
ワールドカップ決勝大会の組分けが決まった。
「アルゼンチンとクロアチアは同レベルのチーム。日本のグループリーグ突破は簡単ではない」
私はこう考えている。
だが、どんな相手とやるにしても、日本チーム自体の準備が万全でなければ成功はおぼつかない。その点で非常に気がかりなことがある。矛盾をかかえる「強化委員会」のあり方だ。
日本サッカー協会の組織のなかで、代表チームの活動の支援などをするのが強化委員会だ。代表チームが最大限に力を発揮できるようサポートすると同時に、チームと協会の橋渡し役を負わされている。
だが、10月の加茂前監督更迭以来、強化委員会と代表チームの関係は必ずしもいい形ではない。というより、「危機的状況」にあると言ったほうがいい。
あのとき、「監督交代」の記者会見に出席した大仁邦彌強化委員長は、3月の「オマーン・ラウンド」からの加茂前監督の采配に対する「評価」をメディアの前で語った。この瞬間に、強化委員会と代表チームの関係は大きく変わった。少なくとも、代表チーム側はそう受け取ったはずだ。
96年4月にスタートした「大仁強化委員会」は、代表チームに対しては常にサポートする立場であることを標榜してきた。この強化委員会の仕事をないがしろにする面が、加茂前監督にあったのは事実だ。だがそれでも、代表チームにとって強化委員会は「味方」のはずだった。
ところが10月4日のアルマトイで、強化委員会が監督の仕事を「査定」しているという印象が強まった。選手やスタッフが、それを「裏切り」と見たとしても不思議ではない。
予選を終えてフランスで日本を率いる監督を決めるときにも、大仁委員長は岡田監督に対する「評価」をメディアに語った。
加茂前監督に対する「査定」も、岡田監督に対する「評価」も、根本は変わらない。強化委員会が「サポート役」であるだけでなく「採点役」であるという点だ。このふたつは、本来並び立つことのできないもののはずだ。
その矛盾は、中学教師のジレンマに似ている。
教師は生徒にとって指導者であり、味方のはずだ。道を教え、正しい方向に導く人物である。しかし一方で、内申書という形で第三者にその生徒の評価を伝えなければならない。それが教師と生徒の信頼関係に大きな影を落としている。
この問題の別の側面、そして非常に重要なポイントが、長沼健・日本サッカー協会会長にある。代表監督の人事は理事会とその長である会長の権限であり、責任でもある。だが会長は、その責任をあいまいにし、「独断ではない」ことを強調するために大仁委員長をメディアの前に引き出し、語らせてきたからだ。
だが、とにかく、現在の強化委員会が構造的にもつ矛盾が明らかになり、代表チームと強化委員会の間に大きな溝ができてしまったのは確かだ。
半年後に迫ったワールドカップ。最善の準備をして臨まなければ、元も子もないことになる。そうならないために、代表チームへの「サポート態勢」を万全にしなければならない。
会長、理事会に判断材料を提供するために代表チームや監督の「評価」をする仕事が必要であれば、それは「強化委員会」からは切り離すべきだ。委員会の役割を明確にし、代表チームに示して、「味方」であることを納得させることができなければ、日本代表は孤立無援の思いでフランスでの戦いに挑まなければならなくなる。
(1997年12月8日)
そのとき、写真家の今井恭司さん(51)は川口の背中、イランが攻めてくるゴール裏にいた。岡野の「ワールドカップ決定ゴール」を撮ったのは、若いスタッフカメラマンだった。
「延長にはいるとき、どう転んでもいいようにと、2人で分かれて撮ることにした。ずっと勝てなかったから、どこかに負けグセがついていたんですかね」
苦笑いしながら、今井さんは残念そうに語る。
「ずっと勝てなかった」。今回の最終予選のことではない。今井さんが日本のサッカーとともに過ごした四半世紀のことだ。
今井さんが初めてサッカーを撮ったのは72年、あのペレが初めて日本の芝を踏んだときだった。「サッカーマガジン」の編集者だった橋本文夫さんに「人手が足りないから手伝って」と頼まれたのだ。
東京写真大学を出て広告写真家の内弟子となり、スタジオカメラマンを目指していた今井さんは、軽い気持ちで引き受けた。
