困ったことはないか聞き、そして声をひそめてちょっとした「極秘情報」をもらしていく。
「みんなと話すのが、この仕事の楽しみなんだ」
そう言いながら、彼は報道関係との「信頼関係」を築き、ブラジル代表の活動を陰から支えていたのだ。
日本代表での加藤氏の苦労は、その「信頼関係」の必要性を周囲に認めさせることから始めなければならなかったことだ。彼は「初代」のプレスオフィサー専門職だったからだ。
最初はトレーニングウェアを着て練習のボール拾いをし、荷物運びをすることによってチームの一員と認めさせなければならなかった。そして次第にチームの中での信頼が生まれ、それが力となって報道関係からの信頼を得るようになったのだ。
気難しい監督が、練習後に必ず記者たちと話すようになった。テレビと活字媒体の取材時間を分け、無用な混乱がなくなった。選手がテレビのレポーターに歩きながらぞんざいな口調で話すというみっともないことも、ほとんど消えた。
それだけではない。最近では、報道関係に都合のいい宿泊先を探し、旅行会社の協力を得てビザや航空便の手配までしている。記者たちは何の苦労もなく未知の国での取材ができる。それは、快適な取材でいい仕事をしてもらおうという考えにほかならない。
良質の報道は、代表チームの成功のための無視できない要素である。加藤氏らはそれを時間をかけて日本サッカー協会と代表チームに理解させ、チームと報道陣との良好な関係を保ってきた。
信頼関係を築くには時間がかかる。しかしそれを壊すのは簡単だ。たったひとつの言動ですむ。
加藤氏と日本協会には、現状に満足せずより良質の報道サービスを望みたい。同時に、私たち報道関係者も、責任ある言動で応えなければならないと思う。
(1997年10月6日)
内外のいろいろなサッカー雑誌に掲載されている写真を見ると、選手たちの表情には大別して3種類あることに気づく。
ひとつは戦いの表情。口もとを引き締め、厳しい目でボールに集中している。ひとつは歓喜の表情。得点や勝利がもたらす解放感を顔いっぱいに表現する。そして残るひとつがリラックスした試合外の表情だ。
しかしほとんどの試合にあるのに、こうした雑誌には滅多に取り上げられない「もうひとつの表情」がある。それが、対戦チームの選手同士の笑顔だ。
試合前や試合中のほんの一瞬、そしてほとんどの試合後に見られる選手たちの握手と笑顔の交換。だが不思議なことに、サッカー雑誌でこうした瞬間が再現されることは滅多にない。
Jリーグの依頼で「フェアプレー」のパンフレットを制作するために、1万枚を超す写真に目を通したことがある。しかしこうした写真には、ほんの1、2枚しか出合わなかった。
カメラマンが撮らないから雑誌が使えないのか、編集者が無視するからカメラマンが撮影しないのか。おそらく、その両方なのだろう。私も雑誌の編集者だった。偉そうに言える立場ではない。ただ事実として、1冊に数百枚もの写真を載せる雑誌でも、「笑顔」はないのだ。
また古い話を持ち出す。私にとってのワールドカップ70年メキシコ大会は、雑誌とテレビだった。新宿の書店できれいな洋雑誌を見つけたのは、大会が終わって2カ月ほど後だったと思う。英国の新聞社が発行した特集号。とはいってもそのシーズンのいろいろなスポーツが盛り込まれており、ワールドカップは30ページほどだった。
そのわずかなページのなかで最も大きく使われていたのが、ペレ(ブラジル)とボビー・ムーア(イングランド)の写真だった。だがそれは激しい競り合いの場面ではなかった。試合が終わってユニホームを交換しようと歩み寄りながら、笑顔を交わすシーンだったのだ。
「THE WAY IT SHOULD BE」(あるべき姿)。そんなタイトルがつけられていた。試合はブラジルが1−0で勝った。しかしこのシーンには勝者も敗者もなかった。しいていえば、誰もが勝者であることを写真は語っているように思えた。
「フェアプレー」が叫ばれて久しい。しかしそれは単にルールを守ったり、イエローカードを減らすことではないはずだ。
勝負は争っても、選手同士は結局のところいっしょにサッカーで「遊んで」いる。誰もが忘れがちだが、レフェリーたちもその役割を通じてサッカーを楽しんでいる。観客もサポーターも、みんなサッカーを楽しむ仲間なのだ。
「フェアプレー」の基本となるのは、「サッカーを通じてみんなが楽しく」という精神、大きな「仲間意識」であるはずだ。そして「仲間」にいちばんふさわしいのが、笑顔の握手ではないか。
私たちサッカー報道にあたる者の責務のひとつが、ファンや将来を担う少年少女たちに、こうしたメッセージを継続的に伝えていくことにある。
カメラマン諸氏よ、迫力あふれる競り合いや得点シーンだけでなく、試合中の選手のちょっとした優しさや、終了後の美しいシーンにもっともっと気を配ってほしい。そして編集者諸氏よ、カメラマンが切り取ってきたメッセージを読者に的確に伝えてほしい。
1枚の優れた写真は百万の言葉よりも雄弁である。ペレとムーアの笑顔にまさるメッセージはない。
