サッカーの話をしよう

No.321 アンデルス・フリスク 見事な決勝戦主審

 ほとんど手中にしかけていた栄光を逃して失望の色を隠せないイタリアの選手たちに続いて表彰台に上ったのは、スウェーデン人のアンデルス・フリスク主審を先頭とする4人の審判団だった。ヨーロッパ・サッカー連盟(UEFA)のヨハンソン会長から記念のメダルを受け取るフリスク主審の満足そうな笑顔が印象的だった。
 ヨーロッパ選手権の最終日。すばらしい大会のフィナーレを飾るにふさわしい、見事な決勝戦だった。イタリアの選手たちはほとんど完璧に自分の仕事をやり遂げ、フランスの選手たちは勇気と自信の大切さを教えてくれた。そして、彼らのプレーに負けない見事なレフェリングで、試合を世界最高レベルのものにしたのが、フリスク主審だった。

 1963年生まれの37歳。今大会の主審で2番目に若いフリスク氏は、いつもプレーのそばにいた。ときには、まるでふたりいるのではないかと思えるほどプレーの先回りをし、きわどい場面を間近で見て判定を下した。そして、選手たちに自分がよく見ていること示した。
 前半の終わりごろにフランスのFKがあり、ジダンが直接狙ってゴールの上に外した。そのとき、ゴール前でもみ合いをしていた両チームの選手たちが「ファウルがあった」と騒いだ。しかしフリスク主審は、両手の人差し指を高く上げ、「お互いさまだったから、反則はなし」と笑顔で示した。両チームの選手たちは肩をすくめて自分のポジションに戻った。
 今回のヨーロッパ選手権は、大会前半には副審の判定に不安定なところも見られた。だが主審は全員すばらしく、全般的には審判のレベルがプレーのレベルを支える形の大会となった。

 ヨーロッパ選手権では、4年前まではひとつの試合をひとつの国の審判4人で担当し、彼らは試合に合わせて自分の国から飛んでくるという方法がとられた。4人の相互理解で審判レベルを上げようとしたのだ。
 しかしそれは、試合ごとに非常にばらつきのあるレフェリングを生むこととなった。そして大会を通じて、ヨーロッパの審判レベルが向上することもなかった。その反省を踏まえ、今回は主審13人を指名し、副審16人、そして第4審判専門の4人と合わせて33人が、出場16チームに次ぐ「17番目のチーム」を構成した。
 この「チーム」には、専属の医師、マッサージ師、フィットネスコーチ、用具係、そして報道担当までつけられたというから驚く。そして、試合の翌日には、専門の編集員が編集したVTRでひとつひとつの判定をチェックし、ディスカッションをしたという。日を追うごとにレフェリングのレベルが上がったのも当然だった。

 フリスク氏は15歳で審判員となり、26歳のときにはスウェーデン1部リーグ主審、そして28歳で国際審判員となった。開幕戦の笛を吹いたドイツのマルクス・メルク氏も38歳という若さだが、初めて主審を務めたのは12歳のとき。もちろん少年サッカーの試合だったが、周囲の少年よりずっと背が低く、審判服も合うものがなかったので、雑貨屋で黒いシャツを買って行ったという。
 13人の主審の平均年齢は、40.8歳。もちろん、なかには20代の後半にプロ選手引退後始めた人もいるが、多くの人が実に若い年齢で審判を始め、20代ですでにそれぞれの国のトップリーグに昇格している。若くて、しかも抱負な経験の持ち主なのだ。
プロのスターを夢見て練習に取り組む少年ばかりでなく、最初から世界一を目指して審判になる少年もいる。これが、ヨーロッパ「サッカー文化」の、懐の深さなのだろうか。

(2000年7月5日)

No.320 Jリーグにより激しさを

 6月上旬のハッサン2世杯(モロッコ)に始まって、ベルギー、オランダでのヨーロッパ選手権のグループリーグを見て帰国し、先週の土曜日にはJリーグ第2ステージ開幕の柏レイソル対ジュビロ磐田戦を見た。
 国際試合が連続したあとで見た国内の試合は、新鮮なイメージで、なかなか楽しかった。Jリーグの技術的なレベルはけっして低くない。数人の相手に追い込まれてもあわてずに打開できる選手が何人もいる。
 ただ、ヨーロッパ選手権に比べると、試合の激しさという点では非常に落ちる。相手ボールになってから守備にはいる早さ、詰めの激しさ、ひとつのボールにからんでいく人数、ボールをめぐる争いの厳しさなど、Jリーグの比ではないのだ。
ヨーロッパ選手権で上位に進出したチームは、例外なく、高い技術とともに90分間を通じてこうした戦いをやりぬくタフさをもっていた。そのタフさは、見ていて怖くなるほどだ。