だが今井さんの人柄と丁寧な仕事ぶりを認めた橋本さんは、次々と仕事を依頼し、数年後には「カメラマン兼記者」として単身外国に送り出す。中東や東南アジアに日本のチームを追って写真を撮り、記事を書いて航空貨物で送るハードな仕事だった。
76年6月に日本ユース代表が初めてヨーロッパに遠征、今井さんは日本から唯一の同行記者だった。そのチームに、初選出、19歳の岡田武史がいた。
目立たないがしっかりと自分を持ち、誰にも迎合しない岡田に、今井さんは何度も感心したという。
だがサッカーの取材で日本中、世界中を飛び回っても、それだけで家族を養うことはできなかった。日本サッカーの「冬」の時代。雑誌も部数が伸びず、予算は限られていた。
自然に、今井さんの「仕事」の中心は別の方面に移っていった。自分でスタジオをもち、会社組織にしていろいろな写真を撮った。80年代にはサッカーは仕事のほんの一部となった。だが、サッカーから離れることはできなかった。
日本リーグの試合日に、「どうせ売れっこないんだから」と休んだことがあった。しかし試合の時間が近づくと、そわそわして、かえって疲れた。見かねた妻の三千代さんから、「そんなだったら、行けばいいのに」と言われた。
そうして、今井さんは盛り上がらない日本サッカーと、「勝てない」日本代表チームを撮り続けた。サッカー協会から無理な注文を受けても、何も言わずいつもの笑顔で引き受けた。
20年間近くのサッカーとのつきあいが突然収入に結びついたのは90年代になってから。Jリーグの誕生とともに「サッカーの写真なら今井さん」という評価が固まり、サッカーに忙殺される毎日となった。
だが、「今度こそ」と期待したドーハで、日本はまたも苦杯をなめた。
肩を落とす若い記者たちを、今井さんはこう声をかけながら慰めた。
「僕なんか20年以上も負けるのを見続けてきたんだから」
取材を始めてから25年、今井さんはついに日本が勝つのを見た。
歴史的な岡野のゴールを撮り逃がした「消化不良」の気持ちを抱きつつ、脳裏によぎったのは、負け続けた日本代表、ガラガラのスタジアムでも懸命にプレーしていた日本リーグの選手たちのことだった。
自分のファインダーの中を駆け抜けていった無数の選手たち。彼らの情熱が自分をここまで引っぱってきたことを思ったとき、今井さんは胸が熱くなるのを抑えることができなかった。
(1997年12月1日)
まだ終わったわけではない。しかし何年かたって今回のワールドカップアジア最終予選を思い出すとき、必ず目に浮かぶに違いないひとつの光景がある。ソウルのオリンピックスタジアムを埋めた8000人もの日本人サポーターだ。
完全な「ホームアンドアウェー」形式で行われた今回の最終予選、サポーターはアラビア半島のアブダビから中央アジアのアルマトイ、タシケント、そしてソウルと動き回らなければならなかった。仕事を休み、安くない旅費を工面して、日本チームを応援するためだけに出かけた人びとには本当に頭が下がる。
アブダビや中央アジアでは、数自体は多いとはいえなかったが、スタンドで懸命に声を上げるサポーターの存在がどれほど選手に力を与えたか、計り知れないものがある。
だが、それにしても、ソウルは格別だった。
7万人のスタジアムに8000人では少ないと思うかもしれない。しかしそれがすべて片方のゴール裏に集められたため、予想を超える「力」が生まれたのだ。
予選の日程が決まったときから、11月1日の韓国戦が「山」と見られ、応援ツアーを組む旅行会社はパンク状態になった。
これまでの例では、旅行会社は試合の入場券は現地のエージェントを通じるなどして各社が独自に調達していた。だがこの試合にかけられるものの意味を考えると、今回は不安が大きかった。そこで、日本人観客と韓国人観客の間で無用なトラブルが起こらないように、日本の全旅行会社が韓国協会との窓口を一本化した。そしてセキュリティー計画と連動させつつ、席の割り当てなどを慎重に取り決めたのだ。
こうして、日本の8000人はひとつのゴール裏に集められた。そしてそれは思わぬ効果を生んだ。