(1997年9月29日)
「こんなやつは、サッカーではなくボクシングかテニスをやればいい」
雑誌やテレビでのインタビューを見て、正直なところ私はなんどもいらだち、そう思った。
曰く、「チームが勝っても、自分が思いどおりのプレーができなかったら何の意味もない」。
曰く、「オリンピックやワールドカップなど何とも思っていない」。
だが、そうした言葉をまともに受け取るほうがばかだった。
日本代表のMF中田英寿(ベルマーレ平塚)は、日本サッカーの超エリートである。
1977年1月22日生まれ、20歳。93年に日本で開催された17歳以下の世界選手権(U−17)で日本代表のFWとして活躍し、95年は20歳以下の「ユース」代表、96年には23歳以下の「オリンピック代表」でともに世界大会に出場した。そしていまや、ワールドカップ発出場を目指す日本代表の攻撃の切り札になりつつある。3つの「年代別代表チーム」で世界大会に出場したのは、現在のところ中田ひとりである。
だが、オリンピック代表でもベルマーレでも、彼はもてる力をすべて発揮してきたわけではなかった。ある試合ではすばらしいプレーを見せたかと思うと、次の試合では心ここにあらずといった様子だった。
能力の高さは誰も否定はできなかった。だが選手としての評価はけっして高いものではなかったのだ。これまでの「スポーツマン」とはかけ離れた、少し風変わりな言動が原因だったのかもしれない。
見識の低いマスメディアが彼のそうした言動をもちあげて、「かっこいい新世代の旗手」のように扱うのを見て、私はうんざりする気持ちを抑えることができなかった。
だが、ことし五月に初めて日本代表に選出され、韓国戦でデビューしたとき、彼がつくり上げてきたイメージがまったくの「虚像」であることを思い知らされた。その印象は、試合を重ねるごとに強くなった。
先日のウズベキスタン戦では、彼自身の言葉とは裏腹に、技術と才能と情熱をチームの勝利のために捧げ尽くす「理想のサッカー選手」を見る思いがした。
中田はキックオフから終了のホイッスルまで戦い抜いた。感覚を研ぎ澄ませて相手守備の間隙をつくパスを送り、果敢にゴールに迫った。いったん相手ボールになれば、どこまでも追い詰めて守備をした。
まだ20歳。日本代表の加茂監督も「もっともっと伸びる選手だ」と太鼓判を押すが、その一方で「いま少し壁に突き当たっているようだ」ともらす。
「攻撃的MF」として、いわゆる「キラーパス」を出すだけでなく、ドリブルなどで積極的にペナルティーエリアにはいって得点を狙うプレーもどんどん出していかなければならない。そのふたつの役割を、絶妙の「ブレンド」でこなさなければならない。
だが、中田の前には、その壁を乗り越えるためのこれ以上ない舞台が開けている。ワールドカップ予選という、これ以上ない真剣勝負の舞台だ。
この予選を戦い抜いたとき、中田はカズの座を引き継ぐ新しい日本サッカーの「キング」になっているだろう。そして来年のワールドカップ後には、ヨーロッパの有力クラブが彼のために新しい「挑戦の舞台」を用意するに違いない。
インタビューで何を言おうと私はもう気にしない。サッカー選手は、グラウンド上のプレーで評価されなければならない。
両足から繰り出されるボールには、彼の意志が確実に込められている。けられたボールが、彼の本当の言葉なのだ。
(1997年9月22日)
「ワールドカップ史上、最も美しいシーン」
こう呼ばれるプレーがある。70年メキシコ大会のブラジル×イングランド戦でのことだ。
前半10分、ブラジルが右から攻める。スルーパスを受けたジャイルジーニョがゴールラインとペナルティーエリアの交点まで進みセンタリング。中央に上がったボールにペレがジャンプして合わせる。完璧なヘディングシュート。ボールは正確に左隅に飛ぶ。スタンドの誰もが、着地しながらペレ自身も、「ゴール!」と叫んだ。
だがそこにはイングランドGKバンクスがいた。彼は最初右ポストのすぐ前にポジションを取っていたがセンタリングが飛んでいる間に素早くポジションを修正、ペレの体勢を見て右に跳んだ。そしてワンバウンドしてゴールにはいろうというボールを右手の手のひらではね上げ、バーぎりぎりに越えさせたのだ。
神業のようなゴールキーピング。止められたペレまでバンクスを祝福し、拍手を送ったほどだった。
27年も前の一シーンを思い出したのは、Jリーグのテレビ中継を見ていたときだった。
最近のサッカー中継では「アップ」の画像が異常に多い。好プレー後の選手のアップ、そして「プレーのアップ」。タッチライン際のカメラによる画像が、頻繁に使われるのだ。
1対1の争いの激しさ、瞬間的にボールを扱うテクニックなどは、たしかにわかりやすく、迫力がある。それがテレビ局の狙いなのだろう。だがフィールド内のポジション、他の選手との関係など、サッカーというチームゲームの「エッセンス」と呼ぶべきものは、これではまったく見ることができない。