 Jリーグのクラブからこの大会にただひとり出場していた名古屋グランパスのストイコビッチ(ユーゴスラビア)は、数々のすばらしいプレーを見せた。しかし準々決勝のオランダ戦では、激しいサッカーについていくことができない様子だった。Jリーグでは見せたことのない弱気な表情が、一瞬だったが、テレビに映し出された。
 2002年に地元にワールドカップを迎える日本としては、ストイコビッチに恐怖感を抱かせるようなサッカーにどう対処していくのか、しっかりと方向性を見定めなければならない。思えば、昨年7月にコパ・アメリカ(パラグアイ)で日本が直面したのも、南米チームの思わぬ激しさだった。
 直接的には、これから2年間のうちに、アウェーでの国際試合を増やし、日本代表チームとして厳しい状況での戦いに慣れなければならない。だが、それ以上に大事なのが、Jリーグの試合をより激しく、厳しいものにすることだ。代表選手の強化だけでなく、日本サッカー全体の底上げをすることが、長期的に見て必要なことだからだ。

 Jリーグの試合をより激しく、厳しいものにするには、1試合1試合に対する準備をしっかりできるようにしなければならない。リーグ戦をきちんと週1試合のペースにして、月曜から金曜までをすべて次の試合の準備にあてられるようにする。相手を考えた戦術面の準備と同時に、フィジカル面、メンタル面でも万全の準備ができるはずだ。
 今季の第1ステージのように、土曜日、水曜日と休みなく試合が続くようでは、前の試合の疲れをとるのが精いっぱいで、次の試合に向けて戦術を練り、フィジカル面、メンタル面で準備することなど不可能だ。そうしたことが積み重なって、現在のJリーグの「甘さ」がある。
 日本代表のトルシエ監督は、契約更改の条件のひとつとして、日本代表とJリーグの日程調整に直接かかわることを挙げているらしい。代表として活動できる期間は短い。そこでは、チームとしての約束事を確認する時間しかない。個人的な技術、フィジカル面での準備は、日ごろから所属クラブで行われなければならない。そのためには、きちんとしたリーグ日程が必要だ。トルシエの要求は当然だ。

 ヨーロッパの選手たちは、例外なく、まず激しく、厳しい国内リーグで鍛えられ、フィジカル面でもメンタル面でもしっかりとプロとしての土台がつくられている。それがあって初めて、チャンピオンズリーグをはじめとした厳しい国際試合が、経験として生きるのだ。
まず、Jリーグの厳しさ、激しさのレベルを上げなければならない。毎週のリーグを、全身全霊をかけて戦えるようにしなければならない。

(2000年6月28日)

No.319 深夜列車のサポーター交流

 オランダのアイントホーフェンで行われたポルトガル対イングランド戦を取材して、深夜、ブリュッセル(ベルギー)行きの列車に乗った。
 もう午前零時をとっくに過ぎている。今井恭司カメラマンとともに6人がけのコンパートメントにはいっていくと、ひとりのイングランド・サポーターが眠そうな目を開けた。30代のなかばだろうか、太った男だ。
 発車間際にポルトガル・サポーターがドアを開け、「空いているか」。「うん」と答えると、仲間を呼び入れた。30代の男性若い女性の3人連れ。コンパートメントが満員になった。
 私はパソコンを取り出して仕事を始め、今井さんはうとうとし始める。
 白熱した試合だった。イングランドが2点をリードしたが、ポルトガルが見事にひっくり返して3−2の勝利を得た。当然、ポルトガルの3人は元気いっぱいだった。あきることなく大声で話し続けている。

 試合のスコアよりさらに劣勢の「1−3」の状況に立ったイングランド・サポーター氏は、「騒音」を聞いているより話に加わったほうがいいと思ったのか、英語で「どこからきたの」などと質問を始める。
 「リスボンだよ」
 「ずっと見ていくのか」
 「いや、この試合だけだよ。きのう来て、明日、いやもうきょうか、朝の飛行機で帰るんだ。なにしろ、入場券もホテル代も高いからね」
 「ところで、イングランドのワールドカップ招致(2006年大会)はどうなんだ」。ポルトガル側からの質問が始まる。
 「決定までもう3週間だな。正直言って難しいと思う。なにしろブラッター(国際サッカー連盟会長)がアフリカだ、アフリカだと言っているからね」
 「僕は先週モロッコのカサブランカに行っていたけど、あそこでは難しいと思うよ」。口をはさんだのは私だ。