赤で埋められたオリンピック競技場のスタンド。しかし一方のゴール裏には、青に染められた巨大な集団があった。
前週の日曜日にUAEと引き分けてからは、マスメディアではもう終わったかのような論調が支配的だった。国立競技場での一部のファンの心ない行為が、そうした空気を助長した。だが多くのファンはまだチームを見捨てていないこと、日本代表を信じていることを、8000人のサポーターはその存在自体で示した。
それが、どれだけ日本選手たちを勇気づけただろうか。1週間前、国立競技場では5万5000人が嵐のような声援を送った。しかしこの日の8000人が選手たちの体内に吹き込んだ力は、それをはるかにしのぐように私には感じられた。
そして日本はすばらしいゲームを見せ、勝利をつかんだ。
試合後には、また美しい光景があった。
厳重な警備の目をかいくぐって、韓国のサポーターが何人も日本のサポーター席にやってきたのだ。そして勝利を祝福し、プレーオフもきっと勝つと励まし、最後にはユニホームを交換し合ったという。
わずか1試合、90分間の試合を応援するために、これほど多くの人が海を渡ったのは、日本のスポーツ史上でも初めてのことに違いない。
それは、日本チームにすばらしい力を与え、貴重な勝利をもたらしただけではなかった。海を渡った8000人の多くが、韓国の生活や文化に触れ、韓国の人びとと接して、楽しく美しい思い出とともに帰国した。
予選はまだ続いている。しかし私にとっては、ソウルのスタジアムの8000人の青い集団が、今予選で最も印象的なシーンになるように思えてならないのだ。
(1997年11月10日)
「2位狙い」になったワールドカップ予選。もしかすると、最終的な出場決定はオセアニアとのプレーオフ、11月29日のオーストラリアとのアウェー戦になるかもしれない。まだまだ、ハラハラドキドキは続くというわけだ。
だがその間に日本国内のサッカーが休眠するわけではない。11月にはJリーグナビスコ杯の準決勝と決勝が行われ、11月30日には、天皇杯が全国32会場でキックオフされる。
「天皇杯全日本選手権」は、その正式名称でもわかるように日本の「チャンピオン」を決める重要な大会だ。日本中のチームに門戸が開かれており、純粋なアマチュアチームからJリーグクラブまでがひとつのカップを争う大会でもある。
昨年、日本協会の75周年を記念して大きく変革され、「アマチュア」だけでなく「高校チーム」まで出場できるようになった。Jリーグなどシードで出場権を得たチームが34、都道府県の予選を勝ち抜いたチームが47の合計81チームの参加だが、ことしは高校が8チームも県予選で勝って代表権を獲得している。1回戦には「鵬翔高校(宮崎)×多々良学園高校(山口)」という組み合わせもあり、昨年は果たせなかった高校チームの2回戦進出が実現する。
そして2回戦、3回戦になると、Jリーグのクラブが登場する。「ベスト16」で争われる4回戦に、Jリーグ以外のチームがいくつ進出しているだろうか。一発勝負の大会なので、ときどき「大物食い」のチームが現れる。これも天皇杯の楽しみのひとつだ。
ところで、ことしの大会日程で(昨年までもそうだったが)、ひとつ残念なことがある。Jリーグの大半のチームの初登場となる3回戦の会場が、すべてそのJリーグクラブのホームスタジアムであることだ。
上のランクのチームがアウェーになるというのならわかる。シード出場ながら1回戦から登場するJFLや大学のトップチームは、その1回戦は基本的に「アウェー」、すなわち都道府県代表チームのホームで戦う。これが正しい姿だ。
3回戦をこういう形にできないのは、2回戦が済むまでJリーグに挑戦するチームがわからないためだろう。あらかじめ会場を決めるためには、Jリーグのホームスタジアムが無難ということだ。
だがこれでは「挑戦者」はあまりに不利だ。相手が調整十分のJリーグチームであるだけではなく、そのサポーターとも戦わなければならない。慣れない競技場、慣れない雰囲気のなかで、力を発揮できるチームがいくつあるだろうか。
同時に、Jリーグのホームタウンにとっても、相手が格下なのだから「勝って当然」で、盛り上がりに欠けるのは避けられない。