たとえば、アントラーズの相馬がタッチライン際でいい形でボールを受ける。ビスマルクが寄ってくる。ここで画面は地上の「アップカメラ」に切り替えられる。詰め寄る相手DF、ビスマルクにボールをはたいてダッシュをかける相馬、リターンパス、センタリング。画面は夜空に舞うボールを追い、突然、誰かがヘディングする。
これでは、相馬とビスマルクとのパス交換のタイミングの絶妙さ、センタリングの正確さ、他の選手の詰め、相手DFやGKのポジショニングなどは、まったく見ることができない。
こうした画面は、スポーツニュースでもよくお目にかかる。迫力満点のシュートシーンがアップになるだけで、どんな形でゴールが決まったのか、さっぱりわからないのだ。
サッカーは格闘技ではない。1チーム11人の選手が織りなすチームとしての攻守、そのつながりやタイミングの妙こそ、テレビ中継で伝えなければならないものであるはずだ。
2002年にはワールドカップの「ホストブロードキャスター」として試合の中継画像を制作しなければならない。だがこんな状況では、94年アメリカ大会と同様「任せておけない」と、ヨーロッパ放送連合にもっていかれてしまう。
ペレとバンクスの見事なプレーが世界に伝わり、長く人びとの記憶に残っているのは、メキシコのテレビ局が、そのプレーの流れを切ることなく、移動するバンクスやヘディングにはいってくるペレの動きまで、ひとつの画面で余すところなく伝えたからだ。
あの美しいシーンが現在の日本の中継のようにアップにされていたら、バンクスのプレーの素晴らしさなど伝わらず、「ブラジル決定力不足」の評価で終わっていたかもしれない。そう考えてぞっとするのは、私だけではないはずだ。
(1997年9月8日)
「グッド・ラック(ご幸運を祈ります)」
10年前、87年12月のトヨタカップの前夜、宿舎のホテルにFCポルトのトミスラフ・イビッチ監督を訪ねた。しばらく話して別れる前に、握手しながら私の口から出たのがこの言葉だった。
だが、南米チャンピオンのペニャロール(ウルグアイ)との戦いを前にしたベテラン監督は自信たっぷりだった。
「ありがとう。でも私のチームは、幸運を頼りにするチームではないよ」
ポルトガルの名門クラブFCポルトは、この年のヨーロッパ・チャンピオンズカップで西ドイツのバイエルン・ミュンヘンを下し、初めて「ヨーロッパチャンピオン」の座を獲得した。その優勝後に監督の座を引き継いだクロアチア人のイビッチは、スターぞろいのチームをうまくまとめ、この年もポルトガル・リーグの首位を快走していた。
イビッチの言葉には「おごり」はなかった。むしろすべての仕事をきちっとやり遂げてきたプロフェッショナルの「自負」が感じられた。
だが、一夜明けた東京はすさまじい天候だった。夜明け前から降り始めた雨は次第に強さを増し、午前9時を過ぎたころにはみぞれから本格的な雪に変わっていったのだ。
実は、この冬の国立競技場のピッチは悲惨な状態だった。当時は「冬芝」は導入されておらず、11月末にはすっかり枯れていた。前週の日曜には雪のなかでラグビーの試合が行われ、以後一週間は太陽を見ることのできない暗い12月だったのだ。
この朝の雨で水びたしになったピッチの上に、重く湿った雪が降り積もった。はっきり言って、サッカーなどできる状態ではなかった。だがいろいろな関係で試合を延期することは不可能だった。
降りしきる雪のなかで始まった試合は、雪の下に隠れた水たまりで思いがけなくボールが止まるなど、両チームともパスなどつなぎようもなかった。ひたすら前にけって前進していくだけだった。準備してきた高度な技術や戦術など、何の役にも立たなかった。
そうした試合でポルトは勝った。延長戦にはいってアルジェリア人のスターFWマジェールが放った30メートルのシュートは、前進していたGKの頭を超えてゴール前の泥沼に落ちたとき、そこに止まるように見えた。だが幸運なことに雪がボールを転がし、コロコロとゴールにはいった。それが決勝点となった。
ワールドカップ・アジア最終予選の開幕が目前に迫った。加茂監督は先週の木曜日に18人のメンバーを発表し、現在は最終調整にはいっている。
先週のJOMOカップでは疲れのピークにあるようだった選手たちも、こんどの日曜にはすばらしいコンディションで国立競技場のピッチに登場してくるに違いない。フラビオ・コーチをはじめとした強力なスタッフのプロフェッショナルな仕事が、選手たちを万全な形で送り出すはずだ。
加茂監督がつくり上げたチームは「幸運」がなければ勝ち進めないチームではない。技術的にも戦術的にも、そして精神的にも、しっかりと準備され、堂々と「フランス」への切符を勝ち取る力を備えている。
しかしサッカーという競技は、そして8試合、2カ月間の戦いのなかでは、何が起こるかわからない。87年のトヨタカップのような事態がないとは、誰にも言えない。
だから祈らずにはいられないのだ。
「グッド・ラック」。日本代表の戦いに幸運あれ!
(1997年9月1日)