 「南アフリカの記者とも話したけれど、あの国もインフラはまったく整備できていなくて、とてもワールドカップを開ける状況ではないと言っていた」
 「ではすこしは希望があるかもしれないな。そういえば、次のヨーロッパ選手権(2004年大会)はポルトガルだね」
 「そう、私たちは開催に値する国だと思うわ」
 「決勝戦会場はベンフィカ(ポルトガルきっての有名クラブ)のスタジアムか」
 「まあ、12万人もはいるからね。でもあそこの会長は何を考えているかわからないから、貸さないかもしれない」
 「ほう、きみはベンフィカ・ファンではないのか」
 「とんでもない。僕らはスポルティング(ベンフィカのライバル)だよ。きみは?」
 「僕? 僕の地元はブリストル・シティ、2部リーグの小さなクラブさ」
 「でも、そのほかに、好きなクラブがあるでしょう?」
 「うーん、強いていえば、外国チームと対戦するときのマンチェスター・ユナイテッドかな」

 おやおや、イングランド・サポーター氏は、地元ではけっして明かすことのない「心の秘密」まで打ち明けてしまった。
 イングランドのサポーターがまたも問題になった今大会。しかしそれはほんの一部にすぎない。大多数のサポーターは、こうして仲良く旅をし、交流しながら試合を楽しんでいる。ロッテルダムでも、トラムのなかで、オランダとデンマークのサポーターが互いに応援歌を歌いながらにぎやかにスタジアムに向かう光景にぶつかった。
 気がつけば、深夜の国際列車はもうブリュッセルの市内にさしかかっている。熟睡中の今井さんのひざをたたくと、目をこすりこすり、まだ半分寝た状態で網棚から荷物を下ろし始めた。

(2000年6月21日)

No.318 「共同開催」のストレス

 「共同開催の国」を歩いている。ヨーロッパ選手権ベルギー/オランダ大会だ。
 モロッコのカサブランカからオランダの首都アムステルダムにはいり、国際空港の地下駅から直通列車でわずか3時間でベルギーの首都ブリュッセルに着いた。途中で両国の国境を通過するのだが、パスポートの提示を求められるわけでもない。車窓の田園風景もほとんど変わらないままだった。
 オランダとベルギーは、ルクセンブルクも含めて、中世までは「ネーデルランド」(低い土地)と呼ばれるひとつの地域だった。主として宗教の関係で最終的にふたつの国となったが、民族的にはほとんど同じといってよい。ベルギーでは、フランス語とともにオランダ語が公用語だ。
 ブリュッセルはオランダ語圏(主として北部)とフランス語圏(南部)の境目にあり、ふたつの言語が共存している。ひとつの地下鉄駅にふたつの名前がついていることも珍しくはない。

 こうした国同士だけに、共同開催など何の問題もないと想像していた。大会そのものは統一感がとれ、運営システムもほとんど変わらない。しかし外国からきて両国を動き回る身になると、細かな問題がいくつかある。
 当然のことながら通貨が違う。欧州連合(EU)共通の通貨「ユーロ」はまだ一般には使用されておらず、ベルギーではベルギーフランに、そしてオランダではギルダーに替えて使わなければならない。両国の会場同士で話すときには当然国際電話だ。最近では必携品の携帯電話も、国を移ればめんどうな切り替えが必要になる。鉄道スケジュールの情報も、自国内と相手国内では大きな違いがある。
 当然といえばあまりに当然のことだ。しかしワールドカップやヨーロッパ選手権はこれまですべてひとつの国の国境内で行われてきた。大会にはいってしまえば、こうしたことを気にかける必要などなかった。初めての共同開催が、意外にストレスのたまるものであることを、第三国の人間として感じた。

 オランダとベルギーでさえこうなのだ。間に海峡をもち、言語も生活習慣もまったく違う日本と韓国では、ヨーロッパや南米からくる人びとは、いまの私とは比べようもなく大きなストレスを感じるに違いない。
 「2カ国で開催するワールドカップ」と割り切ることはできない。「ひとつのワールドカップ」なのだ。当然、ファンはそういう気持ちでくる。日本の会場から韓国の会場への移動に丸1日かかるだけでなく、いろいろなシステムが違うなかで、彼らはワールドカップを楽しむことができるだろうか。
 人間というのは単純なものだ。心に何かひっかかっていれば、どんなに小さなものでも心から他の何かを楽しむことなどできない。その「ひっかかり」をすこしでも減らすことが、ホスト国の努めであるはずだ。