逆に「挑戦者」のホームにJリーグチームが乗り込む形にできれば、まったく逆の形となる。「挑戦者」は地元の声援を受けて奮闘し、興行としても地元チームのJリーグへの挑戦で盛り上がりを見せるはずだ。
これを実現するために、1回戦から出場する各チームに3回戦の分まで「仮押さえ」を義務づける。そして、都道府県代表、Jリーグ以外のシードチーム、Jリーグチームの順でランクをつけ、3回戦まではランクが下のチームの地元の試合を原則とする。
「仮押さえ」ができるかどうかが、このアイデアのカギだが、都道府県の協会が積極的に関与すれば不可能ではないはずだ。
こういう原則で大会をできれば、天皇杯は各地で大きな話題となり、日本全国のサッカーを活性化させる力になるに違いない。
(1997年10月27日)
中央アジアでワールドカップ予選を追っているあいだにJリーグ第2ステージの優勝が決まっていた。
FIFA(国際サッカー連盟)による突然の予選方式変更の最大の被害者は、日本のJリーグだっただろう。第2ステージの大半を日本代表抜きで実施しなければならなかったうえに、盛り上がる終盤戦が予選と重なって影が薄くなってしまったのだ。このステージの観客数が平均で1万人を割ったといっても、大いに同情の余地がある。
こうした時期に、一部クラブの主要出資企業の長と呼ばれる人びとが続けざまにJリーグの運営理念を根本から批判し、否定するコメントを発したのは、あきれるばかりだ。
チーム名に企業名を入れさせないこと、当初の10から17クラブへと急速に拡大してきたことなどが批判の対象になっている。つきつめれば、Jリーグがプロ野球のようにならないことに腹を立てているのだ。
Jリーグ以前に、プロフェッショナルのチームゲームとして日本で成り立っていたのはプロ野球だけだった。6チームずつ2リーグの閉鎖的な組織。企業名を背負ったチームが、マスメディアと手を携えて運営してきたのがプロ野球だ。
とくに戦後の復興期に、プロ野球が果たした役割はすばらしいものだった。人びとに生きる力を与え、少年たちに夢を抱かせた。現在も男性社会では日常のあいさつ代わりになっているプロ野球は、20世紀後半の日本の文化の重要な一側面に違いない。
しかしそれは、いわば映画産業と同じような構造だった。「フランチャイズ」が強烈に意識されるチームもあるが、一般の人びととは遠い存在であり、何よりその他の野球組織やプレーヤーたちとは完全に隔離され、無関係だった。
Jリーグは、そうしたプロ野球のあり方とは正反対の考え方でスタートした。閉鎖的でなくすべての国内のクラブに加盟の道が開かれている。一般のプレーヤー、とくに若い世代の育成に積極的に関わっている。
何より違う考え方は、現在の日本のスポーツ環境の貧困さを大きな社会問題ととらえ、単にプロ興行を成功させるだけでなく、手軽に、身近に、いろいろなスポーツを、地域の人びとが楽しめる環境をつくることを目指している点だ。
「プロ興行」という面でプロ野球とJリーグの最大の違いは、前者が全国的なマスメディアとの提携に大きく依存している(だからチームを増やすことはできない)のに対し、Jリーグが「地方文化」的な要素が強いことだ。クラブは全国的な人気などなくていい。「ホームタウン」で成功しさえすればいいのだ。
こうした考えをよく理解して運営に取り組んできた鹿島アントラーズや浦和レッズは、大きな赤字をかかえることもなく、チーム数が増えても地元では満員の観客を集めている。そして「地域アイデンティティ」の象徴的な存在になりつつある。理想の姿にほまだ遠いが、着実に歩みを進めていると言っていい。
スタート直後の熱狂のなかでこの「原則」を忘れ、最近になって観客数の激減に苦しんでいるクラブの多くも、最近ようやく目覚めて、それぞれにホームタウンとの関係を深める取り組みを始めている。
これまでプロ野球はすばらしい成功を収めてきた。しかしその「ものさし」ですべてのプロスポーツが計れると考えるのは大きな間違いだ。この20世紀末の日本社会がかかえる問題点に目を開き、ほんの少しの想像力を働かせれば、Jリーグが目指すものの意味が少しは見えてくるはずだ。
(1997年10月20日)