ブリュッセルの地下鉄では、大会運営に結びついた親切な案内表示を見た。持っているチケットの座席(スタンド別に色分けしてある)別に、降りる駅が指定されているのだ。初めてこの町でサッカーを見るファンも、市内で地下鉄に乗った瞬間から自動的にスタジアムの自分の席にたどり着くことができる。ストレスを感じずに、試合を楽しむことに集中できるのだ。
 この大会には、日本のワールドカップ組織委員会(JAWOC)から100人を超す役員・職員が視察を予定しているという。施設や大会運営を見るだけでなく、外国からサッカーを見にくる人びとがどのようなストレスを感じているのか、ホスト国はどのようにそれを減らそうとしているのか、しっかりと感じとってほしい。なかでも、共同開催からくるストレスには、とくに注意を払ってほしいと思う。

(2000年6月14日)

No.317 モロッコの血管にはサッカーが流れている

 「おめでとう、日本のサッカーはすばらしかったわよ」
 世界チャンピオンのフランスと2−2で引き分けながら惜しくも決勝進出を逃した翌朝、ホテルのティールームでウェートレスから声をかけられた。
 レストランだけではない。町を歩くと、人びとが入れ代わり立ち代わり寄ってきては、日本チームをほめてくれる。フランス戦の日本代表は本当に良かったから、いい気分で「ありがとう」と応えた。
 アフリカの「左肩」に位置するモロッコ。その国民は、本当にサッカーを愛している。日本とフランスとの試合でのプレーに対する反応を見ながら、つくづくそう感じた。

 モハマド5世スタジアムを埋めた観衆は、ひとつひとつのプレーに見入り、反応を示す。好シュートや好パスの場面だけではない。日本の西沢が胸でボールを受け、そのまま右足で浮かせてマークするブランをかわしたシーンにも沸いたが、そうした「巧技」の場面だけでもない。
 たとえば、DFがタッチライン際に追い詰められたとき、機転をきかせて逆サイドでフリーになっている味方に大きなクロスパスを送って窮地を脱した場面でも、場内割れんばかりの拍手が送られるのだ。
 逆に、高名な選手がつまらないミスをすると、激しい口笛攻撃が待っている。
 本当にサッカーをよく知り、心から試合を楽しんでいることがよくわかる。こうした観衆の存在が、選手たちに緊張感を与え、成長促進剤になっている。
 モロッコという国を人にたとえるなら、その血管には「サッカー」という真っ赤な血が流れているに違いない。世界でも有数の「サッカー国」であるという強い印象を得た。

 モロッコは、この7月に決定される2006年ワールドカップの開催立候補国のひとつでもある。招致資料によれば、国内の11都市に12の近代的なスタジアムを用意(うち10は新設)し、大会に備えるという。モロッコは過去2回、86年大会と98年大会でも開催立候補し、いずれも僅差で敗れてきた。「三度目の正直」は、昨年7月に亡くなったハッサン2世前国王の悲願であると同時に、「サッカー国」モロッコの、国民を挙げての願いでもある。
 2006年大会には、モロッコのほか、ヨーロッパからドイツとイングランド、南米からブラジル、そしてアフリカからも南アフリカ共和国が正式に立候補している。モロッコは、これまでにいちどもワールドカップを開催したことのないアフリカでの開催の「正義」だけでなく、なぜ南アでなくモロッコなのかも訴えなければならない。

 現在のモロッコの経済状態はけっして良くはない。そのなかで10ものスタジアムの建設を決めたのは、西アジアから北アフリカにかけて広がるアラブ民族諸国の応援があるからのようだ。「地中海とアラブ諸国の代表」が、南アに対する「モロッコの正義」となっている。
 しかし現代のワールドカップは、サッカーを心から愛する国民と立派なスタジアムがあれば開催できるという単純なものではなくなってしまっている。十分な数の国際空港とホテル、道路や鉄道・国内航空路などの交通網、そしてテレビや新聞報道を支える通信設備の整備など、厳しい開催条件があるからだ。
 こうした「インフラストラクチャー」(社会資本)の整備は、スタジアム建設の数十倍にのぼる巨額の投資と、長い時間を必要とする。わずか6年間で成し遂げられる仕事ではない。
 モロッコはすばらしい「サッカー国」だ。しかしその熱意といくつもの「正義」にかかわらず、ワールドカップ招致は今回も難しい状況であると考えざるをえないのだ。

(2000年6月7日)

サッカーの話をしようについて

1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。

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